教育と文芸・『東洋美術図譜』・イズムの功過
夏目漱石
教育と文芸
——明治四十四年六月十八日長野県会議事院において——
私は思いがけなく前から当地の教育会の御招待を受けました。凡(およ)そ一カ月前に御通知がありましたが、私は、その時になって見なければ、出られるか出られぬか分らぬために、直(すぐ)にお答をすることが出来ませんでした。しかし、御懇切(ごこんせつ)の御招待ですから義理にもと思いまして体だけ出懸(か)けて参りました。別に面白いお話も出来ません、前(ぜん)申した通り体だけ義理にもと出かけたわけであります。
私のやる演題はこういう教育会の会場での経験がないのでこまりました。が、名が教育会であるし、引受ける私は文学に関係あるものであるから、教育と文芸という事にするが能(よ)いと思いまして、こういう題にしました。この教育と文芸というのは、諸君が主であるからまげて教育をさきとしたのであります。
よく誤解される事がありますので、そんな事があっては済みませんから、ちょっと注意を申述(もうしの)べて置きます。教育といえばおもに学校教育であるように思われますが、今私の教育というのは社会教育及(および)家庭教育までも含んだものであります。
また私のここにいわゆる文芸は文学である、日本における文学といえば先(まず)小説戯曲(ぎきょく)であると思います。順序は矛盾しましたが、広義の教育、殊に、徳育とそれから文学の方面殊に、小説戯曲との関係連絡の状態についてお話致します。日本における教育を昔と今とに区別して相(あい)比較するに、昔の教育は、一種の理想を立て、その理想を是非実現しようとする教育である。しこうして、その理想なるものが、忠とか孝とかいう、一種抽象した概念を直(ただ)ちに実際として、即ち、この世にあり得るものとして、それを理想とさせた、即ち孔子を本家(ほんけ)として、全然その通りにならなくともとにかくそれを目あてとして行くのであります。
なお委(くわ)しくいいますと聖人といえば孔子、仏(ほとけ)といえば釈迦(しゃか)、節婦(せっぷ)貞女忠臣孝子は、一種の理想の固(かた)まりで、世の中にあり得ないほどの、理想を以て進まねばならなかった。親が、子供のいう事を聞かぬ時は、二十四孝(にじゅうしこう)を引き出して子供を戒(いまし)めると、子供は閉口(へいこう)するというような風であります。それで昔は上の方には束縛がなくて、上の下に対する束縛がある、これは能(よ)くない、親が子に対する理想はあるが子が親に対する理想はなかった。妻が夫に臣が君に対する理想はなかったのです。即ち忠臣貞女とかいうが如きものを完全なものとして孝子は親の事、忠臣は君の事、貞女は夫の事をばかり考えていた。誠にえらいものである。その原因は科学的精神が乏しかったためで、その理想を批評せず吟味(ぎんみ)せずにこれを行(おこな)って行(い)ったというのである。また昔は階級制度が厳しいために過去の英雄豪傑は非常にえらい人のように見えて、自分より上の人は非常にえらくかつ古人が世の中に存在し得るという信仰があったため、また、一(ひとつ)は所が隔(へだ)たっていて目(ま)のあたり見なれぬために遠隔の地の人のことは非常に誇大(こだい)して考えられたものである、今は交通が便利であるためにそんな事がない、私などもあまり飛び出さないと大家(たいか)と見られるであろう。
さて当時は理想を目前に置き、自分の理想を実現しようと一種の感激を前に置いてやるから、一種の感激教育となりまして、知の方は主でなく、インスピレーションともいうような情緒(じょうしょ)の教育でありました。なんでも出来ると思う、精神一到(せいしんいっとう)何事(なにごとか)不成(ならざらん)というような事を、事実と思っている。意気天を衝(つ)く。怒髪(どはつ)天をつく。炳(へい)として日月(じつげつ)云々(うんぬん)という如き、こういう詞(ことば)を古人は盛(さかん)に用いた。感激的というのはこんな有様(ありさま)で情緒的教育でありましたから一般の人の生活状態も、エモーショナルで努力主義でありました。そういう教育を受ける者は、前のような有様でありますが社会は如何(どう)かというと、非常に厳格で少しのあやまちも許さぬというようになり、少しく申訳がなければ坊主(ぼうず)となり切腹するという感激主義であった、即ち社会の本能からそういうことになったもので、大体よりこれが日本の主眼とする所でありました、それが明治になって非常に異(ことな)ってきました。
