「白鷹先生この手紙はすでに田宮特高課長に渡しました実物の写しで、貴下にお眼にかけたいためにコピーを取って置いたものですが、これを初めて読みました時も私は、何の感じも受けずにいる事が出来ました。依然として呆(あき)れ返ったトボケた顔で、相手の鋭い視線を平気で見返しながら問いかけました。
臼杵先生
妾(わたし)は自殺いたします。お二人に御迷惑のかからないように、築地の婦人科病院、曼陀羅(まんだら)先生の病室で自殺いたします。子宮病で入院中にジフテリ性の心臓麻痺で死んだようにして処理して頂くよう曼陀羅先生にお願いして置きます。
白鷹先生 臼杵先生
お二人様の妾に賜(たま)わりました御愛情と、その御愛情を受け入れました妾を、お憎しみにもならず、親身の妹同様に可愛がって頂きました、お二人の奥様方の御恩を、妾は死んでも忘れませぬでしょう。ですから、その奥様方の気高い、ありがたい御恩の万分の一でも報いたい気持から妾は、こんなにコッソリと自殺するのです。わたくしの小さい霊魂はこれから、お二人の御家庭の平和を永久に守るでしょう。
妾が息を引き取りましたならば、眼を閉じて、口を塞(ふさ)ぎましたならば、今まで妾が見たり聞いたり致しました事実は皆、あとかたもないウソとなりまして、お二人の先生方は安心して貞淑な、お美しい奥様方と平和な御家庭を守ってお出でになれるだろうと思いますから。
罪深い罪深いユリ子。
姫草ユリ子はこの世に望みをなくしました。
お二人の先生方のようなお立派な地位や名望のある方々にまでも妾の誠実(まごころ)が信じて頂けないこの世に何の望みが御座いましょう。社会的に地位と名誉のある方の御言葉は、たといウソでもホントになり、何も知らない純な少女の言葉は、たとい事実でもウソとなって行く世の中に、何の生甲斐(いきがい)がありましょう。
さようなら。
白鷹先生 臼杵先生
可哀そうなユリ子は死んで行きます。
どうぞ御安心下さいませ。
昭和八年十二月三日 姫草ユリ子 」[#下揃え1字上げ。ここで引用文終わり]
……いずれにしても白鷹氏と姫草ユリ子とが全然、無関係でない事は確実(たしか)だ。私の知っている以外に姫草ユリ子は白鷹氏に就いて何事かを知り、白鷹氏も姫草ユリ子に就いては何事かを知っているはずなのに……。[#ここで心の呟き終わり]そう考えて来るうちに、私の頭の中にまたもかの丸の内倶楽部の広間(ホール)を渦巻く、燃え上るようなパソ・ドブルのマーチが漂い始めた。
……そうだ。白鷹氏は故意(わざ)と、あんなに冷厳な態度を執(と)って後輩の田舎者である俺を欺弄(かつ)いでおられるかも知れない。アトで大いに笑おうと言う心算(つもり)なのかも知れない。東京の庚戌会に出席して斯界(しかい)のチャキチャキの連中と交際し、連絡(わたり)を付けるのは地方開業医の名誉であり、且、大きな得策でもあり得るのだから、その意味に於て優越な立場にいる白鷹氏は、キット俺が出席するのを見越して、アンナ風に性格をカムフラージしていろいろな悪戯(いたずら)をしておられるのかも知れない。……と……そんな事まで考えるようになったが、これは私が元来そう言った悪戯が大好きで、懲役に行かない程度の前科者であったところから、自分に引き較べて推量した事実に過ぎなかったであろう。同時にそこには姫草ユリ子から植え付けられた白鷹氏の性格に関する先入観念が、大きく影響していた事も自覚されるのであるが、とにもかくにも事実、そんな風にでも考えを付けて気を落ち着けて置かねば、すぐに、この上もなく非常識な、恐ろしい不安がコミ上げて来て、トテも凝然(じっ)として三十分間も電車に乗っておれない気がしたのであった。それでも電車がブンブン揺れながら、暗黒の平地を西へ西へと走るのがたまらなく恐ろしくなって、途中で飛び降りてみたくなったくらい私は、一種探偵小説的に不可解な、不安な昂奮の底流に囚われていたのであった。横浜へ帰ったら、私の家族と私の病院が、姫草ユリ子諸共(もろとも)に、何処かへ消え失せていはしまいか……と言ったような……。
……そうだそうだ。その方が可能性のある説明だ。それがマンマと首尾よく図に当ったので、あんなに皆して笑ったのかも知れない。 [#ここで心の呟き終わり]
「喋舌ったら承知しないよ」と山内看護婦が眼をマン丸にして、白状した事であった。
と言って睨み付けた顔が、それこそ青鬼のように恐ろしかったので、今日まで黙っておりました……
……姫草さんのような気味の悪い、怖ろしい人はありませんでした。いつも詰まらない詰まらない、死にたい死にたいと言っておられましたので、私は恐ろしくて恐ろしくて、姫草さんが夜中に御不浄に行かれる時なぞ、後からソーッと跟(つ)いて行った事もありました。……その癖、姫草さんはトテモ横暴で、汚れ物や何かもスッカリ私に洗濯おさせになりますし、向家(むかい)のお蕎麦(そば)屋の若い人を呼ばれる時にも妾をお使いに遣られます。そうして「妾(姫草)の秘密がすこしでも臼杵先生にわかったら、妾は貴女(山内)を殺して自殺するよりほかに道がないんですからそのつもりでいらっしゃい。この病院を一歩外へ出たら妾はモウ破滅なんだから」と姫草さんは繰り返し繰り返し言っておりました。ですから私は何が何だかわからないまま姫草さんの言う通りになっておりました……[#ここで告白シーン終わり]
●表記について
本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。
※々(そうそう) |
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