金色夜叉(こんじきやしや)

尾崎紅葉




 続 金 色 夜 叉




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     与紅葉山人書
学 海 居 士  


[#ここから1字下げ]
紅葉山人足下。僕幼嗜読稗史小説。当時行於世者。京伝三馬一九。及曲亭柳亭春水数輩。雖有文辞之巧麗。搆思之妙絶。多是舐古人之糟粕。拾兎園之残簡。聊以加己意焉耳。独曲亭柳亭二子較之余子。学問該博。熟慣典故。所謂換骨奪胎。頗有可観者。如八犬弓張侠客伝。及田舎源氏諸国物語類是也。然在当時。読此等書者。不過閭巷少年。畧識文字。間有渉猟史伝者。識見浅薄。不足以判其巧拙良否焉。而文学之士斥為鄙猥。為害風紊俗。禁子弟不得縦読。其風習可以見矣。」年二十一二。稍読水滸西遊金瓶三国紅楼諸書。兼及我源語竹取宇津保俊蔭等書。乃知稗史小説。亦文学之一途。不必止游戯也。而所最喜。在水滸金瓶紅楼。及源語。能尽人情之隠微。世態之曲折。用筆周到。渾思巧緻。而源氏之能描性情。文雅而思深。金瓶之能写人品。筆密而心細。蓋千古無比也。近時小説大行。少好文辞者。莫不争先攘臂其間。然率不過陋巷之談。鄙夫之事。至大手筆如金瓶源氏等者。寥乎無聞何也。僕及読足下所著諸書。所謂細心邃思者。知不使古人専美於上矣。多情多恨金色夜叉類。殆与金瓶源語相似。僕反覆熟読不能置也。惜範囲狭。而事跡微。地位卑而思想偏。未足以展布足下之大才矣。盍借一大幻境。以運思馳筆。必有大可観者。僕老矣。若得足下之一大著述。快読之。是一生之願也。足下以何如。
[#ここで字下げ終わり]

