少女地獄

夢野久作




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何んでも無い


  白鷹秀麿(しらたかひでまろ)兄[#この5文字だけ少し多きめ] 足下

                    臼杵利平[#下揃え2字上げ]

 小生は先般、丸の内倶楽部(くらぶ)の庚戌会(こうぼくかい)で、短時間拝眉(はいび)の栄を得ましたもので、貴兄と御同様に九州帝国大学、耳鼻科出身の後輩であります。昨、昭和八年の六月初旬から、当横浜市の宮崎町に、臼杵(うすき)耳鼻科のネオンサインを掲げておる者でありますが、突然にかような奇怪な手紙を差し上げる非礼をお許し下さい。
 姫草ユリ子が自殺したのです。
 あの名前の通りに可憐な、清浄無垢(せいじょうむく)な姿をした彼女は、貴下と小生の名を呪咀(のろ)いながら自殺したのです。あの鳩のような小さな胸に浮かみ現われた根も葉もない妄想(もうそう)によって、貴下と小生の家庭は申すに及ばず、満都の新聞紙、警視庁、神奈川県の司法当局までも、その虚構(うそ)の天国を構成する材料に織込(おりこ)んで来たつもりで、却って一種の戦慄(せんりつ)すべき脅迫観念の地獄絵巻を描き現わして来ました彼女は、遂に彼女自身を、その自分の創作した地獄絵巻のドン底に葬(ほうむ)り去らなければならなくなったのです。その地獄絵巻の実在を、自分の死によって裏書きして、小生等を仏教の所謂(いわゆる)、永劫(えいごう)の戦慄、恐怖の無間地獄に突き落すべく……。
 その一見、平々凡々な、何んでもない出来事の連続のように見える彼女の虚構の裡面(りめん)に脈動している摩訶(まか)不思議な少女の心理作用の恐しさ。その心理作用に対する彼女の執着さを、小生は貴下に対して逐一説明し、解剖し、分析して行かねばならぬという異常な責任を持っておる者であります。
 しかもその困難を極めた、一種異様な責任は本日の午後に、思いもかけぬ未知の人物から、私の双肩に投げかけられたものであります。……ですからこの一種特別の報告書も、順序としてその不可思議な未知の人物の事から書き始めさして頂きます。

 本日の午後一時頃の事でした。
 重態の脳膜炎(のうまくえん)患者の手術に疲れ切った私は、外来患者の途絶えた診察室の長椅子に横たわって、硝子(ガラス)窓越に見える横浜港内の汽笛と、窓の下の往来の雑音をゴッチャに聞きながらウトウトしておりますと、突然に玄関のベルが鳴って、一人の黒い男性の影が静かに辷(すべ)り込んで来ました。
 跳(は)ね起きてみますと、それはさながらに外国の映画に出て来る名探偵じみた風采の男でした。年の頃は四十四、五でしたろうか。顔が長く、眉が濃く太く、高い、品のいい鼻梁(はなすじ)の左右に、切れ目の長い眼が落ち窪んで鋭い、黒い光を放っているところは、とりあえず和製のシャアロック・ホルムズと言った感じでした。全体の皮膚の色が私と同様に青黒く、スラリとした骨太い身体(からだ)に、シックリした折目正しい黒地のモーニング、真新しい黒のベロア帽、同じく黒のエナメル靴、銀頭の蛇木杖(スネキウッド)という微塵(みじん)も隙のない態度風采で、診察室の扉(ドア)を後ろ手に静かに閉めますと、私一人しかいない室内をジロリと一眼見まわしながら立ち佇(どま)って、慇懃(いんぎん)に帽子を脱(と)って、中禿を巧みに隠した頭を下げました。
 軽率な私は、この人物を新来の患者と思いましたので愛想よく立ち上りました。
 「サアどうぞ」とジャコビアン張の小椅子(サイドチェア)を進めました。
 「私が臼杵です」
 しかし相手の紳士は依然として黒い、冷たい影法師のように突立っておりました。ちょっと眼を伏せて……わかっている……と言ったような表情をした切り一言も口を利(き)きませんでした。そのうちに青白い毛ムクジャラの手を胴衣(チョッキ)の内ポケットに入れて、一枚のカード型の紙片を探り出しますと、私の顔を意味ありげにチラリと見ながら、傍(そば)の小卓子(カードテーブル)の上に置いて私の方へ押し遣りました。
 そこで私は滑稽にも……サテは唖(おし)の患者が来たな……と思いながらその紙片を取り上げてみますと、意外にも下手な小学生じみた鉛筆文字でハッキリと「姫草ユリ子の行方を御存じですか」と書いて在るのです。
 私は唖然(あぜん)となってその男の顔を見上げました。背丈(せい)が五尺七、八寸もありましたろうか。
 「……ハハア。知りませんがね。だまって出て行きましたから……」
 と即答をしましたが、その刹那(せつな)に……サテハこの男が姫草ユリ子の黒幕だな。何かしら俺を脅迫しに来やがったんだな……と直感しましたので直ぐに……糞(くそ)でも啖(く)らえ……という覚悟を腹の中で決めてしまいました。しかし表面(うわべ)にはソンナ気振も見せないようにして、平凡な開業医らしいトボケ方をしておりました。……姫草ユリ子の行方を知っていないでよかった。知っていると言ったら直ぐに付け込まれて脅迫されるところであったろう……と腹の中で思いながら……。
 相手の紳士はそうした私の顔を、その黒い、つめたい執念深い瞳付(めつき)で十数秒間、凝視(ぎょうし)しておりましたが、やがてまた胴衣(チョッキ)の内側から一つの白い封筒を探り出して、恭(うやうや)しく私の前に置きました。……御覧下さい……と言う風に薄笑いを含みながら……。
 白い封筒の中味はありふれた便箋(びんせん)でしたが、文字は擬(まが)いもない姫草ユリ子のペン字で、処々汚なくにじんだり、奇妙に震えたりしているのが何となく無気味でした。[#ここから引用文、1字下げ]
 「白鷹先生
  臼杵先生
 妾(わたし)は自殺いたします。お二人に御迷惑のかからないように、築地の婦人科病院、曼陀羅(まんだら)先生の病室で自殺いたします。子宮病で入院中にジフテリ性の心臓麻痺で死んだようにして処理して頂くよう曼陀羅先生にお願いして置きます。
 白鷹先生 臼杵先生
 お二人様の妾に賜(たま)わりました御愛情と、その御愛情を受け入れました妾を、お憎しみにもならず、親身の妹同様に可愛がって頂きました、お二人の奥様方の御恩を、妾は死んでも忘れませぬでしょう。ですから、その奥様方の気高い、ありがたい御恩の万分の一でも報いたい気持から妾は、こんなにコッソリと自殺するのです。わたくしの小さい霊魂はこれから、お二人の御家庭の平和を永久に守るでしょう。
 妾が息を引き取りましたならば、眼を閉じて、口を塞(ふさ)ぎましたならば、今まで妾が見たり聞いたり致しました事実は皆、あとかたもないウソとなりまして、お二人の先生方は安心して貞淑な、お美しい奥様方と平和な御家庭を守ってお出でになれるだろうと思いますから。
 罪深い罪深いユリ子。
 姫草ユリ子はこの世に望みをなくしました。
 お二人の先生方のようなお立派な地位や名望のある方々にまでも妾の誠実(まごころ)が信じて頂けないこの世に何の望みが御座いましょう。社会的に地位と名誉のある方の御言葉は、たといウソでもホントになり、何も知らない純な少女の言葉は、たとい事実でもウソとなって行く世の中に、何の生甲斐(いきがい)がありましょう。
 さようなら。
 白鷹先生 臼杵先生
 可哀そうなユリ子は死んで行きます。
 どうぞ御安心下さいませ。
  昭和八年十二月三日              姫草ユリ子 」[#下揃え1字上げ。ここで引用文終わり]
 この手紙はすでに田宮特高課長に渡しました実物の写しで、貴下にお眼にかけたいためにコピーを取って置いたものですが、これを初めて読みました時も私は、何の感じも受けずにいる事が出来ました。依然として呆(あき)れ返ったトボケた顔で、相手の鋭い視線を平気で見返しながら問いかけました。
 「ヘエ。貴方(あなた)がこの手紙の曼陀羅先生で……」
 「そうです」
 相手は初めて口を開きました。シャガレた、底強い声でした。
 「モウ死骸は片付けられましたか」
 「火葬にして遺骨を保管しておりますが……死後三日目ですから」
 「姫草が頼んだ通りの手続きにしてですか」
 「さようです」
 「何で自殺したんですか」
 「モルフィンの皮下注射で死んでおりました。何処(どこ)で手に入れたものか知りませんが……」
 ここで相手は探るように私の顔を見ましたが、私は依然として無表情な強直を続けておりました。
 曼陀羅院長の眼の光が柔らぎました。こころもち歪(ゆが)んだ唇が軽く動き出しました。
 「先月……十一月の二十一日の事です。姫草さんはかなり重い子宮内膜炎で私のところへ入院しましたが、そのうちに外で感染して来たらしいジフテリをやりましてね。それがヤット治癒(なお)りかけたと思いますと……」
 「耳鼻科医(せんもんい)に診(み)せられたのですか」
 「いや。ジフテリ程度の注射なら耳鼻科医(せんもん)でなくとも院内(うち)で遣(や)っております」
 「成る程……」
 「それがヤット治癒りかけたと思いますと、今月の三日の晩、十二時の最後の検温後に、自分でモヒを注射したらしいのです。四日の……さよう……一昨々日の朝はシーツの中で冷たくなっているのを看護婦が発見したのですが……」
 「付添人も何もいなかったのですか」
 「本人が要(い)らないと申しましたので……」
 「いかにも……」
 「キチンと綺麗にお化粧をして、頬紅や口紅をさしておりましたので、強直屍体とは思われないくらいでしたが……生きている時のように微笑を含んでおりましてね。実に無残な気持がしましたよ。この遺書(かきおき)は枕の下にあったのですが……」
 「検屍はお受けになりましたか」
 「いいえ」
 「どうしてですか。医師法違反(いはん)になりはしませんか」
 相手は静かに私の瞳を凝視した。いかにも悪党らしい冷やかな笑い方をした。
 「検屍を受けたらこのお手紙の内容が表沙汰になる虞(おそれ)がありますからね。同業者の好誼(よしみ)というものがありますからね」
 「成る程。ありがとう。してみると貴下(あなた)はユリ子の言葉を信じておられるのですね」
 「あれ程の容色(きりょう)を持った女が無意味に死ぬものとは思われません。余程の事がなくては……」
 「つまりその白鷹という人物と、僕とが、二人がかりで姫草ユリ子を玩具(おもちゃ)にして、アトを無情に突き離して自殺させたと信じておられるのですね……貴下は……」
 「……ええ……さような事実の有無(うむ)を、お尋ねに来たんですがね。事を荒立てたくないと思いましたので……」
 「貴方は姫草ユリ子の御親戚ですか」
 「いいえ。何(なん)でもないのですが、しかし……」
 「アハハ。そんなら貴下も僕等と同様、被害者の一人です。姫草に欺瞞(だま)されて、医師法違反を敢(あ)えてされたのです」
 相手の顔が突然、悪魔のように険悪になりました。
 「怪(け)しからん……その証拠は……」
 「……証拠ですか。ほかの被害者の一人を呼べば、すぐに判明(わか)る事です」
 「呼んで下さい。怪しからん……罪も報いもない死人の遺志を冒涜(ぼうとく)するものです」
 「呼んでもいいですね」
 「……是非……すぐに願います」
 私は卓上電話器を取り上げて神奈川県庁を呼出し、特高課長室に繋(つな)いで貰った。
 「ああ。田宮特高課長ですか。臼杵です。臼杵医院の臼杵です。先般は姫草の件につきましていろいろどうも……ところで早速ですが……お忙しいところまことにすみませんが、直ぐに病院(こちら)へお出で願えますまいか。姫草ユリ子の行方がわかったのです。……イヤ死んでいるのです。ある処で……実はその姫草ユリ子の被害者がまた一人出て来たのです。イヤイヤ。今度のは本物です。だいぶ被害が深刻なのです。築地の曼陀羅病院長と仰言(おっしゃ)る方ですが……そうです、そうです……聞いた事のない病院ですが……例の彼女一流の芝居に引っかかって医師法違反までさせられたという事実を説明しに、わざわざ僕の処に来ておられるのですが。姫草ユリ子の自殺屍体の遺骨を保管しておられると言うのですが……そうです、そうです。とんでもない話ですが事実です。今ここに待っておられるのです。是非貴方にお眼にかかりたいと言って……ああ。もしもし……もしもし……モウ曼陀羅院長は帰りかけておられます。帽子とステッキを持って慌(あわ)てて出て行かれます。アハアハ。モウ出て行きました。今、勇敢な看護婦が駈け出して見送っております。ちょっと待って下さい。僕が方向を見届けて報告しますから……あ。服装ですか。服装は一口に言うと黒ずくめのリュウとしたモーニングです。身長は五尺七、八寸。色の青黒い、外国人じみた立派な痩形(やせがた)の紳士……あ。脅迫用の手紙を忘れて行きました。アハアハ。この電話に驚いたらしいです。アハアハアハ。……あ。そうですか。それじゃお帰りがけにお寄り下さい。まだ話がありますから。イヤどうも失礼……すみませんでした。サヨナラ」
 曼陀羅院長は田宮課長の敏速な手配にもかかわらずトウトウ捕まらなかったらしく、今日の日が暮れるまで何の音沙汰もありませんでした。したがって彼氏が、彼女とどんな関係を持ったドンナ種類の人間であったか。どうして彼女の遺書(かきおき)を手に入れたか。いつから彼女の蔭身に付添って、どの程度の黒い活躍をしていたか……と言ったような事実はまだ推測出来ません。
 しかし神奈川県庁から帰りがけに病院に立ち寄って、私の提供した姫草ユリ子に関する新事実を聴き取った田宮特高課長は、容易ならぬ事件という見込を付けたらしく即刻、東京に移牒(いちょう)する意嚮(いこう)らしかったのですから、彼女の死に関する真相も遠からずハッキリして来る事と思いますが、それよりも先に小生は、一刻も早く彼女に関する事実の一切を貴下に御報告申し上げて、後日の御参考に供して置かねばならぬ責任を感じましたから、かように徹宵(てっしょう)の覚悟で、この筆を執っている次第です。今までは余りに恥かしい事ばかりなので御報告を躊躇(ちゅうちょ)しておったのですが……否……今日まで貴下と何等の御打合わせも出来なかったのが矢張(やは)り、かの不可思議な少女、姫草ユリ子の怪手腕に魅せられて脳髄を麻痺させられていたせいかも知れませぬが……。

 何よりも先に明らかに致して置きたいのは彼女……姫草ユリ子と自称する可憐の一少女が、昨春三月頃の東都の新聞という新聞にデカデカと書き立てられました特号標題(みだし)の「謎の女」に相違ない事です。この事実は本日面会しました前記の司法当局者に、私から説明しましたので、同氏が「容易ならぬ事件」と認めて、即刻、警視庁に移牒したという理由もそこに在る事と察しられるのですが、その新聞記事によりますと(御記憶かも知れませんが)彼女は、その情夫? との密会所を警察に発見されたくないという考えから、その密会所付近の警察に自動電話をかけたものだそうです。
 「妾は只今××の××という家に誘拐、監禁されている無垢(むく)の少女です。只今、魔の手が妾の方へ伸びかかっておりますが、僅かの隙間(すき)を見て電話をかけてるのです。助けて下さい、助けて下さい」
 と言う意味の、真に迫った、息絶え絶えの声を送って、当局の自動車をとんでもない遠方の方角違いへ逐(お)い遣ってしまったのです。彼女はかようにして、それから度々警察を騒がせましたので結局、同じ女だと言う事がわかって、極度に当局を憤慨させ、新聞記者を喜ばせた……というのが事実の真相です。
 その無鉄砲とも無茶苦茶とも形容の出来ない一種の虚構(うそ)の天才である彼女が、貴下の御懸念(けねん)になっている彼女であり、ツイこの間まで白い服を着て小生の病院内を飛び廻っておりました彼女だったことを、現在、彼女の身元引受人であった者がハッキリと主張しているのです。そうしてその主張している理由は彼女の心理状態から押して真実と認められるので、現に警察当局でもそうした主張の真実性を厘毫(りごう)も疑っていない次第です。
 それにしても渺(びょう)たる一少女に過ぎない彼女が、あらゆる通信、交通機関の横溢(おういつ)している今の世の中に、しかも眼と鼻の間とも言うべき東京と横浜に在る貴下と私の一家を、かくも長い間、お互いに怪しみ、探り合わせながら、どうしてもめぐり合う事が出来ないと言う不可思議な、気味の悪い運命に陥(おとしい)れて行くと同時に、彼女自身の運命までも葬らなければならぬほどの深刻な窮地に陥れて行くべく余儀なくされた、そのソモソモの動機は何処に在るのでしょうか。
 以下は私の日記の抜書を一つの報告文体に作り上げたものです。ですから中には彼女に関する貴下の御記憶と重複しているところもありましょう。または貴下の御人格を冒涜するような章句もありましょう。なおまた、敬語を抜きにした記録体に致しましたために、無作法に亙(わた)るような個所が出来るかも知れませんが、何卒(なにとぞ)、悪しからず御諒読(ごりょうどく)を願います。何(いず)れもその時の私の心境を率直、如実に告白致したいために、日記の記録する通りに文章を取纏(とりまと)めたものですから……。