四十余年間の歴史を見ると、昔は理想から出立(しゅったつ)した教育が、今は事実から出発する教育に変化しつつあるのであります、事実から出発する方は、理想はあるけれども実行は出来ぬ、概念的の精神に依って人は成立する者でない、人間は表裏(ひょうり)のあるものであるとして、社会も己(おのれ)も教育するのであります。昔は公(こう)でも私(し)でも何でも皆孝で押し通したものであるが今は一面に孝があれば他面に不孝があるものとしてやって行く。即ち昔は一元的、今は二元的である、すべて孝で貫き忠で貫く事はできぬ。これは想像の結果である。昔の感激主義に対して今の教育はそれを失わする教育である、西洋では迷(まよい)より覚めるという、日本では意味が違うが、まあディスイリュージョン、さめる、というのであります。なぜ昔はそんな風であったか。話は余談に入るが、独逸(ドイツ)の哲学者が概念を作って定義を作ったのであります。しかし巡査の概念として白い服を着てサーベルをさしているときめると一面には巡査が和服で兵児帯(へこおび)のこともあるから概念できめてしまうと窮屈になる。定義できめてしまっては世の中の事がわからなくなると仏国(ふつこく)の学者はいうている。
物は常に変化して行く、世の中の事は常に変化する、それで孔子という概念をきめてこれを理想としてやって来たものが後にこれが間違であったということを悟(さと)るというような場合も出来て来る。こういう変化はなぜ起ったか、これは物理化学博物(はくぶつ)などの科学が進歩して物をよく見て、研究して見る。こういう科学的精神を、社会にも応用して来る。また階級もなくなる交通も便利になる、こういう色々な事情からついに今日の如き思想に変化して来たのであります。
道徳上の事で、古人の少しもゆるさなかったことを、今の人はよほど許容する、我儘(わがまま)をも許す、社会がゆるやかになる、畢竟(ひっきょう)道徳的価値の変化という事が出来て来た。即ち自分というものを発揮してそれで短所欠点悉(ことごと)くあらわす事をなんとも思わない。そして無理の事がなくなる。昔は負惜(まけおし)みをしたものだ、残酷な事も忍んだものだ。今はそれが段々なくなって、自分の弱点をそれほど恐れずに世の中に出す事を何とも思わない。それで古(いにしえ)の人の弊(へい)はどんな事かというと、多少偽(いつわり)の点がありました。今の人は正直で自分を偽らずに現わす、こういう風で寛容的精神が発達して来た。しこうして社会もまたこれを容(い)れて来たのであります。昔は一遍(いっぺん)社会から葬(ほうむ)られた者は、容易に恢復する事が出来なかったが、今日では人の噂も七十五日という如く寛大となったのであります。社会の制裁が弛(ゆる)んだというかも知れませんが一方からいいましたならば、事実にそういう欠点のあり得る事を二元的に認めて、これに寛容的の態度を示したのであります。畢竟(ひっきょう)無理がなくなり、概念の束縛がなくなり、事実が現われたのであります。昔スパルタの教育に、狐を隠してその狐が自分の腸(はらわた)をえぐり出しても、なお黙っていたということがあるが、今はそういう痩我慢(やせがまん)はなくなったのである。現今の教育の結果は自分の特点をも露骨に正直に人の前に現わす事を非常なる恥辱(ちじょく)とはしないのであります。これは事実という第一の物が一元的でないという事を予(あらかじ)め許すからである。私の家へよく若い者が訪ねて参りますがその学生が帰って手紙を寄こす。