     第 一 章

 時を銭(ぜに)なりとしてこれを換算せば、一秒を一毛に見積りて、壱人前(いちにんまへ)の睡量(ねぶりだか)凡(およ)そ八時間を除きたる一日の正味十六時間は、実に金五円七拾六銭に相当す。これを三百六十五日の一年に合計すれば、金弐千壱百〇弐円四拾銭の巨額に上るにあらずや。さればここに二十七日と推薄(おしつま)りたる歳末の市中は物情恟々(きようきよう)として、世界絶滅の期の終(つひ)に宣告せられたらんもかくやとばかりに、坐りし人は出でて歩み、歩みし人は走りて過ぎ、走りし人は足も空に、合ふさ離(き)るさの気立(けたたまし)く、肩相摩(けんあひま)しては傷(きずつ)き、轂相撃(こくあひう)ちては砕けぬべきをも覚えざるは、心々(こころごころ)に今を限(かぎり)と慌(あわ)て騒ぐ事ありて、不狂人も狂せるなり。彼等は皆過去の十一箇月を虚(あだ)に送りて、一秒の塵(ちり)の積める弐千余円の大金を何処(いづく)にか振落し、後悔の尾(しり)に立ちて今更に血眼(ちまなこ)を※(みひら)き、草を分け、瓦を揆(おこ)しても、その行方(ゆくへ)を尋ねんと為るにあらざるなし。かかる間(ひま)にも常は止(ただ)一毛に値する一秒の壱銭乃至(ないし)拾銭にも暴騰せる貴々重々(ききちようちよう)の時は、速射砲を連発(つるべうち)にするが如く飛過(とびすぐ)るにぞ、彼等の恐慌は更に意言(こころことば)も及ばざるなる。
 その平生(へいぜい)に怠無(おこたりな)かりし天は、又今日に何の変易(へんえき)もあらず、悠々(ゆうゆう)として蒼(あを)く、昭々として闊(ひろ)く、浩々(こうこう)として静に、しかも確然としてその覆(おほ)ふべきを覆ひ、終日(ひねもす)北の風を下(おろ)し、夕付(ゆふづ)く日の影を耀(かがやか)して、師走(しはす)の塵(ちり)の表(おもて)に高く澄めり。見遍(みわた)せば両行の門飾(かどかざり)は一様に枝葉の末広く寿山(じゆざん)の翠(みどり)を交(かは)し、十町(じつちよう)の軒端(のきば)に続く注連繩(しめなは)は、福海(ふくかい)の霞(かすみ)揺曳(ようえい)して、繁華を添ふる春待つ景色は、転(うた)た旧(ふ)り行く歳(とし)の魂(こん)を驚(おどろ)かす。
 かの人々の弐千余円を失ひて馳違(はせちが)ふ中を、梅提げて通るは誰(た)が子、猟銃担(かた)げ行くは誰が子、妓(ぎ)と車を同(おなじ)うするは誰が子、啣楊枝(くはへようじ)して好き衣(きぬ)着たるは誰が子、或(あるひ)は二頭立(だち)の馬車を駆(か)る者、結納(ゆひのう)の品々担(つら)する者、雑誌など読みもて行く者、五人の子を数珠繋(ずずつなぎ)にして勧工場(かんこうば)に入(い)る者、彼等は各(おのおの)若干(そこばく)の得たるところ有りて、如此(かくのごと)く自ら足れりと為(す)るにかあらん。これ等の少(すこし)く失へる者は喜び、彼等の多く失へる輩(はい)は憂ひ、又稀(まれ)には全く失はざりし人の楽めるも、皆内には齷齪(あくそく)として、盈(み)てるは虧(か)けじ、虧けるは盈たんと、孰(いづれ)かその求むるところに急ならざるはあらず。人の世は三(みつ)の朝(あした)より花の昼、月の夕(ゆふべ)にもその思(おもひ)の外(ほか)はあらざれど、勇怯(ゆうきよう)は死地に入(い)りて始て明(あきらか)なる年の関を、物の数とも為(せ)ざらんほどを目にも見よとや、空臑(からすね)の酔(ゑひ)を踏み、鉄鞭(てつべん)を曳(ひ)き、一巻のブックを懐(ふところ)にして、嘉平治平(かへいじひら)の袴(はかま)の焼海苔(やきのり)を綴(つづ)れる如きを穿(うが)ち、フラネルの浴衣(ゆかた)の洗ひ※(ざら)して垢染(あかぞめ)にしたるに、文目(あやめ)も分かぬ木綿縞(もめんじま)の布子(ぬのこ)を襲(かさ)ねて、ジォンソン帽の瓦色(かはらいろ)に化けたるを頂き、焦茶地の縞羅紗(しまらしや)の二重外套(にじゆうまわし)は何(いつ)の冬誰(た)が不用をや譲られけん、尋常(なみなみ)よりは寸の薄(つま)りたるを、身材(みのたけ)の人より豊なるに絡(まと)ひたれば、例の袴は風にや吹断(ふきちぎ)れんと危(あやふ)くも閃(ひらめ)きつつ、その人は齢(よはひ)三十六七と見えて、形※(かたちや)せたりとにはあらねど、寒樹の夕空に倚(よ)りて孤なる風情(ふぜい)、独(ひと)り負ふ気無(げな)く麗(うるはし)くも富める髭髯(ひげ)は、下には乳(ち)の辺(あたり)まで※々(さんさん)と垂れて、左右に拈(ひね)りたるは八字の蔓(つる)を巻きて耳の根にも※(およ)びぬ打見(うちみ)れば面目(めんもく)爽(さはやか)に、稍傲(ややおご)れる色有れど峻(さかし)くはあらず、しかも今陶々然として酒興を発し、春の日長の野辺(のべ)を辿(たど)るらんやうに、西筋の横町をこの大路に出(い)で来(きた)らんとす。
瓢(ひよう)空(むなし)く夜(よ)は静(しづか)にして高楼に上(のぼ)り、酒を買ひ、簾(れん)を巻き、月を邀(むか)へて酔(ゑ)ひ、酔中(すいちゆう)剣(けん)を払へば光(ひかり)月(つき)を射る」
 彼は節(ふし)をかしく微吟を放ちて、行く行くかつ楽むに似たり。打晴れたる空は瑠璃色(るりいろ)に夕栄(ゆふば)えて、俄(にはか)に冴(さ)え勝(まさ)る※(こがらし)の目口に沁(し)みて磨錻(とぎはり)を打つらんやうなるに、烈火の如き酔顔を差付けては太息嘘(ふといきふ)いて、右に一歩左に一歩と※(よろめ)きつつ
往々(おうおう)悲歌(ひか)して独(ひと)り流涕(りゆうてい)す、君山(くんざん)を※却(さんきやく)して湘水(しようすい)平に桂樹(けいじゆ)を※却(しやくきやく)して更(さら)に明(あきらか)ならんを、丈夫(じようふ)志有(こころざしあ)りて……」
 と唱(うた)ひ出(い)づる時、一隊の近衛騎兵(このえきへい)は南頭(みなみがしら)に馬を疾(はや)めて、真一文字(まいちもんじ)に行手を横断するに会ひければ、彼は鉄鞭(てつべん)を植(た)てて、舞立つ砂煙(すなけむり)の中に魁(さきがけ)の花を装(よそほ)へる健児の参差(しんさ)として推行(おしゆ)く後影(うしろかげ)をば、壮(さかん)なる哉(かな)と謂(いは)まほしげに看送(みおく)りて、
我(われ)四方(しほう)に遊びて意(こころ)を得ず、陽狂(ようきよう)して薬を施す成都の市(し)」
 と漫(そぞろ)にその詩の首(はじめ)をば小声(こごゑ)朗(ほがらか)に吟じゐたり。さては往来(ゆきき)の遑(いとまな)き目も皆牽(ひか)れて、この節季の修羅場(しゆらば)を独(ひとり)天下(てんか)に吃(くら)ひ酔(ゑ)へるは、何者の暢気(のんき)か、自棄(やけ)か、豪傑か、悟(さとり)か、酔生児(のんだくれ)か、と異(あやし)き姿を見て過(すぐ)る有れば、面(おもて)を識らんと窺(うかが)ふ有り、又はその身の上など思ひつつ行くも有り。彼は太(いた)く酔(ゑ)へれば総(すべ)て知らず、町の殷賑(にぎはひ)を眺(なが)め遣(や)りて、何方(いづれ)を指して行かんとも心定らず姑(しばら)く立てるなりけり。
 さばかり人に怪(あやし)まるれど、彼は今日のみこの町に姿を顕(あらは)したるにあらず、折々散歩すらんやうに出来(いでく)ることあれど、箇様(かよう)の酔態を認むるは、兼て注目せる派出所の巡査も希(めづら)しと思へるなり。
 やがて彼は鉄鞭(てつべん)を曳鳴(ひきなら)して大路を右に出でしが、二町ばかりも行きて、乾(いぬゐ)の方(かた)より狭き坂道の開きたる角(かど)に来にける途端(とたん)に、風を帯びて馳下(はせくだ)りたる俥(くるま)は、生憎(あいにく)其方(そなた)に※(よろめ)ける酔客(すいかく)の※(よわごし)辺(あたり)を一衝撞(ひとあてあ)てたりければ、彼は郤含(はずみ)を打つて二間も彼方(そなた)へ撥飛(はねとば)さるると斉(ひとし)く、大地に横面擦(よこづらす)つて僵(たふ)れたり。不思議にも無難に踏留(ふみとどま)りし車夫は、この麁忽(そこつ)に気を奪れて立ちたりしが、面倒なる相手と見たりけん、そのまま轅(かぢ)を回して逃れんとするを、俥の上なる黒綾(くろあや)の吾妻(あづま)コオト着て、素鼠縮緬(すねずみちりめん)の頭巾被(づきんかぶ)れる婦人は樺色無地(かばいろむじ)の絹臘虎(きぬらつこ)の膝掛(ひざかけ)を推除(おしの)けて、駐(と)めよ、返せと悶(もだ)ゆるを、猶(なほ)聴かで曳々(えいえい)と挽(ひ)き行く後(うしろ)より、
