栗山大膳
森鴎外
寛永九年六月十五日に、筑前國(ちくぜんのくに)福岡の城主黒田右衞門佐忠之(うゑもんのすけたゞゆき)の出した見廻役が、博多(はかた)辻(つじ)の堂(だう)町で怪しい風體の男を捕へた。それを取り調べると、豐後國(ぶんごのくに)日田にゐる徳川家の目附役竹中采女正(うねめのしやう)に宛(あ)てた、栗山大膳利章(くりやまだいぜんとしあき)の封書を懷中してゐた。城内でそれを開いて見れば、忠之が叛逆(はんぎやく)の企をしてゐると云ふ訴であつた。
當時忠之と利章とは、非常に緊張した間柄になつてゐた。年の初に前將軍徳川秀忠(ひでたゞ)の葬儀が濟んで、忠之が下國した時、主立(おもだ)つた諸侍は皆箱崎まで迎に出たのに、利章一人は病氣と稱して城下の邸(やしき)に閉ぢ籠(こも)つて出なかつた。そこで忠之は利章の邸の前を通る時、山下平兵衞を使に遣(や)つて、容態を尋ね、全快次第出勤せいと云はせた。其後も忠之は度々見舞の使を遣り、又利章の療治をしてゐると云ふ醫師鷹取長松庵(たかとりちやうしようあん)に容態を尋ねた。さて使や醫師の復命を聞くに、どうも利章は重病ではないらしかつた。それから六月十三日になつて、忠之は黒田市兵衞(いちべゑ)、岡田善右衞門(ぜんゑもん)の二人を利章の所へ使に遣つて歩行の協(かな)はぬ程の重體ではあるまいから、從(たと)ひ手を引かれてでも出て貰(もら)ひたいと云はせた。利章は歩行が出來ぬから、いづれ全快した上で出仕すると答へた。忠之はすぐに黒田、岡田の二人を再度の使に遣つて、從ひ途中で眩暈(めまひ)が起つても、乘物で城門まで來て貰ひたい。それもならぬなら、當方から出向いて面會すると云はせた。利章は又どうしても全快の上でなくては出ぬと答へた。忠之は二人の使に、利章の身邊には家來が何人位ゐたか、又武具があつたかと問うた。二人の答は、家來は二十人ばかりゐて、我等の前後左右を取り卷き、武具も出してあつたと云ふことであつた。忠之は城内焚火(たきび)の間(ま)で、使の此(この)答を聞いてゐたが、思ひ定めたらしい氣色(けしき)で、兎(と)に角(かく)栗山が邸へ押し懸(か)けて往くから、一同用意せいと云ひ棄てゝ奥に入つた。諸侍は家々へ武具を取りに遣る。噂(うはさ)は忽(たちま)ち城下に廣(ひろ)まつて、番頭組(ばんがしらぐみ)の者や若侍は次第に利章が邸の前へ詰め懸けた。此時老臣の中で、當時道柏(だうはく)と名告(なの)つてゐた井上周防之房(すはうこれふさ)と、小河内藏允(をがうくらのじよう)との二人が、忠之の袂(たもと)に縋(すが)つて、それは餘り輕々しい、江戸へ聞こえても如何(いかが)である、利章をば我々が受け合つてどうにも處置しよう、切腹させよとなら切腹もさせようと云つて諫(いさ)めた。忠之はやうやう靜まつた。井上、小河の二人は次へ出て、利章方へ一人たりとも參つてはならぬと觸れ、利章の邸の前に往つてゐた者共を、利章の姉婿(あねむこ)で、當時睡鴎(すゐあう)と名告つてゐた黒田美作(みまさく)が邸と、其向側の評定所(ひやうぢやうしよ)とへ引き上げさせた。翌十四日に井上、小河は城内の事を利章に告げた。利章はすぐに剃髪(ていはつ)して、妻と二男吉次郎とを人質として城内へ送つた。人質は利章の外舅(ぐわいきう)黒田兵庫に預けられた。利章が徳川の目附竹中に宛てた密書を、忠之が手に入れたのは其翌日の事である。
忠之も城内に出仕してゐた諸侍も、利章がかう云ふ書面を書いたのを意外に思つた。徳川家に対して叛逆をしようと云ふ念が、忠之に無いのは言ふまでもない。異心を懷(いだ)かぬのに、何事をか捉(とら)へて口實にして、異心あるやうに、認められはすまいかと云ふのが、當時の大名の斷えず心配してゐる所である。慶長十四年に藤堂佐渡守高虎(とうだうさどのかみたかとら)が率先して妻子を江戸に置くことにしたのを始として、元和(げんな)元年大阪落城の後、黒田家でも忠之の父長政(ながまさ)が、夫人保科(ほしな)氏に長女とく、二男犬萬、三男萬吉の三人を添へて江戸に置くことにした。保科氏は現に當主のよめ久松氏と一しよに江戸にゐる。これもどうにかして徳川氏に対して他意のないことを示さうとする手段である。
それに、異心のない忠之を異心があると訴へる人が利章だと云ふのに、忠之と其周圍の人達とはあきれた。いかにも忠之と利章とは極端まで緊張した間柄にはなつてゐる。今一歩進んだら忠之が利章に切腹を命ずるだらうと云ふ處まで、主從の爭は募つてゐる。併(しか)しそれは忠之の方で、彼奴(かやつ)どれだけの功臣にもせよ、其功を恃(たの)んで人もなげな振舞をするとは怪(け)しからんと思ひ、又利章の方で、殿がいくら聰明でも、二代續いて忠勤を勵んでゐる此老爺(らうや)を蔑(ないがしろ)にすると云ふことがあるものかと思つての衝突である。忠之は憎みつゝも憚(はゞか)つてをり、其周圍の人達は憚りつゝも敬つてをつた利章が、どうして主君を無實の罪に陷いれようとするか、誰(たれ)にも判斷が附かぬのである。
利章の密書は只(たゞ)忠之主從を驚きあきれさせたばかりではない。主從は同時に非常な懼(おそれ)を懷いた。なぜと云ふに、忠之が叛逆を企てたと云ふ本文の外に、利章の書面には追而書(おつてがき)が添へてあつた。其文句は、此の書面は相違なく御手元に屆くやうに、同時に二通を作つて、二人に持たせて、別々の道を經て送ると云ふのである。さうして見れば、黒田家で偶(たま/\)其一通をば押へたが、別に一通が無事に日田の竹中に屆いて、竹中から江戸の徳川家へ進達せられた事と察せられる。原來(ぐわんらい)利章程の家の功臣を殺したら、徳川家に不調法として咎(とが)められはすまいかと云ふことは、客氣(かくき)に驅られた忠之にも、微(かす)かに意識せられてゐたが、此訴が江戸へ往つたとすると、利章は最早(もはや)どうしても殺すことのならぬ男になつた。なぜと云ふに、逆意の有無を徳川氏に糺問(きうもん)せられる段になると、其讒誣(ざんぶ)を敢(あへ)てした利章と對決するより外に、雪冤(せつゑん)の途はないのである。