 姫草ユリ子が私の病院に来たのは昨、昭和八年の五月三十一日……開業の前日の夕方であった。見事な、しかし心持地味なお納戸(なんど)の着物に、派手なコバルト色のパラソル、新しいフェルト草履(ぞうり)、バスケット一個(つ)という姿の彼女がションボリと玄関に立った。
 「コチラ様では、もしや看護婦が御入用ではございませんかしら……」
 診察室の装飾に就いて家具屋と凝議(ぎょうぎ)をしていた私の姉と、妻の松子とは、顔を見合わせて彼女の勇敢さに感心したという。ちょうど二人雇っていた看護婦ではすこし手が足りないかも知れない……と話合っていたところだったので、早速、外来患者室に通して、私と三人で面会して一応の質問と観察をこころみた。
 「新聞の広告を見て来たのですか」
 「いいえ。ちょうど表の開院のお看板が電車の窓から見えましたので降りて参りました」
 「ハハア。お国はどちらですか」
 「青森県のH市です」
 「御両親ともそこにおられるのですか」
 「ハイ。H市の旧家でございます」
 「御両親の御職業は……」
 「造酒屋を致しております」
 「ほお。それじゃ失礼ですが、お実家(うち)は御裕福ですね」
 「ええ。それ程でもございませんけど……妾が東京に出る事に就きましても、両親や兄が反対したんですけど妾、自分の運命を自分で開いてみたかったんですし、それに看護婦の仕事がしてみたくてたまらなかったもんですから……」
 「それじゃ今では御両親と音信を絶っておられるんですか」
 「いいえ。いつも手紙を往復しておりますの。それからタッタ一人の兄も東京で一旗上げると言って今、丸ビルの中の罐詰(かんづめ)会社に奉公しております」
 「学校は何処をお出になったの」
 「青森の県立女学校を出ておりますの」
 「看護婦の仕事に御経験がありますか」
 「ハイ。学校を出ますと直ぐに信濃町(しなのまち)のK大の耳鼻科に入りましてズット今まで……」
 「そこを出て来た事情は……」
 「……あの。あんまり嫌な事が多いもんですから……」
 「いやな事ってドンな事ですか」
 「……申し上げられません。仕事はトテモ面白かったんですけど……」
 「ふうむ。貴女の身元保証人は……」
 「あの。下谷(したや)で髪結いをしている伯母さんに頼んでおりますの。いけないでしょうか」
 「どうして兄さんに頼まないんですか」
 「伯母さんの方がズット世間慣れておりますし、今までその家におったもんですから……きょうも、家にジッとしていないでブラブラ町を歩いて御覧、いい仕事があるかも知れないからって、その伯母さんが言いましたもんですから……」
 「お名前は……」
 「姫草ユリ子と申しますの」
 「姫草ユリ子……おいくつ……」
 「満十九歳二か月になりますの……使って頂けますか知ら……」
 これだけの問答で私等は彼女を採用する決心をしてしまった。私ばかりじゃない。妻も姉も、彼女の無邪気な、鳩のような態度と、澄んだ、清らかな茶色の瞳と、路傍にタタキ付けられて救いを求めている小鳥のような彼女のイジラシイ態度……バスケット一つを提(ひっさ)げて職を求めつつ街を彷徨(ほうこう)する彼女の健気な、痛々しい運命に、衷心(ちゅうしん)から吸い付けられてしまっていた。
 笑え……私等のセンチの安価さを……誰でもこの問答を一読しただけで、彼女の身元について幾多の矛盾した点や不安な点を発見するであろう。少なくとも一度、K大の耳鼻科に電話をかけて彼女の身元を幾分なりとも洗って見た上で雇い入れるのが常識的である事に気付くであろう。
 けれどもその時の私等はそうした軽率さを微塵も感じなかった。彼女の容姿と言葉付の吸い寄せるようなあどけなさが、彼女の周囲を渦巻きめぐっているであろう幾多の現実的な危険さに対する私等のアラユル常識を喚起(よびおこ)して、一種のローマンチックな、尖鋭な同情の断面を作って彼女に働きかけさせた事を私等は否定出来ないであろう。その翌(あく)る日、
 「ねえお姉様。あの娘(こ)が万一(もし)、看護婦が駄目だったら女中にでも使って遣りましょうよ。ねえ、可哀そうですから」
 「まあ。妾もアンタがその気ならと思っていたとこよ。追々お客様も殖(ふ)えるでしょうから」
 と二人が相談し合ったくらい姉と妻は彼女に対して乗気になっていたらしい。
 そればかりじゃない。なおその上にモウ一つ。これは私の職業意識とでも言おうか。私が彼女を見た時に、第一に眼に付いたのは彼女の鼻梁(はなすじ)であった。
 彼女は決して美人という顔立ではなかった。眼鼻立はドチラかと言えば十人並程度で、色も相当に白かったが、背丈が普通よりも低く五尺チョットぐらいであったろう。同時にその丸い顔の中心に当る小鼻が如何(いか)にも低くて、眼と鼻の間の遠い感じをあらわしていたが、それだけに彼女が人の好い、無邪気な性格に見えていた事は争われない。
 私はそうした彼女の顔立をタッタ一目見た瞬間に、彼女の小鼻に隆鼻術をやって見たくなったのであった。これくらいのパラフィンをあそこに注射すれば、これくらいの鼻にはなる。彼女の小鼻は鼻骨と密着していない、きわめて手術のし易いタチの小鼻であると思った。こうした一種の職業意識から来た愚かな魅惑が、彼女を雇い入れる決心をした私の心理の底に動いていた事も否定出来ない事実であった。

 こうした私の目的は間もなく立派に達成された。彼女は私の病院に雇われてから一週間と経たぬうちに俄然として見違えるような美少女となって、病院の廊下を飛びまわる事になった。決して自家広告をする訳ではないが、私は彼女に施した隆鼻術の効果の予想外なのに驚いたものであった。手術をして遣(や)った翌る朝、薄化粧をして「お早ようございます」と言った彼女の笑顔を見た瞬間に……これは大変な事をした。とんでもない美人にしてしまった……と肝を潰したくらいであった。
 しかし彼女に対する私達の驚異は、まだまだそれくらいの事では済まなかった。
 彼女の看護婦としての腕前は申し分ないどころの騒ぎではなかった。K大耳鼻科のお仕込みもさる事ながら、彼女は実に天才的の看護婦である事を発見させられて、衷心(ちゅうしん)から舌を巻かされたのであった。
 彼女が私の病院に来てから間もなく私がある中年紳士の上顎竇(じょうがくとう)蓄膿症の手術をした時に、初めて助手を命ぜられた彼女は、忙しく動いている私の指の間から、麻酔患者の切り開かれた上唇の間に脱脂綿をスイスイと差し込んで、溢(あふ)れ流れる血液を拭き上げて、切開部をいつも私の眼によく見えるようにして行った。その鮮やかな、狃(な)れ切った手付を見た時に私はゾッとするぐらい感心させられてしまった。永い年月の間、幾多の手術に当って来た老成の看護婦でも、こうした手術者の意図に対する敏感さと、手練の鮮やかさを滅多に持ち合わせていないであろう事を、私はシミジミ思わせられた事であった。
 しかし彼女が開業医なるものの患者に対して如何(いか)に素晴らしい理解を持っていたか。そのために私等一家が如何に彼女に感謝させられていたか。そのために病院内の仕事を、ほとんど非常識に近いところまで彼女に任かせ切っていたか、そうしてそのために、以下記述するような「謎の女」式の活躍の自由を、如何に多分に彼女に許しておったかという事実は、恐らく何人も想像の外であろうと思う。
 私は開業当時から、誰もするように仕事の時間割をきめていた。午前十時から午後一時まで、午後三時から六時迄を診察治療の時間ときめて、六時以後は直ぐに近くの紅葉坂(もみじざか)の自宅に帰って、家族と一緒に晩餐(ばんさん)を摂(と)る事にきめていたが、開業医の当然の責任として、帰ると直ぐに入院患者から何でもない苦痛のために慌(あわただ)しく病院に呼び戻される。または所謂(いわゆる)、草木も眠る丑満時(うしみつどき)に聞き分けのない患者から呼び付けられる事が何度も何度もある事を、当初から覚悟していた。これは医師として私的に非常な苦痛を感ずる事柄に相違ないのであるが、しかし出来るだけ勤めて遣(や)ろう。親切にして遣ろう。苦痛をなくするのが目的で、病気を治すのが目的じゃないのが一般入院患者の心理状態なのだから……と言ったような悟りまで開いて待ち構えていたのであるが、意外にも、私が開業以来、そんな事が一度もないので、次第に不思議に感じ始めた。あるいはまだ自宅に電話が引いてないせいではないかとも思ったが、それにしても怪訝(おか)しいと言うので、よく姉たちと話合ったものであったが、この不思議は間もなく解けた。それは実に姫草ユリ子一人の働きである事が、よく注意しているうちに判明して来た。
 彼女は麻酔の醒(さ)める頃合いとか、手術後の苦痛を訴え始める時間とか、または熱の高下と患者の体質とが関連して起る苦痛の度合いとか言うものに就いて看護婦特有の……ソレ以上の親切な敏感さを持っていた。いつも患者が何か言い出す前に先を越して手当てをしたり、予告をして慰めたりしていたものらしい。時としては勝手に患者の耳や鼻を掃除したり洗ったり、甚(はなはだ)しい時は私に断らずにモヒの注射、その他の鎮痛、麻酔手段を取った事が爾後(じご)の経過によって判明した事もあったが、しかし、それにしても患者の喜びは大したものであったらしい。ほかの看護婦に訴えてもマゴマゴしたり、躊躇(ちゅうちょ)したりしている事を彼女はグングン断行して安静に一夜を過ごさせたので、臼杵病院の姫草さんと言う名前が、私の名前よりも先に患家の間に好評を博した事は、決して不自然でなかった。無論、私が助かった事も非常なものであるにはあったが……。
 そればかりではない。

 彼女の持って生まれた魅力は事実、男女、老幼を超越したものがあった。この点では私の家族たちも唯一言「エライ」と評するよりほかに批評の言葉を発見し得ないくらい、彼女の手腕に敬服していた。
 老人は老人のように、小児は小児のように、男は男のように、女は女のようにと言ってみれば何でもない事ではあるが、そうしたあらゆる種類の患者の病状を一々親切に聞いて遣って、院長たる私を信頼させて、安心して診察、手術を受けさせて、気楽に入院させて、時としてはその家庭の内情までも聞いて遣って、同情し、励まし、慰めつつ、無事に退院させて遣る……その手際と言ったら到底、吾々凡俗の及ぶところではない。神経質な、根性のヒネクレタ老人や、ヤンチャな過敏な子供までも、モウ一から十まで姫草さん姫草さんと持ち切りで、ほかの二名の看護婦はあれどもなきが如き状態であった。アタジケない話ではあるが、患者が退院する時なぞは、院長の私のところへ謝礼をするよりも先ず姫草さんに……という傾向になってしまったもので、子供なんぞは泣いて帰らないという。ヒメちゃんと一緒に病院にいるんだと言って聞かない。そのほかの患者でも、退院して後に彼女宛に寄越す礼状の長いこと長いこと。受付兼会計係をしている姉が「十二銭も貼るほど手紙に書く事が、どうしてあるのだろう」と呆(あき)れるくらいであった。
 さらに驚くべき事実は(実は当然の帰結かも知れないが)彼女のお蔭で私の患者がメキメキと激増した事であった。この点、私の開業は非常に恵まれていたと同時に、彼女……姫草ユリ子と名のるマネキン兼マスコットに絶大の感謝を払わなければならなかった。受診に来る患者の甲乙丙丁が、何につけても姫草さん姫草さんと尋ね求める態度を見ると、ちょうど臼杵病院の中に姫草ユリ子が開業をしているようで、多少の自信を腕に持っている私も、彼女のこうした外交手腕に対しては大いに謙遜の必要を認めさせられていた次第であった。
 私は彼女に二十円の給料を払っていた。これは決して法外に安い給料とは思わなかったが最近、彼女の功績を大いに認めなければならぬ状態を認めて、姉や妻と寄々相談をしていた次第であったが、折も折、ちょうどそのさ中に、実に奇妙とも不思議とも、たとえようのない事件が彼女を中心にして渦巻(うずま)き起って、遂に今度のような物凄い破局に陥ったのであった。しかもその破局のタネは彼女自身が撒(ま)いたもので、すでに彼女が私の処に転がり込んだ最初の一問一答の中に、その種子(たね)が蒔(ま)かれていたのであった。

 彼女の郷里は青森県の酒造家で、裕福な家らしく聞いていたが、その後の彼女の朗らかな性格や、無邪気な態度を透して、そうした事実を私等は毛頭疑わなかった。
 一番最初の問答に出た彼女の兄なる人物は、彼女が来てから間もなく倉屋の黒羊羹(くろようかん)を沢山(たくさん)に持って病院に挨拶に来た。もっともそれは私が帰宅したアトの事で、誰もその兄の姿を見届けたものはいなかったが、ちょうど私が自宅で夕食を終ってから、何かしらデザートじみた物が欲しいと思っているところへ、病院の姫草ユリ子から取次電話がかかって来た。
 「先生。只今(ただいま)兄がお礼に参りましたの。先生がお好きって妾が申しましたからってね、倉屋の羊羹を持って参りましたの……イイエ。もう帰りましたの。折角お休息(やすみ)のところをお妨げしてはいけないってね。どうぞどうぞこの後とも宜(よろ)しくってね……申しまして……ホホ。そちらへお届け致しましょうか……羊羹は……」
 「ウン大急ぎで届けてくれ。ありがとう」
 と返事をしたが、恐らく甘く見られたと言ってもこの時ぐらい甘く見られた事はなかったろう。
 彼女の郷里からと言って五升の清酒と一樽(たる)の奈良漬が到着したのは、やはり、それから間もなくの事であった。何でも郷里の人に両親から言伝(ことづけ)た品物だとかで、例によって私が帰宅後に、病院に居残っていた彼女が受け取ったという話であったが、彼女が汗を流して提(ひっさ)げて来た酒瓶と樽にはレッテルも何もなく、きわめて粗末な、田舎臭い熨斗紙(のしがみ)が一枚ずつ貼り付けて在(あ)る切りであった。一口味わってみた私は、
 「ウン。ナカナカ江戸前だな。ピインと来るね。奈良漬も三越のに負けない」
 と思わず口を辷(すべ)らしたが、恐らくそれが図星だったのであろう。樽の縄を始末していた彼女は、ただ赤面した切りでコソコソと病院に逃げ帰ったようであった。
 もっともその時に私は彼女の幸福を祈っている兄や両親の事を思い出して、相当御念入りにシンミリさせられていたから、彼女のそうしたコソコソした態度にはチットモ気付かなかった。彼女のアトを見送りながら、
 「タッタ二十円しか遣らないのになあ」
 とテレ隠しみたような冗談を言ったくらいの事であった。
 ところでここまでは誠に上出来であった。この辺で止めて置けば万事が天衣無縫(てんいむほう)で、彼女の正体も暴露されず、私の病院も依然としてマスコットを失わずにすんだ訳であったが、好事(こうず)魔(ま)多し、とでも言おうか。彼女独特のモノスゴイ嘘吐きの天才が、すこし落ち着くに連れて、モリモリと異常な活躍を始めたのは、是非もない次第とでも言おうか。
 彼女の異常な天才が、K大耳鼻科の白鷹君と私の家庭を形容の出来ない、薄気味の悪い悪夢の中に陥れ始めた原因というのは、恐らく彼女自身も気付かなかったであろう、きわめて些細な出来事からであった。

