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Text File  |  1997-11-18  |  17KB  |  416 lines

  1. /01
  2.  最近、広瀬真奈美は思う。
  3.  自殺でもしようか。
  4.  厳格なミッションスクールに12年も在籍していたヒロセは、とに
  5.   かくその堅苦しい空気が嫌でたまらなかった。いつか自由になっ
  6.   てやると思っていたのだ。
  7. /02
  8.  実際、その自由とやらを手に入れたのは高校卒業後。系列の大学
  9.   に進むよう担任や両親に言われたのを、断固として振り切った。
  10.  ヒロセは初めて「自由」を実感した。
  11.  そして1年が過ぎようとしていた。
  12. 「なに好き好んでバイトばっかしてんの、わたし」
  13. /03
  14.  こんな真っ昼間では、大学生となった仲間たちはケータイにも出
  15.   てくれない。やりたかった遊びも、1年もあればやり尽くしてし
  16.   まう。欲しかった物もバイトの金さえあれば、すべて手に入った。
  17.  ただ、ほんとうにそれだけ。
  18. /04
  19.  そんなある日。雑踏にまみれた街中で、ふと汚い電話ボックスが
  20.   目についた。汚い、というのも風俗チラシがところ狭しと貼られ
  21.   ているからであって……。普段なら電話するにも避けて通るよう
  22.   なボックスだ。だが、その1枚のチラシだけが、いやに目立って
  23.   いた。
  24. /05
  25. 『あなたの自殺のお手伝い』(!?)
  26.  
  27.      自殺屋本舗 TEL ××ー××××ー××××     
  28.        ~貴方の自殺をプランニング!~   
  29. /06
  30.     どうせ死ぬなら華々しく、そして人とは一風違った
  31.     個性あふれる自殺を……そんな風にお考えの貴方に。
  32.     料金無料。このプランは実験的なものであるため、
  33.     その成功こそが報酬です。
  34. /07
  35.  自殺云々はともかく、実に世の中を舐めきった内容…。しかし刺
  36.   激の少ない、退屈なバイト生活を送っていたヒロセにとって、そ
  37.   れは久々に高校時代のテレクラに似たスリルだった。
  38.  ヒロセにはその時、街の雑踏も風景もなく騒音も聞こえなかった。
  39.   視界の全てが、その広告ズームされたような感覚を感じていた。
  40. /08
  41.  生活感のない部屋……。塗りたての塗料の匂いがしそうな。新築
  42.   の家や部屋が、よくそんな匂いを漂わせている。事務所の中なの
  43.   だから、人が住みこんでいるわけではないが、それにしても人間
  44.   くささがない。
  45. 「とうかしましたか?」
  46.   のほほんと緑茶など差し出しながら、かの者が言った。
  47. /09
  48. 「はい。遠慮なさらずに。ケーキと和菓子、どちらがいいですか?」
  49.  会話は平凡なのに明らかに違和感絶大。背筋がゾクゾクするよう
  50.   な人間離れした美貌。だいたい男なのか女なのかすら不明。声も
  51.   どちらともとれるようなハスキーなもので、ヒロセを困惑させた。
  52. 「申しおくれました。私はアンジュ、といいます」
  53. /10
  54.  いったいナニ人だろう?人形のように整った顔のせいで、それす
  55.   ら判断しかねる。アンジュは手元のヒロセのデータに目を通した。
  56. 「広瀬真奈美さん。お若いですね。ちなみに、どんな自殺を希望し
  57.   てここに? 儚く花のように……とか。派手に呪わしく?」
  58.  いきなりこの言葉。やはり美貌の悪魔といったところだろうか?