—————————————————
利章の父栗山利安は、素播磨(もとはりま)の赤松氏の支流で、小字(こあざ)は善助、中ごろ四郎右衞門と稱し、後に備後と名告つた。天文二十年に播磨國淡河(あがう)の城に生れ、永祿八年に十五歳で、同國姫山の城主黒田官兵衞孝高(よしたか)に仕へ、永祿十一年に孝高の嫡子松壽が生れてから、若殿附にせられた。孝高は忠之の祖父、後に長政となつた松壽は忠之の父である。
天正六年に荒木攝津守(せつつのかみ)村重が攝津國伊丹(いたみ)の有岡城に籠(こも)つて織田信長に背(そむ)いた。其時孝高は村重を諫(いさ)めに有岡城に往つて、村重に生け捕られた。利安は後但馬(たじま)と云つた母里(もり)太兵衞友信、後周防(すはう)と云つた井上九郎次郎之房等と、代わる/″\商人の姿に身を窶(やつ)して、孝高の押し籠められてゐる牢屋(らうや)の近邊を徘徊(はいくわい)して主を守護した。中にも利安は伊丹の町の銀屋をかたらつて、闇夜(あんや)に番兵を欺き、牢屋の背後の溜池(ためいけ)を泅(およ)いで牢屋に入り、孝高に面會した。翌年十一月瀧川左近一益(さこんかずます)が有岡城を攻め落した時、利安は番人の逃げ去つた跡へ來て、錠を打ち破つて孝高を連れ出し、有馬に往つて湯治をさせて、やうやう足腰の立つやうにした。
十年に信長が明智(あけち)日向守光秀(ひうがのかみみつひで)に殺された。孝高父子は此時から木下秀吉(ひでよし)の下に附いて働き、十五年には孝高は豐前國(ぶぜんのくに)六郡の主にせられた。此時利安は領地を分けて貰つた。十七年に孝高は隠居して如水軒圓清と號し、黒田家は甲斐守(かひのかみ)長政の世となつた。利安の妻森尾氏の腹に嫡子大吉が生れたのは、それから二年目の天正十九年正月二十二日で、此大吉が後の大膳利章である。文祿元年の朝鮮陣には、長政が利安、友信を連れて渡り、孝高は跡から豐臣(とよとみ)秀吉の使として京城(けいじやう)に入つた。
慶長四年に徳川家康が會津の上杉影勝(かげかつ)を攻めに關東へ下つた時、長政は從軍したが、出發前に大阪天滿(てんま)の邸で利安、友信、それから後に織部と云つた宮崎助太夫重昌(しげまさ)の三人を呼んで細かい訓令を與へた。留守中に豐臣方の亂が起つたら、城内へ人質に取られぬ内に、母と妻とを中津川へ連れて逃げてくれ。まだ亂の起らぬのに、早まつて落ちさせてはならぬ。又其場合に誤つて二人の女子を奪はれてもならぬ。利安は友信と敵に當り、重昌は二人の女子の側に殘つてゐて、逃されぬと見極めたら、重昌は二人を殺して自殺してくれと云ふのであつた。暫(しばら)くすると、果して石田治部少輔三成(ぢぶせういうみつなり)が佐和山城から出て來て、身方の諸大名を大阪へ集めた。利安等は四十八歳になつた孝高の妻櫛橋氏(くしばしうぢ)と、十六歳になつた長政の妻保科氏とを俵にくるんで、しかかごと云ふものに入れ、浴室の壁の下を穿(うが)つて持ち出し、商人に粧つた友信に擔(にな)はせて、邸の裏の川端(かはばた)に繁つた蘆(あし)の間を通り、天滿の出入商人納屋(なや)小左衞門方へ忍ばせた。これは豐臣方の遠見の番人に見付けられぬためである。さて納屋方(なやかた)では兩夫人を内藏(うちくら)に入れ、又家捜しをせられた時の用心に、主人小左衞門が寢所の板敷を疊一疊の幅だけ穿つて、床下に疊を敷き、藏からそこへ移すことの出來るやうにして置いた。それから小左衞門夫婦が奉公人に知らせぬやうに食事を運んだ。小左衞門の家には重昌が世話になつてゐて守護し、友信は其隣の家から見張つてゐた。
二三日立つて、利安が東條紀伊守の邸へ樣子を伺ひに往つて、話をしてゐると、黒田邸へ軍兵(ぐんぴょう)が寄せると云ふ知らせがあつた。利安は、これは存じも寄らぬ、いかなる仔細(しさい)があつての事か、御存じかと云つて、主人紀伊守の氣色を伺つた。返答によつては紀伊守を討ち取つて黒田邸へ歸らうと思つたのである。紀伊守は一向存ぜぬと云つた。利安は馬を飛ばせて天滿へ歸つた。黒田邸にはまだ何事もない。そこへ郡主馬宗保(こほりしゆめむねやす)の密使が來て、今軍兵が寄せると云つた。間もなく騎馬武者五十人、徒歩(かち)の者六百餘人が鐵砲二百挺(ちやう)を持つて黒田邸を取り卷いた。寄手(よせて)の引率者は兩夫人がをられるかと問うた。利安は兩人共たしかにをられると受け合つた。寄手は定番(ぢやうばん)を殘して引き取つた。次いで城内の使が來て、見知人をよこすから、兩夫人を見せてくれと云つた。利安は一應、士(さむらひ)の女房の面吟味(おもてぎんみ)はさせられぬ、とことわつた。使は、外の大名の内室をも見ることになつてゐるから、是非物蔭から見せてくれと云つた。利安は甲斐守歸邸の上、いかなる咎(とがめ)に逢(あ)はうも知れぬ事ではあるが、是非なき場合ゆゑ、物蔭から見させようと云つた。見知人が來た。一人は櫛橋氏の若かつた時見たことのある女、今一人は保科氏の十二歳の時見たことのある女である。利安は信濃産(しなのうまれ)の侍女で、小笠原内藏助(をがさはらくらのすけ)と云ふものの娘に年恰好(かつかう)の櫛橋氏に似たのがあるので、それを蚊帳(かや)の中に寢させ其侍女の娘が一しよに奉公してゐたのを蚊帳の外にすわらせ、話をさせて置き、二人の見知人を一間隔てた所へ案内して覗(のぞ)かせた。幸に見知人は兩夫人に相違ないと云つて引き取つた。
利安等はどうかして兩夫人を逃がさうと謀(はか)つた。黒田家の運漕用達(うんさうようたし)に播磨國家島の船頭梶原(かぢはら)太郎左衞門と云ふものがある。此太郎左衞門をかたらつて舟の用意をさせた。併し豐臣方では福島の下、傳法川と木津川との岐(わか)れる所に、舟番を置いて、諸大名の夫人達を逃がさぬ用心をしてゐる。武裝した軍兵百人を載せた大舟と、二艘(さう)の小舟とから、此舟番は成り立つてゐる。利安等は隙(すき)を窺(うかゞ)つてゐたが、どうも舟番所を拔ける手段が得られなかつた。
