インドラの網《あみ》
宮沢賢治
[表記について]
●底本に従い、ルビは小学校1・2年の学習配当漢字を除き、すべての漢字につけた。ただし、本テキスト中では、初出のみにつける方法とした。
●ルビは「《ルビ》」の形式で処理した。
●JISにない外字は「※」で代用し、字形についてはファイル末尾に置いたグラフィックで示した。
●[※1〜17]は、入力者の補注を示す。注はファイルの末尾にまとめた。
●本文中で使われているJIS外字1字については、ファイルの末尾で字形を示した。
そのとき私は大へんひどく疲《つか》れていてたしか風と草穂《くさぼ》との底《そこ》に倒《たお》れていたのだとおもいます。
その秋風の昏倒《こんとう》の中で私は私の錫《すず》いろの影法師《かげぼうし》にずいぶん馬鹿《ばか》ていねいな別《わか》れの挨拶《あいさつ》をやっていました。
そしてただひとり暗《くら》いこけももの敷物《カアペット》を踏《ふ》んでツェラ高原をあるいて行きました。
こけももには赤い実《み》もついていたのです。
白いそらが高原の上いっぱいに張《は》って高陵産《カオリンさん》[※1]の磁器《じき》よりもっと冷《つめ》たく白いのでした。
稀薄《きはく》な空気がみんみん鳴っていましたがそれは多分は白磁器《はくじき》の雲の向《むこ》うをさびしく渡《わた》った日輪《にちりん》がもう高原の西を劃《かぎ》る黒い尖々《とげとげ》の山稜《さんりょう》の向うに落《お》ちて薄明《はくめい》が来たためにそんなに軋《きし》んでいたのだろうとおもいます。
私は魚のようにあえぎながら何べんもあたりを見まわしました。
ただ一かけの鳥も居《い》ず、どこにもやさしい獣《けだもの》のかすかなけはいさえなかったのです。
(私は全体《ぜんたい》何をたずねてこんな気圏《きけん》の上の方、きんきん痛《いた》む空気の中をあるいているのか。)
私はひとりで自分にたずねました。
こけももがいつかなくなって地面《じめん》は乾《かわ》いた灰《はい》いろの苔《こけ》で覆《おお》われところどころには赤い苔の花もさいていました。けれどもそれはいよいよつめたい高原の悲痛《ひつう》を増《ま》すばかりでした。
そしていつか薄明は黄昏《たそがれ》に入りかわられ、苔の花も赤ぐろく見え西の山稜の上のそらばかりかすかに黄いろに濁《にご》りました。
そのとき私ははるかの向うにまっ白な湖《みずうみ》を見たのです。
(水ではないぞ、また曹達《ソーダ》や何かの結晶《けっしょう》だぞ。いまのうちひどく悦《よろこ》んで欺《だま》されたとき力を落《おと》しちゃいかないぞ。)私は自分で自分に言いました。
それでもやっぱり私は急《いそ》ぎました。
湖はだんだん近く光ってきました。間もなく私はまっ白な石英《せきえい》の砂《すな》とその向うに音なく湛《たた》えるほんとうの水とを見ました。
砂がきしきし鳴りました。私はそれを一つまみとって空の微光《びこう》にしらべました。すきとおる複六方錐《ふくろくほうすい》[※2]の粒《つぶ》だったのです。
(石英安山岩《せきえいあんざんがん》か流紋岩《りゅうもんがん》から来た。)
私はつぶやくようにまた考えるようにしながら水際《みずぎわ》に立ちました。
(こいつは過冷却《かれいきゃく》の水だ。氷相当官《こおりそうとうかん》なのだ。)私はも一度《いちど》こころの中でつぶやきました。
全《まった》く私のてのひらは水の中で青じろく燐光《りんこう》を出していました。
あたりが俄《にわか》にきいんとなり、
(風だよ、草の穂《ほ》だよ。ごうごうごうごう。)こんな語《ことば》が私の頭の中で鳴りました。まっくらでした。まっくらで少しうす赤かったのです。
私はまた眼《め》を開《ひら》きました。
いつの間にかすっかり夜になってそらはまるですきとおっていました。素敵《すてき》に灼《や》きをかけられてよく研《みが》かれた鋼鉄製《こうてつせい》の天の野原に銀河《ぎんが》の水は音なく流《なが》れ、鋼玉《こうぎょく》[※3]の小砂利《こじゃり》も光り岸《きし》の砂も一つぶずつ数えられたのです。
またその桔梗《ききょう》いろの冷《つめ》たい天盤《てんばん》には金剛石《こんごうせき》[※4]の劈開片《へきかいへん》[※5]や青宝玉《せいほうぎょく》[※6]の尖《とが》った粒やあるいはまるでけむりの草のたねほどの黄水晶《きずいしょう》[※7]のかけらまでごく精巧《せいこう》のピンセットできちんとひろわれきれいにちりばめられそれはめいめい勝手《かって》に呼吸《こきゅう》し勝手にぷりぷりふるえました。
私はまた足もとの砂を見ましたらその砂粒の中にも黄いろや青や小さな火がちらちらまたたいているのでした。恐《おそ》らくはそのツェラ高原の過冷却《かれいきゃく》湖畔《こはん》も天の銀河の一部《いちぶ》と思われました。