その中にあなたの家を訪ねた時に思いきって這入(はい)ろうかイヤ這入るまいかと暫く躊躇(ちゅうちょ)した、なるべくならお留守であればよい、更に逢わぬといってくれれば可(よ)いと思ったというような露骨な事が書いてある。昔私らの書生の頃には、人を訪問していなければ可いがと思うてもそういう事をその人の前に告白するような正直な実際的な事はしなかったものである。痩我慢をして実は堂々たるものの如く装(よそお)って人の前にもこれを吹聴(ふいちょう)したのである。感激的教育概念に囚(とらわ)れたる薫化(くんか)がこういう不正直な痩我慢的な人間を作り出したのである。
さて一方文学を攷察(こうさつ)して見まするにこれを大別(たいべつ)してローマンチシズム、ナチュラリズムの二種類とすることが出来る、前者は適当の訳字がないために私が作って浪漫主義として置きましたが、後者のナチュラリズムは自然派と称しております。この両者を前に申述べた教育と対照いたしますと、ローマンチシズムと、昔の徳育即ち概念に囚れたる教育と、特徴を同(おなじゅ)うし、ナチュラリズムと現今の事実を主とする教育と、相通(かよ)うのであります。以前文芸は道徳を超絶(ちょうぜつ)するという議論があり、またこれを論じた大家もあったのでありますけれども、これは大(おおい)なる間違で、なるほど道徳と文芸は接触しない点もあるけれども、大部分は相連(あいつらな)っている。ただ僅かに倫理と芸術と両立せないで、どちらかを捨てねばならぬ場合がないではありません。例えば私がこの机を推している、何時(いつ)しかこの机と共に落ちたとします。この落ちたという事実に対して、諸君は必ず笑われるに違いない。しかし倫理的に申したならば、人が落ちたというに笑うはずがない、気の毒だという同情があって然(しか)るべきである、殊に私のような招かれて来た者に対する礼儀としても笑うのは倫理的でない事は明(あきらか)である。けれども笑うという事と、気の毒だと思う事と、どちらか捨てねばならぬ場合に、滑稽趣味の上にこれを観賞するは、一種の芸術的の見方であります。けれども私が、脳振盪(のうしんとう)を起して倒れたとすれば、諸君の笑(わらい)は必ず倫理的の同情に変ずるに違いありますまい。こういう風に或程度まで芸術と倫理と相離るる部分はあるけれども、最後または根柢には倫理的認容がなければならぬのであります。従って小説戯曲の材料は七分まで、徳義的批判に訴えて取捨選択(しゅしゃせんたく)せられるのであります。恋を描くにローマン主義の場合では途中で、単に顔を合せたばかりで直(す)ぐに恋情が成立ち、このために盲目になったり、跛足になったりして、煩悶懊悩(はんもんおうのう)するというようなことになる。しかしこんな事実は、実際あり得ない事である。其処(そこ)が感激派の小説で、或(ある)情緒を誇大して、即ち抽象的理想を具体化したようなものを作り上げたのであります、事実からは遠いけれど感激は多いのであります。
ローマンチックの道徳は何となしに対象物をして大きく偉く感じさせる。ナチュラリズムの道徳は、自己の欠点を暴露させる正直な可愛らしい所がある。
ローマンチシズムの芸術は情緒的エモーショナルで人をして偉く大きく思わせるし、ナチュラリズムの芸術は理智的で、正直に実際を思わしめる。即ち文学上から見てローマンチシズムは偽(いつわり)を伝えるがまた人の精神に偉大とか崇高(すうこう)とかの現象を認めしめるから、人の精神を未来に結合さする。ナチュラリズムは、材料の取扱い方が正直で、また現在の事実を発揮さすることに勉(つと)むるから、人の精神を現在に結合さする、例えば人間を始めから不完全な物と見て人の欠点を評したるものである。ローマンチシズムは、己(おのれ)以上の偉大なるものを材料として取扱うから、感激的であるけれども、その材料が読む者聞く者には全く、没交渉(ぼつこうしょう)で印象にヨソヨソしい所がある、これに引き換えてナチュラリズムは、如何に汚い下らないものでも、自分というものがその鏡に写って何だか親しくしみじみと感得(かんとく)せしめる。能(よ)く能く考えて見ると人というものは、平時においては軽微の程度におけるローマンチシズムの主張者で、或者を批評したり要求するに自己の力以上のものを以てしている。