「待て、こら!」と喝(かつ)する声に、行く人の始て事有りと覚(さと)れるも多く、はや車夫の不情を尤(とが)むる語(ことば)も聞ゆるに、耐(たま)りかねたる夫人は強(しひ)て其処(そこ)に下車して返り来(きた)りぬ。
 例の物見高き町中なりければ、この忙(せはし)き際(きは)をも忘れて、寄来(よりく)る人数(にんず)は蟻(あり)の甘きを探りたるやうに、一面には遭難者の土に踞(つくば)へる周辺(めぐり)を擁し、一面には婦人の左右に傍(そ)ひて、目に物見んと揉立(もみた)てたり。婦人は途(みち)を来つつ被物(かぶりもの)を取りぬ。紋羽二重(もんはぶたへ)の小豆鹿子(あづきかのこ)の手絡(てがら)したる円髷(まるわげ)に、鼈甲脚(べつこうあし)の金七宝(きんしつぽう)の玉の後簪(うしろざし)を斜(ななめ)に、高蒔絵(たかまきゑ)の政子櫛(まさこぐし)を翳(かざ)して、粧(よそほひ)は実(げ)に塵(ちり)をも怯(おそ)れぬべき人の謂(い)ひ知らず思惑(おもひまど)へるを、可痛(いたは)しの嵐(あらし)に堪(た)へぬ花の顔(かんばせ)や、と群集(くんじゆ)は自(おのづか)ら声を歛(をさ)めて肝に徹(こた)ふるなりき。
 いと更に面(おもて)の裹(つつ)まほしきこの場を、頭巾脱ぎたる彼の可羞(はづか)しさと切なさとは幾許(いかばかり)なりけん、打赧(うちあか)めたる顔は措(お)き所あらぬやうに、人堵(ひとがき)の内を急足(いそぎあし)に辿(たど)りたり。帽子も鉄鞭(てつべん)も、懐(ふところ)にせしブックも、薩摩下駄(さつまげた)の隻(かたし)も投散されたる中に、酔客(すいかく)は半ば身を擡(もた)げて血を流せる右の高頬(たかほ)を平手に掩(おほ)ひつつ寄来(よりく)る婦人を打見遣(うちみや)りつ。彼はその前に先(ま)づ懦(わるび)れず会釈して、
「どうも取んだ麁相(そそう)を致しまして、何とも相済みませんでございます。おや、お顔を! お目を打(ぶ)ちましたか、まあどうも……」
「いや太(たい)した事は無いのです」
「さやうでございますか。何処(どこ)ぞお痛め遊ばしましたでございませう」
 腰を得立てずゐるを、婦人はなほ気遣(きづか)へるなり。
 車夫は数次(あまたたび)腰(こし)を屈(かが)めて主人の後方(うしろ)より進出(すすみい)でけるが、
「どうも、旦那(だんな)、誠に申訳もございません、どうか、まあ平(ひら)に御勘弁を願ひます」
 眼(まなこ)を其方(そなた)に転じたる酔客は恚(いか)れるとしもなけれど声粛(こゑおごそか)に、
「貴様は善くないぞ。麁相(そそう)を為たと思うたら何為(なぜ)車を駐(と)めん。逃げやうとするから呼止めたんじや。貴様の不心得から主人にも恥を掻(かか)する」
「へい恐入りました」
「どうぞ御勘弁あそばしまして」
 俥(くるま)の主の身を下(くだ)して辞(ことば)を添ふれば、彼も打頷(うちうなづ)きて、
「以来気を着けい、よ」
「へい……へい」
「早う行け、行け」
 やをら彼は起たんとすなり。さては望外なる主従の喜(よろこび)に引易(ひきか)へて、見物の飽気無(あつけな)さは更に望外なりき。彼等は幕の開かぬ芝居に会へる想して、余(あまり)に落着の蛇尾(だび)振はざるを悔みて、はや忙々(いそがはし)き踵(きびす)を回(かへ)すも多かりけれど、又見栄(みばえ)あるこの場の模様に名残(なごり)を惜みつつ去り敢(あ)へぬもありけり。
 車夫は起ち悩める酔客を扶(たす)けて、履物(はきもの)を拾ひ、鞭(むち)を拾ひて宛行(あてが)へば、主人は帽を清め、ブックを取上げて彼に返し、頭巾を車夫に与へて、懇(ねんごろ)に外套(がいとう)、袴(はかま)の泥を払はしめぬ。免(ゆる)されし罪は消えぬべきも、歴々(まざまざ)と挫傷(すりきず)のその面(おもて)に残れるを見れば、疚(やまし)きに堪へぬ心は、なほ為(な)すべき事あるを吝(をし)みて私(わたくし)せるにあらずやと省られて、彼はさすがに見捨てかねたる人の顔を始は可傷(いたま)しと眺(なが)めたりしに、その眼色(まなざし)は漸(やうや)く鋭く、かつは疑ひかつは怪むらんやうに、忍びては矚(まも)りつつ便無(びんな)げに佇(たたず)みけるに、いでや長居は無益(むやく)とばかり、彼は蹌踉(よろよろ)と踏出(ふみいだ)せり。
 婦人はとにもかくにも遣過(やりすご)せしが、又何とか思直(おもひなほ)しけん、遽(にはか)に追行きて呼止めたり。頭(かしら)を捻向(ねぢむ)けたる酔客は※(くも)れる眼(まなこ)を屹(き)と見据ゑて、自(われ)か他(ひと)かと訝(いぶか)しさに言(ことば)も出(いだ)さず。
「もしお人違(ひとちがひ)でございましたら御免あそばしまして。貴方(あなた)は、あの、もしや荒尾さんではゐらつしやいませんですか」
「は?」彼は覚えず身を回(かへ)して、丁(ちよう)と立てたる鉄鞭に仗(よ)り、こは是(これ)白日の夢か、空華(くうげ)の形か、正体見んと為れど、酔眼の空(むなし)く張るのみにて、益(ますま)す霽(は)れざるは疑(うたがひ)なり。
「荒尾さんでゐらつしやいましたか!」
「はあ? 荒尾です、私(わたくし)荒尾です」
「あの間(はざま)貫一を御承知の?」
「おお、間貫一、旧友でした」
私(わたくし)は鴫沢(しぎさわ)の宮でございます」
「何、鴫沢……鴫沢の……宮と有仰(おつしや)る……?」
「はい、間の居りました宅の鴫沢」
「おお、宮さん!」
 奇遇に驚かされたる彼の酔(ゑひ)は頓(とみ)に半(なかば)は消えて、せめて昔の俤(おもかげ)を認むるや、とその人を打眺(うちなが)むるより外はあらず。
「お久しぶりで御座いました」
 宮は懽(よろこ)び勇みて犇(ひし)と寄りぬ。
 今は美(うつくし)き俥(くるま)の主ならず、路傍の酔客ならず名宣合(なのりあ)へるかれとこれとの思は如何(いかに)。間貫一が鴫沢の家に在りし日は、彼の兄の如く友として善かりし人、彼の身の如く契りて怜(いとし)かりし人にあらずや。その日の彼等は又同胞(はらから)にも得べからざる親(したしみ)を以(も)て、膝(ひざ)をも交(まじ)へ心をも語りしにあらずや。その日の彼等は多少の転変を覚悟せし一生の中に、今日の奇遇を算(かぞ)へざりしなり。よしさりとも、一(ひと)たび同胞(はらから)と睦合(むつみあ)へりし身の、弊衣(へいい)を飄(ひるがへ)して道に酔(ゑ)ひ、流車を駆りて富に驕(おご)れる高下(こうげ)の差別(しやべつ)の自(おのづか)ら種(しゆ)有りて作(な)せるに似たる如此(かくのごと)きを、彼等は更に更に夢(ゆめみ)ざりしなり。その算(かぞ)へざりし奇遇と夢(ゆめみ)ざりし差別(しやべつ)とは、咄々(とつとつ)、相携へて二人の身上(しんじよう)に逼(せま)れるなり。女気(をんなぎ)の脆(もろ)き涙ははや宮の目に湿(うるほ)ひぬ。
「まあ大相お変り遊ばしたこと!」
貴方(あなた)も変りましたな!」
 さしも見えざりし面(おもて)の傷の可恐(おそろし)きまでに益(ますま)す血を出(いだ)すに、宮は持たりしハンカチイフを与へて拭(ぬぐ)はしめつつ、心も心ならず様子を窺(うかが)ひて、
「お痛みあそばすでせう。少しお待ちあそばしまし」
 彼は何やらん吩咐(いひつ)けて車夫を遣りぬ。
直(ぢき)この近くに懇意の医者が居りますから、其処(そこ)までいらしつて下さいまし。唯今俥を申附けました」
「何の、そんなに騒ぐほどの事は無いです」
「あれ、お殆(あぶな)うございますよ。さうして大相召上つてゐらつしやるやうですから、ともかくもお俥でお出(いで)あそばしまし」
「いんや、宜(よろし)い、大丈夫。時に間はその後どうしましたか」
 宮は胸先(むなさき)を刃(やいば)の透(とほ)るやうに覚(おぼ)ゆるなりき。
「その事に就きまして色々お話も致したいので御座います」
「然し、どうしてゐますか、無事ですか」
「はい……」
「決して、無事ぢやない筈(はず)です」
 生きたる心地もせずして宮の慙(は)ぢ慄(をのの)ける傍(かたはら)に、車夫は見苦(みぐるし)からぬ一台の辻車(つじぐるま)を伴ひ来(きた)れり。漸(やうや)く面(おもて)を挙(あぐ)れば、いつ又寄りしとも知らぬ人立(ひとたち)を、可忌(いまはし)くも巡査の怪みて近(ちかづ)くなり。