兎角(とかく)するうちに七月十七日になつた。いよ/\徳川方の諸大名の夫人を、人質として大阪城の本丸に入れることになつて、豐臣方では最初に城に近い細川越中守忠興(たゞおき)の邸へ人數を差し向けた。細川の家老がことわるのを聽かずに、軍兵は奥へ踏み込んだ。細川夫人明智氏は、城内に入つて面(おもて)を曝(さら)すのがつらく、又徳川家に對する夫の奉公に障(さは)つてはならぬと云つて、自刄した。家臣小笠原備前、河喜多石見(いはみ)等は門を閉ぢて防戰し、遂(つひ)に火を放つて切腹した。豐臣方ではこれに懲りて諸大名の夫人を城内に入れることを罷(や)めた。
利安等は兼(かね)て福島の上流に小舟を出して、舟番所の樣子を見せて置くと、舟番の者共は細川邸の燒けるのを見て、多人數小舟に乘つて火事場へ往つた、其報告を得て、利安等は兩夫人を大箱に入れて、納屋(なや)の裏口から小舟に載せた。友信は穗の長さ二尺六寸餘、青貝の柄の長さ七尺五寸二分ある大身の槍(やり)に熊(くま)の皮の杉なりの鞘(さや)を篏(は)めたのを持たせ、屈竟(くつきやう)の若黨十五人を具して舟を守護した。舟が舟番所の前まで來ると、太兵衞は槍を手挟(たばさ)んで、兼ねて識合(しりあひ)の番所頭(ばんしよがしら)菅右衞門八に面會を求めた。さて云ふには、在所へ用事出來(しゆつたい)して罷(まか)り下る、舟のお改(あらため)を願ひたいと云ふのである。友信が大兵で、ひどく力の強いことを右衞門八は知つてゐたので、いく地なく舟を改めるには及ばぬと云つた。そこで傳法川を下つて、待たせてあつた太郎左衞門が舟に兩夫人を移した。其時保科氏の侍女の一人で菊と云ふのが、邸を拔けて跡を慕つて來たので、それをも載せた。此舟は友信が保護の下に、首尾よく四日目に中津川へ著いた。重昌は水路を和泉國境(いづみのくにざかひ)へ出て、そこから更に乘船し、利安は陸路を播磨の室(むろ)まで行つて、そこから乘船して中津川へ歸つた。中津川からは、隠居孝高入道如水が、大阪の模樣を察して、兩夫人を迎へるために母里與三兵衞に舟を廻させたが、間に合はなかつた。大阪天滿(てんま)の邸には四宮市兵衞が殘つて、豐臣方の奉行等に對して命懸(いのちがけ)の分疏(いひわけ)をした。此後加藤主計頭(かぞへのかみ)清正の夫人を、梶原助兵衞が連れて、同じく大阪を拔け出し、これも中津川へ著いて、妻の兄梶原八郎太夫の家に泊まつたので、如水は加藤夫人に衣類を贈り、保科氏に附いて歸つた侍女菊を熊本まで附けて遣つた。
翌慶長五年關ヶ原の功に依つて筑前國を貰つた長政は、年の暮に始て粕屋郡(かすやごほり)名島の城に入つた。六年には一旦(いつたん)京都へ上つて歸つた如水と相談して、長政が當時那珂(なか)郡警固村の内になつてゐた福崎に城を築いた。これが今の筑紫(ちくし)郡福岡である。此時一しよに築かれた端城(はじろ)六箇所の内で、上座郡左右良(まてら)の城は利安、鞍手(くらて)郡高取の城は友信、遠賀(をんが)郡黒崎の城は之房が預つた。七年十一月に福岡城の東の丸で、長政の嫡男忠之が生れた。小字萬徳である。本丸は警固大明神の社のあつた跡なので、血の汚(けがれ)を避けて、これも利安に預けてある東の丸に産所をしつらはせたのである。九年には城の三の丸で、如水が五十九歳で亡くなつた。十一年には長政の長女徳、十五年には二男犬萬、十七年には三男萬吉が生れた。犬萬は後の長興(ながおき)、萬吉は後の隆政である。
十九年から元和元年に掛けて、大阪に豐臣氏の亂があつた。十九年の冬の陣には、長政が江戸を守り、十三歳の忠之が傷寒のまだなほらぬのに、押して福岡から上つた。長政の下には利章がをり、福岡へは江戸から利安が下つて留守をした。元和元年の夏の陣には、長政は江戸から、忠之は福岡から大阪へ出向いた。利安は筑前に殘つて、利章は忠之の手に加はつた。保科氏が徳、犬萬、萬吉の三人を連れて江戸に往つたのは大阪落城の直後である。
駿府(すんぷ)で徳川家康の亡くなつた元和二年に、黒田家では長政の三女龜(かめ)が生れた。八年に將軍秀忠が久松甲斐守忠良の娘の十七歳になるのを、養女にして忠之の許(もと)へ嫁(とつ)がせた。九年は秀忠が將軍職を家光に譲つた年である。秀忠親子は上洛(じやうらく)する時、江戸から長政を先發させた。五十三歳になる長政は、忠之を連れて上り、二條の城にゐて、膈噎(かくいつ)の病で亡くなつた。遺言は利章と小河内藏允とが聽いた。遺骸(ゐがい)は領國へ運んで、箱崎の松原で荼毘(だび)にした。此時柩(ひつぎ)の先へは三十三歳になる利章が手を添へ、跡へは二十二歳になる忠之が手を添へた。利安は長政の亡くなつた時、七十三歳で剃髪して、一葉齋卜庵(ぼくあん)と名告つた。
かうした間柄の忠之と利章とが、なぜ生死の爭ひをするやうになつたか。これは利章が變つたのではなくて、忠之が變つたのである。
忠之は壯年の身を以て、忽ち五十二萬二千四百十六石の大名になつた。生得(しやうとく)聰明な人だけに、老臣等に掣肘(せいちゆう)せられずに、獨力で國政を取り捌(さば)いて見たかつた。それには手足のやうに自由に使はれる侍が欲しい。丁度先年中津川で召し抱へられた足輕頭(あしがるがしら)倉八長四郎の子に、十太夫と云ふ怜悧(れいり)な若者がゐた。忠之はそれを近習に取り立てゝ、次第に任用して、短い月日の間に、秩祿(ちつろく)を加へられる度數の多いので、心あるものは主家のため、領國のために憂へ、怯懦(けふだ)のものは其人を畏(おそ)れ憚(はゞか)り、陋(いや)しいもの、邪(よこしま)なものは其人にたよつて私を濟さうとするやうになつた。
然(しか)るに先代長政が臨終に、利章と小河とが聞き取つた遺言には、國政萬端利章、一成、内藏允の三家老で相談し、重大な事は一應之房、利安の兩隱居に告げて取り極める筈(はず)になつてゐる。そこで長政の亡くなつた翌年、寛永元年四月に三家老は一枚の起請文(きしやうもん)を書いて忠之に呈した。第一に三人は忠之に對して逆意を懷かぬ事、第二に何人(なんびと)を問はず、忠之に背き、又は國家の害をなすと認めた時は、三人が忠之に告げて其人の處置を請ふ事、第三に三人を離間するものがあるときは、必ず互に打ち明けて是非を正す事、第四に三人は兄弟同樣に心得る事、第五に三人の中で讒誣(ざんぶ)に逢ふものがあつたときは、三人同意して忠之に告げる事、以上五箇條である。今異數の拔擢(ばつてき)を蒙(かうむ)つてゐる十太夫は、心底の知れぬものなので、若し右の第二に當るものではなからうかと、三人は朝夕目を附けてゐた。