けれどもこの時は早くも高原の夜は明けるらしかったのです。
それは空気の中に何かしらそらぞらしい硝子《ガラス》の分子のようなものが浮《うか》んできたのでもわかりましたが第一《だいいち》東の九つの小さな青い星で囲《かこ》まれたそらの泉水《せんすい》のようなものが大へん光が弱くなりそこの空は早くも鋼青《こうせい》から天河石《てんがせき》[※8]の板《いた》に変《かわ》っていたことから実《じつ》にあきらかだったのです。
その冷たい桔梗色《ききょういろ》の底光《そこびか》りする空間を一人の天[※9]が翔《か》けているのを私は見ました。
(とうとうまぎれ込《こ》んだ、人の世界《せかい》のツェラ高原の空間から天の空間へふっとまぎれこんだのだ。)私は胸《むね》を躍《おど》らせながら斯《こ》う思いました。
天人はまっすぐに翔けているのでした。
(一瞬《いっしゅん》百由旬《ゆじゅん》[※10]を飛んでいるぞ。けれども見ろ、少しも動《うご》いていない。少しも動かずに移《うつ》らずに変らずにたしかに一瞬百由旬ずつ翔けている。実にうまい。)私は斯うつぶやくように考えました。
天人の衣《ころも》はけむりのようにうすくその瓔珞《ようらく》[※11]は昧爽《まいそう》[※12]の天盤《てんばん》からかすかな光を受《う》けました。
(ははあ、ここは空気の稀薄《きはく》が殆《ほと》んど真空《しんくう》に均《ひと》しいのだ。だからあの繊細《せんさい》な衣のひだをちらっと乱《みだ》す風もない。)私はまた思いました。
天人は紺《こん》いろの瞳《ひとみ》を大きく張《は》ってまたたき一つしませんでした。その唇《くちびる》は微《かす》かに哂《わら》いまっすぐにまっすぐに翔けていました。けれども少しも動かず移らずまた変りませんでした。
(ここではあらゆる望《のぞ》みがみんな浄《きよ》められている。願《ねが》いの数はみな寂《しず》められている。重力《じゅうりょく》は互《たがい》に打《う》ち消《け》され冷たいまるめろ[※13]の匂《にお》いが浮動《ふどう》するばかりだ。だからあの天衣《てんい》の紐《ひも》も波《なみ》立たずまた鉛直《えんちょく》に垂《た》れないのだ。)
けれどもそのとき空は天河石《てんがせき》からあやしい葡萄瑪瑙《ぶどうめのう》の板に変りその天人の翔ける姿《すがた》をもう私は見ませんでした。
(やっぱりツェラの高原だ。ほんの一時のまぎれ込みなどは結局《けっきょく》あてにならないのだ。)斯う私は自分で自分に誨《おし》えるようにしました。けれどもどうもおかしいことはあの天盤のつめたいまるめろに似《に》たかおりがまだその辺《へん》に漂《ただよ》っているのでした。そして私はまたちらっとさっきのあやしい天の世界の空間を夢《ゆめ》のように感《かん》じたのです。
(こいつはやっぱりおかしいぞ。天の空間は私の感覚《かんかく》のすぐ隣《とな》りに居《い》るらしい。みちをあるいて黄金いろの雲母《うんも》のかけらがだんだんたくさん出て来ればだんだん花崗岩《かこうがん》に近づいたなと思うのだ。ほんのまぐれあたりでもあんまり度々《たびたび》になるととうとうそれがほんとになる。きっと私はもう一度この高原で天の世界を感ずることができる。)私はひとりで斯う思いながらそのまま立っておりました。
そして空から瞳を高原に転《てん》じました。全く砂はもうまっ白に見えていました。湖は緑青《ろくしょう》よりももっと古びその青さは私の心臓《しんぞう》まで冷たくしました。
ふと私は私の前に三人の天の子供《こども》らを見ました。それはみな霜《しも》を織《お》ったような羅《うすもの》[※14]をつけすきとおる沓《くつ》をはき私の前の水際《みずぎわ》に立ってしきりに東の空をのぞみ太陽《たいよう》の昇《のぼ》るのを待《ま》っているようでした。その東の空はもう白く燃《も》えていました。私は天の子供らのひだのつけようからそのガンダーラ系統《けいとう》なのを知りました。またそのたしかに于《コウ》※《タン》大寺の廃趾《はいし》から発掘《はっくつ》された壁画《へきが》の中の三人なことを知りました。私はしずかにそっちへ進《すす》み愕《おどろ》かさないようにごく声低《ひく》く挨拶《あいさつ》しました。
「お早う、于※《タン》大寺の壁画の中の子供さんたち。」
三人一緒《いっしょ》にこっちを向きました。その瓔珞のかがやきと黒い厳《いか》めしい瞳。
私は進みながらまた云《い》いました。
「お早う。于※《タン》大寺の壁画の中の子供さんたち。」
「お前は誰《だれ》だい。」
右はじの子供がまっすぐに瞬《またたき》もなく私を見て訊《たず》ねました。