     第 二 章

 鬚深(ひげふか)き横面(よこづら)に貼薬(はりくすり)したる荒尾譲介(あらおじようすけ)は既に蒼(あを)く酔醒(ゑひさ)めて、煌々(こうこう)たる空気ラムプの前に襞※(ひだ)もあらぬ袴(はかま)の膝(ひざ)を丈六(じようろく)に組みて、接待莨(せつたいたばこ)の葉巻を燻(くゆ)しつつ意気粛(おごそか)に、打萎(うちしを)れたる宮と熊の敷皮を斜(ななめ)に差向ひたり。こはこれ、彼の識(し)れると謂(い)ひし医師の奥二階にて、畳敷にしたる西洋造の十畳間なり。物語ははや緒(いとぐち)を解きしなるべし。
間(はざま)が影を隠す時、僕に遺(のこ)した手紙が有る、それで悉(くはし)い様子を知つてをるです。その手紙を見た時には、僕も顫(ふる)へて腹が立つた。直(すぐ)に貴方(あなた)に会うて、是非これは思返すやうに飽くまで忠告して、それで聴かずば、もう人間の取扱は為ちやをられん、腹の癒(い)ゆるほど打※(うちのめ)して、一生結婚の成らんやう立派な不具(かたは)にしてくれやう、と既にその時は立上つたですよ。然し、間が言(ことば)を尽しても貴方が聴かんと云ふ、僕の言(ことば)を容(い)れやう道理が無い。又間を嫌(きら)うた以上は、貴方は富山への売物じや。他(ひと)の売物に疵(きず)を附けちや済まん、とさう思うて、そりや実に矢も楯(たて)も耐(たま)らん胸を※(さす)つて了(しま)うたんです」
 宮が顔を推当(おしあ)てたる片袖(かたそで)の端(はし)より、連(しきり)に眉(まゆ)の顰(ひそ)むが見えぬ。
「宮さん、僕は貴方はさう云ふ人ではないと思うた。あれ程互に愛してをつた間(はざま)さへが欺かれたんぢやから、僕の欺れたのは無理も無いぢやらう。僕は僕として貴方を怨(うら)むばかりでは慊(あきた)らん、間に代つて貴方を怨むですよ、いんや、怨む、七生(しちしよう)まで怨む、きつと怨む!」
 終(つひ)に宮が得堪(えた)へぬ泣音(なくね)は洩(も)れぬ。
「間の一身を誤つたのは貴方が誤つたのぢや。それは又間にしても、高が一婦女子(いつぷじよし)に棄てられたが為に志を挫(くじ)いて、命を抛(なげう)つたも同然の堕落に果てる彼の不心得は、別に間として大いに責めんけりやならん。然し、間が如何(いか)に不心得であらうと、貴方の罪は依然として貴方の罪ぢや、のみならず、貴方が間を棄てた故(ゆゑ)に、彼が今日(こんにち)の有様に堕落したのであつて見れば、貴方は女の操(みさを)を破つたのみでない。併(あは)せて夫を刺殺(さしころ)したも……」
 宮は慄然(りつぜん)として振仰ぎしが、荒尾の鋭き眥(まなじり)は貫一が怨(うらみ)も憑(うつ)りたりやと、その見る前に身の措所無(おきどころな)く打竦(うちすく)みたり。
「同じですよ。さうは思ひませんか。で、貴方の悔悟(かいご)されたのは善い、これは人として悔悟せんけりやならん事。けれども残念ながら今日(こんにち)に及んでの悔悟は業(すで)に晩(おそ)い。間の堕落は間その人の死んだも同然、貴方は夫を持つて六年、なあ、水は覆(くつがへ)つた。盆は破れて了(しま)うたんじや。かう成つた上は最早(もはや)神の力も逮(およ)ぶことではない。お気の毒じやと言ひたいが、やはり貴方が自ら作(な)せる罪の報(むくい)で、固よりかく有るべき事ぢやらうと思ふ」
 宮は俯(うつむ)きてよよと泣くのみ。
 吁(ああ)、吾が罪! さりとも知らで犯せし一旦の吾が罪! その吾が罪の深さは、あの人ならぬ人さへかくまで憎み、かくまで怨むか。さもあらば、必ず思知る時有らんと言ひしその人の、争(いか)で争で吾が罪を容(ゆる)すべき。吁(ああ)、吾が罪は終(つひ)に容(ゆる)されず、吾が恋人は終に再び見る能はざるか。
 宮は胸潰(むねつぶ)れて、涙の中に人心地(ひとここち)をも失はんとすなり。
 おのれ、利を見て愛無かりし匹婦(ひつぷ)、憎しとも憎しと思はざるにあらぬ荒尾も、当面に彼の悔悟の切なるを見ては、さすがに情(じよう)は動くなりき。宮は際無(はてしな)く顔を得挙(えあ)げずゐたり。
「然し、好う悔悟を作(なす)つた。間が容さんでも、又僕が容さんでも、貴方はその悔悟に因(よ)つて自ら容されたんじや」
 由無(よしな)き慰藉(なぐさめ)は聞かじとやうに宮は俯(ふ)しながら頭(かしら)を掉(ふ)りて更に泣入りぬ。
自(みづから)にても容されたのは、誰(たれ)にも容されんのには勝(まさ)つてをる。又自ら容さるるのは、終には人に容さるるそれが始ぢやらうと謂(い)ふもの。僕は未(ま)だ未だ容し難く貴方を怨む、怨みは為るけれど、今日(こんにち)の貴方の胸中は十分察するのです。貴方のも察するからには、他の者の間(はざま)の胸中もまた察せにやならん、可いですか。さうして孰(いづれ)が多く憐(あはれ)むべきであるかと謂へば、間の無念は抑(そもそも)どんなぢやらうか、なあ、僕はそれを思ふんです。それを思うて見ると、貴方の苦痛を傍観するより外は無い。
 かうして今日(こんにち)図らずお目に掛つた。僕は婦人として生涯の友にせうと思うた人は、後にも先にも貴方ばかりじや。いや、それは段々お世話にもなつた、忝(かたじけな)いと思うた事も幾度(いくたび)か知れん、その媛友(レディフレンド)に何年ぶりかで逢うたのぢやから、僕も実に可懐(なつかし)う思ひました」
 宮は泣音(なくね)の迸(ほとばし)らんとするを咬緊(くひし)めて、濡浸(ぬれひた)れる袖(そで)に犇々(ひしひし)と面(おもて)を擦付(すりつ)けたり。
「けれど又、円髷(まるわげ)に結うて、立派にしてゐらるるのを見りや、決(け)して可愛(かはゆ)うはなかつた。幸ひ貴方が話したい事が有ると言(いは)るる、善し、あの様に間を詐(いつは)つた貴方じや、又僕を幾何(どれ)ほど詐ることぢやらう、それを聞いた上で、今日こそは打※(うちのめ)してくれやうと待つてをつた。然るに、貴方の悔悟、僕は陰(ひそか)に喜んで聴いたのです。今日(こんにち)の貴方はやはり僕の友(フレンド)の宮さんぢやつた。好う貴方悔悟なすつた! さも無かつたら、貴方の顔にこの十倍の疵(きず)を附けにや還(かへ)さんぢやつたのです。なあ、自ら容されたのは人に赦さるる始——解りましたか。
 で、間に取成してくれい、詑(わび)を言うてくれい、とのお嘱(たのみ)ぢやけれど、それは僕は為(せ)ん。為んのは、間に対してどうも出来んのぢやから。又貴方に罪有りと知つてをりながらその人から頼まるる僕でない。又僕が間であつたらば、断じて貴方の罪は容さんのぢやから。
 かうして親友の敵(かたき)に逢うてからに、指も差さずに別るる、これが荒尾の貴方に対する寸志と思うて下さい。いや、久しぶりで折角お目に掛りながら、可厭(いや)な言(こと)ばかり聞せました。それぢや、まあ、御機嫌好(ごきげんよ)う、これでお暇(いとま)します」
 会釈して荒尾の身を起さんとする時、
暫(しばら)く、どうぞ」宮は取乱したる泣顔を振挙(ふりあ)げて、重き瞼(まぶた)の露を払へり。
「それではこの上どんなにお願ひ申しましても、貴方はお詑を為(なす)つては下さらないので御座いますか。さうして貴方もやはり私(わたくし)を容(ゆる)さんと有仰(おつしや)るので御座いますか」
「さうです」
 忙(せは)しげに荒尾は片膝(かたひざ)立ててゐたり。
「どうぞもう暫くゐらしつて下さいまし、唯今(ただいま)直(ぢき)に御飯が参りますですから」
「や、飯(めし)なら欲うありませんよ」
「私は未だ申上げたい事が有るのでございますから、荒尾さんどうかお坐り下さいまし」
「いくら貴方が言うたつて、返らん事ぢやありませんか」
「そんなにまで有仰らなくても、……少しは、もう堪忍(かんにん)なすつて下さいまし」
 火鉢(ひばち)の縁(ふち)に片手を翳(かざ)して、何をか打案ずる様(さま)なる目を※(そら)しつつ荒尾は答へず。
「荒尾さん、それでは、とてもお聴入(ききいれ)はあるまいと私は諦(あきら)めましたから、貫一(かんいつ)さんへお詑の事はもう申しますまい、又貴方に容して戴く事も願ひますまい」