 お恥かしい話ではあるが開業※々(そうそう)の好景気に少々浮かされ気味の私は、いつの間にか学生時代とソックリの瓢軽者(ひょうきんもの)に立ち帰っていた。つまらない駄洒落(だじゃれ)や、軽口や、冗談を連発して患者の憂鬱を吹き飛ばしたり、
 「オイオイ。小さい解剖刀(メス)を持って来い。小さなメスだ。お前じゃないよ。間違えるな」
 と姫草に言ったりしたが、そのたんびにユリ子はキャッキャと笑って立ち働きながら言った。
 「まあ臼杵先生は白鷹先生ソックリよ」
 「何だい。その白鷹って言うのは……俺に断らないで俺に似てるなんて失敬な奴じゃないか」
 「まあ。臼杵先生ったら……白鷹先生は、あなたよりもズットお年上で、K大耳鼻科の助教授をしていらっしゃるんですよ」
 「ワア。あやまったあやまった。あの白鷹先生かい。あの白鷹先生なら、たしかに俺の先輩だ」
 「ソレ御覧なさい。ホホホ。K大にいる時に白鷹先生は、いつも手術や診察の最中にいろんな冗談ばかり仰言って患者をお笑わせになったんですよ。鼓膜切開の時なんかは、患者が笑うと頭が動いて、トテモ危険なんですけど、白鷹先生の手術はステキに早いもんですから、患者が痛いなんて感ずる間もなく、笑い続けておりましたわ。そんなところまで臼杵先生のなさり方とソックリでしたわ」
 なぞとユリ子は、あとで言訳らしく説明するのであったが、こうした最大級の真に迫ったオベッカが私のプライドを満足させた事は言う迄もない。もちろんこれは彼女が、彼女の実家の裕福な事を証明して、彼女の暗い、醜い前身を隠そう。同時に彼女の儚(はか)ない空想を現実に満足させようとしたのと同じ心理から出た作り事で、彼女がK大耳鼻科、助教授の要職にいる人から如何に信頼を受けておったかと言う事を、具体的に証明したいばっかりの一片の虚構に過ぎなかったのであったが、しかしその時の私が、どうしてソンナ事に気付き得よう。かねてから母校の先輩として尊敬していた白鷹先生の名前を久し振りに聞いた私は、喜びの余り眼を丸くして彼女に問いかけたのであった。
 「ホオ。それじゃ白鷹先生は今でもK大におられるのかい。チットモ知らなかった」
 彼女は平気で……否……むしろ得意そうに白鷹先生の話に深入りして行った。
 「ええ、ええ。手術にかけたらトテモお上手っていう評判ですわ。妾、こちらへ参りますまで先生にドレくらい可愛がられたかわかりません。奥様からも、それはそれは真実の娘のようにして頂きましてね。今にキット良い処へ嫁付(かたづ)けて遣るって仰言って、着物なんか幾つも頂戴(いただ)いて参りましたの。今、平常(ふだん)に着ておりますのも奥さんのお若い時のを、派手になったからって下すったのですわ」
 私はスッカリ彼女の話に引っぱり込まれてしまった。蔭ながら白鷹先生に敬意を表すべく両手を揉(も)み合わせたものであった。
 「なあんだ。白鷹先生なら僕の大先輩だよ。九大にいる時分に御指導を受けたんだから、もしかすると僕の事を御存じかも知れない。いい事を聞いた。そのうちに是非一度、お眼にかかりたいもんだが……」
 「ええ、ええ。そりゃあ必定(きっと)、お喜びになりますわ。先生の事も二、三度お話の中に出て来たように思いますわ。臼杵君はトテモ面白い学生だったって、そう仰言ってね」
 「ふうん。僕は茶目だったからなあ。お宅はどこだい」
 「下六番町の十二番地。奥さんはトテモ上品でお綺麗な、九条武子様みたいな方ですわ。久美子さんと仰言ってね。先生をトテモ大切になさるんですよ。仲がよくってね……」
 「アハハハ。何でもいいから、そのうちに……きょうでもいいから一度、君から電話かけといてくれないかね。臼杵がお眼にかかりたがっているって……」
 「……まあ。妾なんかが御紹介しちゃ失礼じゃございません……?」
 「なあに構うものか。白鷹先生なら、そんな気取った方じゃないんだよ」
 そう言って私は姫草ユリ子に頭を一つ下げた。
 彼女は、そう言う私の顔をすこし近眼じみた可愛い瞳(ひとみ)でチョット見上げていたが、何故か多少、悄気(しょげ)たように俛首(うなだ)れて軽いタメ息を一つした。聊(いささ)か怨(うら)めしそうな態度にも見えたが、しかし私はソレを彼女独特の無邪気な媚態(びたい)の一種と解釈していたので格別不思議に思わなかった。
 「……でも妾……看護婦風情(ふぜい)の妾が……あんまり失礼……」
 「ナアニ。構うもんか。看護婦が紹介したって先生は先生同士じゃないか。白鷹先生はソンナ事に見識を取る人じゃなかったぜ」
 「ええ。そりゃあ今だって、そうですけど……」
 「そんなら、いいじゃないか……僕が会いたくて仕様(しよう)がないんだから……」
 彼女は仕方がないという風に肩を一つユスリ上げた。奇妙な、泣きたいような笑い顔をニッコリとして見せながら、
 「ええ。妾でよければ……いつでも御紹介(おひきあわせ)しますけど……」
 「ウン。頼むよ。きょうでもいい。電話でいいから掛けといてくれ給え」
 それはイツモの気軽い彼女には似合わない、妙にコダワッた薄暗い応対であった。しかし間もなく平生の無邪気な快活さを取り返した彼女は、さもさも嬉しそうに……あたかも白鷹助教授と臼杵病院長を紹介する光栄を喜ぶかのようにピョンピョンと跳ね上りながら電話室へ走り込んで行った。
 その後ろ姿を見送った私は、モウ何も疑わない朗らかな気持になっていたが、何ぞ計らん。この時すでに私は彼女に一杯喰(く)わされていたので、彼女もまた同時に、彼女の生涯の致命傷となるべき悩みの種子(たね)を彼女自身の手で萌芽させていたのであった。
 彼女の言う白鷹先生というのは、彼女の識っている白鷹先生とは性質の違った白鷹先生であった。要するに彼女の機智が、私をモデルにして創作した……私の機嫌を取るのに都合のいいように創作した一つの架空の人物に過ぎないのであった。しかもその架空の人物と彼女との親密さを私に信じさせる事によって、彼女自身の信用を高め、彼女の社会的な存在価値を安定させようと試みている一つのトリック人形でしか白鷹先生はあり得ないのであったが、軽率な私は、そのトリック式白鷹先生の存在を百二十パーセントに妄信させられていた……私と同様な気軽な、茶目式の人物と思い込んでしまったために、こんな軽はずみな事を彼女に頼んだ次第であった。
 ところが彼女のこうした不可思議な創作能力は、それからさらに百尺竿頭百歩を進めて、真に意表に出ずる怪奇劇を編(あ)み出す事になった。……と言うのは御本人の白鷹先生も御存じないK大耳鼻科の白鷹先生から、白昼堂々と電話がかかって来たのであった。
 私が開業してから、ちょうど三月目……本年の九月一日の午後三時半頃、彼女が電話口から診察室に飛んで来た。
 「先生。先生。白鷹先生からお電話です」
 大勢の患者を診察していた私は驚いて振り返った。
 「ナニ。白鷹先生から電話……何の用だろう」
 「まあ。先生ったら……この間、妾に紹介してくれって仰言ったじゃございません。ですから妾、昨日お電話でモウ一度そう申しましたの……お忙しい時間もチャンとそう言って置きましたのに……今頃お掛けになるなんて……」
 と彼女はイクラか不平そうに可愛い眉を顰(ひそ)めるのであった。こうした技巧と言ったら、それこそ独特の天才と言うべきものであったろう。実に真に迫ったものがあった。彼女と、彼女の創作した白鷹先生との親密さに就いて、微塵の疑いをさし挾む余地もないくらい真に迫ったものであった。
 電話に出ていた相手の男性……白鷹先生に非(あら)ざる白鷹先生は、彼女の説明通りに、如何にも快活らしい朗らかな声の持主であった。しかも、それがほとんど私に一言も口を利かせないまま、一気に喋舌(しゃべ)り続けた。
 「ヤア。臼杵君か。暫く。御機嫌よう。イヤ御無沙汰御無沙汰。景気はどうだい。ウンウン。姫草から聞いたよ。結構結構。ウンウン。姫草って奴はいい看護婦だろう。こっちで、あんまり良過ぎるもんだから看護婦長から憎まれてね。とんでもない濡衣(ぬれぎぬ)を着せられて追い出されちゃったんだよ。僕の妻(かない)が非常に可愛がっていたんだがね。イヤ。本人も喜んでいるよ。この間と昨日と二度電話をかけてね。君ん処(とこ)は非常に居心地がよくて働き甲斐(がい)があるってね。そう言うんだ。ウンウン。妻も聞いて喜んでいるんだ。何しろ娘みたいに可愛がっていたんだからね。ウンウン。看護婦になるって青森県を飛出したところなんかは少々馬鹿かも知れないがね。看護婦に生まれ付いているのだろう。仕事は実に申し分ないんだ。僕が保証するよ。可愛がってくれ給え。ハハハ。イヤ久し振りに君に会ってみたいんだ。どうだい。相変らず飲めるかね。ウン結構結構。……ところで君は在京の耳鼻咽喉科の医者連中がやっている庚戌会(こうぼくかい)って言うのを知っているかね。それだ。ウンウン。九州にいる時分に聞いていた。明治四十三年の庚戌の年に出来た会……ウン。それだ、ナアニ。毎月一回ずつ三日か四日の日に、みんなが寄って旧交を温めたり、不平を言い合ったりして飲んだくれる会さ。ステキに朗らかな会なんだ。それが来月は三日にきまったからね。場所は丸の内倶楽部……午後六時からなんだが、君やって来ないか。会費なんかその時次第だがイクラもかからない。ウン是非来てくれ給え。ウンウン。アハアハ。まだお眼にブラ下らないが奥さんにもよろしく……」
 と言ううちに時間が切れてしまった。私が受話器をかけると直ぐ横に彼女が立っていて、可愛らしく小首を傾(かし)げながら、
 「まあ。断(き)っておしまいになったの。あたしからもお話したかったのに……でも、どんなお話でしたの……」
 と心配らしく眼を光らしているのであった。
 「ウン。驚いたよ。恐ろしくザックバランな先生だね。少々巻舌じゃないか」
 「……でしょうね。そりゃあ面白い方よ」
 それから電話の内容を話して聞かせると、如何にも安心したらしく、さも嬉し気にピョンピョン跳ねて廊下を飛んで行くのであった。
 「ホントに白鷹先生ったらスッキリした、いい方だったわ。親切な方……妾大好き……」
 なぞと感激に満ち満ちた、軽い独言(ひとりごと)を言いながら……すこしの不自然もなく私に聞こえよがしに言いながら……。
 ところが、それから二日目の朝、私が出勤すると間もなく、平生(いつ)になく不機嫌な顔をした彼女が、揉(も)みくしゃにした便箋を手に握りながら、妙に身体をくねらして私の前に立った。可愛い下唇を反(そ)らして言うのであった。
 「ほんとに仕様のない。白鷹先生ったら。仕事となると夢中よ」
 「どうしたんだい。独りでプンプンして……」
 「いいえね。昨夜の事なんですの。白鷹先生から妾へ宛ててコンナ速達のお手紙が来たんですの。きょうの午後に平塚の患者を見舞いに行くんだが、帰りが遅くなるかも知れない。だから庚戌会へも行けないかも知れない。お前から臼杵先生によろしく申し上げてくれって言うお手紙なんですの。ほんとに白鷹先生ったら仕様のない。稼ぐ事ばっかし夢中になって……キット平塚の何とか言う銀行屋さんの処ですよ。お友達と下手糞(へたくそ)の義太夫の会を開くたんびに、白鷹先生を呼ぶんですから、それが見栄なんですよ。つまらない……」
 「アハハ。そう悪く言うもんじゃないよ。そんな健康な、金持の患者が殖(ふ)えなくちゃ困るんだ。耳鼻科の医者は……」
 「だって久し振りに先生と会うお約束をしていらっしゃるのに……」
 「ナアニ。会おうと思えばいつでも会えるさ」
 「……だって」
 と口籠りながら彼女は如何にも不平そうな青白い眼付で、私の顔を見上げた。……が……この時に私がモウ少し注意深く観察していたら、彼女のそうした不安さが尋常一様のものでなかった事を容易に看破し得たであろう。「会おうと思えばいつでも会える」と言った私の言葉が、彼女にドレ程の深刻な不安を与えたか……彼女をドンナに恐ろしい脅迫観念の無間地獄に突き落したかを、その時に察し得たであろう。……自分の実家の裕福な事を如実に証明し、同時に、自分の看護婦としての信用が如何に高いものが在るかをK大助教授、白鷹先生の名によって立証すべく苦心していた彼女……かの「謎の女」の新聞記事によって、この時すでに社会的の破滅に脅威されかけている彼女自身の自己意識を満足させると同時に、彼女自身だけしか知らない驚くべき謎に包まれている彼女の過去を、完全に偽装(カモフラージュ)しようと試みていた彼女の必死的努力は、本物の白鷹先生と私とが直接に面会する事によってアトカタもなく粉砕される事になるではないか。彼女は、彼女自身に作り上げている虚構(うそ)の天国の夢をタタキ破られて、再び人生の冷たい舗道の上に放逐されなければならなくなるではないか。こうした女性に取って、そうした幻滅的な出来事が、死刑の宣告以上に怖ろしいものである事は現代の婦人の……特に少女の心理を理解する人々の容易に首肯(しゅこう)し得るところであろう。
 事実、こうした破局に対する彼女の予防手段は、それが後、真に死物狂い式なものがあった。「厘毫の間違いが地獄、極楽の分れ目」という坊主の説教をそのままに、彼女は自分自身を陥れる、身の毛の辣立(よだ)つ地獄絵巻を、彼女自身に繰り拡げて行ったのであった。

 その九月も過ぎて、十月に入った二日の朝、彼女はまたも病院の廊下でプリンプリンと憤った態度をして私の前に立った。
 「どうしたんだい。一体……また、機械屋の小僧と喧嘩でもしたのかい」
 「いいえ。だって先生。明日は十月の三日でしょう」
 「馬鹿だな。十月の三日が気に入らないのかい」
 「ええ。だって毎月三日が庚戌会の期日じゃございません」
 「あ……そうだっけなあ。忘れていたよ」
 「まあ。そんなところまで白鷹先生とそっくり。先生は庚戌会へお出でになりませんの」
 「ウン。白鷹先生が行くんなら僕も行くよ」
 「この間お約束なすったんじゃございません」
 「イイヤ。約束なんかした記憶(おぼえ)はないよ」
 「まあ。そんならいいんですけど……」
 「どうしたんだい」
 「ツイ今しがた、白鷹先生からお電話が来ましたのよ。臼杵先生はまだ病院にいらっしゃらないのかって……」
 「オソキ病院のオソキ先生ですってそう言ったかい」
 「まあ。どうかと思いますわ。いつも午前十時頃しかいらっしゃいませんって申しましたら、きょうは風邪を引いて寝ちゃったから、庚戌会へは失敬するかも知れないって仰言るんですね。妾キッと先生とお約束なすってたのに違いないと思って腹が立ったんですよ。何とかして会って下さればいいのに……」
 「そりゃあ会おうと思えば訳はないよ。しかし妙に廻り合わせが悪いね」
 「ホントに意地の悪い。きょうに限って風邪をお引きになるなんて……妾、電話で奥さんに文句言っときますわ」
 「余計な事を言うなよ。それよりも、今から妾がお勧めして臼杵先生をお見舞いに差し出そうかと思いますけど、友喰いになる虞(おそれ)がありますから、失礼させますって、そう言っとき給え」
 「ホホホホ。またあんな事。それこそ余計な事ですわ」
 「ナアニ。そんな風に言うのが新式のユーモア社交術って言うんだ。奥さんにも宜しくってね」
 こんな訳で白鷹先生に非ざる白鷹先生に対する私の家族の感じは、姫草ユリ子を仲介として日に増し親密の度を加えて来た。のみならず、ちょうど私が箱根のアシノコ・ホテルに外人を診察に行く約束をした日の早朝に白鷹氏……否、白鷹先生ならぬ白鷹先生から電話がかかって、
 「この間はすまなかった。いつも間が悪くて君に会う機会がない。きょうは歌舞伎座の切符が二枚手に入ったから一緒に見に行かないか。午後一時の開場だから十時頃の電車で銀座あたりへ来てくれるといい。君の知っているカフェーかレストランがあるだろう」
 という話だったが、生憎(あいにく)、私が行けないと姫草が言ったとかで、あとから歌舞伎座の番組と一緒に妻と子供へと言って風月(ふうげつ)のカステラを送って来たりした。しかもその小包に添えた手紙を見ると紛(まぎ)れもない男のペン字で、相当の学力を持ったインテリ式の文句であった。だからこちらでも非常に恐縮して、折よく故郷から送って来た鶏卵素麺(けいらんそうめん)に「今度の庚戌会へは是非とも出席します」と言う意味の手紙を添えて、下六番町の白鷹先生宛に送り出したが、それは何処へ届いたやら、あるいは横浜の臼杵病院を一歩も出なかったかも知れないと思う。その手紙や小包を渡して、送り出すように命じたのが、外(ほか)ならぬ姫草ユリ子だったから……。
 ところが、それから十一月の初旬に入ると、彼女はまたも大変な失策を演じた。もちろん、それは彼女自身から見ると、いかにも巧妙な、水も洩(も)らさぬ筋書に見えたのであろうが、それがアンマリ巧妙過ぎたために、おぞましくも私等一家から、彼女自身の正体を見破られる破目に陥ったのであった。
 私の日記を翻して見ると、それはやはり十一月の三日、明治節の日であった。彼女が事を起すのは、いつも月末から初旬へかけた数日のうちで、殊に白鷹先生から電話がかかったり、手紙が来たりするのは大抵三日か四日頃にきまっているのであった。そこにこの「謎の女」の神秘さがあった事を神様以外の何人が察し得たであろう……。

