第2話(全3話)
「乳幼児をかかえた育児中の母たちへ」
伊藤エイミーまどか
<<7時の開演に行ける人って誰?>>
今日も各地のホールでは、コンサートが目白押しである。雑誌をみると、東京で行われるクラシックだけでも8つ。掲載されていない分も含めると、おそらく大変な数だろう。その8つのコンサートの開演時間は、夕方6時半が2つで7時が6つ。いともながらのワンパターンだ。朝とか午後とかは一つもない。
人にはそれぞれ事情がある。
昼働く人もいれば、夜のひともいる。
ところが音楽会というと日祭日の昼間、ごくたまに行われる親子コンサート等をのぞいて、ほとんどが平日の夕方、都市部のホールでばかりだ。様々な時間で動いている人々のために、音楽を供給する側は、はたして十分対応しているだろうか。
夕方音楽会に出かけられるのは、夜勤でない勤め人(残業があったらもちろん無理)学生(小学生はダメ)、すぐ誰かに子どもをみてもらえる恵まれた主婦、子供が既に大きい年配の婦人、勤め時間にしばられない自由業の人、帰りのラッシュにもまれても大丈夫な元気なお年寄り、等々・・・。
夕食をはさみさらに寝る時間にかかる夕刻。こんな時間は、乳幼児をかかえた母親はもちろんのこと、たとえ育児が一段落した、小、中学生のお母さんたちでさえ、なかなか出てこられない。
往復の時間も含めると、長い人で夕方5時半から夜10時半頃まで、約5時間も家を空けることになってしまうからである。
会場のざわつきは集中力でカバー
「自分の仕事の場合は、ベビーシッターや主人にたのんだり、何とか都合つけていますが、聴きに出かける時にまでは、気がひけてしまいます。」(最近私に寄せられたある演奏者からの手紙より)。
やむを得ぬ場合ならともかく自分の心の解放のために、子供をベビーシッターにあずけてまでコンサートを聴きに行くことへの根強い抵抗感。日本の女性の意識がかなり変化したとはいえ、やはりこれが現実ではないだろうか。「母」である前に、一人の「人間」である事実を、伝統的な「母親神話」が押しつぶしている。
「自分のお腹を痛めて生んだわが子をほったらかしにして、子守に金まで払って、そんなにしてまで自分一人で楽しみたいのかい!!」というすさまじい非難が、どこからかきこえてきそうな日本。少しでも、子供がうるさいとか、自分一人の静かな時間がほしい、とか言おうものなら、「母親の資格がない」とまで言われてしまうのだ。
この壁は、それでも少しずつ、くずれて行くだろう。しかし今、本当に聴きたくとも、小さな子供がいるためコンサートに行かれない母たちのために、誰かがその思いに応えてもいいのではないだろうか。
24時間年中無休で育児に追われる毎日。本来、子供は夫婦で育てて行くべきもの。しかし、今の社会状況で、男性がここまで長時間労働を強いられては、育児はどうしても女性だけの肩にのしかかってくる。母たちは、何とか自力で毎日をのりきらねばならない。
何か気持ちをリフレッシュさせてくれるものはないか。
日常意外の出来事で、感性のアカを洗い流してくれるものは・・・?
抱っこバンドにリュックをしょって来てくれる。電車をのりつぎ来てくれる。暑くとも、バギーを押し押し、子供の手を引き来てくれる。彼女たちは音を必要としているのだ。生の音に触れたくて、禁断症状にまで陥るのは、まさに音楽を愛しているからに他ならないのである。その彼女達のためのコンサートが今までまったく行われなかったのは、いったいなぜか。
答は簡単。子供がくっついてくると「うるさい」からである。しかし、「うるさい」からといって、「乳幼児お断り」と言い続けていては何の進展もない。ベビーシッターが市民権をとるのが早いか、乳幼児可のコンサートをやるのが早いかと言えば、乳幼児可のコンサートの方が早いに決まっている。今、空いている会場をとればすぐに出来ることだ。
あとは演奏する側の問題だが、弾き手が会場がざわつくぐらい何でもないと、ハラをくくれば支障は何ひとつなくなる。
会場のざわめきなど、集中力でいくらでもカバーできる。そこに来てくれる母達は、それは真剣に聴いてくれるのだから。
子供たちは全身で音楽を感じる誤解のないよう一言書きそえるが、泣いている子もいるがこれは一部であって、皆が泣いているわけでは決してない。
むしろ、思いの外静かだ。
ステージ脇までヨタヨタやってきて、食い入るように見つめる子。母の胸に抱かれて安らかにねてしまう子。
そして、これはまぎれもない真実だが、後ろを向いていようが、床で絵本を広げていようが、幼児達は聴いている。全身で音楽を感じとっているのだ。
この世に生を受け、まだほんの数年しか生きていない彼らは、コンサート会場で何を聴き、何を心に思うのであろうか。
この日のことを覚えている、いないに関わらず、幼き者達の心のどこかに、このコンサートが、ひとつの体験として刻み込まれていることだけは確かである。
つづく