一体人間の心は自分以上のものを、渇仰(かつごう)する根本的の要求を持っている、今日よりは明日に一部の望みを有するのである。自分より豪(えら)いもの自分より高いものを望む如く、現在よりも将来に光明(こうみょう)を発見せんとするものである。以上述べた如くローマンチシズムの思想即ち一の理想主義の流れは、永久に変ることなく、深く人心(じんしん)の奥底に永(なが)き生命を有しているものであります。従ってローマン主義の文学は永久に生存の権利を有しております。人心のこの響きに触れている限り、ローマン主義の思想は永久に伝わるものであります。これに反してナチュラリズムの道徳は前述の如く、寛容的精神に富んでいる。事実を事実としてありのままを描いたものが、真のナチュラリズムの文学である。自己解剖、自己批判、の傾向が段々と人心の間に広まりつつあり、精神が極めて平民的に、換言すれば平凡的になって来たのであります。人間の人間らしい所の写実をするのが自然主義の特徴で、ローマン主義の人間以上自己以上、殆んど望んで得べからざるほどの人物理想を描いたのに対して極めて通常のものをそのまま、そのままという所に重きを置いて世態(せたい)をありのままに欠点も、弱点も、表裏(ひょうり)ともに、一元にあらぬ二元以上にわたって実際を描き出すのであります。従ってカーライルの英雄崇拝的傾向の欲求が永久に存在する事は前述の通りであるが今はこれに多少の変化を来(き)たしたという訳であります。
さてかく自然主義の道徳文学のために、自己改良の念が浅く向上渇仰の動機が薄くなるということは必ずあるに相違ない。これは慥(たしか)に欠点であります。
従って現代の教育の傾向、文学の潮流が、自然主義的であるためにボツボツその弊害が表われて、日本の自然主義という言辞は甚だしく卑(いや)しむべきものになって来た。けれどもこれは間違である。自然主義はそんな非倫理的なものではない、自然主義そのものは日本の文学の一部に表われたようなものではなく、単に彼らはその欠点のみを示したのである。前にも言った通り如何に文学といえども決して倫理範囲を脱しているものではなく、少くも、倫理的渇仰の念を何所(いずこ)にか萌(きざ)さしめなければならぬものであります。
人間の心の底に永久に、ローマン主義の英雄崇拝的情緒的の傾向の存する限り、この心は永存するものであるが、それを全く無視して、人間の弱点ばかりを示すのは、文学としての真価を有するものでない、片輪(かたわ)な出来損(できそこな)いの芸術であります。如何に人間の弱点を書いたものでも、その弱点の全体を読む内に何処(いずこ)にかこれに対する悪感(おかん)とか、あるいは別に倫理的の要求とかが読者の心に萌(も)え出(い)づるような文学でなければならぬ。これが人心の自然の要求で、芸術もまたこの範囲にある。今の一部の小説が人に嫌(きら)われるは、自然主義そのものの欠点でなく取扱う同派の文学者の失敗で、畢竟(ひっきょう)過去の極端なるローマン主義の反動であります。反動は正動よりも常規(じょうき)を逸する。故にわれわれは反動として多少この間(かん)の消息を諒(りょう)とせねばならぬ。
さて自然主義は遠慮なく事実そのままを人の前に暴露し、または描き出すため種々なる欠点を生ずるに至りましたが、これを救うは過去のローマン主義を復興するにあらずして、新ローマン主義ともいうべきものを興(おこ)すにあろうかと思う。新ローマン主義というも、全く以前のローマン主義とは別物である。凡(およ)そ歴史は繰返すものなりというけれども、歴史は決して繰返さぬのである、繰返すというのは間違である。如何なる場合にも後戻りをすることなく前へ前へと走っている。