併し十太夫の勤振(つとめぶり)にはこれと云ふ廉立(かどだ)つた瑕瑾(かきん)が無い。只(たゞ)利章等が最初に心附いたのは、これまで自分等の手を經て行はれた事が、段々自分等の知らぬ内に極まるやうになると云ふだけである。そう云ふ風に忠之と下役のものとが、直に取り計らふ件々は、最初どうでも好いやうな、瑣細(ささい)な事ばかりであつたが、それがいつの間にか稍(やゝ)大きい事に及んで來た。利章等が跡からそれを役々のものに問ふと、別に仔細はない、只心附かなかつたと云ふ。かう云ふ問答が度重なる。利章等は始終事件の跡を追つて行くやうな傾になつた。
利章等は安からぬ事に思つた。そこで折々忠之に事務の手續が違つたのを訴へると、忠之も別に仔細はない、只心附かなかつたと云ふ。下(しも)に向いて糺(たゞ)しても、上(かみ)に向いて訴へても、何の效果も見えなかつた。
利章等はいつか、どうにかして此惡弊を改めたいと思った。此惡弊が暫時(ざんじ)も君側を離れぬ新參十太夫の勤振と連係してゐることは、言ふまでもなかった。併し獨り十太夫に廉立った瑕瑾がないばかりでなく、政事向にも廉立った過失がない。利章等は只殆(ほとん)ど本能的に形勢の變じて行くのを感ずるだけである。
利章等は眼を鋭くして見た。そして次第にその變じて行く形勢を見分けることが出來た。
先づ認められるのは政事向一般に弛(ゆる)みが出た事である。忠之の表へ出座する時刻が遲れ勝になり、奥へ引籠む時刻が早目になった。随(したがつ)て役人等も遲く出て早く引くやうになつた。忠之は參府の間も此習慣の儘(まゝ)に振舞って、登城に遲れ、又早目に退出するのである。領國から江戸への使者、豐後にをる徳川家の目附への使者なども、前々よりは日取りが繰り下げられるやうになつた。
次に認められるのは、兎角物事が輕々しく成り立って慌(あわ)ただしく改められる事である。最甚(もつともはなはだ)しい一例は、江戸への使者を、初に森正左衞門に命じ、次いで月瀬右馬允(うめのじよう)に改め、又元の森に改め、終(つひ)に坪田正右衞門に改めたのである。人を任用する上にも、きのふまで目を懸けて使はれたものが、俄(にはか)に勘氣を蒙(かうむ)ることがある。
次に遊戯又はそれに近い事が、眞面目(まじめ)な事のゆるかせにせられる中で、活氣を帶びて行はれ、それに關係した嚴重な、微細な掟(おきて)が立てられるのが認められる。申樂(さるがく)の者が度々急使を以て召され、又放鷹(はうよう)の場では旅人までが往來を禁ぜられる類(たぐひ)である。忠之が江戸からの歸に兵庫の宿で、世上の聞えをも憚らずに、傀儡女(くぐつめ)を呼んだこともある。
次に驕奢(けうしや)の跡が認められる。調度や衣服が次第に立派になつて、日々の饌(ぜん)も獻立がむづかしくなつた。
次に葬祭弔問のやうな禮がなほざりになるのが認められる。寛永三年九月十五日に大御臺所(おほみだいどころ)と稱さられてゐた前將軍秀忠の母、織田氏達子の亡くなつた時、忠之は精進をせぬみか、放鷹に出た。家康の命日、孝高の命日にも精進をせず、江戸から歸つても、孝高、長政の靈屋(たまや)に詣(まう)でぬやうになつた。
差當りこれ位の事が目に留まつてゐるが、どれも重大と云ふ事ではない。尤(もつと)も此形勢で押して行くうちに、物に觸れて重大な事が生ずるやも知れない。何か機會を得たら、しつかり主君に言ふ事にしようと、利章等三人は思つてゐた。
そのうち罪なくして罰せられたものが一人と、罪あつて免(ゆる)されたものが一人と、引き續いて出來て、どちらも十太夫に連係した事件であつた。一つは博多(はかた)の町人が浮世又兵衞の屏風(びやうぶ)を持つてゐるのを、十太夫が所望してもくれぬので、家來を遣つて強奪させ、それを取り戻さうとする町人を入牢させたのである。今一つは志摩郡の百姓に盗をして召し取られたものがあつて、それが十太夫の妾(せう)の兄と知れて放されたのである。
利章はとう/\決心して、一成、内藏允に相談し、自ら筆をとつて諫書(かんしよ)を作つた。部類を分けて、經史を引いて論じたのが、通計二十五箇條になつた。決心の近因になつた不正裁判は、賞罰明ならずと云ふ部類に入れて、十太夫を弾劾(だんがい)することに重きを置かず、專ら忠之の反省を求めることにした。さて淨書して之房の道柏、利安の卜庵に被見(ひけん)を請うたのが、寛永三年十一月十二日である。道柏、卜庵はすぐに奥書をして、小林内匠(たくみ)、衣笠(きぬがさ)卜齋、岡善左衛門の三人に披露を頼んだ。
忠之は諫書を讀んで怒つた。十太夫に對する妬(ねたみ)だと感じ、又穴搜しだと感じたのである。文章に經史が引いてあるので、利章が書いたと云ふことはすぐにわかつて、怒は利章一人の上に被(かぶ)さつた。忠之は利章を呼んで叱(しか)りたかつたが、利章は默つて叱られてをる男でないので、けぶたい思をして、面倒な話を聞くよりは、打ち棄てて置かうと思ひ返した。
利章等は固(もと)より、道柏、卜庵の二人も、忠之がなんとか沙汰(さた)をするだらうと思つて待つてゐたが、一向そんな摸樣がない。政事の機關は舊に依つて動いてゐる。十太夫は舊に依つて小賢(こざかし)げに立ち振舞つてゐる。前日と變つた事は、只忠之が利章に逢ふ度に顏を背(そむ)けるだけである。諫書にはこれだけの效果しかなかつた。
忠之が強情に此冷遇を持續すれば、利章も亦強情に隱忍してこれに報いた。そのうち寛永四年に亡くなつた孝高夫人櫛橋氏の喪も濟んだ。
