1998年1月21日 PDF(Acrobat)の扱いに関しては、呼び掛け人の中で多少意見のばらつきがある。私(富田倫生)は基本フォーマットに含めることに反対しているが、野口英司さんは、「求める声があれば用意すればいい」と柔軟に考えている。 青空文庫の呼び掛け人は、いずれもエキスパンドブックのファンだ。そもそも私たちが出会うきっかけも、この道具が作った。中でも野口さんは、開発にあたったボイジャーに籍を置いている。図式的に言えば、小なりといえどアドビと対抗する会社の一員だ。 それで、野口さんを急先鋒に全員がPDF排除で固まっていれば、話は分かりやすいだろう。だが現実には、そうなっていない。PDFに限らず、他の道具立ての利用にも野口さんは関心を持っていて、〈テキスト、HTML、エキスパンドブック〉でしばらくは行った方がいいと思いこんでいる私が、いちいち彼の提案にけちを付けている。 そうした感触の相違があることを前提に、以下のコメントはあくまで、私個人のものとして聞いて欲しい。 アドビは、いわゆるDTPの世界を切り開いてきた。 プリントアウトする文書を美しく仕上げたり、印刷の直前までの工程をこなすのが、この会社の真骨頂だ。当然のことながら、これまで我々はアドビの到達点を、紙の上で確認してきた。 その成果を拡張し、これまで紙を出口として培ってきた技術を、ディスプレイにも広げていこうというのがPDFだ。DTPの柱となってきたPostScriptという技術を改良しながら引き継いでいて、紙相手のDTPやワープロソフトに小さなモジュールを追加するだけで、容易にこの形式のファイルを作れる。紙での経験をそのまま生かしながら、画面に対応するものを作れる点で、移行に対する心理的な敷居が低い。 ルーツが紙相手だから、受け取ったPDFをプリンアウトしたときの仕上がりは素晴らしい。デザイン上の意図が、機種の如何を問わず正確に、美しく再現できる。 けれど、ディスプレイ上に表示するとなると、もたもたとした動きがまどろっこしい。ページめくりや表示位置の変更ごとにかなり待たされるため、少なくとも私は、PDFのものを画面で集中して読み進むことができない。 紙の世界ときわめて親和性が高いことは、PDFを用意する側の心理にも影響を与えるように思う。 多くのPDFファイルが、紙用の頁を作ったついでに作られている。最初から、ネットワークで配って画面で読んでもらうことを前提としたはずのものも、多くは紙の常識を引きずっている。紙に最適化されたデザインの流儀が、PDFではどこまでも幅を利かせている。 紙の常識を、画面に持ち込むのは不適切だろうか。 「適切でない」と、私は考える。 例えば文字の大きさだ。 印刷物を読むとき、私たちは目にとってもっとも負担の少ないところまで対象を近づけて、文字を追う。25〜30cmのこの隔たりを、明視距離と呼ぶ。印刷時の文字の大きさは、この距離で見てもっとも読みやすようにに決められている。デザイナーや編集者はこんな言葉を使わないが、感覚的に選んだ結果、サイズは明視距離に最適化される。 一方ディスプレイを眺めるときは、画面の解像度によってどこまで近づけるかが決まる。性能のいいコンピューター用のディスプレイにはかなり近づけるが、印刷物を読む際の明視距離までは寄れない。紙よりも離れて見ざるを得ないのだから、画面に置く文字は大き目にしてはじめてバランスが取れる。 紙に最適化して小さな文字で行くのか、画面に合わせて大きめの文字を選ぶのか、私たちは選ばざるを得ないのだ。 そこでエキスパンドブックは明確に画面を取って、大きな文字を標準サイズとしている。一方紙の常識が強い引力として働いているPDFの世界では、文字サイズは小さめに設定されやすい。(この件を突っ込むとますます長くなるので、BCN紙に書いた関連のコラムにリンクを張って済ませたい) エキスパンドブックは、画面で読むためのものだ。プリントアウトすると、目も当てられないことになる。 一方PDFは、プリントアウトしてこそ生きる。作る側はついつい紙の常識に縛られてデザインするし、画面上のもたもたした動作は読み手の意識の集中を阻み、ここでも「打ち出そう」とする圧力がかかる。 私は、〈本の未来〉とも言うべき新しい文書交換の場が、ネットワークされたコンピューターの上に開けて欲しいと思っている。読むという行為も、ディスプレイの中ですませるべきだと考える。「紙の本の方が圧倒的に読みやすい。紙に打ち出した文字の方が、現在の画面上の文字よりよほど目にやさしい」ことは間違いがない。それでも、進むべき道は、画面の中にこそあると確信している。 なぜなら、紙の上の文字には未来がないからだ。500年と少し前に活版印刷の技術が成立した時点から、紙の本は本質的な進化を体験していない。一方、画面上の、今はまだ読みにくさを残した文字の先には、はっきりと未来が見えている。 あくまでネットワークされたコンピューターの上で物事を進めれば、リンクという新しく獲得した武器が文章で生かせる。読んで、書いて、人に渡すという作業を、一連の流れの中で進められる。世界中の知識に、検索エンジンを通じて問いかけられる。機械翻訳の支援を受けたり、音声や点字に変換したりといった芸当も演じられる。 進むべき大道はやはり、画面の中にこそある。 本線は、〈テキスト、HTML、エキスパンドブック〉でいい。 しかし、例えば入谷さんがPDFにかける期待を、否定しようとは思わない。 手仕事で、粋をこらした装幀を本に施す、ルリユールと呼ばれる世界がある。この分野の専門家に会ってこんな話を聞いたという実に興味深い書き込みを、NIFTY SERVEで読んだ。 「先日、あるルリユールの展覧会に行ったときお会いした製本家の方は、文学作品の電子テキストがたくさん公開されていけば、自分の気に入ったテキストを紙に戻し、自由な手法で製本することができるとおっしゃってました。 まったく行き方は逆ですが、コレも一種の電子本なのではないでしょうか。」 本の未来の本筋は、画面の中にあると信じる私だが、こんな枝葉が伸びれば素晴らしいと思う。 もうすぐ呼びかけ人の仲間に加わって下さるはずのLUNA CATさんは、画面の中で読む電子本の装幀を自分流にアレンジする、電子ルリユールに関心を寄せている。 青空文庫に登録させてもらった作品の中には、エキスパンドブック版のみのものもある。先日登録した、翡翠さんの『選挙のユーザー インターフェイス』もその一つだ。翡翠さんは、「おそらくこのデザインを思いつかなかったら、公表しなかった文章だと思う」とおっしゃっている。 しばらく前には、青空文庫のテキストを使って、Newtonで読むNewtonBookを作りたいという提案があった。こんなのも、楽しいじゃないか。 「〈本〉というくくりもなくていい。ネットワークされたコンピューターの上で、新しい文書交換の世界を開くことこそが本質的な課題だ!」と理屈ばかりがなり立てている私だが、その本線から様々な枝が伸びて、そこここに美しい実がなることを否定しようとは思わない。 「デザイン込みで私の本」と考える方が、エキスパンドブックだけを登録されるのなら、それはちっとも構わない。 同様に、入谷さんが美しい、端正なプリントアウトを目指してPDFを登録して下さるのなら、それもまた大歓迎である。(倫) もどる |