 その十一月の三日のこと。シトシト雨の降り出した午前十時頃、私が病院に出勤すると、玄関の扉(ドア)の音を聞くや否や、彼女が薬局から飛び出して、私の胸に飛び付きそうに走りかかって来た。唇の色まで変ったヒステリーじみた表情をしていた。
 「まあ先生。どうしましょう。タッタ今電話がかかって来たのです。白鷹先生の奥さんが三越のお玄関で卒倒なすったんですって。そうして鼻血が止まらなくなって、今お自宅(うち)で介抱を受けていらっしゃるんですって……」
 「そりゃあ、いけないねえ。何時頃なんだい」
 「今朝、九時頃って言うお話ですの……」
 「ふうん。それにしちゃ馬鹿に電話が早いじゃないか。何だって俺んとこへ、そんなに早く知らせたんだろう」
 「だって先生。この間のお手紙に、今度の庚戌会で是非会うって、お約束なすったでしょう」
 「ウン。あの手紙を見たのかい」
 「あら。見やしませんわ。ですけどね。今度の庚戌会は大会なんでしょう。明治節ですから……」
 「ふうん。僕は知らなかったよ」
 「あら。この間、案内状が来てたじゃございません」
 「知らないよ。見なかったよ。どんな内容だい」
 「何でもね。今度の庚戌会は、ちょうど明治節だから久し振りの大会にするから東京市外の病院の方々も参加を申し込んで頂きたいって書いてありましたわ。あの案内状どこへ行ったんでしょう」
 「ふうん。そいつは面白そうだね。会費はイクラだい」
 「たしか十円と思いましたが……」
 「高価(たけ)えなあ」
 「オホホ。でも幹事の白鷹先生から、臼杵先生に是非御出席下さいってペン字で添書がして在りましたわ」
 「ふうん。行ってみるかな」
 「あたし、先生がキットいらっしゃると思いましたからね。それから後お電話で白鷹先生に、今度こそ間違ってはいけませんよって念を押したら、ウン。臼杵君からも手紙が来た。おまけに幹事を引き受けたんだから今度こそは金輪際(こんりんざい)、ドンナ事があっても行くって仰言ったんですの。そうしたらまたきょうの騒ぎでしょう。あたし口惜(くや)しくて口惜しくて……」
 「馬鹿、そんな事を口惜しがる奴があるか。何にしてもお気の毒な事だ。いい序(ついで)と言っちゃ悪いが、お見舞いに行って来て遣(や)ろう」
 「まあ先生。今から直ぐに……?」
 「うん。直ぐにでもいいが……」
 「でも先生。アデノイドの新患者が三人も来ているんですよ」
 「フーム。どうしてわかるんだい。鼻咽腔肥大(アデノイド)ってことが……」
 「ホホ。あたし、ちょっと先生の真似をしてみたんですの。患者さんの訴えを聞いてから、口を開けさせてチョット鼻の奥の方へ指先を当ててみると直ぐに肥大(アデノイド)が指に触るんですもの」
 「馬鹿……余計な真似をするんじゃない」
 「……でも患者さんが手術の事を心配してアンマリくどくど聞くもんですから……そうしたら三人目の一番小ちゃい子供の肥大(アデノイド)に指が触ったと思ったら突然(いきなり)、喰付かれたんですの……コンナニ……」
 と付根の処を繃帯した左手の中指を出して見せた。
 「……見ろ。これからソンナ出裟婆(でしゃば)った真似をするんじゃないよ」
 と戒(いまし)めてから私は平常の通り診察にかかったが、彼女は別にお見舞に行こうとする私を強(し)いて止めようとする気色も見せなかった。
 しかし午後一時から三時までの私の休息時間が来て、程近い紅葉坂の自宅に帰ろうとすると、その玄関で彼女がまたも私の前に駈け寄りながらシオシオと頭を下げた。
 「先生。すみませんけど、きょうの午後から、ちょっとお暇を頂きたいんですの」
 「うん。きょうは手術がないから出てもいいが……何処へ行くんだい」
 「あの……白鷹先生の奥様の処へ、お見舞に行きたいんですの。どうしても一度お伺いしなければ……と思いますから……」
 「うん。そりゃあ丁度いい。僕も今夜あたり行こうと思っているんだから、そう言っといてくれ給え」
 「ありがとうございます。では行って参ります」
 「気を付けて行っといでよ。お天気もモウ上るだろう」
 彼女と私とがコンナ風にシンミリとした憂鬱な調子で言葉を交した事はこの時が初めてだったように思う。何となく虫が知らせたとでも言おうか。それともこの時すでに、白鷹先生の事に関して、絶体絶命の破局にグングン追い詰められつつ在る事を自覚し過ぎるくらい、自覚していた彼女自身の内心の遣(や)る瀬(せ)ない憂鬱さが、私の神経に感じたものかも知れないが……。

 いつもの通り病院を仕舞った私は、雨上りの黄色い夕陽(ゆうひ)の中を紅葉坂の自宅に帰って、夕食を仕舞った。その序に、白鷹夫人のきょうの出来事を比較的明るい気持で喋舌(しゃべ)っていると、そのうちに黙って給仕をしていた妻の松子がフイッと大変な事を言い出した。
 「ねえあなた。姫草さんの話は、あたし、どうも変だと思うのよ」
 「……フウン……ドウ変なんだい」
 「あたしこの間からそう思っていたのよ。姫草さんが紹介した白鷹先生に、貴方がどうしてもお眼にかかれないのが、変で変で仕様がなかったのよ」
 「ナアニ。廻り合わせが悪かったんだよ」
 「いいえ。それが変なのよ。だって、あんまり廻り合わせが悪過ぎるじゃないの。あたし何だか姫草さんが細工して、会わせまい会わせまいと巧謀(たくら)んでいるような気がするの」
 「ハハハ。『どうしても会えない人間』なんて確かにお前(まい)の趣味だね。探偵小説、探偵小説……」
 ことわって置くが妻の松子は、女学校時代から「怪奇趣味」とか言う探偵趣味雑誌の耽読者で、その雑誌にカブレているせいか、頭の作用が普通の女と違っていた。麻雀(マージャン)の聴牌(てんぱい)を当てるぐらいの事はお茶の子サイサイで、職業紹介欄の三行広告のインチキを閑暇(ひま)に明かして探り出す。または電車の中で見た婦人の服装から、その婦人の収入と不釣合な生活程度を批判する……と言ったような一種の悪趣味の持主であった。だから吾が妻ながら時折は薄気味の悪い事や、うるさい事もないではなかったが、しかし、そうした妻の頭の作用(はたらき)に就いて私が内心些(すく)なからず鬼胎(おそれ)を抱(いだ)いていた事は事実であった。
 だからこの時も姫草看護婦に対する疑いを、普通一般の嫉妬(やきもち)と混同するような気は毛頭起らなかった。また彼女の変痴気趣味が出たな……ぐらいにしか考えなかったが、それでも、そうした彼女の姫草ユリ子に対する疑いが、何かしら容易ならぬ大事件になりそうな予感だけはハッキリと感じたから、念には念を入れるつもりで私は、彼女の考えを一応、検討してみる気になった。
 「白鷹先生に、どうしても俺が会えないのが不思議と言えば不思議だが、論より証拠だ。今夜はこれから出かけて行って、是が非でも会って来るつもりだから、いいじゃないか」
 「ええ。……でもお会いになったら……何だか大変な間違いが起りそうな気がして仕様がないのよ……あたし……」
 「アハハ。二人が出会ったとたんにボイインと爆弾でも破裂するのかい」
 「ええ。そう言ったような予感がするのよ。幾度タタイても爆発しなかった分捕の砲弾が、チョイと転がったハズミに爆発して、何もかもメチャメチャになった新聞記事があったでしょ。今度の事もソレに似てるじゃないの。何だか妾、胸がドキドキするわ」
 「アハアハ。イヨイヨ以て怪奇趣味だ。しかも漫画趣味だよ。アダムスンか何かの……」
 「オホホ。もっとすごい感じよ」
 「アハハ。悪趣味だね。それでも今日会えなかったら一体どうなるんだい話は……」
 「いいえ。妾、今夜こそキット貴方が白鷹先生にお会いになれると思うのよ。そうしたら何もかもわかると思うのよ」
 「名探偵だね。どうして会えるんだい」
 「今夜の庚戌会は何処であるんでしょう」
 「やはり丸の内倶楽部さ」
 「今からそこへお出でになったらキット白鷹先生が来ていらっしゃると思うのよ」
 「馬鹿な。奥さんが病気なのに来るもんか」
 「プッ。馬鹿ね貴方。まだ信じていらっしゃるの。白鷹の奥さんの卒倒騒ぎを……」
 「信じているともさ……だからお見舞に行くんじゃないか」
 「お見舞に行くのを止して頂戴……そうして知らん顔して庚戌会へ出席して御覧なさいって言うのよ。キットほんとの白鷹先生がいらっしゃるから……」
 「……ほんとの白鷹先生。ふうん。つまり、それじゃ今迄の白鷹先生は、姫草ユリ子の創作した影人形だって言うんだね」
 「ええそうよ。何だかそんな気がして仕様がないのよ。あの娘(こ)の実家が裕福だって言うのも、当てにならない気がするし、年齢(とし)が十九だって言うのも出鱈目(でたらめ)じゃないかと思うの……」
 「驚いた。どうしてわかるんだい」
 「あたし……あの娘が病院の廊下に立ち佇まって、何かしらションボリと考え込んでいる横顔を、この間、薬局の窓からジイッと見ていた事があるのよ。そうしたら眼尻と腮(あご)の処へ小さな皺(しわ)が一パイに出ていてね。どうしても二十五、六の年増(としま)としか見えなかったのよ」
 「ふうん。何だか話がモノスゴクなって来たね。姫草ユリ子の正体がダンダン消え失せて行くじゃないか。幽霊みたいに……」
 「そればかりじゃないのよ。その横顔をタッタ一目見ただけで、ヒドク貧乏臭い、ミジメな家の娘の風付きに見えたのよ。お婆さんじみた猫背の恰好になってね。コンナ風に……」
 「怪談怪談。妖怪(おばけ)エー……キャアッと来そうだね」
 「冷やかしちゃ嫌。真剣の話よ。つまり平常(いつも)はお化粧と気持で誤魔化(ごまか)して若々しく、無邪気に見せているんでしょうけど、誰も見ていないと思って考え込んでいる時には、スッカリ気が抜けているから、そんな風に本性があらわれているんじゃないかと思うのよ」
 「ウップ。大変な名探偵が現われて来やがった。お前、探偵小説家になれよ。キット成功する」
 「まあ。あたし真剣に言ってんのよ。自烈(じれっ)たい。本当にあの人、気味が悪いのよ」
 「そう言うお前の方がヨッポド気味が悪いや」
 「憎らしい。知らない」
 「もうすこし常識的に考えたらどうだい。第一、あの娘(こ)がだね。姫草ユリ子が、何の必要があってソンナ骨の折れる虚構(うそ)を巧謀(たくら)むのか、その理由が判明(わか)らんじゃないか。今までに持ち込んで来たお土産の分量だって、生優しい金高じゃないんだからね。おまけにおりもしないモウ一人の白鷹先生を創作して、電話をかけさせたり、歌舞伎に案内させたり、カステラを送らせたり、風邪を引かしたり、平塚に往診さしたり、奥さんを三越の玄関で引っくり返らしたりなんかして……作り事にしては相当骨が折れるぜ。況(いわ)んや俺たちをコンナにまで欺瞞(だま)す気苦労と言ったら、考えるだけでもゾッとするじゃないか」
 「……あたし……それは、みんなあの娘(こ)の虚栄だと思うわ。そんな人の気持、あたし理解(わか)ると思うわ」
 「ウップ。怪しい結論だね。恐ろしく無駄骨の折れる虚栄じゃないか」
 「ええ。それがね。あの人は地道に行きたい行きたい。みんなに信用されていたいいたいと、思い詰めているのがあの娘(ひと)の虚栄なんですからね。そのために虚構(うそ)を吐(つ)くんですよ」
 「それが第一おかしいじゃないか。第一、そんなにまでしてこちらの信用を博する必要が何処に在るんだい。看護婦としての手腕はチャント認められているんだし、実家(うち)が裕福だろうが貧乏だろうが看護婦としての資格や信用には無関係だろう。それくらいの事がわからない馬鹿じゃ、姫草はないと思うんだが」
 「ええ。そりゃあ解ってるわ。たとえドンナ女(ひと)だっても現在ウチの病院の大切なマスコットなんですから、疑ったり何かしちゃすまないと思うんですけど……ですけど毎月二日か三日頃になると印形(ハンコ)で捺(お)したように白鷹先生の話が出て来るじゃないの。おかしいわ……」
 「そりゃあ庚戌会がその頃にあるからさ」
 「でも……やっぱりおかしいわ。それがキット会えないお話じゃないの……オホホ……」
 「だから言ってるじゃないか。廻り合わせが悪いんだって……」
 「だからさ。それが変だって言ってるんじゃないの。廻り合わせが悪すぎて何だか神秘的じゃないの」
 「止せ止せ。下らない。お前と議論すると話がいつでも堂々めぐりになるんだ。神秘も糞もあるもんか。白鷹君に会えばわかるんだ。……茶をくれ……」
 私は黙って夕食の箸を置いて新調のフロックと着換えた。誰しも疑わない姫草ユリ子の正体をここまで疑って来た妻のアタマを小五月蠅(こうるさ)く思いながら……。
 「とにかく今夜は是非とも白鷹君に会ってみよう。石を起し瓦をめくってもか。ハハハ。エライ事に相成っちゃったナ……」

 桜木町から二円を奮発した私が、内幸町の丸の内倶楽部へタクシーを乗り付けたのが午後の八時半頃であったろうか。実は女風情の言う通りになるのがこの際、少々業腹(ごうはら)ではあったが、自動車に乗り込むと同時に気が変って、狭苦しい迷宮じみた下六番町あたりの暗闇を自動車でマゴマゴするよりも、解り易い丸の内倶楽部へアッサリと乗付けたい気持になったからであった。
 倶楽部の玄関で給仕に聞いてみると、
 「庚戌会は今晩でございます。七時頃から皆さんお揃いで、モウかなりプログラムが進行しております」
 という返事であった。
 私は黙って、その給仕に案内されて広やかなコルク張の階段を昇って行ったが、登って行くにつれて、階中に満ち満ちている高潮したレコードと舞踏のザワメキに気が付いた。
 私はダンスは新米ではあるが自信は相当ある。ジャズ、タンゴ、狐足(フォクストロット)、靴拭(チャルストン)、ワンステップ、何でも御座れの横浜仕込みだ。今やっているのはスパニッシュ・ワン・ステップのマルキナものらしいが、相当浮き浮きした上調子なもので、階段を上って行くうちに給仕の肩に手をかけたくなるような魅惑を感じた。
 どうも驚いた。庚戌会と言えば謹厳な学術の報告会、兼、茶話会みたようなものと思ったが、なかなかどうしてエライ景気だわい。会費の十円の意味も読めるし、幹事の白鷹君の隅に置けない手腕のほども窺われる。こんな事なら鹿爪らしいフロック・コートなんか着て来るんじゃなかった……と思ううちに待合室みたような部屋へ案内された。見ると周囲(まわり)の壁から卓子(テーブル)の上、椅子、長椅子、小卓子(サイドテーブル)の上までも帽子と外套の堆[#底本では「推」となってるが、誤植と思われる]積で一パイである。かれこれ五、六十人分はあるだろう。大会だけによく集まったものだ。
 「ここでちょっとお待ちを願います。今お呼びして参りますから……」
 といううちに給仕は右手の扉(ドア)を押して会場に入った。トタンにジャズの音響が急に大きく高まって、会場の内部がチラリと見えたが、その盛況を見ると私はアット驚いた。
 扉の向うは恐ろしく広いホールで、天井一面に五色の泡(あわ)みたようなものがユラユラと霞んでいるのは、会員の手から逃出した風船玉であった。その下を渦巻く男女は皆タキシード、振袖、背広、舞踏服なんどの五色七彩で、女という女、男という男の背中からそれぞれに幾個かの風船玉が吊り上っている。その風船玉の波が、盛り上るような音楽のリズムに合わせて、不可思議な円型の虹のように、ゆるやかに躍り上り躍り上りホール一面に渦を巻いている。桃色と水色の明るい光線の中に……と思ううちに扉がピッタリと閉じられた。
 扉が閉じられると間もなくレコードの音(ね)が止んだ。それに連れて舞踏のザワメキが中絶して、シインとなったと思う間もなく、タッタ今閉まった扉が向側から開かれて、赤白ダンダラの三角の紙帽を冠ったタキシードが五、六人ドヤドヤと雪崩(なだ)れ込んで来て、私の眼の前の長椅子に重なり合って倒れかかった。襟飾(ネクタイ)の歪んだの……カフスのズッコケたの……鼻の横に薄赤い、わざとらしい口紅(ミスプリント)の在るもの……皆グデングデンに酔っ払っているらしく、私には眼もくれずに、長椅子の上に重なり合って、お互いに手足を投げかけ合った。
 「ああ……酔っ払ったぞ。おい……酔っ払ったぞ俺あ……」
 「ああ、愉快だなあ……素敵だなあ、今夜は……」
 「ウン。素敵だ……白鷹幹事の手腕恐るベしだ。素敵だ、素敵だ……ウン素敵だよ」
 「驚いたなあ。ダンス・ホールを三つも総上げにするなんて……白鷹君でなくちゃ出来ない芸当だぜ」
 「……白鷹君バンザアイ……」
 と一人が筒抜けの大きな声を出したが、その男が朦朧(もうろう)たる酔眼を瞭(みは)って、両手を高く揚げながら立ち上ろうとすると、真先に私のいるのに気が付いたと見えて、ビックリしたらしく尻餅を突いた。尻の下に敷かれた友人の頭が虚空を掴んでいるのを構わずに、両手で膝頭を突張って、真赤なトロンとした瞳(め)で私のフロック姿を見上げ見下していたが、忽(たちま)ちニヤリと笑いながら唇を舐(な)めまわした。
 「ヘヘッ……手品が来やがった」
 「何だあ。手品だあ。何処でやってんだ」
 「それ。そこに立ってるじゃないか」
 「何だあ。貴様が手品屋か。最早(もう)、遅いぞオ。畜生。余興はすんじゃったぞオ」
 私は急に不愉快になって逃げ出したくなった。相手の不謹慎が癪に障ったのじゃない。コンナ半間な服装で、こうした処へ飛び込んで来て、棒のように立辣(たちすく)んでいる私自身が情なくて、腹立たしくなって来たのだ。しかし折角ここまで来たものを白鷹氏に会わないまま帰るのも心残りという気もしていた。
 「オイ。出来たかい、フィアンセが……」
 「ウン。二、三人出来ちゃった」
 「二、三人……嘘つきやがれ」
 「このミス・プリントを見ろ」
 「イヨオオ。おごれ、おごれ」
 「まだまだ、明日になってみなくちゃ、わからねえ。フィアンセがアホイワンセになるかも知れねえ」
 「アハハハ。ちげえねえ。解消ガールって奴がいるかんな。タキシの中で解消するってんだかんな。タキシはよいかってんで……」
 「始めやがった。モウ担(かつ)がれねえぞ」
 「ハアアア……アアア……何のかんのと言うてはみてもオ……抱いてみなけりゃあエエ……アハハ。何とか言わねえか……」
 「エエイ。近代魔術はタンバリン・キャビネット応用……タキシー進行中解消の一幕。この儀お眼に止まりますれば次なる芸当……まあずは太夫、幕下までは控えさせられまあす」
 「いよオオ——オオ(拍手)どうだいフロックの先生。雇ってくんないかい」
 私はいよいよ逃腰になってしまったが、その時に向うの扉が静かに開いたので、もしやと思って固くなっていると、最前の給仕を先に立てて、私と同じくらいに固くなった一人の紳士が入って来た。それは本格の舞踏服に白チョッキを着込んだヒョロ長い中年紳士であったが、赤白ダンダラの三角帽を右手に持って、左の掌に載[#底本では「戴」、53-9]せた名刺を、私の顔と見比べ見比べ、私の前に立ち止まると、青白い憂鬱な顔をしてジイッと見下した。
 酔っ払った長椅子の連中がシインとなった。めいめいに好奇の眼を光らして相手の紳士と、私の顔を見比べ始めた。
 私は九州帝国大学在学当時の白鷹氏の写真を一葉持っている。九大耳鼻科部長、K博士を中心にした医局全員のものである。それを白鷹氏の話が出るたんびに妻や姉に見せて、その時代の事を追懐したものであった。
 だから私はこの時に、この紳士は白鷹先生である事を直ぐに認める事が出来た。そうして長い年月の間どうしても会えなかった同氏に、かくも容易(たやす)く会えた事を、衷心から喜んでホッとした。