  59. /11
  60.  自殺屋本舗の事務所は、真新しいマンションの一室にあった。だ
  61.   が北向きで光りの入らない窓といい(当然、今は薄暗い照明がつ
  62.   いている)物がすくないところといい、どこか異空間めいている。
  63. 「ははぁ。とくにご希望もなさそうですねぇ。あの方もそうですが」
  64.  アンジュの目線で、ヒロセは初めて先客の存在に気がついた。
  65. /12
  66.  部屋の奥のソファ資料(おそらく自殺プランとやらだ)に読みふ
  67.   ける背広の男。若い……のだろうか。ヒロセからすれば背広姿は
  68.   皆オヤジに見えてしまう。どちらにしろ年上には違いなかろう。
  69. 「ではこうしましょう。カワムラさんも、どーぞこちらへ」
  70.  アンジュの言葉にカワムラという男は顔を上げた。
  71. /13
  72.  側で見ると、30代にさしかかったばかり、といったところだろう
  73.   か。ブ男ではない。たぶん陰鬱な顔をしていなければ、イイ男の
  74.   部類に入るはずだ。
  75. 「カワムラさんは、お医者さんなんですよ」
  76. 「……元・医者です」
  77. /14
  78.  アンジュのとりなしにもボソリと答えるだけ。
  79.  それでも気にしないのか、アンジュも人形の様な微笑みを浮かべ
  80.   て、こう告げた。
  81. 「お2人とも、特に思い描く自殺像はないようですね。それともカ
  82.   ワムラさん、なんか決まりましたか?」
  83. /15
  84. 「いいえ……」
  85. 「あなたは元・お医者さんですから、こんなのはどうです。『愛す
  86.   る××のために臓器を提供する……ば~い・カワムラ』」
  87.   気乗りはしないようだった。カワムラは疲れたようにうつむいて、
  88.   首を振る。
  89. /16
  90. 「それではこうしましょう。ここに我が本舗、初めてのお客様を記
  91.   念して『偽装結婚自殺』などというのは?」
  92.  ヒロセとカワムラは、聞き慣れない言葉にお互いを見合わせた。
  93.   アンジュはそんな反応に満足したのか、またあの整いすぎた笑顔
  94.   を浮かべて説明する。
  95. /17
  96.  すなわち、2人の自殺志願者がそろい、しかも2人とも何かしら
  97.   変わった自殺を望んでいる(カワムラもそうなのだろうか?)。
  98.   その2人が共同戦線を張り、偽の結婚宣言をする。周囲の祝福の
  99.   真っ直中に華々しく自殺を図るというものである。
  100. 「ウエディングドレスで教会から投身自殺! 美しいでしょう?」
  101. /18
  102.  ヒロセはその言葉に場面を思い描いた。ベールをはためかせ、胸
  103.   にブーケを握りしめたまま、美しいままに……。周囲は驚きとシ
  104.   ョックに大騒ぎ。新聞にも載るだろうか?『花嫁よ永遠に』とか。
  105.  ふと我に返ったヒロセが隣を見ると、カワムラも何かしら妄想に
  106.   浸っているのか、頬が緩んでいる。まんざらでもないようだ。
  107. /19
  108. 「やりましょう」
  109.  あろうことか、答えたのはカワムラだった。
  110.  相手がカワムラでは、そりゃあ不満に決まっている、とヒロセは
  111.   内心思う。しかし所詮偽装結婚。意外性のある相手ほど、周囲の
  112.   驚きも増すであろうし。
  113. /20
  114.  ヒロセもまた承諾の意味で頷いた。
  115. 「では決まりですね」
  116.  アンジュは満足そうに笑った。
  117. /21
  118.  その日から毎週1回プランニングのためにアンジュの事務所に通
  119.   うのが日課になった。その間にヒロセとカワムラ両者の周辺には、
  120.   それとなく色めいた噂を流すという手のこみようである。最近は
  121.   ヒロセの両親も、夕食時にわざとらしい質問をしてくる始末だ。
  122. 「最近、明るくなったわね。なにかいいことあったの?」
  123. /22
  124.  いつもなら『うるせぇなババア』くらいにしか思わないのだが、
  125.   これは重要な種まきなんだと、自分を説得し、頬など染めながら
  126. 「いやだぁ、なんにもないわよぉ」
  127. ……などと意味深に答えてみたりする。
  128.  そんな毎日が過ぎてゆく。カワムラの周辺も順調らしい。
  129. /23
  130. 「……とまあ、こんな段取りなのですが」