翌五年に忠之は、參府の度毎(たびごと)に大阪と領國との間を航行するためだと云つて、寶玉丸と云ふ大船を造らせた。又十太夫の組下に附けると云つて、江戸へ屆けずに足輕三百人を募つた。諫書に擧げてあつた驕奢(けうしや)が、衣食調度の範圍内に止まらないで、大船の造營となり、夫卒の増員となつたのである。利章は最早坐視するに忍びないので、一成や内藏允に留められたにも拘(かゝは)らず、病氣を申し立てゝ家老の職を辭した。忠之は即座にこれを許した。利章は默つて城下の邸を引き拂つて、左右良(まてら)の別邸に引き籠つた。
忠之はうるさい物を除いた積でゐると、六年早々將軍家から土井大炊頭利勝(おほひのかみとしかつ)を以て勸告があつた。黒田家の家來栗山父子は若年の主君を輔導すべきであるのに、齡(よはい)八十に垂(なんなん)とする備後は兎も角も、大膳が引き籠り居るは不都合である。出勤させるやうに取り計はれたが宜(よろ)しからうと云ふのである。忠之は據(よんどころ)なく利章に出勤を命じた。
利章は久し振に出勤したが、忠之は相變らず面を背けてゐる。辭職する前の状態と少しも異なる所がない。將軍家のお聲懸りの利章を、忠之はどうすることも出來ぬが、豫(かね)て懷(いだ)いてゐた惡感情は消えぬのみか、却(かへ)つて募るばかりである。
雙方のために不快な、緊張した間柄が持續せられてゐるうちに、寛永八年八月十四日に、利章の父卜庵が左右良の別邸で眠るやうに亡くなつた。享年八十一歳である。其頃十太夫はとう/\家老の列に加へられて、九千石を貰つた。實收三萬石の采地(さいち)である。利章は勿論(もちろん)、一成も内藏允も井上内記も、十太夫がいかに御用に立つとは云へ、節目のないものを家老にせられるのは好くあるまいと云つたが、忠之は聽かなかつた。
暫くして忠之は、家老の家には什寶(じふはう)がなくてはならぬと云つて、家康が關ヶ原の役に父長政に與へた具足を十太夫に遺(おく)つた。利章はこれを聞いて、自分で、倉八の邸へ出向いて、其具足を取り上げたが、これだけの事をするのに、忠之には一言もことわらなかつたのである。忠之は怒つたが、これも利章にはなんにも云はずにしまつた。
彼此(かれこれ)するうちに寛永九年になつて、前將軍秀忠が亡くなり、忠之は江戸で葬儀に列して領國へ歸つた。利章が出勤するとか、せぬとか云ふ爭がかうじて、忠之が自分で利章の邸へ出向かうとしたのは此時の事である。原來利章も我慢強いが、忠之も我慢強い。其忠之が此時に限つて、分別のなくなる程苛立(いらだ)つたには別に原因がある。秀忠の亡くなつたのは正月二十四日で、二十六日の夜増上寺への野邊送(のべおくり)があり、二月二十二日に勅使が立ち二十六日に遺物分(かたみわけ)があり、三月十一日に忠之は暇(いとま)を賜はつて江戸を立つた。忠之が領國に著いた四月は、隣國肥後に大事件の起つた月である。
四月十日に江戸永田町の室賀源七郎正俊が邸へ匿名(とくめい)の書を持つて來たものがある。肥後國熊本の城主加藤肥後守忠廣逆心云々の文面である。正俊の舅(しうと)井上新左衞門は土井利勝に懇意にしてゐるので、それを利勝に告げた。利勝は正俊に命じて匿名の書を持つて來た男を搜索させた。十四日に麹町土橋で其男を捕へて見ると、忠廣の嫡子豐後守光正が家來前田五郎八と云ふものであつた。將軍家光は日光へ參詣して、下野國(しもつけのくに)宇都宮に泊つてゐるので、利勝は正俊を宇都宮へ遣つて訴へさせた。そこで稻葉丹後守正勝が熊本へ上使に立つて、忠廣は江戸へ召し寄せられることになつた。正勝は熊本へ行くのに、筑前國遠賀(をんが)郡山鹿(やまが)を過ぎるので、丁度下國したばかりの忠之は、福岡から迎接の使者を出した。正使は十太夫で、副使は黒田市兵衞である。十太夫の同勢は新規の足輕二百人に徒歩衆(かちしゆう)、働筒衆を併(あは)せて三百五十人、市兵衞の一行は僅に上下三十八人である。山鹿へ著いて正勝の旅館に伺侯(しこう)すると、正勝はかう云つた。倉八十太夫とは聞きも及ばぬ姓名である、黒田市兵衞は筋目のものと聞き及ぶ、黒田を通せと云つた。十太夫は正使でありながら、上使に謁見することが出來ずに引き取つた。福岡博多の町人共は兼て十太夫の專横を憎んでゐたので、寄ると障ると山鹿の噂話をする。それを聞いて忠之は、利章等の諫書を讀んだ時よりも烈しく怒つて、山鹿の事を評判するものは見附次第討ち取れと命じた。間もなく町人が所所で斬られた。博多網場町で立話をしてゐた二人は、杉原平助が一人斬つて、一人取り逃がした。福岡呉服町で三鼎(みつがなへ)になつて話してゐた三人は、坂田加左衞門が一人斬つて二人取り逃がした。同(おなじく)唐人町で話してゐた二人も、濱田太左衞門が一人斬つて一人取り逃がした。町人共は震え上がつた。加藤家の事件は光正が父を讒誣(ざんぶ)したものとは知れたが、父忠廣には徳川家へ屆けずに生れた二歳の庶子某を領國へ連れて歸つた廉(かど)があるので、六月朔日(ついたち)に改易を仰せ附けられて落著した。
忠之が出勤せぬ利章の邸へ、自分で押し掛けようとした怒には、嬖臣(へいしん)十太夫の受けた辱(はづかしめ)に報いるために、福岡博多の町人を屠(はふ)つた興奮が加はつてゐたのであつた。
—————————————————
寛永九年八月二十五日に、忠之の許(もと)へ徳川家の使者が來て參府の命を傳へた。忠之は始て夢の醒(さ)めたやうな心持になつて、一成、内藏允を連れて福岡を立つた。江戸近くなつて聞けば、品川口には旗本、鐵砲頭(てつぱうがしら)以下數十人が待ち受けてゐて、忠之を品川東海寺に入れやうとしてゐる。忠之は縱(たと)ひ身の破滅は兔れぬにしても、なるべく本邸で果てたいと云ふので、内藏允が思案して、忠之の駕籠(かご)を小人數で取り卷き、素槍(すやり)一本持たせて、夜子(ね)の刻(こく)に神奈川を立たせた。此一行は夜中に品川を驅け拔けて、櫻田の上邸(かみやしき)に入つた。さて夜が明けてから、一成、内藏允が黒田家の行列を立てゝ品川口に掛かると、番所から使者が來て、阿部對馬守(つしまのかみ)の申付である、黒田殿には御用があるによつて一先(ひとまづ)東海寺へ立ち寄られたいと云つた。内藏允は答へて、主人右衞門佐は火急の御召によつて、既に小勢を以て夜中に入府いたされたと云つた。