 私はとりあえず眼の前の白鷹先生の前額から後頭部へかけて些なからず禿(は)げていられるのに驚いた。今更に今昔の感に打たれたが、しかし姫草看護婦から聞いた印象によって、白鷹先生が非常に磊落(らいらく)な、諧謔(かいぎゃく)的な人だと信じ切っていたので、イキナリ頭を一つ下げた。
 「ヤア。白鷹先生じゃありませんか。僕は臼杵です。先日はどうもありがとうございました」
 と笑いかけながら一、二歩近寄った。言い知れぬ懐かしさと、助かったという思いを胸に渦巻かせながら……。
 ところが私はその次の瞬間に面喰らわざるを得なかった。非常に不愉快な、苦々しい表情をしいしい、微かに礼を返した白鷹先生の、謹厳この上もない無言の態度と、数歩を隔てて真正面に向い合った私は、ものの二、三分間も棒を呑んだように固くなって、突立っていなければならなかった。多分白鷹氏は、こうした私の面会ぶりがあまりにも突然で狃(な)れ狃れしいのに驚いて、面喰っておられた事と思う。況(いわ)んや久しく物も言った事のない人間にイキナリ「先日はありがとう」なぞと言いかけられたら誰だって一応は警戒するにきまっている。ことによると物慣れた氏が、幹事役だけに私を、こうしたダンス宴会荒しの所謂(いわゆる)フロック・ギャングと間違えられたものかも知れないが、その辺の消息は明らかでない。とにも角にもこうして二、三分間睨(にら)み合ったまま立ち辣(すく)んでいるうちに、私はとうとう堪えられなくなって次の言葉を発した。
 「どうも……何度も何度もお眼にかかり損ねまして……やっとお眼にかかれて安心しました」
 こうした私の二度目の挨拶は、だいぶ固苦しい外交辞令に近づいていたように思うが、しかし白鷹氏は依然として私を見据(みす)えたまま、両手をポケットに突込んでいた。エタイのわからぬ人間に口を利くのは危険だと感じているかのように……。
 こうしてまたも十秒ばかりの沈黙が続くうちにまたも、広間(ホール)の方向で浮き上るようなツウ・ステップのレコードがワアア——ンンと鳴り出した。
 私の腋の下から氷のような冷汗がタラタラと滴(したた)った。私はまたも、たまらなくなって唇を動かした。
 「ところで……奥さんの御病気は如何(いかが)です」
 「……エ……」
 この時の白鷹氏の驚愕(きょうがく)の表情を見た瞬間に、私は最早(もう)、万事休すと思った。
 「妻(かない)が……久美子が……どうかしたんですか」
 「ええ。三越のお玄関で卒倒なすったそうで……」
 「ええッ。いつ頃ですか」
 「……今朝の……九時頃……」
 ドット言う哄笑(こうしょう)が爆発した。長椅子に腰をかけて耳を澄ましていたタキシード連が、腹を抱(かか)えて転がり始めた。笑いを誇張し過ぎて床の上にズリ落ちた者も在った。
 私は極度の狼狽(ろうばい)に陥った。失敬な連中……と思いながら私は、矢庭にその連中の顔を睨み付けたが、これは睨んだ方が無理であったろう。
 そのうちに血色を恢復した白鷹氏の唇が静かに動き出した。
 「おかしいですね。妻は……久美子は今朝から教会の会報を書くのだと言って何処へも行きません。無事に自宅(うち)におりましたが」
 「ヘエッ……嘘なんですか。それじゃ……」
 「……嘘? ……僕は……僕はまだ、何も言いませんが君に……初めてお眼にかかったんですが……」
 またドッと起る爆笑……。
 「……姫草ユリ子の奴……畜生……」
 白鷹氏は突然に眼を剥(む)き出して、半歩ほど背後(うしろ)によろめいた。……が直ぐに踏止まって、以前の謹厳な態度を取り返した。心配そうに息を切らしながら、私の顔を覗き込むようにした。
 「……姫草……姫草ユリ子がまた……何か、やりましたか」
 「……エッ……」
 私は狼狽に狼狽を重ねるばかりであった。
 「……また、何か……と仰言るんですか先生。先生は前からあの女……ユリ子を御存じなのですか」
 私は思わず発したこの質問が、如何に前後撞着した、トンチンカンなものであったかを気付くと同時に、自分の膝頭がガクガクと鳴るのをハッキリと感じた。……助けてくれ……と叫び出したい気持で、白鷹氏の次の言葉を待った。
 その時に最前のとは違った給仕が一人、階段を駆け上って来る音がした。
 「横浜の臼杵先生がお出でになりますか」
 「僕だ、僕だ……」
 私はホッとしながら振り向いた。
 「お電話です。民友会本部から……」
 「民友会本部……何と言う人だ」
 「どなたかわかりませんが、横浜からお出でになった代議士の方が、本部で卒倒されまして、鼻血が出て止まりませんので……すぐに先生にお出でが願いたいと……」
 「待ってくれ……相手の声は男か女か……」
 「御婦人の声で……お若い……」
 給仕は何かしらニヤニヤと笑った。
 「……馬鹿な……名前も言わない人に診察に行けるか。名前を聞いて来い。そうして名刺を持った人に迎えに来いと言え」
 これは私のテレ隠しの大見得と、同席の諸君に解せられたに違いないと思うが、その実、あの時の私の心境は、そんなノンビリした沙汰ではなかった。……卒倒して鼻血……という言葉がアタマにピンと来た私は、すぐに今朝ほどの白鷹婦人に関する彼女の報道を思い出したのであった。
 彼女……姫草ユリ子は、鼻血が出て止まらない場合に、耳鼻科の医師が如何に狼狽し、心配するかを、何処かで実地に見て知っていたに違いない。だから私が裏切り的に庚戌会に出席した事を、電話か何かで探り知った彼女は、狼狽の余り、おなじ日に、おなじ種類の患者を二度も私にブツケルようなヘマな手段でもって、私と白鷹氏の会見を邪魔しようと試みたものであろう。絶体[#底本では「対」となっているが、誤記と思われる、58-6]絶命の一所懸命な気持から、果敢(はか)ない万一を期したものではあるまいか。もちろん偶然の一致という事も考えられない事はないが、彼女を疑うアタマになってみると断じて偶然の一致とは思えない。私は彼女……姫草ユリ子の不可思議な脳髄のカラクリ細工にマンマと首尾よく嵌(は)め込まれかけている私の立場を、この時にチラリと自覚したように思ったのであった。
 私は一生涯のうちにこの時ほど無意味な狼狽を重ねた事はない。
 私はそのまま列席の諸君と白鷹氏にアッサリと叩頭(おじぎ)しただけで、無言のままサッサと部屋を出た。またも湧き起る爆笑と、続いて起るゲラゲラ笑いとを、華やかに渦巻くジャズの旋律と一緒にフロックの背中に受け流しながら、愴惶(そうこう)として階段を駈け降りた。通りがかりのタキシーを拾って東京駅に走りつけた。そうして気を落ち着けるために、わざと二等の切符を買って、桜木町行きの電車に飛び乗った。何だか横浜の自宅に容易ならぬ事件でも起っているような気がして……妻(かない)が愛読している探偵小説の書き振りを見ても、留守宅に大事件が起るのは十中八、九コンナ場合に限っているのだから……と言ったような想像が、別段考えるでもないのにアトからアトから頭の中に湧き起って、たまらない焦燥と不安の中に私を逐い込んで行くのであった。あの時の私の脈膊(プルス)は、たしかに百以上を打っていたに違いない。
 けれどもそこで無人の二等車の柔らかいクッションの上にドッカリと腰を卸(おろ)して、ナナの煙を一ぷく吹き上げると間もなく、私の心境にまたも重大な変化が起った。窓越しに辷(すべ)って行く銀座の、美しい小雨の中のネオンサインを見流して行くうちに、現在、何が何だかわからないままに、無意味に、止め度もなく面喰らわされているに違いない私自身を、グングンと痛切に自覚し始めたのであった。
 ……俺はなぜアンナに慌(あわ)てて飛び出して来たのだろう。なぜ、もっと突込んで姫草の事を白鷹氏に尋ねてみなかったのだろう。白鷹氏は彼女の事に就いてモットモット詳しく知っているらしい口吻(くちぶり)であったのに……もう一度白鷹氏と会えるかどうか、わからなかったのに……と気が付いたのであった。[#ここから心の呟き、1字下げ]
 ……いずれにしても白鷹氏と姫草ユリ子とが全然、無関係でない事は確実(たしか)だ。私の知っている以外に姫草ユリ子は白鷹氏に就いて何事かを知り、白鷹氏も姫草ユリ子に就いては何事かを知っているはずなのに……。[#ここで心の呟き終わり]
 そう考えて来るうちに、私の頭の中にまたもかの丸の内倶楽部の広間(ホール)を渦巻く、燃え上るようなパソ・ドブルのマーチが漂い始めた。
 私はまたも彼女を信用する気になって来た。私は彼女がコンナにまで深刻な、根気強い虚構(うそ)を作って、私たちを陥れる必要が何処に在るのかイクラ考えても発見出来なかった。それよりも事によると私は、姫草ユリ子に一杯喰わされる前に、白鷹氏に一杯かつがれているのかも知れない……と気が付いたのであった。第一、この間、電話で聞いた白鷹氏の朗らかな音調と、今日会った白鷹氏のシャ嗄(が)れた、沈んだ声とは感じが全然違っていた事を思い出したのであった。[#ここから心の呟き、1字下げ]
 ……そうだ。白鷹氏は故意(わざ)と、あんなに冷厳な態度を執(と)って後輩の田舎者である俺を欺弄(かつ)いでおられるかも知れない。アトで大いに笑おうと言う心算(つもり)なのかも知れない。東京の庚戌会に出席して斯界(しかい)のチャキチャキの連中と交際し、連絡(わたり)を付けるのは地方開業医の名誉であり、且、大きな得策でもあり得るのだから、その意味に於て優越な立場にいる白鷹氏は、キット俺が出席するのを見越して、アンナ風に性格をカムフラージしていろいろな悪戯(いたずら)をしておられるのかも知れない。
 ……そうだそうだ。その方が可能性のある説明だ。それがマンマと首尾よく図に当ったので、あんなに皆して笑ったのかも知れない。 [#ここで心の呟き終わり]
 ……と……そんな事まで考えるようになったが、これは私が元来そう言った悪戯が大好きで、懲役に行かない程度の前科者であったところから、自分に引き較べて推量した事実に過ぎなかったであろう。同時にそこには姫草ユリ子から植え付けられた白鷹氏の性格に関する先入観念が、大きく影響していた事も自覚されるのであるが、とにもかくにも事実、そんな風にでも考えを付けて気を落ち着けて置かねば、すぐに、この上もなく非常識な、恐ろしい不安がコミ上げて来て、トテも凝然(じっ)として三十分間も電車に乗っておれない気がしたのであった。それでも電車がブンブン揺れながら、暗黒の平地を西へ西へと走るのがたまらなく恐ろしくなって、途中で飛び降りてみたくなったくらい私は、一種探偵小説的に不可解な、不安な昂奮の底流に囚われていたのであった。横浜へ帰ったら、私の家族と私の病院が、姫草ユリ子諸共(もろとも)に、何処かへ消え失せていはしまいか……と言ったような……。