  131.  アンジュは2人の結婚式の日取りまでプランニングしてしまった。
  132. 「なにか質問はありますか?」
  133. 「あ、あのぉ……、もう2~3つけ加えてもいいでしょうか」
  134.  そう切り出したのはカワムラだった。
  135. /24
  136.  最初、無気力そうに見えていたこの男も、最近は発言も多くなっ
  137.   た。喋りだすと、さすがは元・医者だけあって、物事のスジが通
  138.   っているというか、説得力があるというか……ヒロセが初めてお
  139.   目にかかるタイプである。
  140. 「遺書を残すんです。わざと。『僕らは死ぬ気でした』とか」
  141. /25
  142.  それでは意味がないではないか、と、ヒロセは非難めいた視線を
  143.   カワムラに送った。それに気づいたカワムラは、しかし意味あり
  144.   げに強く頷く。
  145. /26
  146. 「ただし、その理由は書かないんです。謎のまま。人々は混乱する
  147.   でしょうね。うしろめたいコトやってる馬鹿な同僚たちは、慌て
  148.   ふためくでしょう。……いやぁ、痛快な絵だ」
  149. /27
  150.  ふとヒロセは、なぜこの男が医者を辞めてしまったのか気になっ
  151.   た。そのヒントは今の言葉にありそうだったが……。
  152.  一方、アンジュの方は、相変わらずのキレイな笑みを浮かべ「面
  153.   白そうですね」と同意を示す。
  154. /28
  155. 「ホントは子供までデキてたんだけど……なんていうのも面白いか
  156.   もしれないですね」
  157.  アンジュの提案も次第に過激になっていく。しかしどんなに過激
  158.   でも所詮は偽装結婚。大げさであればある程、2人の自殺は派手
  159.   さを増すというものだ。
  160. /29
  161. 『……そうだ。死ぬのよね……』
  162.  ヒロセは今さらながらに思った。
  163. 『こんなに楽しいけど、これは死ぬための計画なのよね……』
  164. /30
  165. 「それではそういうことで。また何か思いついたら、おっしゃって
  166.   下さいね。死に際は派手に限ります。一生に一度のことですから」
  167.  ヒロセの心を読んだかのように、しかし、いつもの人形めいた微
  168.   笑みで、アンジュがその日のプランを締めくくった。
  169. /31
  170.  事務所のあるマンションを出るとき、ぼんやりとしていたヒロセ
  171.   に声をかける者がいた。カワムラである。
  172. 「あ、あのさ。駅まで一緒にかえらないか? もうこんな時間だし」
  173.  見れば冬の日暮れは早く、街には夜の帳がおりていた。
  174. /32
  175.  そういえば、男の人と街を歩くのなんて初めて……。ヒロセはそ
  176.   んな発見に驚いた。思えばずっとミッションスクールの女子校で、
  177.   女友達とワイワイヤルのに忙しくて、そんなことすら目を向けな
  178.   かった。街ですれ違う男の子たちの品定めはしょっちゅうやって
  179.   いたが、それだけだったような気がする。
  180. /33
  181. 「なんか、こんなこと言うのもナンだけど。ヒロセさんみたいな人
  182.   が……偽装とはいえ、僕の結婚相手だなんて光栄だな」
  183.  駅までの道のり、カワムラはそんなことを言った。ヒロセは驚く。
  184. 「あ、いや。決してヤマシイ意味じゃなくてさ。僕、医者になるた
  185.   めに学生時代も遊びらしい遊びもしなかったし、苦学生だったし」
  186. /34
  187.  照れたように頭を掻くカワムラは、意外に子供っぽく見える。
  188. 「当然、女の子とつき合ったこともないし、……あんなに苦労して、
  189.   やっとなった医者も、どうせあんなふうにして辞めさせられるな
  190.   ら、もっと……って、今さら思うよ」
  191. 『やめさせられた』という言葉に、ヒロセはカワムラを凝視した。
  192. /35
  193.  探るようなヒロセの視線に、カワムラは少しヤケになった口調で
  194.   話し出した。
  195. /36
  196. 「医療ミス……の罪をなすりつけられてね。助教授に昇格しようと
  197.   していたところを、同僚たちにやっかまれて。大学付属医院の事
  198.   件……ニュースで知ってるだろ?」
  199.  ヒロセもそのくらいは耳にしたことがあった。