間もなく老中の使者が櫻田邸へ來た。忠之を澁谷長谷寺に入れようと云ふのである。忠之はいかなる御不審かは知らぬが、邸内に於いて兎も角も相成りたいと答へた。使者は其儘(そのまゝ)引き取つた。續いて尾張家附成瀬隼人正正虎(はやとのしやうまさとら)、紀伊家附安藤帶刀(たてはき)直次並に瀧口豐後守が來て面會を求めた。此三人は平生(へいぜい)忠之と懇意な間柄なので、忠之を説き動かして、とう/\長谷寺に遷(うつ)らせた。
上邸から早打(はやうち)が福岡へ立つた。それが著くと、福岡城では留守の家老、物頭(ものがしら)、諸侍が集まつて評議をした。評議が濟むと、組頭はそれ/″\部下に云ひ渡した。諸侍の中で城を渡して退去したいものは勝手に退去するが好い。又城を枕(まくら)に討死したいものは用意をせいと云ふのである。然るに諸侍は一人も退去しようとは云わぬ。そこで妻子をも城内に入れて、一戰の上一同討死すると云ふことになつた。防戰の持場は赤間口、畝(うねび)町、金出口、金出宿、宰府口、比惠の原、岩戸口、三瀬越、唐津口、生松原、船手と城内とに分けられた。赤間口には井上内記、黒田兵庫、黒田市兵衞、小河縫殿助(ぬひのすけ)、小河織部、久野四兵衞、小河專太夫、畝町には井上監物(けんもつ)、吉田壹岐(いき)、伊丹藏人(くらんど)、高橋忠左衞門、小河長五郎、金出口には野村右京、加藤圖書(づしよ)、村田出羽、毛利又右衞門、久野外記(げき)、喜多村緑之丞(ろくのじやう)、加藤彌三之丞、金出宿には黒田監物、黒田平吉、林掃部(かもん)、村山角右衞門、野口左助、喜多村勘解由(かげゆ)、宰府口には毛利左近、月瀬右馬允(うめのじよう)、衣笠因幡(きぬがさいなば)、大音六左衞門、菅勘兵衞、吉田右馬太夫、長濱九郎右衞門、比惠の原には野村市右衞門、明石四郎兵衞、黒田總兵衞、齋藤甚右衞門、野村初右衞門、岩戸口には佐谷五郎太夫、松本能登(のと)、三瀬越には大塚權兵衞、小林内匠(たくみ)、竹中主膳、浦上三郎兵衞、菅彌一右衞門、黒田半右衞門、岡田左衞門、郡右衞門、蒔田(まきた)源右衞門、大音安太夫、唐津口には郡正太夫、齋藤忠兵衞、吉田久太夫、毛利吉右衞門、生松原には郡金右衞門、松下源助、喜多村太郎兵衞、長瀬新次郎、櫛橋七之丞、西北の船手には松本吉右衞門、松本主殿、松本善兵衞、松本治右衞門、吉田孫右衞門、城内には衣斐伊豫、花房治右衞門、竹森新右衞門、其外隱居、二男、三男等がゐる。大略かう云ふ手筈(てはず)である。
江戸では十一月十七日に、忠之が老中に呼ばれて西の丸へ出た。家來の任用、肥後表へ差し向けた使者の件等は、公儀に於いて越度(をちど)と認める、追つて詮議(せんぎ)を遂げるであらうと云ふ申渡(まうしわたし)である。暮方に成瀬は病氣だと云つて、安藤が來て慰問した。夜戌刻(いぬのこく)に忠之は成瀬を見舞ひに往(い)つた。十九日に忠之は歸邸を許されたが、上邸は憚があると云ふので、弟隆政のゐた麻布の下邸に遷つて、隆政は長屋へ入り替つた。
寛永十年二月上旬になつて、中二三日を隔てゝ、忠之は前後三度西の丸へ呼ばれて老中の取調を受けた。利章の訴へた叛逆の企の事も尋ねられたが、忠之の辯解は理義明白であつた。取調を受ける事になつてから、忠之はわざと遠慮して、又長谷寺に籠つてゐた。
そのうち九州から竹中采女正が利章を連れて江戸に著した。そこで二月二十四日に、土井利勝の邸で利章と十太夫等との對決があることになつた。立會として井伊掃部頭(かもんのかみ)直孝、酒井雅樂頭(うたのかみ)忠世、酒井讚岐守(さぬきのかみ)忠勝、松平下總守(しもふさのかみ)忠弘、永井信濃守尚政、青山大膳亮(だいぜんのすけ)幸利、板倉周防守(すはうのかみ)重宗、稻葉丹後守正勝、尾張家附成瀬隼人正、紀伊家附安藤帶刀、大目附柳生但馬守宗矩(むねのり)、秋山修理亮、水野河内守、加々爪(かゞづめ)民部の人々が利勝の左右に著座する。大目附席から一間隔てゝ、一方には竹中采女正に引き添つて利章がすわる。其向側には一成、其次に十太夫がすわる。
其時一應の調があつた。利章は只此度(このたび)の事は聊(いさゝか)存ずる旨(むね)があつて申し上げた、先年自分が諫書に認(したゝ)めて出した件々、又其後に生じた似寄の件々を、しかと調べて貰ひたい、さうなつたら此度の事の萌芽が知れやうと云つた切(きり)、口を噤(つぐ)んでしまつた。一成、十太夫は主人右衞門佐に逆意があるなどゝは跡形もない事で、なぜ利章がそんな訴をしたか分からぬと云つた。次で二人は老中側で忠之の越度と認めた廉々(かど/\)に就いて、事實上の尋問を受けた。
此間に黒田監物が呼び入れられた。これは足輕増員の事を問はれた。
次に内藏允が呼び入れられた。これは召されぬのに推參したものゆゑ、公儀の役からは詞が掛からぬ。内藏允は役人の方に禮をした後、利章にも常のやうに會釋(ゑしやく)をして、さてかう云ふ陳述をした。右衞門佐には逆意は無い。なぜ此訴を利章が起したか不審である。利章が生れた時に先代の主人筑前守長政は守、脇差(わきざし)、産衣(うぶぎ)、樽肴(たるざかな)を父利安に贈られた。自分はそれを持つて栗山家へ往つたが、其時利章の父利安は跣足(はだし)で門まで送つて出て、禮を言つた。利章も成長してから、筑前守には不便(ふびん)を加へられてゐる。それがどうして此訴を起したかと云つて、内藏允は涙を零(こぼ)した。それから萬一右衞門佐に逆意があるなら、それを之房の道柏が知らぬ筈はないと云つて座を起ち、次にゐた道柏を連れて役人の前に來た。
道柏は一座へ禮をした後、つと利章の面前に進んで、そこに蹲(うづくま)つた。そして「道柏がすわるのぢや、少し下がつて貰はう」と聲を掛けた。利章は「おすわりなされい」と云つて動かずにゐた。道柏は重ねて「もう右衞門佐殿が御出座にならう、少し下がらぬか」と云つた。此時利章は一間ばかり下がつた。道柏は利章より上に著座した。
道柏も内藏允と同じ事で、けふ召されたものではない。併し利勝は面識があるので詞(ことば)を懸けた。續いて直孝が、「淡路が父ぢやな」と云つた。道柏は「さやうにござります」と答へた。直孝は道柏の嫡子を識つてゐたのである。