 桜木町駅に着いたのは何時頃であったろうか。そこから程近い紅葉坂の自宅まで、何かしら胸を騒がせながら、雨上りの道を急いで行くと、突然に背後(うしろ)の橋の袂(たもと)の暗闇から、
 「……臼杵センセ……」
 と呼び掛ける悲し気な声が聞こえて来たので、私はちょうど予期していたかのようにギクンとして立ち佇まった。それは疑いもないユリ子の声であった。
 ユリ子は今日の午後、外出した時の通りの姿で、黒い男持の洋傘(こうもり)を持っており、夜目にも白い襟化粧をしていたが、気のせいか瞼の縁が黒くなっていたようであった。
 彼女は、その洋傘を拡げて、人目を忍ぶようにして私に寄り添った。そうして平常(いつも)の快闊さをアトカタもなくした陰気な、しかしハキハキした口調で問いかけた。
 「先生。庚戌会へお出でになりまして……?……」
 「ウン。行ったよ」
 「白鷹先生とお会いになりまして……?……」
 「……ウン……会ったよ」
 「白鷹先生お喜びになりまして……」
 「いいや。とてもブッキラ棒だったよ。変な人だね。あの先生は……」
 私は幾分、皮肉な語気でそう言ったつもりであったが、彼女はもうトックに私のこうした言葉を予期していたかのように、私の顔をチラリと見るなり、淋しそうな微笑を横頬に浮かめて見せながら点頭(うなず)いた。
 「ええ。キットそうだろうと思いましたわ。けれども先生……白鷹先生はホントウはアンナ方じゃないのですよ」
 「フーン。やっぱり快闊な男なのかい」
 「ええ。とっても面白いキサクな方……」
 「おかしいね。……じゃ……どうして僕に対してアンナ失敬な態度を執ったんだろう」
 「先生……あたしその事に就いて先生とお話したいために、きょう昼間からズットここに立って、先生のお帰りを待っておりましたのですよ。でも……お帰りが電車か自動車かわからなかったもんですからね」
 そう言ううちに彼女は二、三度、派手な縮緬(ちりめん)の袂を顔に当てたようであったが、それでも若い娘らしいキリッとした態度で、多少憤慨したらしい語気を混交(まじ)えながら、次のような驚くべき事実を語り出した。
 私はその時に彼女から聞いた白鷹先生の家庭に関する驚くべき秘密なるものを、ここに包まず書き止めて置く。これは決して白鷹先生の家庭の神聖を冒涜(ぼうとく)する意味ではない。私が同氏の人格をこの上もなく尊敬し、信頼している事実を告白するものである事を固く信じているからである。同時に姫草ユリ子の虚構(うそ)の天才が如何に驚くべく真に迫ったものがあるかを証明するに足るものがあると信ずるからである。普通人の普通の程度の虚構(うそ)では到底救い得ないであろうこうした惨憺たる破局的な場面を、咄嗟(とっさ)の間に閃いた彼女独特の天才的な虚構……十題話式の創作、脚色の技術を以て如何に鮮やかに、芸術的に収拾して行ったか。
 私は光と騒音の川のような十二時近くの桜木町の電車通りの歩道を、彼女と並んで歩きながら、彼女の語り続けて行く驚くべき真相……なるものに対して熱心に耳を傾けて行ったのであった。
 白鷹氏……きょう会った謹厳そのもののような白鷹氏は、K大耳鼻咽喉科に在職中、姫草ユリ子をこの上もなく珍重し、愛寵した。そうして宿直の夜になると、そうした白鷹氏の彼女に対する愛寵が度々、ある一線を超えようとするのであった。
 しかし無論、彼女はそれを喜ばなかった。
 彼女の念願は看護婦としての相当の地位と教養とを作り上げた上で、女医としての資格を得て、自分の信ずる紳士と結婚して、大東京のマン中で開業する……そうして相携(あいたずさ)えて晴れの故郷入りをする……と言う事を終生の目的としておったので、故なくして他人の玩弄(がんろう)となる事を極度に恐れた彼女は、遂に絶体絶命の意を決して、この事を直接に白鷹氏の令閨、久美子夫人に訴えたのであった。
 然るに久美子夫人は、彼女の想像した通り、世にも賢明、貞淑な女性であった。世の常の婦人ならばかような場合に、主人の罪は不問に付して、当の相手の無辜(むこ)の女性の存在を死ぬほど呪詛(のろ)い、憎悪(にく)しむものであるが、物わかりのよい……御主人の結局のためばかりを思っている久美子夫人は、彼女のこうした潔白な態度を非常に喜んだ。そうして彼女をこの上もなく慈(いつく)しんで、末永く自宅(うち)に置いて世話をして遣りたい。間違いのないようにという考えから、本年の二月以降、下六番町の自宅に、彼女を寝泊りさせるように取り計らったが、これに対してはさすがの白鷹氏も、一言の抗議さえ敢(あ)えてしなかったと言う。
 ところが久美子夫人の彼女に対するこうした好意が、端(はし)なくも彼女に職を失わせる原因となった。彼女の看護婦としての優秀な手腕をかねてから嫉視している上に、彼女のそうした過分の寵遇を寄ると触(さわ)ると妬(ねた)み、羨み始めた仲間の新旧の看護婦連中が、とうとう彼女を白鷹助教授の第二夫人と言ったような噂を捏造(ねつぞう)して、八釜(やかま)しく宣伝し始めたので、彼女は、久美子夫人に対して気の毒さの余り、身を退(ひ)く事をお願いすると、夫人も涙ながらに承知して、分に過ぎた心付を彼女に与えたので、ユリ子はさながらに姉と妹が生き別れをするような思いをして、下谷の伯母の宅(うち)に引き取る事になったという。それが本年の五月の初めで、それから方々職を探しているうちに臼杵病院へ落ち着いたのでホッと一息した……と言う彼女の告白であった。
 「……ですからこの間から白鷹先生が、どうしても臼杵先生にお会いにならない理由も、あたしにチャンとわかっておりましたわ。妾、きょう白鷹の奥さんにお眼にかかって、今までの気苦労を何もかもお話したのです。もしも臼杵先生と白鷹先生がスッカリ親友におなりになって、ソンナ事情がおわかりになった暁に、白鷹先生に気兼をなすった臼杵先生が、妾にお暇を下さるような事があったらどうしましょうってね……そうしたら奥様も涙をお流しになって、決して心配する事はない。これから先ドンナ事があっても臼杵先生の処を出てはなりません。そのうちに妾から臼杵先生によく頼んで上げますって言う、ありがたいお話でしたの……ですから妾、大喜びの大安心で横浜へ帰って来るには来たんですけど、きょう臼杵先生が白鷹先生にお会いになった時に、白鷹先生がドンナ態度をお執りになるか……如才ない方だから案外アッサリと御交際になるに違いないとは思うんですけど、またよく考えてみると、男の方ってものは、コンナ事にかけてはずいぶん思い切った卑怯な事をなさるものですから……まあ、御免遊ばせ。ホホ……そう思いますと、恐ろしくて恐ろしくて仕様がなくなって来たんですの。もしかすると白鷹先生は、今までの事を一つも知らないような顔をなすって、平常と違ったブッキラボーな初対面の態度で、臼杵先生を失望おさせになるかも知れない。そうして言わず語らずの間に妾の立場をないようになさるかも知れない。妾を根も葉もない虚構(うそ)吐き女のインチキ娘に見えるように、お仕向けになるかも知れない…と気が付きますと、いても立ってもおられなくなって、先生のお帰りをあすこで待っているよりほかに妾、仕様がなくなったんですの。
 ……ね……臼杵先生。先生が一番最初に白鷹先生に紹介してくれって仰言った時に、妾がスッカリ憂鬱になって、お断りしかけた事を記憶(おぼ)えてお出でになるでしょう。妾、あの時に何だかコンナ事が起りそうな気がして仕様がなかったもんですからアンナ風に躊躇したんですけど、大切な先生がアンナに熱心にお頼みになるもんですから、思い切って妾の事なんか構わないで、白鷹先生にお電話をかけたんですの。
 ……ねえ……臼杵先生。ですから白鷹先生が、どうしても貴方にお会いにならなかった理由(わけ)が、最早(もう)おわかりになったでしょう。白鷹先生は貴方が最早、妾から何もかもお聞きになっている事と思い込んでお出でになるもんですから、先生から顔を見られる事を、どうしてもお好みにならなかったんですよ。……ですから一度は是非とも会わなければならない。けれども会いたくない……と言ったような気持から、あんなような策略を何度も何度もお使いになったに違いないと思うんですの。あたし……白鷹先生の、そう言ったお気持がよくわかっていたもんですから……口惜(くや)しくって口惜しくって……。
 ……あたし……他家(よそ)のお家庭(うち)の秘密なんか無暗(むやみ)に喋舌る女じゃないのに……妾をドコまでもペシャンコのルンペンにして、世の中に浮かばれないようになさるなんて……先生のおためばっかり思って上げているのに……K大でアンナに一所懸命に働いて上げたのに……あんまり……あんまり……あんまりですわ……」
 彼女は路傍の砂利積に撒布(まい)た石灰の上に黒い洋傘(コーモリ)を投げ出して、両袂を顔に当てながら泣きジャクリ始めた。
 気が付いてみると私等二人は、いつの間にか紅葉坂の自宅の石段の下まで来て、向い合ったまま立っていた。折から通りがかりの労働者らしい者が二、三人、妙な眼付で振り返って行ったが、あの連中の眼には私等二人が何と見えたであろう。
 私はヤットの思いで彼女をなだめ賺(すか)して病院に帰らせた。しかしその時にドンナ言葉で彼女を慰めたか、全く記憶していない。万一記憶していたらドンナにか白鷹氏の憤慨に価する言い草ばかり並べていた事であろう。

 直ぐ横の石段を上って、露地の突き当りに在る自宅の玄関の古ぼけた格子扉を開いたトタンに、奥座敷のボンボン時計が一時を打った。二十分近く進んでいたにしても彼女との立ち話がずいぶん長かった事を思い出して、私は一人で赤面してしまった。そうして無事太平らしい家の中の気はいを察して、吾れ知らずホ——ッと胸を撫(な)で卸(おろ)した事であった。
 ところがその安心は要するに私の一時の糠(ぬか)喜びに過ぎなかった。電車の中で私が抱き続けて来た一種異様な鬼胎観念(しんぱい)は、やはり意外千万な意味で物の美事に的中していたのであった。
 心持ち昂奮気味で、慌しく私を出迎えた寝間着姿の姉と妻は、私の顔を見るや否や口を揃えて問いかけた。胸倉を取らんばかりに、
 「白鷹先生にお会いになって……」
 と左右から詰問するのであった。
 「ウン会ったよ」
 「姫草さんとは……」
 「今、そこまで話して来た」
 姉と妻とは顔を見合わせた。無言の二人の頬には、恐怖の色がアリアリと浮かんでいた。その顔を見ながら鼠の中折帽を脱(と)った瞬間に私は、探偵小説の深夜の一ページの中に立たされている私自身を発見したような鬼気に襲われたものであった。
 「姫草さんとドンナお話をなすったの」
 「ウム。まあお前達から話してみろ」
 「貴方から話して御覧なさいよ」
 「……馬鹿……おんなじ事じゃないか。話してみろ」
 「だって貴方……」
 「茶の間へ行こう。咽喉(のど)が乾いた」
 それから熱い番茶を飲みながら二人の女の話を聞いているうちに何と……今の今まで私の脳味噌の中に浮かみ現われていた奇妙な家庭悲劇の舞台面が、いつの間にかグルグルと一変してしまったのであった。
 私の留守中に、病気で寝ておられるはずの白鷹久美子夫人から、臼杵病院へ電話が掛ったのであった。それは約二時間前に私に面会した白鷹助教授が、すぐに下六番町の自宅へ電話をかけた結果であったらしく、非常に冷静な、同時にこの上もなく友誼的(ゆうぎてき)な口調で、白鷹夫人が私の一家に対して警告してくれたものであった。
 相手に出たのは妻の松子だったそうであるが、その時に白鷹夫人から聞いた事情なるものは、女の耳に取って真に肝も潰れるような事ばかりであったと言う。
 勿論、姫草ユリ子の言葉にも多少の真実性はあった。彼女は確かにK大耳鼻科にいた事のある姫草ユリ子と同一人には相違なかった。彼女の看護婦としての技術が、驚異に価すべくズバ抜けた天才的なものであった事も事実には相違なかったが、しかし、同時に、実に驚異に価するほどのズバ抜けた、天才的な虚構(うそ)の名人であった事も周知の事実であったと言うのである。
 すこし社会的に著名な人物なぞがK大の耳鼻科に入院すると、彼女、姫草ユリ子は彼女独特の敏捷(びんしょう)な外交手腕でもって他人を押し除けて看護の手を尽すのであった。そうしてそのような人々から一も姫草、二も姫草と言わせるように仕向けないでは措(お)かないのであった。その結果、どうして手に入れたものか、そのような患者から貰ったと言う貴重品なぞを、自慢そうに同輩に見せびらかす事が度々であったという。
 そればかりでない。彼女はそんな身分のある家族の方々のうちの誰かと婚約が出来た……なぞと平気で言い触らしたりなぞしているかと思うと、おしまいには、やはりズット以前に入院した事のある映画俳優か何かの胤(たね)を宿したから、堕胎しなければならぬ……と言ったような事を臆面もなく看護婦長に打ち明け(?)て、長い事病院を休む。そのほか医員の甲乙(たれかれ)と自分との関係を、自分の口から誠しやかに噂(うわさ)に立てる……と言った調子で、風儀を乱すことが甚しいので、とうとうK大耳鼻科長、大凪(おおなぎ)教授の好意によって諭示退職の処分をされる事になったという。
 しかし以前からメソジストの篤信者(とくしんじゃ)であった白鷹久美子夫人は、かねてから彼女のそうした悪癖に対して一種の同情を持っていた。そうして彼女の才能と行末を深く惜しんだものらしく、彼女が首になると同時に自宅に引き取って、あらん限りの骨を折って虚構(うそ)を吐(つ)かないように教育した。キリストの聖名(みな)によって彼女の悪癖を封じようと試みたものであった。
 ところが、それが彼女に取っては堪(た)まらなく窮屈なものであったらしい。とうとう無断で白鷹家を飛び出して行方を晦(くら)ましてしまったので、何処へ行ったものであろうと明け暮れ久美子夫人が気にかけているうちに突然、本年の六月の初め頃、ユリ子から電話が掛って来て、今は横浜の臼杵病院にいる。妾も、それから後、虚構を吐くのをピッタリと止めて、臼杵先生から信用されているから、以前の事は、どうぞ助けると思って秘密にして頂きたい……という極めてシオらしい話ぶりであったと言う。
 しかし彼女の性格を知り抜いている白鷹夫婦は容易に彼女の言葉を信じなかったばかりでなく、それ以来、一種形容の出来ない不安に包まれていた。またあの女が臼杵家に入り込んで、まことしやかな虚構を吐いて、臼杵家を攪乱(かくらん)しようと思っているに違いない。それにつれてK大や白鷹家の事に就いても、どんな出鱈目(でたらめ)を臼杵先生に信じさせているか解らない……という心配から、夫人が内々で妻の松子に宛てて、臼杵病院の所づけで度々、ユリ子の行状に関するさり気ない問合わせの手紙を出したそうであるが、それは多分、彼女が握り潰したものであろう、一度も返事が来なかった。
 白鷹夫人の心配は、そこでイヨイヨ昂(たか)まる事になった。これはもしかしたらあの嘘吐きの名人の言葉を真正面から信じ切っている臼杵家の連中が、白鷹家を軽蔑して全然、取り合わない事にキメているのではあるまいか。しかし、そうかと言って、あんまり執拗(しつこ)い、急迫した手段で、臼杵家に交際の手蔓(てづる)を求めるのも、こっちが狼狽しているようでおかしい……と言ったようないろいろな気兼(きがね)から、いよいよ形容の出来ない、馬鹿馬鹿しく不愉快な不安に陥って行った。殊に気の小さい、神経質な白鷹氏はユリ子の悪癖を極度に恐れているらしく、この頃では夫婦で寄ると触ると、そんな事ばかり話合っていたところへ、きょう主人が臼杵先生にお眼にかかってみると、どうも御様子が変テコだから一応、電話でお伺いしてみろ。臼杵先生は大変にソワソワして昂奮しておられるようだったが、何かまたあの女が余計な事を仕出かしたのかも知れないから、早く電話をかけといた方がいいだろう。ユリ子が取次に出るか出ないか……という主人の言葉だった……と言う久美子夫人の話で、聞いていた妻の松子は、電話口に立っておられないほど、赤面させられてしまったという。
 しかし、それでも妻の松子は、同時にタマラないほど不安な気持に包まれてしまったので、なおも勇を鼓(こ)して通話を伸ばして貰いながら、いろいろと久美子夫人に問い訊(ただ)してみると案の定……今日まで姫草ユリ子が言い立てて来た事は、一から十までと言っていいくらい、事実無根の事ばかりであった。白鷹先生の平塚往診の事実も、歌舞伎座見物の話も、当日の久美子夫人の三越の玄関での卒倒事件も、または姫草がお見舞いに伺ったという事実までも皆、彼女の驚くべき出鱈目と言う事実が判明したと言うのであった。
 私はその話を聞いているうちにグングンと高圧電気にかかって行くような感じがした。臼杵病院のマスコット。看護婦の天才。平和の鳩の生まれ変(かわり)かと思われる姫草ユリ子の純真無邪気な姿が、見る見るレントゲンにでもかけられたような灰色の醜い骸骨の姿に解消して行く光景を幻視した。同時にタッタ今、泣きながら暗闇の紅葉坂を病院の方へ降りて行ったユリ子の姿を、浮き上るようなスパニッシュ・ワンステップのリズムと一緒に思い出しつつ、私の顔を一心に凝視している姉と妻の青褪(ざ)めた顔を見比べながら、何とも言えない不可思議な恐怖の感じを、背筋一面に匐(は)いまわらせていた。
 その時にまたも新しい茶を入れた妻の松子が、話に段落でも付けるように、長い深いタメ息を一つ吐きながらコンナ奇妙な事を言い出した。
 「ねえ貴方。姫草って言う娘(こ)は何て不思議な娘でしょう。まったく掴ませられている事がハッキリわかっているのに妾、どうしてもあの娘を憎む気になれないのよ。白鷹の奥さんも、やっぱり妾たちとオンナジ気持で、あの娘をお可愛がりになったに違いない事が、今やっとわかったのよ。今の今までお姉さんと、その事ばっかり話していたとこなのよ」

 この言葉を聞いた時に私はヤット決心が付いた。彼女……姫草ユリ子の不可思議な、底の知れない魅力……今では私の姉や妻までもシッカリと包み込んでしまっている恐るべき魔力に気が付いたので、思わずホッと溜息を吐(つ)いた。……と同時に、その美しい霧か何ぞのように蔽(おお)いかぶさって来る彼女の魔力から逃れ出る一つの手段を思い付いたので……それは少々乱暴な、卑怯に類した手段ではあったが……姉にも妻にも故意(わざ)と一言も言わないまま立ち上って、今一度、玄関に出て帽子を冠(かむ)った。妙な顔をして見送る二人に何処へ行くとも言わないで靴を穿(は)いた。そのまま勢いよく紅葉坂の往来へ飛び出したが、何と言う恐ろしい事であろう。その時、坂の下一面に涯(は)てしもなく重なり合っている黒い屋根や、明滅する広告電燈や、その上に一パイに散らばっている青白い星の光までもが皆、彼女の吐き散らかした虚構(うそ)の残骸そのもののように思われるのであった。