  200. /37
  201. 「もちろん僕が悪いのでもないし、検察にも『どうしようもなかっ
  202.   たことだ』と認められたんだけど……体面っていうの? アレの
  203.   せいでね。僕は大学付属医院を追い出されてプラプラしてるワケ」
  204.  でもね、とカワムラは続ける。ヒロセがドキリとするほど静かだ
  205.   が、強い口調だった。
  206. /38
  207. 「君みたいな若い子が自殺願望もってるなんて……と、初めは思っ
  208.   た。けど、僕も似たようなもので、説教なんかできるわけないん
  209.   だよね……」
  210.  それきり、カワムラは消耗したように黙りこくってしまい、ヒロ
  211.   セはその先を聞くことができなかった。
  212. /39
  213.  やがて駅についた2人は、それぞれ方向の違う電車に乗って別れ
  214.   た。しかし、ヒロセの脳裏には、一瞬だけ強い口調になったカワ
  215.   ムラの横顔が、焼きついて離れなかった。
  216. /40
  217.  変な話だが、自殺プランを重ねていく毎に、カワムラの表情は次
  218.   第に断固としたものになっていく。それが死を決意した、とか、
  219.   そういう根暗な頑固さではなく、妙に人間くさいというか、生き
  220.   生きしてしまっているというか……。
  221.  正直、ヒロセはそんなカワムラが気になって仕方ない。
  222. /41
  223.  若く知的な横顔や発言。ときおり見せる子供っぽい照れ笑い……。
  224. 「なんだかヒロセさん。最近、キレイになりましたね」
  225.  ある日、突然アンジュに言われた。普段ならアンジュほどの美貌
  226.   の者に言われても、皮肉かと思うのがヒロセだ。
  227.  だがこの場合、ヒロセにも思い当たるフシがある。
  228. /42
  229.  アンジュの言葉にはテキトーに答えておいて、やはり、とヒロセ
  230.   は思った。
  231. 『私はカワムラさんのことを……』
  232.  週1回のプランニングが楽しく思えるのは、やはりこの男にある
  233.   のが嬉しいからであって……。
  234. /43
  235.  これから死のうって人間が……。
  236.  その死すら実感がない。いや、次第に怖くなっていく。
  237.  婚約発表もした。両親はだいぶ驚いていたが、世間体ばかり気に
  238.   する性格上、丸くおさまってくれて良かったと喜んでいた。友人
  239.   たちの度肝を抜けたのも、いい気味だと思った。
  240. /44
  241.  幸せイッパイの毎日。カワムラともよく顔をあわせる。これが偽
  242.   装結婚だということを、時々忘れそうになる。
  243.  しかし……と、ヒロセは躊躇する。
  244.  カワムラはどう思っているのだろう。やはり今でも自殺願望は変
  245.   わらないのだろうか。だとしたら……。
  246. /45
  247.  ヒロセの心は乱れた。
  248.  今となっては、カワムラを失うのは身も張り裂けそうな思いだ。
  249.   第一、自分はもう死にたくない。しかしこんなことを言ったら
  250. 「何を今さら」と彼は言うのではないだろうか。
  251. /46
  252.  ジリジリと時は流れ……。
  253.  その日がやって来た。
  254. /47
  255.  朝から何も喉を通らなかった。まるで徹夜明けの朝のように、無
  256.   心のようでいながら、多くの想いで頭がイッパイなのだ。実際、
  257.   朝の光がひどく恨めしく思えた。
  258.  そんなヒロセを見て、周囲は「さすがに花嫁の緊張はスゴイわね」
  259.   などと勝手に気遣っている。
  260. /48
  261.  ヒロセにはもう、偽装結婚を楽しむ余裕はなくなっていた。ただ
  262.   思考だけが堂々巡りをしている。鏡の中に青ざめた自分を見つめ
  263.   ながら、わけのわからない感情に、泣きたいのをこらえている。
  264. 「ヒロセさん……」
  265.  そんな彼女を迎えに来た、偽りのハズの新郎……。
  266. /49
  267.  晴れやかな中にも、いつものように断固とした光りをたたえたカ
  268.   ワムラの瞳を見て、ヒロセの思考は弾けた。
  269.  彼が死にたいというのなら、いっそ一緒に死んであげよう。だけ
  270.   ど、その前に伝えたい。伝えてもダメなら諦めよう……!