道柏は利章に、「己はお主が父卜庵の友ぢやが、卜庵は生涯虚言(うそ)は言はなんだ、お主は父に生れ劣つたぞ」と云つた。利章は「貴殿は近頃の事を御存じないから分からぬ」と云つた。
次に道柏は役人の方に向いて述べた。天下は武を以て取り、文を以て守るものである。右衞門佐が叛逆を企てるなら、場數のある侍に相談せずには置くまい。黒田家では先づ一成などが老功である。内藏允、監物も二三度は場を踏んでゐる。自分も少々覺がある。相談すべき家來は先づ此二三人で、利章は軍(いくさ)らしい軍をせぬものである。右衞門佐の企を利章ばかりが知つてゐて、我々が知らぬと云ふのは、其企の無い證據である。右衞門佐若年のために政事向不行屆とあつて、領國を召し上げられるなら、力に及ばぬ。無實の罪だけは霽(はら)して進ぜたい。關が原陣で神君は先代の主人筑前守長政の手を取つて、其方の働で本意を遂げた、黒田家へは末代まで不沙汰はせぬと云はれた。此席にをられる土井殿、井伊殿、酒井殿も御承知であらうと云ふのである。
一成、内藏允は道柏の申立に同意を表した。これで道柏、一成、内藏允は暇(いとま)を賜つた。利章は、政虎が指圖して引き取らせた。
これから二三日立つて、忠之は老中に西の丸へ呼ばれて宣告を受けた。不調法の廉(かど)があつて筑前國を召し上げられる。去りながら祖父以來の戰功と本人の實意とを認められて、新(あらた)に筑前國拜領を仰附けられると云ふのである。其晩に直次から書状を以て平常の通心得られたいと云つて來た。忠之は夜中に麻布邸(あざぶてい)に入つた。
三月初に利章は直孝の邸へ呼ばれた。立會には利勝が來る。忠世以下は土井邸の時と同じである。利章は丸腰で著席した。さて采女正を以て申し渡された。諫書中にある政事向の件々其外は大抵相違ない。併し右衞門佐逆意云々は僞(いつはり)に極(きま)つた。此上はかやうな申立をしたわけを明白に申せと云ふ事である。利章は答へた。諫書其外の申立を正當と御認めになつたのは難有(ありがた)い爲合(しあは)せである。右衞門佐に逆意があると申し立てたのは、右衞門佐の自分に對する私の成敗を留めるためであつた。若しあの儘に領國で成敗せられたら、自分の犬死は惜むに足らぬが、右衞門佐は御取調を受けずに領國を召し上げられたであらう。此取計は憚ながら武略の一端かと存ずると云ふのである。役人席には感動の色が見えた。
二三日立つて、利章は再び直孝の邸へ呼ばれた。立會の人人は前度と同じで、それに南部山城守重直が加はつてゐた。松平忠弘を以て利章にかう申し渡された。此度右衞門佐は不調法の廉を以て、一旦筑前國を召し上げられ、更に先祖の功績と本人の實意とを思召されて、新に筑前國拜領を仰附けられた。其方は南部山城守へ御預けなされると云ふのである。利章は「はつ」と云つて、疊三枚程する/\と下がり兩眼に涙を浮べて「難有き爲合せに存じ奉ります」と云つた。重直が席を進めて、貴殿は公儀から百五十石の扶持(ふち)を受け、盛岡へ下向(げかう)の上は二三里の間を限り、自由に歩行せしめられると告げた。利章は重ねて禮を言つた。
同じ頃に麻布邸へ正虎、直次が來て、道柏、一成、内藏允、監物、十太夫に面會し、正虎が「此度は右衞門佐殿公事(くじ)御勝利になられて、祝著に存ずる、去りながら萬一右衞門佐殿配所へ遣(つかは)される事になつたのであつたら、面々(めん/\)はなんとなされたのであつたか、しかと承つて置きたい」と云つた。道柏が暫く思案して進み出た。「若しさやうに御極(おきめ)なされたら、家老一同遁世(とんせい)仕つたでござりませう」と云つた。正虎が「一同それに相違はないか」と云つた。一成等は「相違ございませぬ」と云つた。正虎は「實に殊勝な心得と存ずる、黒田家には好い家老を持つてをられる」と云つて座を立つた。これは福岡で籠城(らうじやう)の用意をしたのが物議の種にならぬやうに、家老等の言質を取つたのである。
又二三日立つてから、安藤家へ十太夫が呼ばれた。直次は正虎を立ち會はせて、十太夫に剃髮(ていはつ)して高野山に登ることを勸めた。十太夫は恐れ入つて領承した。
五月八日に忠之は家光に謁見した。それで徳川家と黒田家との交際は元に復した。忠之は五年の後、寛永十五年の島原役に功を樹(た)て、中二年置いて十八年に長崎番を命ぜられた。此時から從來平戸に來たオランダ舟が長崎に來ることになつたのである。
是より先、寛永十四年に島原の亂が起つた時、十太夫は高野山を拔け出て耶蘇(やそ)教徒の群に加つたが、原城の落ちた時亂軍の中で討たれた。
—————————————————
利章が陸奧國巖手(むつのくにいはて)群盛岡の城下に遷つたのは、寛永十一年三月の末であつた。南部家では廣小路に立派な邸を設けてこれを迎へた。
二年前の六月十四日は利章がため恐るべき日であつた。利章は福岡の邸から女房と二男吉次とを主家へ人質に出し、竹中采女正に宛てた訴状を二通書いて、一通は物馴れたものに持たせて、間道を日田へ遣り、今一通はわざと人に怪まれるやうな風體の百姓に持たせて、市中でそれを巡檢の役人に捕へさせた。利章は此最後の手段を取る前に、手分をして城下の邸をも左右良(まてら)の別邸をも取り片附け、大切な品はそれ/″\處分した。中には徳川家康が長政に與へた、慶長五年九月十九日附の書附がある。「今天下平均之(の)儀、誠(まことに)御忠節故(ゆゑ)と存候云云(ぞんじそろうんぬん)、御子孫永く疎略之儀有之間敷侯(これあるまじくそろ)」と云ふ文句のある一札である。利章はこれを梶原平十郎景尚に渡して云つた。此度(このたび)右衞門佐も自分も江戸に召されるからは、黒田家の浮沈に及ぶ事がないには限らぬ、さやうの場合には此書附を持つて江戸に出て、土井、井伊、酒井三閣老の中へ差し出されいと云つた。景尚の父官藏景次は播磨國高砂の城主駿河守景則と孝高の母の姉、明石氏との間に生れた子で、此景次が尾工(をのえ)氏を娶(めと)つて生ませたのが景尚である。尾工氏は父を安右衞門と云つて、孝高の妹婿(いもうとむこ)である。安右衞門が戰歿し、未亡人黒田氏が尼になつてから、尾工氏は孝高の夫人櫛橋氏の侍女になつてゐるうちに、孝高の手が附いて姙娠した。景次は君命によつてこれを娶(めと)つて景尚を生ませた。それだから景尚は實は孝高の庶子、長政の弟、忠之の伯父である。此書附は用立たずにしまつたが、後明和五年になつて黒田筑前守繼高の手に梶原家から戻つた。
