骨を削りつつ歩む ——文壇苦行記——

佐左木俊郎




 惑(まど)いし途

 私が作家として立とうと決心したのは、廿一の秋で、今から五年前の事である。そうと意志のきまるまでは、随分種々と他動的に迷わされていたが、私を決心に導いてくれたものは私の病気だった。
 私は廿一の歳に二度病気をした。第一回目は関節炎で、神田の馬島病院に二週間入院して、弁護士の今村力三郎先生から——私はその頃、今村先生のお宅に書生をしていたのだが——入院料を百円程払って頂いた。第二回目は肋膜(ろくまく)で、京橋の福田病院と赤十字病院に、両方で約五十日ばかりいた。この時には、今村先生は五六百円程払って下さった筈(はず)だ。
 作家になろうと決心したのは、まだ福田病院にいた時の事で、或る若いお医者様から、癒(なお)っても二年ぐらいは、ぶらぶらして休養していた方がいいように聴(き)かされたからであった。私は前々から文学に心を動かされていたのであったが、私の意志の薄弱なところへ持って来て四辺(あたり)の人々がみんな、文学をやりたいという私の希望に不賛成だったので、私はそれまで学校を更(か)えて見たり、目的を改めて見たりばかりしていた。だが、二年もぶらぶら遊ぶことになると、その間に独学ででも文学をやるとしたら、何か掴(つか)むところがあるだろうと思った。で到頭、文学をやることに決心した。
 今村家で大変可愛がられていた私は、令息の学郎さんから、読みたいと言えば、大抵の本は求めてもらうことが出来たので、学校の方も一生懸命やる約束で求めてもらうのではあったけれども、私は学校の方は怠(なま)けて落第しそうになりながらも、文学の本ばかり読み耽(ふけ)っていた。馬島病院にいた頃にも、やはり学郎さんから種々な本を買ってもらって読んだ。福田病院では、附添(つきそい)に来てくれた美波さんという看護婦が文学好きだったので、私が未だ読書を制(と)められていた頃から、毎日のように読んでもらっていた。そんなこんなのことが、私を文学へと引っぱって行った。
 それに私は、前に学郎さんと一緒に甲州の方へ十日間ばかり旅行して、その時のことを学郎さんと二人で「甲斐の旅」という紀行文を作って、今村先生からほめられた事があった。それから、この年の二月、未だ病気をしなかった頃に、今村家を中心として拵(こしら)えた「流汗主義」という論文的な文章を雑誌「樹蔭」に書いて、この時も今村先生からほめて頂いた。そうで無くてさえ、文学には有頂天だったのだから、佐々木にしてはうまいものだと言う今村先生のおほめを、自分で全(ちゃっ)かり佐々木はうまいものだ! にしてしまって、下手(へた)の横好きという俗諺(ぞくげん)の通りに、私は到頭、文章家として立とうと決心したのであった。大正九年の初秋、玉蜀黍(とうもろこし)の葉末に、秋らしい微風の音を聞く頃……。

 病弱時代

 赤十字病院を退院すると私はすぐに、大船(おおふな)の常楽寺に行って静養する事になった。そこには今村のお嬢さんが絵の稽古旁々(かたがた)松洲先生等と一緒に避暑に行っていたからであった。ところが私は、未だ文章家として立とうと決心したばかりなのに、病院にいるうちから書きたくて書きたくてむずむずしていた。病院からも、早く書いて見たくて、本当に未だ退院の出来ないのを無理に出てしまったのだった。だが松洲先生やお嬢さんは、私の身体(からだ)のことを心配してくれて、読書さえも控え目にするように言ってくれた。しかし私は、矢も楯(たて)もたまらない程書いて見たくって、松洲先生やお嬢さんには隠れて、墓石の上や、草原の中で書いたりした。だが到頭見つかって、その時には自分でも、自分の身体の事を考えない野蛮的なのに顔を紅(あか)くした。それから暫(しばら)く書くのを罷(や)めていたが、やっぱり書かずにはどうしてもいられないような気がしたので、わざわざ山の中に隠れては書いて来た。
 十月になって私は鎌倉へ越して行った——みんなは東京へ引き上げたから。私はここでも創作をすることを許されなかった。二カ月もいるうちに、二篇の短篇、五十枚ばかりきり書けなかった。毎日海岸に出ては、すっかりメランコリイになって泣いてばかりいた。そしてセンチメンタルな詩ばかり作っていた。
 私は到頭郷里に帰って行くことにした。病弱な身体で寒い北国に行くことは、みんなから反対を受けた。だが私に取っては、思うままに書くことの出来ないのは、もっと辛(つら)かったのだ。そして暮れまでの約一カ月間に、三百枚計画の長篇小説を恰度(ちょうど)半分書き上げた。機関車へ乗りたくって、北海道へ飛び出して行った時の事を書いたのだった。
 郷里には五月の末までいたが、その間に十篇の短篇小説を書いた。その中の「石油びん」と「小鳥撃」の二篇は、生田春月(いくたしゅんげつ)氏の選で、「新興文壇」という小雑誌に載った。その時の嬉しさは未だに忘れられない。そして私は、田舎(いなか)で書いた一篇の長篇と十篇の短篇を抱いて東京に出て来たが、また今村家の食客だった。