 私は身ぶるいを一つしながら紅葉坂を馳け降りた。来合わせたタキシーを拾って神奈川県庁前の東都日報支局に横付けて、中学時代の同窓であった同支局主任の宇東(うとう)三五郎をタタキ起して、程近い鶏肉屋(とりや)の二階に上った。そこで「面白いネタになるかも知れないが」と言うのを切出しに、彼女に関する今までの事実を逐一、包まずに説明して、一体どうしたものだろうと宇東主任の意見を聞いてみた。
 自慢の船長髯(ひげ)をひねりひねり黙って聞いていた宇東三五郎は、やがて私の顔を見てニンガリと薄笑いをした。彼一流の率直な口調で質問した。
 「ふうん。そこで僕は君から一つ真実の告白を聞かせて貰わにゃならん」
 「何も告白する事はないよ。今の話の外には……」
 「ふうん。そんなら彼女と君との間には何の関係もないチュウのじゃな」
 「……馬鹿な……失敬な……俺がソンナ……」
 「わかった、わかった。それでわかったよ」
 宇東三五郎は突然マドロスパイプを差し上げて叫んだ。
 「わかった、わかった。赤たん赤たん」
 「えっ。赤たん……?……何だい赤たんて……」
 「赤チュウタラ赤たん。主義者(アカ)以外に、そんげな奇妙な活躍する人間はおらんがな。現在、そこいらで地下運動をやっとる赤の活動ぶりソックリたん。まだまだ恐ろしいインチキの天才ばっかりが今の赤には生き残っとるばんたん。そんげな女(おなご)をば養う置(と)くかぎり、今にとんでもない目に会うば……アンタ……」
 「うん。ヤッとわかった。その赤カンタン。しかし真逆(まさか)にあの娘が、そんな大それた……」
 「いかんいかん。それが不可(いか)んてや、そんげ風に思わせるところが、赤一流の手段の恐ろしいところばんたん。赤にきまっとる。赤たん赤たん。それ以外にソンゲな奇怪な行動をする必要がどこに在るかいな。その姫草ちゅう小娘は、君の病院を中心にして方々と連絡を保っとる有力な奴かも知れんてや」
 「ウ——ム。それはそう思えん事もないが、しかし僕の眼には、ソンナ気ぶりも見えないぜ」
 「見えちゃあタマランてや。君等のようなズブの素人に見えるくらいの奴なら、モウとっくの昔に揚げられてブランコ往生しとるてや」
 「フ——ム。そんなもんかなあ」
 「とにかくその娘ん子は吾々の手に合うシロモノじゃないわい。第一、今のような話の程度では新聞記事にもならんけにのう。今から直ぐに特高課長の自宅に行こう」
 「エッ。特高課長……」
 「ウン。しかし仕事は一切吾々に任せちくれんと不可(いか)んばい。悪うは計らわんけにのう」
 「何処だい特高課長は……遠いのかい」
 「知らんかアンタ」
 「知らんよ」
 「知らんて、君の自宅(うち)の隣家(となり)じゃないか」
 「エッ。隣家……」
 「うん。田宮ちゅう家がそうじゃ。迂闊(うかつ)やなあ君ちゅうたら……」
 「俺が赤じゃなし。気も付かなかったが……」
 「その何草とか言う小娘は、君の家よりもその隣家が目標で、君に近付きよるのかも知れんてや。それじゃから俺は感付いたんじゃが……」
 「成る程なあ。その田宮ちゅう男なら二、三度門口で挨拶した事がある。瓦斯(ガス)を引く時にね。人相の悪い巨(おお)きな男だろう」
 「ウン。それだ、それだ。知っとるならイヨイヨ好都合じゃ。直ぐに行こうで……チョット待て、支局から電話をかけて置こう」
 話はダンダンと急テンポになって来た。話のドン底が眼の前に近付いて来たようであるが、果してそのドン底から何が出て来るであろうか。
 私は何となく胸を轟かしながら宇東と一緒にタキシーに飛び乗った。

 田宮特高課長は、もうグッスリ眠っていたそうであるが、職掌柄、嫌な顔もせずに二階の客間で会ってくれた。
 長脇差の親分じみた、色の黒い、デップリとして貫禄のある田宮氏は、褞袍(どてら)のまま紫檀の机の前に端然と坐って、朝日を吸い吸い私の話を聞いてくれたが、聞き終ると腕を組んで、傍の宇東記者をかえり見た。つぶやくように言った。
 「赤じゃないかな」
 それを聞いた時、私はまたもドキンとさせられた。思わず膝を進めながら恐る恐る尋ねた。
 「赤としたらどうしたらいいでしょうか」
 田宮氏は冷然と眼を光らせた。
 「引っ括(くく)って見ましょうや」
 「……エッ……引っ括る……どうして……」
 「明朝……イヤ……今朝ですね。夜が明けたら直ぐに刑事を病院に伺わせますから、それまでその看護婦を逃がさないように願います」
 「そ……それはどうも困ります」
 と宇東三五郎が気を利かして慌ててくれた。
 「実はそこのところをお願いに参りましたので、臼杵君も開業※々(そうそう)赤の縄付を出したとあっては……」
 「アハハ。いかにも御尤(ごもっと)もですな。それじゃこう願えますまいか。明朝なるべく早くがいいですな。何かしら絶対に間違いのない用事をこしらえてその娘を外出させて下さいませんか。行先がわかっておれば尚更結構ですが」
 「……承知しました。それじゃこうしましょう。僕が南洋土産の巨大(おおき)な擬金剛石(アレキサンドリア)を一個(つ)持っております。姉も妻もアレキサンドリアが嫌いなので、始末に困っておるのですが、それをあの娘に与(や)って、直ぐに指環に仕立るように命じて伊勢崎町の松山宝石店に遣りましょう。遅くとも九時から十時までの間には、出かける事と思いますが……十時頃から忙しくなって来ますから」
 「結構です。しかし近頃の赤はナカナカ敏感ですから、よほど御用心なさらないと……」
 「大丈夫と思います。今夜、ここへ伺った事は誰も知りませんし……それに妻(かない)がズット前、姫草に指環を一つ買って遣るって言った事があるそうですから……」
 「成る程ね。それじゃソンナ都合に……」
 「承知しました。どうも遅くまで……」

 そんな次第で私はその晩とうとう睡眠薬を服(の)まなければ睡られないような惨憺(さんたん)たる神経状態に陥ったが、後で聞いてみたら姉と妻も同様であったと言う。私から委細の話を聞いた二人は、夜が明けると直ぐに姫草ユリ子の可憐な肩の上に落ちかかるであろう恐ろしい運命が、如何に止むを得ない、同時に恐ろしいものであるかを想像しながら昂奮の余り、ロクロク睡らずに夜を明かしたそうである。松子はウトウトしたかと思うと高手小手(たかてこて)に縛り上げられて病院を引摺(ひきず)り出される姫草ユリ子の姿をアリアリと見たりしてゾッとして眼が醒めたという。姉なぞは御丁寧にも、絞首台にブラ下っている彼女の死に顔までマザマザと見届けて、何度も何度も魘(うな)されながら松子にユリ起されたと言うから相当なものであろう。
 それでも夜が明けてからの計画は百パーセントに都合よく運んだ。妻の松子が何喰わぬ顔で病院に来ると直ぐに、姫草看護婦をソッと薬局に呼び込んで、大粒のアレキサンドリアを彼女の手に握らせた態度はきわめて自然なものであった。さすがのユリ子も毛頭疑う様子もなく、衷心から嬉しそうにペコペコして私の処まで飛んで来てお礼を言ったくらいであったが、その時に私が平常(いつも)の通りのニコニコ顔で鷹揚にうなずいた態度も、いかにも名優気取であったと言う。後で姉からさんざん冷やかされたものであった。
 しかし彼女……姫草ユリ子が、十時の開診時間を気にしながら大急ぎで着物を着かえて、イソイソと病院の玄関を出て行く背後姿を見送った姉と、妻と、私の態度が、ほかの看護婦や患者の眼に付くくらい緊張していた。まるで高貴なお方のお出ましでも見送るかのように棒のように強直していたために、アトから何事ですかと皆から尋ねられたのは明らかに失態であった。況(いわ)んや姉と妻は、セグリ出て来る涙を隠すべく、慌てて洗面所へ逃げ込んだと言うのだから、滑稽(こっけい)を通り越して何の事だかわからない。
 姫草ユリ子はその儘帰って来なかった。
 姉と妻と私は、その一日中、今更のように魘(おび)えた蒼白い顔を時々見交していたものであったが、その晩一晩置いて翌る朝の八時頃、隣家(となり)の田宮特高課長の処から、尋常一年生の坊ちゃんが、私を迎いに来てくれたから、大ビクビクで着物を着換えて行ってみると、田宮氏は一昨夜の通りの褞袍姿で、横浜港内を見晴らした二階の客室に待っていた。私の顔を見ると妙に赤面したニコニコ顔で、熱い紅茶なぞをすすめてくれたが、昨日よりもズット磊落(らいらく)な調子で、投げ出したように言うのであった。
 「あれは赤ではありませんよ」
 「ヘエ……」
 と私は少々面喰って眼をパチパチさせながら坐り直した。
 「折角のお骨折りでしたがね。取り調べてみると赤の痕跡もありませんよ。……尤も郷里は裕福というお話でしたが、電話と電報と両方で問い合わせたところによりますと、実家は裕福どころか、赤貧洗うが如き状態だそうです。何でも直ぐの兄に当る二十七、八になる一人息子が、家土蔵(くら)をなくするほどの道楽をした揚句、東京で一旗上げると言って飛び出した切り、行方を晦(くら)ましているそうで、年老(と)った両親は誰も構い手がないままに、喰うや喰わずの状態でウロウロしているそうです。勿論あの女……何とか言いましたね……そうそうユリ子からも一文も来ないそうで、お話の奈良漬の一件や何かも彼女の虚構(うそ)らしいのです。姫草ユリ子という名前も本名ではないので、両親の苗字は堀というのだそうです。慶応の病院へ入る時に自分の友人の妹の戸籍謄本を使って、年齢(とし)を誤魔化(ごまか)して入ったと言うのですがね。本当の名前はユミ子というのですが、その堀ユミ子が十九の年に、兄の跡を逐うて故郷を飛び出してからモウ六年になると言うのですから、今年十九という姫草の年齢も出鱈目(でたらめ)でしょう。自分では二十三だと頑張っていましたがね。むろん女学校なんか出ていないと言う報告ですから、ドコまでインチキだか底の知れない女ですよアレは……」
 「ヘエ。全然赤じゃないんですね」
 「赤の連絡は絶対にありません。随分手厳しく調べたつもりですが」
 「そうするとあの女は、つまり何ですか」
 「それがですね。エヘン。それがです。つまるところあの女は一個の可哀そうな女に過ぎないのです。貴方がたの御親切衷心から感激しているのですね。一生を臼杵病院で暮したいと言っているのです。臼杵家の人達に疑われるくらいなら私、舌を噛んで死んでしまいますとオイオイ泣きながら言うのですからね」
 「ヘエー。ほんとうですか」
 「ほんとうですとも。ハハハ。けさ十時頃までに迎えに来て下さい。単に赤の嫌疑で引張ったのだが、その嫌疑が晴れたから釈放するのだ。気の毒だった……とだけ言い聞かせて、ほかの事は何も言わずに、お引き渡ししますから……臼杵先生も十分にお前を信用してお出でになるのだから、あんまり虚構を吐かないように……ぐらいの事は説諭して遣(や)ってもいいです。とにかく可哀相な女ですから、末永く置いて遣って下さい」
 「……ヘエエ。妙ですね。それじゃあの女は何の必要があって、あんな人騒がせな出鱈目を創作して、吾々に恥を掻(か)かせたんでしょう。根も葉もない事を……」
 「ええ。それはですね。その点も残らず取り調べてみましたが、要するにあの娘のつまらない性癖らしいのです。山出しの女中が自分の郷里の自慢をする程度のものらしいので、別に犯罪を構成するほどの問題じゃありません。それ以上はどうも個人の秘密に亙(わた)っておりますので取り調べかねるのですが。ハハハ。とにかく宝石を一つ御損かけてすみませんでした。どうか末永く可愛がって置いて遣って下さい。可哀相な女ですから……僕はこれから出勤しますから失礼します」
 鈍感な私は、こうした田宮氏の態度から何事も読み出し得なかった。何の気も付かない阿呆(あほう)みたいな恰好で追払われながら引き退って来た。そのままこの事を姉と妻に話して聞かせると、二人もまたいい気なもので凱歌を揚げて喜んだ。
 「ソレ御覧なさい。言わない事じゃない」
 「言わない事じゃないって、馬鹿……何とも言やしないじゃないか。最初から……」
 「いいえ。私そう思ったのよ。姫草さんに限って赤なんかじゃないと思ったんですけど、貴方が余計な事をなさるもんだから……」
 「何が余計な事だ。些(すくな)くとも姫草が虚構吐きだった事がハッキリわかったじゃないか……」
 「でもまあよかったわねえ。何でもなくて……タッタ今お姉様とお話していたのよ。姫草さんが万一無事に帰って来たら、暇を出そうか出すまいかってね。いろいろ話し合ってみた揚句、いくら何でも可哀相ですから、貴方にお願いして置いて頂こうじゃないのって……そう言っていたとこよ。……まあ。よかったわねえ。うちのマスコット……私たち二人で直ぐに迎えに行って来ますわ。ね……いいでしょう」
 二人はそれから威勢よく自動車(ハイヤ)に乗って出かけた。私に朝飯を喰わせる事も忘れたまま……。
 ユリ子は留置所の前の廊下で姉の胸に取り縋(すが)ったそうである。五つ六つの子供のように、
 「もうしません、もうしません、もうしません」
 と泣き叫んで身もだえするので二人ながら弱ったそうであるが、それほどに取り調べが峻烈だったかと思うと、姉も妻も暗涙を催したと言う。
 それから三人一緒に自動車で帰って来たが、ユリ子の襟首からは昨日の朝のお化粧がアトカタもなく消え失せていたので、姉と妻とで湯に入れて遣ったり、下着を着かえさせたりして、まるで死んだ人間が生き返ったような騒ぎをした後に、やっと私と一緒に朝の食事にありつかせたが、ユリ子はただ、
 「すみません、すみません」
 と繰り返し繰り返し泣くばっかりで飯もロクロク咽喉(のど)に通らないようであった。
 ところが彼女……姫草ユリ子……もしくは堀ユミ子の性格は、どこまで奇妙不可思議に出来上っているのであろう。
 わざわざ出勤を遅らせた私が、玄関横の客間に彼女を坐らせていろいろ取り調べの模様を聞いてみると……どうであろう。その取り調べの内容なるものが実に意外にもビックリにも、お話にならないのであった。
 スッカリ化(ばけ)の皮を剥(は)がれてしまって、見る影もなく悄然(しょんぼり)となった彼女の、涙ながらの話によると、伊勢崎署に於ける警官諸君の、彼女に対する訊問ぶりは峻烈どころの騒ぎではなかった。聞いている姉と松子が座に堪えられなくなったほどに甘ったるい、言語道断なものであった状態を、彼女はシャクリ上げシャクリ上げしながら口惜しそうに説明し始めたのであった。巨大(おおき)な鉄火鉢のカンカン起った署長室で、平服の田宮特高課長と差向いで話した時の室内の光景から、何度も何度も炭火の跳ねたところから、田宮課長の腕時計の音までも、真に迫って話すのであった。
 しかし私はこの時に限ってチットモ驚かなかった。
 私は、そんな風な話を平気で進めながら、次第次第に昂奮して、雄弁になって来る彼女の表情をジイット凝視(みつめ)ているうちに、彼女の眼付きの中に一種異様な美しい光が、次第次第に輝き現われて来るのを発見した。それは精神異常者の昂奮時によく見受けるところの純真以上に高潮した純真さ、妖美とも凄艶とも何とも形容の出来ない、色情感にみちみちた魅惑的な情欲の光であった。そうした彼女の眼の光を見守っているうちに、鈍感な私にも一切のウラオモテが次第次第に夜の明けるように首肯されて来た。彼女の不可思議な脳髄の作用によって描きあらわされて来た今日までの複雑混沌を極めた出来事のドン底から、実に平凡な、簡単明瞭な真実が、見え透いて来たのであった。
 性急(せっかち)な私は彼女の話の最中に、便所に行く振りをして、ソッと茶の間に来た。そこで真赤になって苦笑している妻の松子に耳打ちして、病院に彼女と一緒に寝起きしている看護婦を大至急で呼び寄せて、ユリ子に関する或る秘密を問い訊(ただ)してみた。
 呼ばれて来たのは田舎から出て来たままの山内という看護婦であった。何処までも正直な忠実な、いつもオドオドキョロキョロしている種類の女であったが、彼女は私たち三人の前で、真赤な両手を膝の上にキチンと重ねながら、柔道選手か何ぞのように眼を据(す)えて答えた。姫草に怨(うら)みでもあるかのように……。
 「ハイ。姫草さんの月経来潮(メンス)は正確で御座いました。毎月大抵、月の初めの四日か五日頃です。わたくし、いつも洗濯をさせられますので、よく存じております」
 これを聞いた私は一も二もなく立ち上って、洋服に着かえた。何もかも放ったらかしたまま自動車を飛ばして、県の特高課に乗り込んで、出勤したばかりの田宮課長に面会した。遠慮も会釈も抜きにして述べ立てた。
 「田宮さん。やっとわかりました。御厄介をかけましたあの姫草ユリ子と言う女は、卵巣性(オバリヤル)か、月経性(メンスツリアル)かどちらかわかりませんが、とにかく生理的の憂鬱症(デブ[#「プ」では?、85-10]レッション)から来る一種の発作的精神異常者なのです。あの女が一身上の不安を感じたり、とんでもない虚栄心を起して、事実無根の事を喋舌(しゃべ)りまわったりするのが、いつも月経前の二、三日の間に限られている理由もやっとわかりました。僕の日記を引っくり返してみれば一目瞭然です」
 「ハハア。そうでしたか。実は私の方でも経験上、そんな事ではないか知らんと疑ってもみましたが、一向、要領を得ませんでしたので……しかしどうしてソンナ事実をお調べになりましたか」
 「……ところでこれは、お互いに名誉に関する事ですから御腹蔵なくお話下さらんと困りますが、昨晩、お取り調べの際にあの女は、何か僕の事に就いて話はしませんでしたか」
 さすがに物慣れた田宮氏も、この質問を聞いた時には真赤になってしまった。
 「アハハハ。わかりましたか……貴方の処に帰ってから白状しましたか」
 「イヤイヤ。そんな事はミジンも申しませんでしたが、その代りに貴方のお取り調べの御親切だった模様を喋舌りました。実に念入りな、真に迫った説明付きで……ですからこれは怪しいと思いますと、直ぐに今朝からのお話を思い出しまして、ジッとしておられなくなりましたから飛んで参りました。非道(ひど)い奴です。あの女は……」
 イヨイヨ真赤になった田宮氏は制服のまま棒立ちになってしまった。
 「イヤ。よく御腹蔵なくお話下すった。それならばコチラからも御参考までにお話しますが、君は十月の……何日頃でしたか。午後になって箱根のアシノコ・ホテルに外人を診察しに行かれましたか」
 「ええ。行きました。石油会社の支配人を……ラルサンという老人です」
 「その時にあの女を連れて行かれましたか」
 「行くもんですか。一人で行ったのです」
 「成る程。それでユリ子はお留守中、在院していたでしょうか」
 「……サア……いたはずですが……連れて行かないのですから……」
 「ところがユリ子は、その日の午後には病院にいなかったそうです。昨夜、君の病院の看護婦に電話で問合わせてみたのですが、何でも君が出かけられると間もなく横浜駅から自動電話がかかって、直ぐに身支度をして横浜駅に来いと命ぜられたそうですが……」
 「ヘエ。驚きましたな。あの女は少々電話マニアの気味があるのです。よく電話を応用して虚構(うそ)を吐きます。そんな電話が実際にかかっているように受け答えするらしいのです」
 「とにかくソンナ訳でユリ子は、大急ぎでお化粧をして、盛装を凝(こ)らして病院を出て行ったそうです」
 「プッ。馬鹿な……盛装の看護婦なんか連れて診察に行けるもんじゃありません」
 「そうでしょう。私もその話を聞いた時に、少々おかしいと思いました。看護婦を連れて行く必要があるかないかは病院を出られる時からわかっているはずですからね」
 「第一、そんな疑わしい連れ出し方はしませんよ。ハハハ」
 「ハハハ。しかしその時のお話を随分詳しく伺いましたよ。まぼろしの谷[#「まぼろしの谷」に傍点]とか何とか言う素晴らしい浴場がそのホテルの中に在るそうですがね。行った事はありませんが……」
 「僕は聞いた事もありません。そのホテルでラルサンという毛唐(けとう)と一緒に食事はしましたがね。まだいるはずですから聞いて御覧になればわかりますが、かなりの神経衰弱に中耳炎を起しておりましたから、鼓膜切解をして置きましたが……」
 「そうですか……そのまぼろしの何とか言う湯の中の話なんかトテも素敵でしたよ。青黒い岩の間に浮いている二人の姿が、天井の鏡に映って、ちょうど桃色の金魚のように見えたって言いましたよ……ハハハハ……」
 「馬鹿馬鹿しい。いつ行ったんだろう」
 「一人で行くはずはないですがね」
 「むろんですとも……呆れた奴だ」
 「どうも怪(け)しからんですね」
 「怪しからんです……実は今朝、貴官(あなた)から、いつまでも可愛がって置いて遣(や)るように御訓戒を受けましたが、そんな風に人の名誉に拘(かか)わる事を吐きやがるようじゃ勘弁出来ません。これから直ぐにタタキ出してしまいますから、その事を御了解願いに参りましたのですが」
 「イヤイヤ。赤面の到りです。謹んでお詫び致します。どうか直ぐに逐い出して下さい。怪しからん話です」
 「怪しからんぐらいじゃありません。私の不注意からとんだ御迷惑を……」
 「しかしとんでもない奴があれば在るものですな。初めてですよ。あんなのは……」
 「そうですかねえ。あんなのは珍しいですかねえ。貴官方でも……」
 「所謂(いわゆる)、貴婦人とか何とか言う連中の中には、あの程度のものがザラにいるでしょうが、犯罪を構成しないから吾々の手にかからないのでしょうな」
 「それともモット虚構(うそ)が上手なのか……」
 「それもありましょう。つまり一種の妄想狂とでも言うのでしょうな。自分の実家が巨万の富豪で、自分が天才的の看護婦で、絶世の美人で、どんな男でも自分の魅力に参らない者はない。いろんな地位あり名望ある人々から、直ぐにどうかされてしまう……と言う事を事実であるかのように妄想して、その妄想を他人に信じさせるのを何よりの楽しみにしている種類の女でしょうな。一昨夜のお話に出た、子供を生んだという事実なんかも、彼女自身の口から出たものとすれば事実じゃないかも知れませんね。事によると彼女はまだ処女かも知れませんぜ……ハッハッ……」
 「アハハハハ。イヤ。非道(ひど)い目に会いました。どうかよろしく……」
 「さようなら……」 
 そう言って別れた帰りがけに私は、彼女の身元引受人になっている下谷の伯母の処へ電報を打った。世にも馬鹿馬鹿しい長たらしい夢から醒めたように思いながら……それでも彼女の伯母さんなる人物が、真実(ほんとう)にいるのか知らんと疑いながら……。