 咄嗟(とつさ)に荒尾の視線は転じて、猶語続(かたりつづく)る宮が面(おもて)を掠(かす)め去(さ)りぬ。
「唯一目私は貫一さんに逢ひまして、その前でもつて、私の如何(いか)にも悪かつた事を思ふ存分謝(あやま)りたいので御座います。唯あの人の目の前で謝りさへ為たら、それで私は本望なのでございます。素(もと)より容してもらはうとは思ひません。貫一さんが又容してくれやうとも、ええ、どうせ私は思ひは致しません。容されなくても私はかまひません。私はもう覚悟を致し……」
 宮は苦しげに涙を呑みて、
「ですから、どうぞ御一所にお伴れなすつて下さいまし。貴方がお伴れなすつて下されば、貫一さんはきつと逢つてくれます。逢つてさへくれましたら、私は殺されましても可(よ)いので御座います。貴方と二人で私を責めて責めて責め抜いた上で、貫一さんに殺さして下さいまし。私は貫一さんに殺してもらひたいので御座います」
 感に打れて霜置く松の如く動かざりし荒尾は、忽(たちま)ちその長き髯(ひげ)を振りて頷(うなづ)けり。
「うむ、面白い! 逢うて間に殺されたいとは、宮さん好う言(いは)れた。さうなけりやならんじや。然し、なあ、然しじや、貴方は今は富山の奥さん、唯継(ただつぐ)と云ふ夫の有る身じや、滅多な事は出来んですよ」
「私はかまひません!」
「可かん、そりや可かん。間に殺されても辞せんと云ふその悔悟は可いが、それぢや貴方は間有るを知つて夫有るのを知らんのじや。夫はどうなさるなあ、夫に道が立たん事になりはせまいか、そこも考へて貰はにやならん。
 して見りや、始には富山が為に間を欺き、今又間の為に貴方(あなた)は富山を欺くんじや。一人ならず二人欺くんじや! 一方には悔悟して、それが為に又一方に罪を犯したら、折角の悔悟の効は没(なくな)つて了ふ」
「そんな事はかまひません!」
 無慙(むざん)に唇(くちびる)を咬(か)みて、宮は抑へ難くも激せるなり。
「かまはんぢや可かん」
「いいえ、かまひません!」
「そりや可かん!」
私(わたくし)はもうそんな事はかまひませんのです。私の体はどんなになりませうとも、疾(とう)から棄ててをるので御座いますから、唯もう一度貫一さんにお目に掛つて、この気の済むほど謝りさへ致したら、その場でもつて私は死にましても本望なのですから、富山の事などは……不如(いつそ)さうして死んで了ひたいので御座います」
「それそれさう云ふ無考(むかんがへ)な、訳の解らん人に僕は与(くみ)することは出来んと謂ふんじや。一体さうした貴方は了簡(りようけん)ぢやからして、始に間をも棄てたんじや。不埓(ふらち)です! 人の妻たる身で夫を欺いて、それでかまはんとは何事ですか。そんな貴方が了簡であつて見りや、僕は寧(むし)ろ富山を不憫(ふびん)に思ふです、貴方のやうな不貞不義の妻を有つた富山その人の不幸を愍(あはれ)まんけりやならん、いや、愍む、貴方よりは富山に僕は同情を表する、愈(いよい)よ憎むべきは貴方じや」
 四途乱(しどろ)に湿(うるほ)へる宮の目は焚(も)ゆらんやうに耀(かがや)けり。
「さう有仰(おつしや)つたら、私はどうして悔悟したら宜(よろし)いので御座いませう。荒尾さん、どうぞ助けると思召(おぼしめ)してお誨(をし)へなすつて下さいまし」
「僕には誨へられんで、貴方がまあ能(よ)う考へて御覧なさい」
「三年も四年も前から一日でもその事を考へません日と云つたら無いのでございます。それが為に始終悒々(ぶらぶら)と全(まる)で疾(わづら)つてをるやうな気分で、噫(ああ)もうこんななら、いつそ死んで了(しま)はう、と熟(つくづ)くさうは思ひながら、唯(たつた)もう一目、一目で可うございますから貫一(かんいつ)さんに逢ひませんでは、どうも死ぬにも死なれないので御座います」
「まあ能う考へて御覧なさい」
「荒尾さん、貴方それでは余(あんま)りでございますわ」
 独(ひとり)に余る心細さに、宮は男の袂(たもと)を執りて泣きぬ。理切(ことわりせ)めて荒尾もその手を払ひかねつつ、吾ならぬ愁に胸塞(むねふさが)れて、実(げ)にもと覚ゆる宮が衰容(やつれすがた)に眼(まなこ)を凝(こら)しゐたり。
「荒尾さん、こんなに思つて私は悔悟してをるのぢやございませんか、昔の宮だと思召して頼(たのみ)に成つて下さいまし。どうぞ、荒尾さん、どうぞ、さあ、お誨(をし)へなすつて下さいまし」
 涙に昏(く)れてその語(ことば)は能くも聞えず、階子下(はしごした)の物音は膳運(ぜんはこ)び出(い)づるなるべし。
 果して人の入来(いりき)て、夕餉(ゆふげ)の設(まうけ)すとて少時(しばし)紛(まぎら)されし後、二人は謂(い)ふべからざる佗(わびし)き無言の中に相対(あひたい)するのみなりしを、荒尾は始て高く咳(しはぶ)きつ。
「貴方の言るる事は能(よ)う解つてをる、決して無理とは思はんです。如何(いか)にも貴方に誨へて上げたい、誨へて貴方の身の立つやうな処置で有るなら、誨へて上げんぢやないです。けれどもじや、それが誨へて上げられんのは、僕が貴方であつたらかう為ると云ふ考量(かんがへ)に止(とどま)るので……いや、いや、そりや言(いは)れん。言うて善い事なら言ひます、人に対して言ふべき事でない、况(いはん)や誨ふべき事ではない、止(た)だ僕一箇の了簡として肚(はら)の中に思うたまでの事、究竟(つまり)荒尾的空想に過ぎんのぢやから、空想を誨へて人を誤つてはどうもならんから、僕は何も言はんので、言はんぢやない、実際言得んのじや、然し猶能(なほよ)う考へて見て、貴方に誨へらるる方法を見出(みいだ)したら、更にお目に掛つて申上げやう。折が有つたら又お目に掛ります。は、僕の居住(すまひ)? 居住は、まあ言はん方が可い、蜑(あま)が子(こ)なれば宿も定めずじや。言うても差支(さしつかへ)は無いけれど、貴方に押掛けらるると困るから、まあ言はん。は、如何(いか)にも、こんな態(なり)をしてをるので、貴方は吃驚(びつくり)なすつたか、さうでせう。自分にも驚いてをるのぢやけれどどうも為方が無い。僕の身の上に就ては段々子細が有るですとも、それもお話したいけれど、又この次に。
 酒は余り飲むな? はあ、今日のやうに酔うた事は希(まれ)です。忝(かたじけな)い、折角の御忠告ぢやから今後は宜(よろし)い、気を着くるです。
 力に成つてくれと言うたとて、義として僕は貴方の力には成れんぢやないですか。貴方の胸中も聴いた事ぢやから、敵にはなるまい、けれど力には成られんですよ。
 間にもその後逢はんのですとも。一遍逢うて聞きたい事も言ひたい事も頗(すこぶ)る有るのぢやけれども。訪ねもせんので。それにや一向意味は無いですとも。はあ、一遍訪ねませう。明日(あす)訪ねてくれい? さうは可(い)かん、僕もこれでなかなか用が有るのぢやから。ああ、貴方も浮世(うきよ)が可厭(いや)か、僕も御同様じや。世の中と云ふものは、一つ間違ふと誠に面倒なもので、僕なども今日(こんにち)の有様では生効(いきがひ)の無い方じやけれど、このままで空(むなし)く死ぬるも残念でな、さう思うて生きてはをるけれど、苦しみつつ生きてをるなら、死んだ方が無論勝(まし)ですさ。何故(なにゆゑ)命が惜いのか、考へて見ると頗(すこぶ)る解(わから)なくなる」
 語りつつ彼は食を了(をは)りぬ。
嗚呼(ああ)、貴方に給仕して貰ふのは何年ぶりと謂ふのかしらん。間も善う食うた」
 宮は差含(さしぐ)む涙を啜(すす)れり。尽きせぬ悲(かなしみ)を何時までか見んとやうに荒尾は俄(にはか)に身支度して、
「こりや然し却(かへ)つてお世話になりました。それぢや宮さん、お暇(いとま)」
「あれ、荒尾さん、まあ、貴方……」
 はや彼は起てるなり。宮はその前に塞(ふさが)りて立ちながら泣きぬ。
「私はどうしたら可いのでせう」
「覚悟一つです」
 始て誨(をし)ふるが如く言放ちて荒尾の排(かきの)け行かんとするを、彼は猶も縋(すが)りて、
「覚悟とは?」
「読んで字の如し」
 驚破(すはや)、彼の座敷を出づるを、送りも行かず、坐りも遣(や)らぬ宮が姿は、寂(さびし)くも壁に向ひて動かざりけり。