  271. 「カワムラさん! 私……」
  272. /50
  273. 「待って!」
  274.  鋭く言い放ったのはカワムラだった。気勢をそがれて、ヒロセは
  275.   呆然とする。
  276. /51
  277. 「待ってくれヒロセさん。僕から言わせてくれ」
  278.  苦悩するような彼の表情にすら見とれてしまう。ヒロセは自分の
  279.   気持ちを再確認した。
  280. /52
  281. 「僕は、君のことが好きだ。死なせたくない。もう、偽装結婚なん
  282.   てやめよう! ……本当に結婚しよう……」
  283.  朝から重たく、しかし鋭くヒロセを支配していたものが、胸のな
  284.   かを滑り降りて無くなっていく。
  285.  大声で泣き出したい。だけどそれは哀しみじゃなくて……。
  286. /53
  287. 「良かった……本当に……良かった……」
  288. 「それじゃヒロセさんも……」
  289.  驚くようなカワムラの声だけが、目を伏せたヒロセの耳に届く。
  290.   そして優しく力強い腕がヒロセの肩を抱きしめる。
  291.  そんな2人を、扉の影からうかがう者がいた。
  292. /54
  293.  アンジュである。
  294.  アンジュは、また人知れず人形めいたキレイな微笑みをゆっくり
  295.   と浮かべた。
  296. 「おめでとうございます。お2人とも」
  297.  演劇めいた拍手と共に、驚く2人の前にアンジュが姿を現わした。
  298. /55
  299. 「実に喜ばしい。いい顔をしておいでです。晴れの門出に相応しい
  300.   ではありませんか」
  301. 「アンジュさん……」
  302.  カワムラが歓びの涙を拭う。初めは人を死へと誘う美貌の悪魔か
  303.   と思われたこの者も、今では希望へ導く案内人に見える。
  304. /56
  305. 「貴方は希望の使者です、アンジュさん」
  306.  カワムラがそう言葉にした。
  307. 「……まぁ、使者には変わりないですね」
  308.  相変わらず整った微笑みで表情を彩りながら、謎めいたことを口
  309. にするアンジュ。
  310. /57
  311. その表情が、初めて無くなった。
  312. /58
  313.  あんなに人形みたいだとかキレイすぎるだとか、そんなふうにば
  314.   かり思っていた微笑みも、無くなってみると不気味だった。その
  315.   無表情がたたえる不穏な雰囲気にヒロセはゴクリと喉を鳴らした。
  316. 「これを見ていただきましょうか、お2人とも」
  317.  まるで手品のようにアンジュが取り出したのは、2枚の紙。
  318. /59
  319. 「それは……」
  320.  ようやくカワムラが声を押し出す。
  321.  アンジュは優美な手つきでそれを2人の眼前に広げた。
  322. 「そう、契約書です。きちんとサインもありますよ。読んでみまし
  323.   ょうか?」
  324. /60
  325. 『私、広瀬真奈美は、自殺屋本舗(主任アンジュ)のプランに従っ
  326.   て自殺することを誓う。この契約に違反した場合は、その処分を
  327.   すべて自殺屋本舗(主任アンジュ)に委任することとする』
  328. /61
  329.  アンジュは絶句する2人を見つめ、そして微笑んだ。キレイすぎ
  330.   る微笑みはいつものことだが、今のそれは、いつもと違ってひど
  331.   く不気味に見える。
  332. /62
  333. 「最初に申し上げましたね。『このプランの報酬は、そのプランの
  334.   成功のみだ』と。それ以外はあり得ないし、あっても全ては私に
  335.   委ねられている」
  336. 「……あ、悪魔め!」
  337. /63
  338.  カワムラが絶叫した。
  339. 「そんな非人道なことが今の世の中に通用するもんか!」
  340.  アンジュは肩をすくめた。
  341. 「なにを今さら。ならどうしてあなたは自殺屋本舗なんかに足を運
  342.   んだんです? こんなバカバカしい店なんかに」
  343. /64