 彼女の伯母さんと言う髪結い職の婦人は、早くもその日の夕方にノコノコと私の自宅へ遣って来た。赤々と肥った四十恰好の、見るからに元気そうな櫛巻頭に小ザッパリとした木綿(もめん)着物で、挨拶をする精力的な声が、近所近辺に鳴り響いた。
 「……まああ……呆れた娘(こ)ですわねえ。ほんとに……いいえ。私はあの娘の伯母でも何でもないんですよ。これでもお江戸のまん中あたりで生まれたんですからね。へへへ……あたしが先立って、あの大学の耳鼻科に入って脳膜炎の手術をして頂いた時に、あの娘さんに親身も及ばぬくらい世話になったもんですからね。それが縁になってツイ転がり込まれちゃったんですの。伯母さん伯母さんて懐(なつ)かれるもんですから、仕方なしに身元引受人になっているんですがね。……いいえ。それがねえ。あの娘がいつまでもいつまでも私の家にいると近所の若い者が五月蠅(うるさ)くて困るんですよ。あの娘はホントに何て言うんでしょうねえ。妙な娘で御座んしてね。私の家に来てから二、三日と経たないうちに近所の若い衆からワイワイ騒がれるんですからね。まるで魔法使いみたいなんですよ。ですから、早く何処かへ行って頂戴。引受人にでも何でもなったげるからってね。そう言って追い出したんですけど……」
 そんな事をペラペラ喋舌(しゃべ)り立てる片手間に、彼女は足袋(たび)の塵を払い払い台所口からサッサと茶の間に上り込んで来た。そこで彼女は旧式の小さな煙草容器(いれ)を出して、細い銀煙管(ぎせる)を構えながら一段と声を落して眼を丸くした。私がすすめた煙草盆に一礼しながら……大変な身元引受人が出て来たのに驚いている私等三人の顔を交る交る見比べた。
 「その若い衆で思い出したんですけどね。あの娘(こ)は何でもこの間っから、東京中の新聞に大きく出た『謎の女』ってね……御存じでしょう。あの本人らしいんですよ。コレくらいの悪戯(いたずら)なら妾だって出来るわ……ってね。あの娘が若い衆にオダテられてウッカリ喋舌ったって言うんですの。それからミンナが面白半分にわいわい言って、いろいろ問い訊(ただ)してみると、どうも本人らしいので皆、気味が悪くなったんですって。あの娘が出て行ったアトで私に告口した者がいるんですよ。……ですからそう言われると私も気味が悪くなっちゃいましてね。あの娘が仕事を探しに行った留守に、預けて行った手廻りの包みの中を調べてみたら、どうでしょう。新しい小さな紙挾みの中に、あの『謎の女』の新聞記事が、幾通りも幾通りも切り抜いて仕舞って在るじゃあありませんか……いいえ。ほかの記事は一つもないんですよ。わたくしゾッとしちゃいましてね。今にドンナ尻を持ち込まれるかと思ってビクビクしていたんですよ。でもまあソレぐらいの事ですんでよござんした。ええ、ええ、引き取って参りますとも……エエ、エエ、なるたけ眼に立たないように呼び出してソッと連れて参ります。モウモウあんな風来坊の宿請(やどうけ)は致しません。マゴマゴすると身代限りをしてしまいます。……兄貴なんかいるもんですか。みんな嘘ッ八ですよ。……お宅様も災難で御座んしたわねえ。いくらかお金を遣って故郷へ帰したら後生の悪い事も御座んすまいし、怨まれる気遣いも御座んすまい。どうもお気の毒様で御座んした。一人で喋舌りまして相すみません。とんだお邪魔を致しまして……ハイ。さようなら……」
 彼女は約束通り人知れずユリ子を呼び出して連れて行ったらしい。姫草ユリ子はその夕方から私達には勿論のこと、一緒にいる看護婦たちにも気付かれないまま姿を消してしまった。そうして冒頭に書いた彼女の遺書以外に、彼女から何の音沙汰もなく、病院の方も以前の通りの繁昌を続けている。

 それでも彼女の名前を当てにして病院に尋ねて来る患者は、まだなかなか尽(つ)きない。私の病院は彼女のために存在していたのじゃないか知らんと疑われるくらいである。
 一方にその後、警官や刑事諸君が遊びに来ての話によると、彼女は向家(むかい)の蕎麦屋(そばや)にいる活弁上りの出前持を使って電話をかけさせておったものだそうで、白鷹助教授に化けて東京から電話をかけたのもその弁公だったそうである。文句は彼女がスッカリ便箋に書いて、弁公を病院の地下室に呼び込んで、何度も何度も練習させたものだそうでまた、白鷹氏の手紙も、彼女が文案をして県庁前の代書人に書かせて投凾したものだと言う事が、彼女の白状によって判明していたと言うが、そんな話を聞けば聞くほど、彼女の虚構(うそ)の創作能力と、その舞台監督的な能力が、尋常一様のものでなかった。虚構の構成に関する、あらゆる専門的……もしくは病的な知識と趣味とを彼女は持っていた。如何なる悪党、または如何なる芸術家も及ばない天才的な、自由自在な、可憐な、同時に斃(たお)れて止まぬ意気組を以て、冷厳、酷烈な現実と闘い抜いて来たか。K大病院、警視庁、神奈川県警察部、臼杵病院を手玉に取って来たか。次から次へと騒動を起させながら音も香もなくトロトロと消え失せて行った腕前の如何に超人的なものであるかを想像させられて、私はいよいよ驚愕、長嘆させられてしまった。
 それから今一つ重要な事は、それから後、いろいろと病院の内部を調査しているうちに、小型の注射器とモルヒネの瓶が一個、紛失しているのを発見した事である。しかも彼女……姫草ユリ子がそれを盗んで行く現場を、前に言った山内という山出し看護婦が見たのは、ズット以前の九月の初め頃の事だったそうであるが、その時に姫草が振り返って、[#ここから告白シーン、1字下げ]
「喋舌ったら承知しないよ」
と言って睨み付けた顔が、それこそ青鬼のように恐ろしかったので、今日まで黙っておりました……
……姫草さんのような気味の悪い、怖ろしい人はありませんでした。いつも詰まらない詰まらない、死にたい死にたいと言っておられましたので、私は恐ろしくて恐ろしくて、姫草さんが夜中に御不浄に行かれる時なぞ、後からソーッと跟(つ)いて行った事もありました。……その癖、姫草さんはトテモ横暴で、汚れ物や何かもスッカリ私に洗濯おさせになりますし、向家(むかい)のお蕎麦(そば)屋の若い人を呼ばれる時にも妾をお使いに遣られます。そうして「妾(姫草)の秘密がすこしでも臼杵先生にわかったら、妾は貴女(山内)を殺して自殺するよりほかに道がないんですからそのつもりでいらっしゃい。この病院を一歩外へ出たら妾はモウ破滅なんだから」と姫草さんは繰り返し繰り返し言っておりました。ですから私は何が何だかわからないまま姫草さんの言う通りになっておりました……[#ここで告白シーン終わり]
 と山内看護婦が眼をマン丸にして、白状した事であった。
 私はかの姫草が、その虚構(うそ)の一つ一つに全生命を賭けていた事を、この時に初めて知った。彼女の虚構が露見したら、すぐにもこの世を果敢(はか)なみて自殺でもしなければいられないくらい、突き詰めた心理の窮況に陥りつつ日を送り、夜を明かして来たのであろう。しかも、そうした冒険的な緊張味の中に彼女は言い知れぬ神秘的な生き甲斐を感じつつ生きて来たものであろう。
 彼女は殺人、万引、窃盗のいずれにも興味を持たなかった。ただ虚構を吐く事にばかり無限の……生命(いのち)がけの興味を感ずる天才娘であった。
 彼女は貞操の堕落にも多少の興味を持っていたらしい。しかし、それも具体的な堕落でなくて、虚構の堕落ではなかったか。現実的な不道徳よりも、想像の中の不倫、淫蕩の方が遙かに彼女の昂奮、満足に価してはいなかったか。彼女は肉体的には私達第三者が想像するよりも、遙かに清浄な生涯を送ったものではなかったかと想像し得る理由がある。
 彼女ほどの虚構(うそ)吐(つ)きの名人がK大以来一度も変名を用いなかった心理も、ここまで考えて来ると想像が付いて来る。それは姫草ユリ子なる名称が、彼女の清らかな、可憐な姿の感じに打って付けである事を、彼女が自覚していたばかりでない。そうした彼女の気持の清浄無垢さを誇りたい彼女の心の奥の何ものかが、こうした名前に言い知れぬ執着を感じていたせいでは、あるまいか。

 白鷹兄足下
 姫草ユリ子に関する小生の報告は以上で終りです。
 宇東三五郎は依然として彼女を、きわめて巧妙な地下運動者の一人である。彼女は表面上、単純な虚構吐き女を装いながら、思う存分の仕事を為(な)し遂げて、その恐るべき地下運動の一端さえも感付かせないまま、凱歌を上げて立ち去った稀代の天才少女である。その伯母さんなる中年婦人も、彼女と一緒に働いている有力な地下運動者の一人で、彼女の仕事に一段落を付けるべく、サクラとなって彼女を救い出しに来たものかも知れない、とさえ疑っているようであります。
 また、田宮特高課長は彼女を一種特別の才能を備えた色魔にほかならぬ。臼杵病院の付近の若い者で、彼女の名前を知らない者が一人もない事実が、あとからあとから判明して来るのを見てもわかる。だから貴下も小生も、彼女の怪手腕に翻弄されながら、彼女に同情しつつ在る最も愚かな犠牲者である……と言った風に考えているらしい事が、時折、遊びに来る刑事諸君の口吻から察しられるのですが、しかしこれは余りに想像に過ぎていると思います。換言すれば彼女に敬意を払い過ぎた観察とでも申しましょうか。
 貴下と御同様に……と申しては失礼かも知れませぬが、小生がソンナ事実を信じ得る理由を発見し得ませぬ理由を、貴下は最早十分に御首肯下さる事でしょう。
 小生は小生の姉、妻と共に告白します。小生等は彼女を爪の垢(あか)ほども憎んでおりません。
 何事も報いられぬこの世に……神も仏もない、血も涙もない、緑地(オアシス)も蜃気楼(しんきろう)も求められない沙漠のような……カサカサに乾干(ひから)びたこの巨大な空間に、自分の空想が生んだ虚構(うそ)の事実を、唯一無上の天国と信じて、生命がけで抱き締めて来た彼女の心境を、小生等は繰り返し繰り返し憐れみ語り合っております。その大切な大切な彼女の天国……小児が掻き抱いている綺麗なオモチャのような、貴重この上もない彼女の創作の天国を、アトカタもなくブチ毀(こわ)され、タタキ付けられたために、とうとう自殺してしまったであろうミジメな彼女の気持を、姉も、妻も、涙を流して悲しんでおります。隣家の田宮特高課長氏も、小生等の話を聞きまして、そんな風に考えて行けばこの世に罪人はない……と言って笑っておりましたが、事実、その通りだと思います。
 彼女は罪人ではないのです。一個のスバラシイ創作家に過ぎないのです。単に小生と同一の性格を持った白鷹先生……貴下に非ざる貴下をウッカリ創作したために……しかも、それが真に迫った傑作であったために、彼女は直ぐにも自殺しなければならないほどの恐怖観念に脅やかされつつ、その脅迫観念から救われたいばっかりに、次から次へと虚構の世界を拡大し、複雑化して行って、その中に自然と彼女自身の破局を構成して行ったのです。
 しかるに小生等は、小生等自身の面目のために、真剣に、寄ってたかって彼女を、そうした破局のドン底に追いつめて行きました。そうしてギューギューと追い詰めたまま幻滅の世界へタタキ出してしまいました。
 ですから彼女は実に、何でもない事に苦しんで、何でもない事に死んで行ったのです。
 彼女を生かしたのは空想です。彼女を殺したのも空想です。
 ただそれだけです。

 この事を御報告申し上げて、御安心を願いたいためにこの手紙を書きました。

 A・C(コカイン)のスプレーで睡魔を防ぎながらヤットここまで書いて参りましたが、もう夜が白(しら)けかかって脳味噌がトロトロになりましたから擱筆(かくひつ)します。
 彼女が死んだ後までも小生等を抱き込んで行こうとした虚構(うそ)の流転も、それから貴下に対する小生の重大な責任もこの一文と共に完全に……何でもなく……アトカタもなく終焉を告げて行く事になります。
 さようなら。
 彼女のために祈って下さい。



底本:「少女地獄」角川文庫、角川書店
   1976(昭和51)年11月30日初版発行
   1990(平成2)年2月20日26版発行
入力:ryoko masuda
校正:もりみつじゅんじ
ファイル作成:もりみつじゅんじ
2000年1月12日公開
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●表記について

本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。

※々(そうそう)