「私は于※《タン》大寺を沙《すな》の中から掘《ほ》り出した青木晃《あおきあきら》というものです。」
「何しに来たんだい。」少しの顔色もうごかさずじっと私の瞳を見ながらその子はまたこう云いました。
「あなたたちと一緒にお日さまをおがみたいと思ってです。」
「そうですか。もうじきです。」三人は向うを向きました。瓔珞は黄や橙《だいだい》や緑《みどり》の針《はり》のようなみじかい光を射《い》、羅は虹《にじ》のようにひるがえりました。
そして早くもその燃え立った白金のそら、湖の向うの鶯《うぐいす》いろの原のはてから熔《と》けたようなもの、なまめかしいもの、古びた黄金、反射炉《はんしゃろ》の中の朱《しゅ》、一きれの光るものが現《あら》われました。
天の子供らはまっすぐに立ってそっちへ合掌《がっしょう》しました。
それは太陽でした。厳《おごそ》かにそのあやしい円《まる》い熔けたようなからだをゆすり間もなく正しく空に昇《のぼ》った天の世界の太陽でした。光は針や束《たば》になってそそぎそこらいちめんかちかち鳴りました。
天の子供らは夢中《むちゅう》になってはねあがりまっ青《さお》な寂静印《じゃくじょういん》[※15]の湖の岸硅砂《きしけいしゃ》[※16]の上をかけまわりました。そしていきなり私にぶっつかりびっくりして飛《と》びのきながら一人が空を指《さ》して叫《さけ》びました。
「ごらん、そら、インドラ[※17]の網を。」
私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂《てんちょう》から四方の青白い天末《てんまつ》までいちめんはられたインドラのスペクトル製《せい》の網、その繊維《せんい》は蜘蛛《くも》のより細く、その組織《そしき》は菌糸《きんし》より緻密《ちみつ》に、透明《とうめい》清澄《せいちょう》で黄金でまた青く幾億《いくおく》互《たがい》に交錯《こうさく》し光って顫《ふる》えて燃えました。
「ごらん、そら、風の太鼓《たいこ》。」も一人がぶっつかってあわてて遁《に》げながら斯う云いました。ほんとうに空のところどころマイナスの太陽ともいうように暗《くら》く藍《あい》や黄金や緑や灰いろに光り空から陥《お》ちこんだようになり誰《だれ》も敲《たた》かないのにちからいっぱい鳴っている、百千のその天の太鼓は鳴っていながらそれで少しも鳴っていなかったのです。私はそれをあんまり永《なが》く見て眼も眩《くら》くなりよろよろしました。
「ごらん、蒼孔雀《あおくじゃく》を。」さっきの右はじの子供が私と行きすぎるときしずかに斯う云いました。まことに空のインドラの網のむこう、数しらず鳴りわたる天鼓《てんこ》のかなたに空一ぱいの不思議《ふしぎ》な大きな蒼い孔雀が宝石製《ほうせきせい》の尾《お》ばねをひろげかすかにクウクウ鳴きました。その孔雀はたしかに空には居《お》りました。けれども少しも見えなかったのです。たしかに鳴いておりました。けれども少しも聞えなかったのです。
そして私は本統《ほんとう》にもうその三人の天の子供らを見ませんでした。
却《かえ》って私は草穂《くさぼ》と風の中に白く倒れている私のかたちをぼんやり思い出しました。
●入力者注
※1 高陵=磁器の原材料の産出で著名な中国の地名。
※2 複六方錐=六辺の三角錐が上下に合わさったもの。
※3 鋼玉=ダイアモンドに次いで堅い鉱石。
※4 金剛石=ダイアモンドのこと。
※5 劈開=鉱物が一定の方向に割れる性質。
※6 青宝玉=サファイアのこと。
※7 黄水晶=シトリンのこと。
※8 天河石=アマゾナイトのこと。
※9 天=天人のこと。
※10 由旬=古代インドで使われた距離の単位。1由旬は7〜9マイルともいわれる。
※11 瓔珞=仏像の装飾に用いられるインドの装身具。
※12 昧爽=薄明のこと。
※13 まるめろ=バラ科の植物名。
※14 羅=薄物。薄く織った織物またはその織物で作った夏用の衣服。
※15 寂静印=仏教の絶対基準の1つ、「悟りの境地」のこと。
※16 硅砂=「硅」はシリカを指す。
※17 インドラ=帝釈天。インドのヴェーダ神話の神が仏教に取り入れられたもので、仏法を護る神。その宮殿の屋根には美しい網がかかる。
●外字について
于※《タン》大寺の「※」の字形は、
底本:「インドラの網」角川文庫、角川書店
1996(平成8)年6月20日再版発行
底本の親本:「新校本 宮澤賢治全集」筑摩書房
1995(平成7)年5月発行
入力:浜野智
校正:浜野智
ファイル作成:浜野智
1999年1月31日公開
1999年8月26日修正
青空文庫作成ファイル:
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