  344.  カワムラは声も出せずにいるヒロセを椅子から立たせた。
  345. 「行こう! 警察にでも訴えればいい」
  346.  しかし、微笑みを浮かべるアンジュはドアからどこうとしない。
  347.   さすがにカワムラも後ずさる。
  348. 「カワムラさん、こっち!」
  349. /65
  350.  ヒロセは隣室のドアを開けた。
  351. 「とにかく誰かに話を聞いてもらいましょうよ。二階の控え室に誰
  352.   かいると思うわ」
  353.  2人はすぐに階段を駆け上がった。
  354.  しかし、そこにいるハズの両親や友人の姿がない。
  355. /66
  356.  新郎新婦に気を利かせて、すでにチャペルへ行ってしまったのだ。
  357.  コツコツと、姿の見えないアンジュの足音だけが追いすがる。
  358. 「くそ」
  359.  カワムラは、ドレスの裾に四苦八苦しているヒロセを抱えあげて、
  360.   なおも階段を駆け上がった。
  361. /67
  362.  不意に2人の顔を風が撫でていった。
  363. 「こ、ここは……」
  364.  眼下に見える石畳。たくさんの花が飾られている道。
  365.  見上げれば、巨大な鐘がぶらさがっている。
  366. 「最上階……か」
  367. /68
  368.  背後の階段に、まだアンジュの姿は見えないが、足音だけは確実
  369.   に追ってくる。
  370.  カワムラは眼下の人影に向かって、大きく声を上げた。
  371. 「おーい! 助けてくれ!!」
  372.  しかし、その音を巨大な鐘の音が遮る。
  373. /69
  374.  耳をつんざく鐘の音に、カワムラの足もとがよろめいて……。
  375. /70
  376.  ヒロセの門出を祝いに来た友人の1人は、突然鳴り響いた祝福の
  377.   鐘の音に、思わず目を上げた。
  378.  そして声にならない悲鳴を上げる。
  379. /71
  380.  降ってくる。
  381. /72
  382.  ウエディングドレス……。
  383. /73
  384. 『新郎新婦、謎の心中!』
  385.  ミステリアスなこの一件は、その日のうちに全国を駆けめぐった。
  386.  2人の遺書までが発見され、しかもその中には『子供もいました』
  387.   などと書かれている。しかし、その死に至るまでの動機は明記さ
  388.   れておらず、謎が謎を呼んだ。
  389. /74
  390.  無論。世間体を気にするヒロセの両親が、娘の解剖など許すわけ
  391.   がなく、彼女は遺言どおり、ウエディングドレス姿のまま葬られ
  392.   た。
  393. /75
  394. 「さて、と」
  395.  自殺屋本舗事務所では、アンジュが1人、騒ぎたてるテレビに見
  396.   入っていた。しかしすぐにそれも消してしまうと、どこかに出掛
  397.   けるかのように、鏡を覗き込んで身支度を始めた。
  398. /76
  399.  ふと、その鏡の中のアンジュの姿が揺らぐ。
  400. /77
  401.  金の髪。
  402.  白く長い衣装。
  403.  けぶるような光りのなか、真白い羽が床を覆う。
  404.  大きな6枚の翼……。
  405. /78
  406. 「こうでもして自殺志願を誘導しないと、天界も暇なんだよね。と
  407.   りあえず今年はノルマ達成か……。危うくランクダウンするとこ
  408.   だったよ」
  409.  1人呟きながら、ブラインドの隙間から街を見おろす。仕事帰り
  410.   の疲れたOLやサラリーマン。無目的に遊びほうける学生たち…。
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  412. 「ふふっ。皆さん、よいお年を……」
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  414.  
  415.       ・・・・・・・・・・END
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