教育及び文芸とても、自然主義に弊害があるからとて、昔には戻らぬ。もし戻ってもそれは全く新なる形式内容を有するもので、浅薄(せんぱく)なる観察者には昔時(せきじ)に戻りたる感じを起させるけれども、実はそうではないのであります。しこうして自然主義に反動したものとするならば、新ローマン主義ともいうべきものは、自然主義対ローマン主義の最後に生ずるはずである。新ローマン主義というとも決して、昔のローマン主義に返ったのではない、全く別物なのであります。
即ち新ローマン主義は、昔時のローマン主義のように空想に近い理想を立てずに、程度の低い実際に近い達成し得(え)らるる目的を立てて、やって行くのである。社会は常に、二元である。ローマン主義の調和は時と場所に依り、その要求に応じて二者が適宜に調諧(ちょうかい)して、甲の場合には自然主義六分ローマン主義四分というように時代及び場所の要求に伴(ともの)うて、両者の完全なる調和を保つ所に、新ローマン主義を認める。将来はこうなる事であろうと思う。
昔の感激的の教育と、当時の情緒的なローマン主義の文芸と今の科学上の真(しん)を重んずる教育主義と、空想的ならざる自然主義の文芸と、相連(あいつらな)って両者の変遷及び関係が明瞭になるのであります。かくして人心に向上の念がある以上、永久にローマン主義の存続を認むると共に、総(すべ)ての真に価値を発見する自然主義もまた充分なる生命を存して、この二者の調和が今後の重(おも)なる傾向となるべきものと思うのであります。
近頃教育者には文学はいらぬというものもあるが、自分の今までのお話は全く教育に関係がないという事が出来ぬ。現時の教育において小学校中等学校はローマン主義で大学などに至っては、ナチュラル主義のものとなる。この二者は密接なる関係を有して、二つであるけれどもつまりは一つに重(かさ)なるものと見てよろしいのであります。故に前(ぜん)申した通り文学と教育とは決して離れないものであるのであります。(文責記者にあり)
——明治四四、七、一『信濃教育』——
『東洋美術図譜』
偉大なる過去を背景に持っている国民は勢いのある親分を控えた個人と同じ事で、何かに付けて心丈夫(こころじょうぶ)である。あるときはこの自覚のために驕慢(きょうまん)の念を起して、当面の務(つとめ)を怠(おこた)ったり未来の計を忘れて、落ち付いている割に意気地(いくじ)がなくなる恐れはあるが、成上(なりあが)りものの一生懸命に奮闘する時のように、齷齪(あくせく)とこせつく必要なく鷹揚自若(おうようじじゃく)と衆人環視の裡(うち)に立って世に処する事の出来るのは全く祖先が骨を折って置いてくれた結果といわなければならない。
余(よ)は日本人として、神武(じんむ)天皇以来の日本人が、如何なる事業をわが歴史上に発展せるかの大問題を、過去に控えて生息するものである。固(もと)より余一人の仕事は、余一人の仕事に違いないのだから、余一人の意志で成就(じょうじゅ)もし破壊もするつもりではあるが、余の過去、——もっと大きくいえば、わが祖先が余の生れぬ前に残して行ってくれた過去が、余の仕事の幾分かを既に余の生れた時に限定してしまったような心持がする。自分は自分のする事についてあくまでも責任を負う料簡(りょうけん)ではあるが、自分をしてこの責任を負わしむるものは自己以外には遠い背景が控えているからだろうと思う。
そう考えながら、新しい眼で日本の過去を振り返って見ると、少し心細いような所がある。一国の歴史は人間の歴史で、人間の歴史はあらゆる能力の活動を含んでいるのだから政治に軍事に宗教に経済に各方面にわたって一望(いちぼう)したらどういう頼母(たのも)しい回顧(かいこ)が出来ないとも限るまいが、とくに余に密接の関係ある部門、即ち文学だけでいうと、殆んど過去から得るインスピレーションの乏しきに苦しむという有様(ありさま)である。人は『源氏物語』や近松(ちかまつ)や西鶴(さいかく)を挙げてわれらの過去を飾るに足る天才の発揮と見認(みと)めるかも知れないが、余には到底(とうてい)そんな己惚(うぬぼれ)は起せない。