     第 三 章

 門々(かどかど)の松は除かれて七八日(ななやうか)も過ぎぬれど、なほ正月機嫌(きげん)の失せぬ富山唯継は、今日も明日(あす)もと行処(ゆきどころ)を求めては、夜を※(ひ)に継ぎて打廻(うちめぐ)るなりけり。宮は毫(いささ)かもこれも咎(とが)めず、出づるも入(い)るも唯彼の為(な)すに任せて、あだかも旅館の主(あるじ)の為(す)らんやうに、形(かた)ばかりの送迎を怠らざると謂(い)ふのみ。
 この夫に対する仕向(しむけ)は両三年来の平生(へいぜい)を貫きて、彼の性質とも病身の故(ゆゑ)とも許さるるまでに目慣(めなら)されて又彼方(あなた)よりも咎められざるなり。それと共に唯継の行(おこなひ)も曩日(さきのひ)とは漸(やうや)く変りて、出遊(であそび)に耽(ふけ)らんとする傾(かたむき)も出(い)で来(き)しを、浅瀬(あさせ)の浪(なみ)と見(み)し間(ま)も無く近き頃より俄(にはか)に深陥(ふかはまり)して浮(うか)るると知れたるを、宮は猶(なほ)しも措(お)きて咎めず。他(ひと)は如何(いか)にとも為(せ)よ、吾身は如何にとも成らば成れと互に咎めざる心易(こころやす)さを偸(ぬす)みて、異(あやし)き女夫(めをと)の契を繋(つな)ぐにぞありける。
 かかれども唯継はなほその妻を忘れんとはせず。始終の憂(うき)に瘁(やつ)れたる宮は決して美(うつくし)き色を減ぜざりしよ。彼がその美しさを変へざる限は夫の愛は虧(か)くべきにあらざりき。抑(そもそ)もここに嫁(とつ)ぎしより一点の愛だに無かりし宮の、今に到りては啻(ただ)に愛無きに止(とどま)らずして、陰(ひそか)に厭(いと)ひ憎めるにあらずや。その故に彼は漸く家庭の楽からざるをも感ずるにあらずや。その故に彼は外に出でて憂(うさ)を霽(はら)すに忙(いそがはし)きにあらずや。されども彼の忘れず塒(ねぐら)に帰り来(きた)るは、又この妻の美き顔を見んが為のみ。既にその顔を見了(みをは)れば、何ばかりの楽(たのしみ)のあらぬ家庭は、彼をして火無き煖炉(ストオブ)の傍(かたはら)に処(をら)しむるなり。彼の凍えて出(い)でざること無し。出(い)づれば幸ひにその金力に頼(よ)りて勢を得、媚(こび)を買ひて、一時の慾を肆(ほしいま)まにし、其処(そこ)には楽むとも知らず楽み、苦むとも知らず苦みつつ宮が空(むなし)き色香(いろか)に溺(おぼ)れて、内にはかかる美きものを手活(ていけ)の花と眺(なが)め、外には到るところに当世の※(はぶし)を鳴して推廻(おしまは)すが、此上無(こよな)う紳士の願足れりと心得たるなり。
 いで、その妻は見るも厭(いとはし)き夫の傍(そば)に在る苦を片時も軽くせんとて、彼の繁(しげ)き外出(そとで)を見赦(みゆる)して、十度(とたび)に一度(ひとたび)も色を作(な)さざるを風引(かぜひ)かぬやうに召しませ猪牙(ちよき)とやらの難有(ありがた)き賢女の志とも戴(いただ)き喜びて、いと堅き家の守とかつは等閑(なほざり)ならず念(おも)ひにけり。さるは独(ひと)り夫のみならず、本家の両親を始(はじめ)親属知辺(しるべ)に至るまで一般に彼の病身を憫(あはれ)みて、おとなしき嫁よと賞(ほ)め揚(そや)さぬはあらず。実(げ)に彼は某(なにがし)の妻のやうに出行(である)かず、くれがしの夫人(マダム)のやうに気儘(きまま)ならず、又は誰々(たれだれ)の如く華美(はで)を好まず、強請事(ねだりごと)せず、しかもそれ等の人々より才も容(かたち)も立勝(たちまさ)りて在りながら、常に内に居て夫に事(つか)ふるより外(ほか)を為(せ)ざるが、最怜(いとを)しと見ゆるなるべし。宮が裹(つつ)める秘密は知る者もあらず、躬(みづから)も絶えて異(あやし)まるべき穂を露(あらは)さざりければ、その夫に事(つか)へて捗々(はかばか)しからぬ偽(いつはり)も偽とは為られず、却(かへ)りて人に憫(あはれ)まるるなんど、その身には量無(はかりな)き幸(さいはひ)を享(う)くる心の内に、独(ひと)り遣方無(やるかたな)く苦める不幸は又量無しと為ざらんや。
 十九にして恋人を棄てにし宮は、昨日(きのふ)を夢み、今日を嘆(かこ)ちつつ、過(すぐ)せば過さるる月日を累(かさ)ねて、ここに二十(はたち)あまり五(いつつ)の春を迎へぬ。この春の齎(もたら)せしものは痛悔と失望と憂悶(ゆうもん)と、別に空(むなし)くその身を老(おい)しむる齢(よはひ)なるのみ。彼は釈(ゆるさ)れざる囚(とらはれ)にも同(おなじ)かる思を悩みて、元日の明(あく)るよりいとど懊悩(おうのう)の遣る方無かりけるも、年の始といふに臥(ふ)すべき病(やまひ)ならねば、起きゐるままに本意ならぬ粧(よそほひ)も、色を好める夫に勧められて、例の美しと見らるる浅ましさより、猶(なほ)甚(はなはだし)き浅ましさをその人の陰(かげ)に陽(ひなた)に恨み悲むめり。
 宮は今外出せんとする夫の寒凌(さむさしの)ぎに葡萄酒(ぶどうしゆ)飲む間(ま)を暫(しばら)く長火鉢(ながひばち)の前に冊(かしづ)くなり。木振賤(きぶりいやし)からぬ二鉢(ふたはち)の梅の影を帯びて南縁の障子に上(のぼ)り尽せる日脚(ひざし)は、袋棚(ふくろだな)に据ゑたる福寿草(ふくじゆそう)の五六輪咲揃(さきそろ)へる葩(はなびら)に輝きつつ、更に唯継の身よりは光も出づらんやうに、彼は昼眩(ひるまばゆ)き新調の三枚襲(さんまいがさね)を着飾りてその最も珍(ちん)と為る里昂(リヨン)製の白の透織(すかしおり)の絹領巻(きぬえりまき)を右手(めて)に引※(ひきつくろ)ひ、左に宮の酌を受けながら、
「あ、拙(まづ)い手付(てつき)……ああ零(こぼ)れる、零れる! これは恐入つた。これだからつい余所(よそ)で飲む気にもなりますと謂(い)つて可い位のものだ」
「ですから多度上(たんとあが)つていらつしやいまし」
宜(よろし)いかい。宜いね。宜い。今夜は遅いよ」
「何時頃お帰来(かへり)になります」
「遅いよ」
「でも大約(おほよそ)時間を極めて置いて下さいませんと、お待ち申してをる者は困ります」
「遅いよ」
「それぢや十時には皆(みんな)寝みますから」
「遅いよ」
 又言ふも煩(わづらはし)くて宮は口を閉ぢぬ。
「遅いよ」
「…………」
「驚くほど遅いよ」
「…………」
「おい、些(ちよつ)と」
「…………」
「おや。お前慍(おこ)つたのか」
「…………」
「慍らんでも可いぢやないか、おい」
 彼は続け様に宮の袖(そで)を曳けば、
「何を作(なさ)るのよ」
「返事を為んからさ」
「お遅(おそ)いのは解りましたよ」
「遅くはないよ、実は。だからして、まあ機嫌(きげん)を直すべし」
「お遅いなら、お遅いで宜(よろし)うございますから……」
「遅くはないと言ふに、お前は近来直(ぢき)に慍るよ、どう云ふのかね」
「一つは病気の所為(せゐ)かも知れませんけれど」
「一つは俺の浮気の所為かい。恐入つたね」
「…………」
「お前一つ飲まんかい」
私(わたくし)沢山」
「ぢや俺が半分助(す)けて遣るから」
「いいえ、沢山なのですから」
「まあさう言はんで、少し、注(つ)ぐ真似(まね)」
「欲くもないものを、貴方は」
「まあ可いさ。お酌は、それかう云ふ塩梅(あんばい)に、愛子流かね」
 妓(ぎ)の名を聞ける宮の如何(いか)に言ふらん、と唯継は陰(ひそか)に楽み待つなる流眄(ながしめ)を彼の面(おもて)に送れるなり。
 宮は知らず貌(がほ)に一口の酒を喞(ふく)みて、眉(まゆ)を顰(ひそ)めたるのみ。
「もう飲めんのか。ぢや此方(こつち)にお寄来(よこ)し」
「失礼ですけれど」
「この上へもう一盃注(いつぱいつ)いで貰はう」
「貴方、十時過ぎましたよ、早くいらつしやいませんか」
「可いよ、この二三日は別に俺の為る用は無いのだから。それで実はね今日は少し遅くなるのだ」
「さうでございますか」
「遅いと云つたつて怪いのぢやない。この二十八日に伝々会の大温習(おほざらひ)が有るといふ訳だらう、そこで今日五時から糸川(いとがわ)の処へ集つて下温習(したざらひ)を為るのさ。俺は、それお特得(はこ)の、「親々(おやおや)に誘(いざな)はれ、難波(なにわ)の浦(うら)を船出(ふなで)して、身を尽したる、憂きおもひ、泣いてチチチチあかしのチントン風待(かぜまち)にテチンチンツン……」
 厭(いとは)しげに宮の余所見(よそみ)せるに、乗地(のりぢ)の唯継は愈(いよい)よ声を作りて、
「たまたま逢ひはア——ア逢ひイ——ながらチツンチツンチツンつれなき嵐(あらし)に吹分(ふきわ)けられエエエエエエエエ、ツンツンツンテツテツトン、テツトン国へ帰ればアアアアア父(ちち)イイイイ母(はは)のチチチチンチンチンチンチンチイン〔思ひも寄らぬ夫定(つまさだめ)……」
「貴方もう好加減(いいかげん)になさいましよ」
「もう少し聴いてくれ、〔立つる操(みさを)を破ら……」
「又寛(ゆつく)り伺ひますから、早くいらつしやいまし」
「然し、巧くなつたらう、ねえ、些(ちよつ)と聞けるだらう」
「私には解りませんです」
「これは恐入つた、解らないのは情無いね。少し解るやうに成つて貰(もら)はうか」
「解らなくても宜うございます」
「何、宜いものか、浄瑠璃(じようるり)の解らんやうな頭脳(あたま)ぢや為方(しかた)が無い。お前は一体冷淡な頭脳(あたま)を有(も)つてゐるから、それで浄瑠璃などを好まんのに違無い。どうもさうだ」
「そんな事はございません」
「何、さうだ。お前は一体冷淡さ」
「愛子はどうでございます」
「愛子か、あれはあれで冷淡でないさ」
「それで能く解りました」
「何が解つたのか」
「解りました」
些(ちつと)も解らんよ」
「まあ可(よ)うございますから、早くいらつしやいまし、さうして早くお帰りなさいまし」
「うう、これは恐入つた、冷淡でない。ぢや早く帰る、お前待つてゐるか」
「私は何時(いつ)でも待つてをりますぢや御座いませんか」
「これは冷淡でない!」
 漸(やうや)く唯継の立起(たちあが)れば、宮は外套(がいとう)を着せ掛けて、不取敢(とりあへず)彼に握手を求めぬ。こは決(け)して宮の冷淡ならざるを証するに足らざるなり、故(ゆゑ)は、この女夫(めをと)の出入(しゆつにゆう)に握手するは、夫の始より命じて習せし躾(しつけ)なるをや。