 恩恵を棄て

 私は何も書くことの出来ないのに堪えられなくなって、遂に今村家から飛び出して、通信事務員になったり裁判所の雇(やとい)になったりして勉強はしていたが、読むだけで書くことが出来なかったので、作家になることを断念しようと思った。で或る日、室生犀星(むろおさいせい)氏を訪ねて「顔を紅める頃」という短篇小説を見てもらったら、率直でいいが、もっと勉強しなければいけないと言われた。もっと読めというのであった。私はその言葉に力を得て読書に全力を注いだのであったが、遂にまた病気にかかってしまった。そして又おめおめと郷里に帰った。
 郷里では、いい物笑いの的(まと)ではあったろうけれども、私は今度こそはという意気込みで、翌年の春までには、二つの長篇小説と、八つの短篇小説を書いた。病気はまもなく癒(なお)ったので、寒い吹雪の日も、火の無いところで書いたが、インキが凍るので困った。妹が同情して、自分の小遣い銭で炭を買ってくれた事もあった。父が原稿を書くことにあまり好意を持っていなかったので、原稿紙を買ってもらうことも出来ず、「流れ行く運命」という長篇は全部、小学校の教員をしている友人から、生徒が鉛筆で答案を書いた藁(わら)半紙をもらって、そこへ毛筆で書いた。インキを買う金も無かったので。
 原稿紙だけでも欲しいだけ買いたいものだというので、私はまた東京へ出て来た。そしてまた裁判所の雇になったが、廿四円ばかりにしかならなかったので、今村の奥さんが宅に来るようにとすすめてくれるので、また図々(ずうずう)しくやっては行ったが、今度は私も考えなければならなかった。で或る日、自分が文章家として立とうと思っている事を打ち明けた。無論、みんな反対だった。で私は、労働でもやろうと考えて、今村家から出て川口町の鉄工所へと行った。
 その頃、私を今村家へ書生に入れてくれた、私の従兄弟(いとこ)の岡本という人が、東京市の工事担当員になっていたので、私は岡本さんの事務を手伝うことになった。鉄工所には一週間ぐらいしかいなかった。市役所に這入(はい)ってから、またまた芸術というものの真髄を掴(つか)みたいという野心が起こって、日大の美学科に籍を置いて、哲学とか美学とかいう様な学科に力を入れて見たが、結局、何物も掴み得ず秋になった。
 秋になると私は、また無暗(むやみ)に書きたいので役所を怠(なま)けて書き出した。随(したが)って役所の方との関係が面白く無くなり、それと同時に、工科の学校へでも通うようにして、務めの方を真面目(まじめ)にやってほしいという、上の人達の強制的な要求だったので、私は遂に、文学から遠ざからない限りに於いては、失職者とならなければならなかった。私はちょっとの間路頭に迷っていた。——文学をやることが、どうしてこんなに皆から嫌われるのだろう? と私は思った。
 恰度(ちょうど)その頃、「現代公論」という政治雑誌が文芸欄を設けることになり、記者を募集しているのを新聞広告で知り、ことによったらと思って応募して見たらうまくパスし、探訪や編輯をやらされ、翌年の春まではそっちで食べていたようなものの、結局、得るところは四つか五つかの短篇を書き得たに過ぎなかった。