余が現在の頭を支配し余が将来の仕事に影響するものは残念ながら、わが祖先のもたらした過去でなくって、かえって異人種の海の向うから持って来てくれた思想である。一日余は余の書斎に坐って、四方に並べてある書棚を見渡して、その中に詰まっている金文字の名前が悉(ことごと)く西洋語であるのに気が付いて驚いた事がある。今まではこの五彩(ごさい)の眩(まば)ゆいうちに身を置いて、少しは得意であったが、気が付いて見ると、これらは皆異国産の思想を青く綴(と)じたり赤く綴じたりしたもののみである。単に所有という点からいえば聊(いささ)か富という念も起るが、それは親の遺産を受け継いだ富ではなくって、他人の家へ養子に行って、知らぬものから得た財産である。自分に利用するのは養子の権利かも知れないが、こんなものの御蔭を蒙るのは一人前(いちにんまえ)の男としては気が利(き)かな過ぎると思うと、あり余る本を四方に積みながら非常に意気地(いくじ)のない心持がした。
『東洋美術図譜』は余にこういう料簡(りょうけん)の起(おこ)った当時に出版されたものである。これは友人滝(たき)君が京都大学で本邦美術史の講演を依託された際、聴衆に説明の必要があって、建築、彫刻、絵画の三門にわたって、古来から保存された実物を写真にしたものであるから、一枚一枚に観て行くと、この方面において、わが日本人が如何なる過去をわれわれのために拵(こしら)えて置いてくれたかが善(よ)く分る。余の如き財力の乏しいものには参考として甚だ重宝(ちょうほう)な出版である。文学において悲観した余はこの図譜を得たために多少心細い気分を取り直した。図譜中にある建築彫刻絵画ともに、あるものは公平に評したら下らないだろうと思う。あるものは『源氏物語』や近松や西鶴以下かも知れない。しかしその優(すぐ)れたものになると決して文学程度のものとはいえない。われわれ日本の祖先がわれわれの背景として作ってくれたといって恥ずかしくないものが大分ある。
西洋の物数奇(ものずき)がしきりに日本の美術を云々(うんぬん)する。しかしこれは千人のうちの一人で、あくまでも物数奇の説だと心得て聞かなければならない。大体の上からいうと、そういう物数奇もやはり西洋の方が日本より偉いと思っているのだろう。余も残念ながらそう考える。もし日本に文学なり美術なりが出来るとすればこれからである。が、過去において日本人が既にこれだけの仕事をして置いてくれたという自覚は、未来の発展に少(すくな)からぬ感化を与えるに違いない。だから余は喜んで『東洋美術図譜』を読者に紹介する。このうちから東洋にのみあって、西洋の美術には見出し得(う)べからざる特長(とくちょう)を観得(かんとく)する事が出来るならば、たといその特長が全体にわたらざる一種の風致(ふうち)にせよ、観得し得(え)ただけそれだけその人の過去を偉大ならしむる訳である。従ってその人の将来をそれだけインスパイヤーする訳である。
——明治四三、一、五『東京朝日新聞』——[#行末より2字上げ]
イズムの功過
大抵のイズムとか主義とかいうものは無数の事実を几帳面(きちょうめん)な男が束(たば)にして頭の抽出(ひきだし)へ入れやすいように拵(こしら)えてくれたものである。一纏(ひとまと)めにきちりと片付いている代りには、出すのが臆劫(おっくう)になったり、解(ほど)くのに手数がかかったりするので、いざという場合には間に合わない事が多い。大抵のイズムはこの点において、実生活上の行為を直接に支配するために作られたる指南車(しなんしゃ)というよりは、吾人(ごじん)の知識欲を充たすための統一函である。文章ではなくって字引である。
同時に多くのイズムは、零砕(れいさい)の類例が、比較的緻密(ちみつ)な頭脳に濾過(ろか)されて凝結(ぎょうけつ)した時に取る一種の形である。形といわんよりはむしろ輪廓(りんかく)である。中味(なかみ)のないものである。中味を棄てて輪廓だけを畳(たた)み込むのは、天保銭(てんぽうせん)を脊負う代りに紙幣を懐(ふところ)にすると同じく小さな人間として軽便(けいべん)だからである。