     (三) の 二

 夫を玄関に送り出(い)でし宮は、やがて氷の窖(あなぐら)などに入(い)るらん想(おもひ)しつつ、是非無き歩(あゆみ)を運びて居間に還(かへ)りぬ。彼はその夫と偕(とも)に在るを謂(い)はんやう無き累(わづらひ)と為(す)なれど、又その独(ひとり)を守りてこの家に処(おか)るるをも堪(た)へ難く悒(いぶせ)きものに思へるなり。必(かならず)しも力(つと)むるとにはあらねど、夫の前には自(おのづか)ら気の張ありて、とにかくにさるべくは振舞へど恣(ほしいま)まなる身一箇(みひとつ)となれば、遽(にはか)に慵(ものう)く打労(うちつか)れて、心は整へん術(すべ)も知らず紊(みだ)れに乱るるが常なり。
 火鉢(ひばち)に倚(よ)りて宮は、我を喪(うしな)へる体(てい)なりしが、如何(いか)に思入(おもひい)り、思回(おもひまは)し思窮(おもひつ)むればとて、解くべきにあらぬ胸の内の、終(つひ)に明けぬ闇(やみ)に彷徨(さまよ)へる可悲(かな)しさは、在るにもあられず身を起して彼は障子の外なる縁に出(い)でたり。
 麗(うるはし)く冱(さ)えたる空は遠く三四(みつよつ)の凧(いか)の影を転じて、見遍(みわた)す庭の名残(なごり)無く冬枯(ふゆか)れたれば、浅露(あからさま)なる日の光の眩(まばゆ)きのみにて、啼狂(なきくる)ひし梢(こずゑ)の鵯(ひよ)の去りし後は、隔てる隣より戞々(かつかつ)と羽子(はね)突く音して、なかなかここにはその寒さを忍ぶ値(あたひ)あらぬを、彼はされども少時(しばし)居て、又空を眺(なが)め、又冬枯(ふゆがれ)を見遣(みや)り、同(おなじ)き日の光を仰ぎ、同き羽子の音を聞きて、抑(おさ)へんとはしたりけれども抑へ難さの竟(つひ)に苦く、再び居間に入(い)ると見れば、其処(そこ)にも留らで書斎の次なる寝間(ねま)に入(い)るより、身を抛(なげう)ちてベットに伏したり。
 厚き蓐(しとね)の積れる雪と真白き上に、乱畳(みだれたた)める幾重(いくへ)の衣(きぬ)の彩(いろどり)を争ひつつ、妖(あで)なる姿を意(こころ)も介(お)かず横(よこた)はれるを、窓の日の帷(カアテン)を透(とほ)して隠々(ほのぼの)照したる、実(げ)に匂(にほひ)も零(こぼ)るるやうにして彼は浪(なみ)に漂ひし人の今打揚(うちあ)げられたるも現(うつつ)ならず、ほとほと力竭(ちからつ)きて絶入(たえい)らんとするが如く、止(た)だ手枕(てまくら)に横顔を支へて、力無き眼(まなこ)を※(みは)れり竟(つひ)には溜息(ためいき)※(つ)きてその目を閉づれば、片寝に倦(う)める面(おもて)を内向(うちむ)けて、裾(すそ)の寒さを佗(わび)しげに身動(みうごき)したりしが、猶(なほ)も底止無(そこひな)き思の淵(ふち)は彼を沈めて※(のが)さざるなり
 隅棚(すみだな)の枕時計は突(はた)と秒刻(チクタク)を忘れぬ。益(ますま)す静に、益す明かなる閨(ねや)の内には、空(むな)しとも空(むなし)き時の移るともなく移るのみなりしが、忽(たちま)ち差入る鳥影の軒端(のきば)に近く、俯(ふ)したる宮が肩頭(かたさき)に打連(うちつらな)りて飜(ひらめ)きつ。
 やや有りて彼は嬾(しどな)くベットの上に起直りけるが、鬢(びん)の縺(ほつ)れし頭(かしら)を傾(かたぶ)けて、帷(カアテン)の隙(ひま)より僅(わづか)に眺めらるる庭の面(おも)に見るとしもなき目を遣りて、当所無(あてどな)く心の彷徨(さまよ)ふ蹤(あと)を追ふなりき。
 久からずして彼はここをも出でて又居間に還れば、直(ぢき)に箪笥(たんす)の中より友禅縮緬(ゆうぜんちりめん)の帯揚(おびあげ)を取出(とりいだ)し、心に籠(こ)めたりし一通の文(ふみ)とも見ゆるものを抜きて、こたびは主(あるじ)の書斎に持ち行きて机に向へり。その巻紙は貫一が遺(のこ)せし筆の跡などにはあらで、いつかは宮の彼に送らんとて、別れし後の思の丈(たけ)を窃(ひそか)に書聯(かきつら)ねたるものなりかし。
 往年(さいつとし)宮は田鶴見(たずみ)の邸内に彼を見しより、いとど忍びかねたる胸の内の訴へん方(かた)もあらぬ切なさに、唯心寛(ただこころゆかし)の仮初(かりそめ)に援(と)りける筆ながら、なかなか口には打出(うちいだ)し難き事を最好(いとよ)く書きて陳(つづ)けも為(せ)しを、あはれかのひとの許(もと)に送りて、思ひ知りたる今の悲しさを告げばやと、一図の意(こころ)をも定めしが、又案ずれば、その文は果して貫一の手に触れ、目にも入るべきか。よしさればとて、憎み怨(うら)める怒(いかり)の余に投返されて、人目に曝(さら)さるる事などあらば、徒(いたづら)に身を滅(ほろぼ)す疵(きず)を求めて終りなんをと、遣れば火に入る虫の危(あやふ)く、捨つるは惜くも、やがて好き首尾の有らんやうに拠無(よりどころな)き頼を繋(か)けつつ、彼は懊悩(おうのう)に堪へざる毎に取出でては写し易(か)ふる傍(かたは)ら、或(ある)は書添へ、或は改めなどして、この文に向へば自(おのづか)らその人に向ふが如く、その人に向ひてはほとほと言尽(いひつく)して心残(こころのこり)のあらざる如く、止(ただ)これに因(よ)りて欲するままの夢をも結ぶに似たる快きを覚ゆるなりき。かくして得送らぬ文は写せしも灰となり、反古(ほご)となりて、彼の帯揚に籠(こ)められては、いつまで草の可哀(あはれ)や用らるる果も知らず、宮が手習は実(げ)に久(ひさし)うなりぬ。
 些箇(かごと)に慰められて過せる身の荒尾に邂逅(めぐりあ)ひし嬉しさは、何に似たりと謂(い)はんも愚(おろか)にて、この人をこそ仲立ちて、積る思を遂(と)げんと頼みしを、仇(あだ)の如く与(くみ)せられざりし悲しさに、さらでも切なき宮が胸は掻乱(かきみだ)れて、今は漸(やうや)く危きを懼(おそ)れざる覚悟も出(い)で来て、いつまで草のいつまでかくてあらんや、文は送らんと、この日頃思ひ立ちてけり。
 紙の良きを択(えら)び、筆の良きを択び、墨の良きを択び、彼は意(こころ)してその字の良きを殊(こと)に択びて、今日の今ぞ始めて仮初(かりそめ)ならず写さんと為(す)なる。打顫(うちふる)ふ手に十行余(あまり)認(したた)めしを、つと裂きて火鉢に差※(さしく)べければ焔(ほのほ)の急に炎々と騰(のぼ)るを、可踈(うとま)しと眺めたる折しも、紙門(ふすま)を啓(あ)けてその光に惧(おび)えし婢(をんな)は、覚えず主(あるじ)の気色(けしき)を異(あやし)みつつ、
「あの、御本家の奥様がお出(い)で遊ばしました」

     第 四 章

 主(あるじ)夫婦を併(あは)せて焼亡(しようぼう)せし鰐淵(わにぶち)が居宅は、さるほど貫一の手に頼(よ)りてその跡に改築せられぬ、有形(ありがた)よりは小体(こてい)に、質素を旨としたれど専(もつぱ)ら旧(さき)の構造を摸(うつ)して差(たが)はざらんと勉(つと)めしに似たり。
 間貫一と陶札を掲げて、彼はこの新宅の主(あるじ)になれるなり。家督たるべき直道は如何(いか)にせし。彼は始よりこの不義の遺産に手をも触れざらんと誓ひ、かつこれを貫一に与へて、その物は正業の資たれ。その人は改善の人たれと冀(こひねがひ)しを、貫一は今この家の主(ぬし)となれるに、なほ先代の志を飜(ひるがへ)さずして、益(ますま)す盛(さかん)に例の貪(むさぼり)を営むなりき。然(しか)れば彼と貫一との今日(こんにち)の関繋(かんけい)は如何(いか)なるものならん。絶えてこれを知る者あらず。凡(およ)そ人生箇々(ここ)の裏面には必ず如此(かくのごと)き内情若(もし)くは秘密とも謂ふべき者ありながら、幸(さいはひ)に他の穿鑿(せんさく)を免れて、瞹眛(あいまい)の裏(うち)に葬られ畢(をは)んぬる例(ためし)尠(すくな)からず。二代の鰐淵なる間の家のこの一件もまた貫一と彼との外に洩(も)れざるを得たり。
 かくして今は鰐淵の手代ならぬ三番町の間は、その向に有数の名を成して、外には善く貸し、善く歛(をさ)むれども、内には事足る老婢(ろうひ)を役(つか)ひて、僅(わづか)に自炊ならざる男世帯(をとこせたい)を張りて、なほも奢(おご)らず、楽まず、心は昔日(きのふ)の手代にして、趣は失意の書生の如く依然たる変物(へんぶつ)の名を失はでゐたり。
 出(い)でてはさすがに労(つか)れて日暮に帰り来にける貫一は、彼の常として、吾家(わがいへ)ながら人気無き居間の内を、旅の木蔭にも休(やすら)へる想しつつ、稍(やや)興冷めて坐りも遣(や)らず、物の悲き夕(ゆふべ)を特(こと)に独(ひとり)の感じゐれば、老婢はラムプを持ち来(きた)りて、
今日(こんにち)三時頃でございました、お客様が見えまして、明日(みようにち)又今頃来るから、是非内に居てくれるやうにと有仰(おつしや)つて、お名前を伺つても、学校の友達だと言へば可い、とさう有仰(おつしや)つてお帰りになりました」
「学校の友達?」
 臆測(おしあて)にも知る能(あた)はざるはこの藪(やぶ)から棒の主(ぬし)なり。
「どんな風の人かね」
「さやうでございますよ、年紀(としごろ)四十ばかりの蒙茸(むしやくしや)と髭髯(ひげ)の生(は)えた、身材(せい)の高い、剛(こは)い顔の、全(まる)で壮士みたやうな風体(ふうてい)をしてお在(いで)でした」
「…………」
 些(さ)の憶起(おもひおこ)す節(ふし)もありや、と貫一は打案じつつも半(なかば)は怪むに過ぎざりき。
「さうして、まあ大相横柄な方なのでございます」
明日(あした)三時頃に又来ると?」
「さやうでございますよ」
誰(たれ)か知らんな」
「何だか誠に風の悪さうな人体(にんてい)で御座いましたが、明日(みようんち)参りましたら通しませうで御座いますか」
「ぢや用向は言つては行かんのだね」
「さやうでございますよ」
宜(よろし)い、会つて見やう」
「さやうでございますか」
 起ち行かんとせし老婢は又居直りて、
「それから何でございました、間もなく赤樫(あかがし)さんがいらつしやいまして」
 貫一は懌(よろこ)ばざる色を作(な)してこれに応(こた)へたり。
「神戸の蒲鉾(かまぼこ)を三枚、見事なのでございます。それに藤村(ふじむら)の蒸羊羹(むしようかん)を下さいまして、私(わたくし)まで毎度又頂戴物(ちようだいもの)を致しましたので御座います」
 彼は益す不快を禁じ得ざる面色(おももち)して、応答(うけこたへ)も為(せ)で聴きゐたり。
「さうして明日(みようんち)、五時頃些(ちよい)とお目に掛りたいから、さう申上げて置いてくれと有仰(おつしや)つてで御座いました」
 可(よ)しとも彼は口には出(いだ)さで、寧(むし)ろ止(や)めよとやうに忙(せはし)く頷(うなづ)けり。