忠之の江戸へ召された頃、利章は日田の竹中が役宅に身を寄せて、評定(ひやうぢやう)の始まる前に、竹中に連れられて江戸へ出た。
利章は盛岡へ立つ時、嫡男大吉利周を連れて立つた。家來で隨從したのは仙石角右衞門、財津大右衞門を始として、譜代の者共數十人であつた。福岡の黒田兵庫が邸に預けられた利章の妻黒田氏と二男吉次郎とには、後に五百石の扶持を賜はることになつた。
利章は盛岡に往つた時四十四歳で、まだ元氣盛んであつたので、妾内山氏を納(い)れた。此女の腹に、後に女子が出來た。
—————————————————
忠之が長崎番を命ぜられた寛永十八年の冬、盛岡に遠からぬ天領の代官井上某が利章の人柄を慕つて面會したいと言ひ入れた。利章は「浮浪の身の上なれば、御ことわり可申歟(まうすべきか)とも存侯へども、閑居徒然の折柄、御尋に預候はば、面談可申候」と返事をした。
井上が廣小路の邸を尋ねて、一間に通つた時、頭巾(づきん)を被つて爐に當つてゐた利章は顏を上げて、「御出御苦勞に存ずる」と、居直りもせずに挨拶した。歳は五十一歳であるが、血色は壯年のものに劣らない。
井上は直參(ぢきさん)の自分に對する挨拶(あいさつ)としては、少し勝手が違ふやうに感じて、暫く樣子を見てゐたが、主人は右の挨拶の外には別に無禮な擧動もせぬ。そこで二言三言物語をして歸つた。
邸を出てから井上は主人の態度を思ひ浮べて、どう云う心持ちであんな挨拶をしたかと考へた。家に歸つてからも、それを考へ續けた。併しどうしても分からぬので、今一應尋ねて先方の腹を探つてみようと決心した。
二度目に往くと、利章は又同じ態度で挨拶した。そこで井上が先づ舌戰の火蓋(ひぶた)を切つた。自分が再度まで尋ねるのは、貴殿を非凡の人だと聞き及んで、物事を相談し、場合によつては指南を受けようと思ふからである。然るに貴殿の樣子は格別凡人と異なるやうにも見えぬ。聊(いさゝか)案外に存ずると云つたのである。
利章は答へた。なる程自分は凡人かも知れぬ。併し人の賢愚正邪は實のある話をした上で分かるものである。
井上は云つた。然らばお尋する。自分は不肖ながら直參の身分である。それに貴殿が居直りもせずに挨拶せられるのは、どう云ふ御所存か承りたい。
利章は答へた。それは貴殿の考が至らぬのである。自分は筑前にゐた時、左右良の城主で二萬五千石を領してゐた。大阪役の後に、悉(ことごと)く天下の端城(はじろ)を毀(こぼ)たれたので、左右良も其數には洩(も)れなかつた。併し采地は依然としてをつた。又黒田家の家老としては五十餘萬石の國政を與(あづか)り聞き、五萬餘の士卒を支配した。黒田家程の家の去就は天下の安危に關する。現に關が原の役にも、孝高、長政を身方に附けて、徳川家は一統の業を成された。然れば自分は、三四百俵の代官たる貴殿に、手を下げ膝を屈するいはれがない。
此答を聞いて井上は、げにもと悟つて、自分の不心得を謝し、利章と親密に交つて種々の事を質(たゞ)した。
井上が軍法諸流の得失を問うた時、利章は云つた。政治は文武を併せ用ゐるものである。文は寛、武は猛である。武は兇器を用ゐることをのみ言ふのではない。敢爲邁往(かんゐまいおう)の政は皆武である。軍法は武を用ゐる一端に過ぎぬ。流義の沙汰は無用で、七書以外に格別の物は無い。手元を丈夫にして置き、敵情を十分吟味して戰へば勝つ。軍法は常にある。戰場の人員、備立(そなへたて)のみを軍法として心得ては、大局の利を收めることは覺束(おぼつか)ない。
城の繩張の善惡を問うた時、利章は云つた。城は亂世に妻子糧米、器具を入れる物置である。百姓町人の土藏と同じである。名將は城廓に重きを置かぬ。忠實な臣下が即城である。諸侯の身の上では天子の外に憚るものは無い。良臣を養つて置いて、時勢を見合はせ、一寸なりとも領地を擴めることを心掛くるが肝要である。
武士の志を問うた時、利章は云つた。志は大きくなくてはならぬ。唐土に生れたなら、天子にならうと志すが好い。日本に生れたなら、關白公方(くばう)にならうと志すが好い。さてそれを爲し遂げるには身を愼み人を懷(なつ)けるより外は無い。既に國郡が手に入つたら、人物を鑑識して任用しなくてはならぬ。用に立つ人物は、十人の内六人譽(ほ)め四人誹(そし)るものである。十人が十人譽めるものは侫奸(ねいかん)である。猶(なほ)一つ心得て置くべきは權道である。これを見切と云ふ。取るは逆、守るは順であるから、これは不義だと心附いた事も、こればかりの踏違へは苦しうないと、強く見切つて決行するものである。
—————————————————
利章は承應元年三月一日に六十二歳で亡くなつた。江戸で徳川家光が亡くなつて、家綱が嗣(つ)いだ年の翌年である。利章の墓と大きな碑とが、今陸中國巖手群米内村愛宕(あたご)山法輪院址(あと)の山腹に殘つてゐる。妾山内氏の生んだ女子には婿養子が出來て、南部家に仕へた。内山善吉と云ふ二百石取がそれである。栗山の名は人に故主の非を思はせるからと云つて、利章がわざと外戚の苗字(めうじ)を冒(をか)させた。利章の家來仙石、財津も南部家に召し出されて、各五十石を受けた。嫡男利周は黒田家の聘(へい)を斥(しりぞ)けて、處士を以て終つた。
(大正三年九月)
底本:「森鴎外全集第4巻」筑摩書房
1959(昭和34)年5月30日初版発行
1964(昭和39)年8月5日7版発行
入力:山田豊
校正:伊藤時也
ファイル作成:野口英司
1999年11月27日公開
2000年1月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。