この意味においてイズムは会社の決算報告に比較すべきものである。更に生徒の学年成績に匹敵(ひってき)すべきものである。僅(わずか)一行の数字の裏面(りめん)に、僅か二位の得点の背景に殆どありのままには繰返しがたき、多くの時と事と人間と、その人間の努力と悲喜と成敗(せいはい)とが潜(ひそ)んでいる。
従ってイズムは既に経過せる事実を土台として成立するものである。過去を総束(そうそく)するものである。経験の歴史を簡略にするものである。与えられたる事実の輪廓である。型である。この型を以て未来に臨(のぞ)むのは、天の展開する未来の内容を、人の頭で拵(こしら)えた器(うつわ)に盛終(もりおお)せようと、あらかじめ待ち設(もう)けると一般である。器械的な自然界の現象のうち、尤(もっと)も単調な重複(ちょうふく)を厭(いと)わざるものには、すぐこの型を応用して実生活の便宜を計る事が出来るかも知れない。科学者の研究が未来に反射するというのはこのためである。しかし人間精神上の生活において、吾人がもし一イズムに支配されんとするとき、吾人は直(ただち)に与えられたる輪廓のために生存するの苦痛を感ずるものである。単に与えられたる輪廓の方便として生存するのは、形骸(けいがい)のために器械の用をなすと一般だからである。その時わが精神の発展が自個天然の法則に遵(したが)って、自己に真実なる輪廓を、自(みずか)らと自らに付与し得ざる屈辱を憤(いきどお)る事さえある。
精神がこの屈辱を感ずるとき、吾人はこれを過去の輪廓がまさに崩れんとする前兆と見る。未来に引き延ばしがたきものを引き延ばして無理にあるいは盲目的に利用せんとしたる罪過(ざいか)と見る。
過去はこれらのイズムに因って支配せられたるが故に、これからもまたこのイズムに支配せられざるべからずと臆断(おくだん)して、一短期の過程より得たる輪廓を胸に蔵して、凡(すべ)てを断ぜんとするものは、升(ます)を抱いて高さを計り、かねて長さを量(はか)らんとするが如き暴挙である。
自然主義なるものが起(おこ)って既に五、六年になる。これを口にする人は皆それぞれの根拠あっての事と思う。わが知る限りにおいては、またわが了解し得たる限りにおいては(了解し得ざる論議は暫(しばら)く措(お)いて)必ずしも非難すべき点ばかりはない。けれども自然主義もまた一つのイズムである。人生上芸術上、ともに一種の因果によって、西洋に発展した歴史の断面を、輪廓にして舶載(はくさい)した品物である。吾人がこの輪廓の中味を充※(じゅうじん)するために生きているのでない事は明(あきら)かである。吾人の活力発展の内容が、自然にこの輪廓を描いた時、始めて自然主義に意義が生ずるのである。
一般の世間は自然主義を嫌っている。自然主義者はこれを永久の真理の如くにいいなして吾人生活の全面に渉(わた)って強(し)いんとしつつある。自然主義者にして今少し手強(てごわ)く、また今少し根気よく猛進したなら、自(おのずか)ら覆(くつがえ)るの未来を早めつつある事に気がつくだろう。人生の全局面を蔽(おお)う大輪廓を描いて、未来をその中に追い込もうとするよりも、茫漠(ぼうばく)たる輪廓中の一小片を堅固に把持(はじ)して、其処(そこ)に自然主義の恒久(こうきゅう)を認識してもらう方が彼らのために得策(とくさく)ではなかろうかと思う。
——明治四三、七、二三『東京朝日新聞』——[#行末より2字上げ]
底本:「漱石文明論集」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年10月16日第1刷発行
1998(平成10)年7月24日第26刷発行
入力:柴田卓治
校正:福地博文
ファイル作成:野口英司
1999年8月4日公開
1999年8月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。
中味を充※(じゅうじん)するために
|
|