 職に苦しむ

 一九二三年の五月になって、私の生活は、……内的生活も、実際生活も……全く一変した。私は従兄弟の世話で再び市役所に逆戻りすると同時に、二年の間恋し合っていた女と結婚をした。その結婚がまた親に逆(さか)らった自由結婚だったので、今までは幾らかずつの補助を受けていた親からも全く構ってもらうことが出来なくなり、私は自分の腕一本で、貧と闘いながら自分の目的への途をすすまなければいけなくなった。
 私は結婚をしてから暫(しばら)くの間は、妻と共に詩ばかり作っていた。創作の方の収穫は秋までに、短篇小説を七篇と戯曲を一篇きり書けなかった。宮地嘉六氏と内藤辰雄氏の鞭撻(べんたつ)のお蔭で、かなり力の入れどころも知ったように思ったが、八月号の「新興文学」誌上で、宮島新三郎氏から、内面描写が足り無いという評を受けてからは、私は自分の力がスプリングのように撥(は)ね上がったように思った。
 私は震災の時には、二人の鮮人を救おうとしたので、もう少しで殺されるところであった。——その当時のことを詳しく書いた「恐怖の巷」は、近い中(うち)に単行本で出版されると思う。——その揚句(あげく)にはまた、私は複雑した関係から市役所を馘首(くび)になり、妻と二人で浮草のように漂泊しなければならない身となった。そして遂には、寒い真冬を目がけて北国の田舎へ行かねばならなかった。私達はその時泣いた。
 田舎では、私は半労働をしながら創作を続け、妻は呪(のろ)われた自分達の運命を泣き暮らした。そして翌一九二四年の早春、私が監獄部屋を背景とした長篇と、農村を描いた中篇小説とを書き上げた頃、妻は女の子を産んだ。私達の生活はなお一入(ひとしお)苦しくなって来た。だが私達は、私がさらに五篇の戯曲と三篇の短篇小説を書き上げる間、苦しい生活の中に堪えていた。
 そして私は四月の上旬に、この十篇の創作を抱いて東京に出た。どこかへ売りつけようという目論見(もくろみ)ではあったが、つい気がひけて出来なかった。

 労働しながらの創作

 私が作家として立とうと決心した時既に、いつかはこういう生活が来るだろうと覚悟はしていたのであったから、別に狼狽(ろうばい)はしなかったが、私達は全く生活に困ってしまった。どこを探しても職は無し、原稿は売れず、殆んどどうしていいか判らなかった。そこで私は筋肉労働をやることにきめたのだが、その時はもう労働を探しに行く電車賃も無かった。しかし、今になって他の道に走ったって恵まれるものでは無い! 石に噛(かじ)りついてもやって見せるという気が私の心の中に起こった。宮地氏から借りた金で武蔵野村に行き、いよいよ筋肉労働を始めたのは五月の七日であった。初めの中は毎日、その日の十一時間の労働のことを思っては、瞼(まぶた)に泪(なみだ)を溜めて出て行った。だが私の生活はやがて精神的にも恵まれて来た。私は仕事から帰って来て創作をするのをその日の楽しみにした。昼の間、十一時間も労働をしながら思索した事が夜になって三四枚の原稿に変わった。「文章倶楽部」に載った「首を失った蜻蛉」も、この頃に、労働を始める前の、求職に苦しんでいた時の事を書いたものであった。私は毎日、仕事場では一篇の詩を作ってかえり、夜は大抵十一時頃まで小説を書いた。昼の間は労働をしなければならないという考えがあるので、心が全く緊張して、労働から帰って来ると、昼の間に思索に思索を練って、自分の時間になるのを待っているために、この一年は却(かえ)って勉強が出来た。労働をして帰ってから、長篇を書く時などは、一晩の中に十五六枚書けたこともあった。そんな時は一時過ぎまでも起きているので、翌朝六時に家を出かけるのは随分辛かった。
 秋になって私は、加藤武雄氏の鞭捷によって一入(ひとしお)の努力を続けた。そして工事場では詩を作るのをやめ、休息の時間を利用して読書をすることにした。十一月には赤痢にも罹(かか)って床に就いたりしたが、私に取ってはこの年ほど勉強の出来た年はない。本もかなり厚いのばかりが二十数冊読めた。こうした労働はいいものだ。だからやっているのではないが、私は今も半労働を続けている。今この原稿を書いている私の手は、皸(あかぎれ)と罅(ひび)とで色が変わっているほどだが、晩年のトルストイの手のことを思うとなんでもない。ただ、皸に貼った膏薬(こうやく)のために、手がこわばって困るだけだ。しかし、去年の五月から今年の一月十日までに、二篇の長篇と、短篇を十九篇書き得たのだから、いくら労働しながらでも、今年はもっと書けることと思う。
——大正十四年(一九二五年)『文章倶楽部』三月号——



底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
   1984(昭和59)年4月14日初版
入力:大野晋
校正:湯地光弘
ファイル作成:野口英司
1999年12月6日公開
青空文庫作成ファイル:
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