作品入力についての素朴な疑問(ぺろん) こんにちは。先日書き込みさせていただいた者です。実は朝日新聞の記事を読ませていただいて、わたしも自分の好きな作家の作品を入力できたらいいな、と思いはじめています。そこで調べてみると、その作家の作品は、一部ほかですでにテキスト化されていました。そこで初心者的質問なのですが、そういう作品を、同じ形で再び打ち込んで青空文庫に収めるのは無意味なことでしょうか? 青空文庫にその作品の図書カードがあったらいいのに..という気持ちもあって。マニュアルも読んだのに、こんな質問をして申し訳ありません。また、ここで質問したことが場違いでしたら重ねてお詫びもうしあげます。ちなみにその作家は梶井基次郎氏です。 核心を突いたおたずねに向き合って(富田倫生) ぺろん さん 青空文庫の活動に、呼びかけ人という立場で関わっている、富田倫生と申します。おたずね、ありがとうございました。 ご指摘は、青空文庫の弱みをまっすぐに突いています。私自身の整理のためにも、少し踏み込んで書いてみようと思います。 1 青空文庫に共感を持った。 2 作品の電子化を、青空文庫の仕組みにそって進めようかと思った。 3 入力したい作品を思い浮かべた。 4 けれど電子テキストに関するリンク集などで確認してみると、誰かがよそですでに入力している。 5 なのに青空文庫には、該当のテキストにリンクした図書カードがない。 6 そんな場合は、青空文庫の仕組みに沿って、入力し直すのか。 これは、私たちが文庫の活動を始めた直後から、突き当たった問題です。 活動に関する予備的な検討を始めた段階では、「すでに作品を電子化した人にどんどん連絡をとって、エキスパンドブック版を作らせてもらったり、リンクさせてもらおう」と考えていました。 事実、我々が最初に収録したのは、福井大学教育学部の岡島昭浩先生(http://kuzan.f-edu.fukui-u.ac.jp/)が電子化されたテキストを使ったものでした。 その後、お願いに行く活動を、呼びかけ人がどんどん進めていれば、ぺろんさんが指摘される1〜6のような例は、かなり押さえ込めたはずです。 ところがそうはできませんでした。 「誰かが電子化を担当した場合、その人の努力にどう報いるか」という問題は、法律の枠組みで論議された事のないテーマです。 ある人は、「著作権と同様の権利が生じている。だから流用はお断りする」という。ある人は、「著作権と同様の権利が生じているはずだから、作業者を尊重して欲しい。名前やファイルに対する注記は残す。その条件で、使ってもらって構わない」という。 入力時に参考にした底本の扱いに関しても、いろいろな考えがあります。「ファイルの信頼性を高めるために、底本は必ず明記する」という人もいる。一方、「底本は示さない」ことを方針とされている方もおられるのです。 私たちは、「入力や校正やファイル作成の作業を担ったことで、電子化テキストを〈縛る〉権利は生じない。現行法のどこにもそんな規定はないし、今後、〈縛る〉側で法整備をするべきでもない。ただ、ファイルに作業者の名前を残し続けることで、感謝の気持ちを表していこう」と考えています。底本に関しては、「必ず明記しよう」と決めています。 ただ、人様に流用をお願いする際には、私たちの考え方と先方の考え方を照らし合わさざるを得ないことがあります。 岡島先生のように、ご快諾いただける場合だけでもなかった。くさったり、めげたりすることもあったのです。 もう一方、作品を選んで入力し、収録にまで持っていくという作業は、実に大変ではあるのだけれど、自分の気持ちに素直に沿って進められます。 私たち自身も、ついつい、気持ちよい作業を優先しました。 文庫を公開してみると、ありがたいことには、入力や校正を手伝おうという人が現れました。「自分はこれをやりたい」と申し入れを受けた作品が、よそですでに電子化されている例も、実はありました。悩んだ末に、「やっていただこう」と踏ん切ったこともあったのです。 ただ、呼びかけ人の一人である八巻美恵さんがまとめてくれた「電子テキストのある場所」によって、少なくとも今は、「電子化されているか否か」がかなり正確に、青空文庫のページで確認できます。 あらためて自分の振る舞いを点検すると、現状では「できるだけ重ならないものを選んで欲しい。けれど入力したい人が、それでもその作品を取り上げようと思われるのなら、その時は作業していただこう」という態度をとっています。 (以下はとりわけ、私個人の意見という性格の強いコメントです) しかしそれでは、やはりまずい。 他人の価値観とぶつかりあうことも覚悟しながら、幅広く電子テキストを取り巻く状況に目を配り、私たちから提供すべき情報はどんどん出していく。教えてもらうべき事は、どんどん聞きに行く。電子化したファイルの相互利用、リンクの形成もどんどん進めていく。これからも、いろいろなところでどんどん生まれてくる電子テキストに、機能する網の目をかけて、共用の基盤を整えていく。 こうした事務局的な作業を、やはり進めて行きたいと思うのです。 けれど、一方で生活を支える仕事をしながら、〈余暇〉を使って文庫の活動を進めている現状では、折衝が多くて精神的なスタミナを要求される事務局的な仕事は、どうしても後回しになってしまいます。 繰り返しの折衝を、気持ちを保ったままたくさんの人と進めていくのは、やはり〈余暇〉を使っていたのでは無理じゃないかというのが、私たち呼びかけ人がまとめつつある結論です。 私たちは、専従で作業できるスタッフを一人おきたいと考えています。 そのためには、専従者が暮らしをたてるお金を、どこかからひねり出さなければならない。研究助成への応募、バナー広告の導入、支援者の確保、募金、醵金等、可能な限りの手を、ここはやはり模索してみるべきではないかと考えはじめています。 たくさんの工作員の皆さんに見返りなしで作業していただいているその一方で、専従者を置くという選択は、新たな気持ちの齟齬を生むでしょう。 バナー広告を入れれば、青空文庫の血であり肉である工作員の皆さんが、どんな目でそれをご覧になるか、私は心底恐れます。 けれど、それでも対外的な折衝や作業の円滑な推進を支える事務局体制はやはり、強固に作っていかなければいけないだろう。予想もしなかったテンポで物事が進んだあげく、私たちはそこまで一気に押し上げられてしまったと思うのです。 こんなに字数を費やしたのに、かんじんのぺろんさんのおたずねには、全然答えていませんね。 梶井基次郎の短編六編(「桜の樹の下には」、「器楽的幻覚」、「筧の話」、 「蒼穹」、「愛撫」、 「闇の絵巻」)に関しては、電子化を担われた木村成一さんが「転載可」を宣言されています。「檸檬」と「橡の花」に関しても、転載できると思われるものが、存在するようです。 ただ、皆さんに連絡を取って確認、了承を取り付け、校正、ブック化をへて、梶井作品をいつアップできるかというと、呼びかけ人には今、答えられないのが現状です。 それでもやはり自分で入れようとお考えになるなら、底本の取り方を変える(すでにあるものが「新字、新かな」なら「旧字、旧かな」で行くと言った調子で)ことでより大きな意味を持たせられるかもしれません。 こうした点を踏まえて、ご相談させていただければと思います。 (呼びかけ人の皆さん、少し勝手に出しゃばって書きました。正すべき点は、正して下さい) |
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