     (四) の 二

 学校友達と名宣(なの)りし客はその言(ことば)の如く重ねて訪(と)ひ来(き)ぬ。不思議の対面に駭(おどろ)き惑へる貫一は、迅雷(じんらい)の耳を掩(おほ)ふに遑(いとま)あらざらんやうに劇(はげし)く吾を失ひて、頓(とみ)にはその惘然(ぼうぜん)たるより覚むるを得ざるなりき。荒尾譲介は席の温(あたたま)る間(ひま)の手弄(てまさぐり)に放ちも遣(や)らぬ下髯(したひげ)の、長く忘れたりし友の今を如何(いか)にと観(み)るに忙(いそがし)かり。
殆(ほとん)ど一昔と謂うても可(よ)い程になるのぢやから話は沢山ある、けれどもこれより先に聞きたいのは、君は今日(こんにち)でも僕をじや、この荒尾を親友と思うてをるか、どうかと謂ふのじや」
 答ふべき人の胸はなほ自在に語るべくもあらず乱れたるなり。
「考へるまではなからう。親友と思うてをるなら、をる、さうなけりや、ないと言ふまでで是(イエス)か否(ノウ)かの一つじや」
「そりや昔は親友であつた」
 彼は覚束無(おぼつかな)げに言出(いひいだ)せり。
「さう」
「今はさうぢやあるまい」
何為(なぜ)にな」
「その後五六年も全く逢はずにゐたのだから、今では親友と謂ふことは出来まい」
「なに五六年前(ぜん)も一向親友ではありやせんぢやつたではないか」
 貫一は目を側(そば)めて彼を訝(いぶか)りつ。
「さうぢやらう、学士になるか、高利貸になるかと云ふ一身の浮沈の場合に、何等の相談も為(せ)んのみか、それなり失踪(しつそう)して了うたのは何処(どこ)が親友なのか」
 その常に慙(は)ぢかつ悔(くゆ)る一事を責められては、癒(い)えざる痍(きず)をも割(さか)るる心地して、彼は苦しげに容(かたち)を歛(をさ)め、声をも出(いだ)さでゐたり。
「君の情人(いろ)は君に負(そむ)いたぢやらうが、君の友(フレンド)は決(け)して君に負かん筈(はず)ぢや。その友(フレンド)を何為(なぜ)に君は棄てたか。その通り棄てられた僕ぢやけれど、かうして又訪ねて来たのは、未(ま)だ君を実は棄てんのじやと思ひ給へ」
 学生たりし荒尾! 参事官たりし荒尾!! 尾羽(をは)打枯(うちから)せる今の荒尾の姿は変りたれど、猶(なほ)一片の変らぬ物ありと知れる貫一は、夢とも消えて、去りし、去りし昔の跡無き跡を悲しと偲(しの)ぶなりけり。
「然し、僕が棄てても棄てんでも、そんな事に君は痛痒(つうよう)を感ずるぢやなからうけれど、僕は僕で、友(フレンド)の徳義としてとにかく一旦は棄てんで訪ねて来た。で、断然棄つるも、又棄てんのも、唯今日(こんにち)にある意(つもり)じや。
 今では荒尾を親友とは謂へん、と君の言うたところを以つて見ると、又今更親友であることを君は望んではをらんやうじや。さうであるならば僕の方でも敢(あへ)て望まん、立派に名宣(なの)つて僕も間貫一を棄つる!」
 貫一は頭(かしら)を低(た)れて敢て言はず。
「然し、今日(こんにち)まで親友と思うてをつた君を棄つるからには、これが一生の別(わかれ)になるのぢやから、その餞行(はなむけ)として一言(いちごん)云はんけりやならん。
 間、君は何の為に貨(かね)を殖(こしら)ゆるのぢや。かの大いなる楽(たのしみ)とする者を奪れた為に、それに易(か)へる者として金銭(マネエ)といふ考を起したのか。それも可からう、可いとして措(お)く。けれどもじや、それを獲(え)る為に不義不正の事を働く必要が有るか。君も現在他(ひと)から苦められてゐる躯(からだ)ではないのか。さうなれば己(おのれ)が又他(ひと)を苦むるのは尤(もつと)も用捨すべき事ぢやらうと思ふ。それが他(ひと)を苦むると謂うても、難儀に附入(つけい)つて、さうしてその血を搾(しぼ)るのが君の営業、殆ど強奪に等い手段を以つて金を殖(こしら)えつつ、君はそれで今日(こんにち)慰められてをるのか。如何(いか)に金銭(マネエ)が総(すべ)ての力であるか知らんけれど、人たる者は悪事を行つてをつて、一刻でも安楽に居らるるものではないのじや。それとも、君は怡然(いぜん)として楽んでをるか。長閑(のどか)な日に花の盛(さかり)を眺むるやうな気持で催促に行つたり、差押(さしおさへ)を為たりしてをるか。どうかい、間」
 彼は愈(いよい)よ口を閉ぢたり。
「恐くじや。さう云ふ気持の事は、この幾年間に一日でも有りはせんのぢやらう。君の顔色(がんしよく)を見い! 全(まる)で罪人じやぞ。獄中に居る者の面(つら)じや」
 別人と見るまでに彼の浅ましく瘁(やつ)れたる面(おもて)を矚(まも)りて、譲介は涙の落つるを覚えず。
「間、何で僕が泣くか、君は知つてをるか。今の間ぢや知らんぢやらう。幾多(いくら)貨(かね)を殖(こしら)へたところで、君はその分では到底慰めらるる事はありはせん。病が有るからと謂うて毒を飲んで、その病が痊(なほ)るぢやらうか。君はあたかも薬を飲む事を知らんやうなものじやぞ。僕の友(フレンド)であつた間はそんな痴漢(たはけ)ぢやなかつた、して見りや発狂したのじや。発狂してからに馬鹿な事を為居(しを)る奴は尤(とが)むるに足らんけれど、一婦人(いつぷじん)の為に発狂したその根性を、彼の友(フレンド)として僕が慙(は)ぢざるを得んのじや。間、君は盗人(ぬすと)と言れたぞ。罪人と言(いは)れたぞ、狂人と言れたぞ。少しは腹を立てい! 腹を立てて僕を打つとも蹴(け)るとも為て見い!」
 彼は自ら言(いは)ひ、自ら憤り、尚(なほ)自ら打ちも蹴(けり)も為(せ)んずる色を作(な)して速々(そくそく)答を貫一に逼(せま)れり。
「腹は立たん!」
「腹は立たん? それぢや君は自身に盗人(ぬすと)とも、罪人とも……」
「狂人とも思つてゐる。一婦人の為に発狂したのは、君に対して実に面目(めんぼく)無いけれど、既に発狂して了(しま)つたのだから、どうも今更為やうが無い。折角ぢやあるけれど、このまま棄置いてくれ給へ」
 貫一は纔(わづか)にかく言ひて已(や)みぬ。
「さうか。それぢや君は不正な金銭(マネエ)で慰められてをるのか」
「未だ慰められてはをらん」
何日(いつ)慰めらるるのか」
「解らん」
「さうして君は妻君を娶(もら)うたか」
「娶はん」
何故(なぜ)娶はんのか、かうして家を構へてをるのに独身ぢや不都合ぢやらうに」
「さうでもないさ」
「君は今では彼の事をどう思うてをるな」
「彼とは宮の事かね。あれは畜生さ!」
「然し、君も今日(こんにち)では畜生ぢやが、高利貸などは人の心は有つちやをらん、人の心が無けりや畜生じや」
「さう云ふけれど、世間は大方畜生ぢやないか」
「僕も畜生かな」
「…………」
「間、君は彼が畜生であるのに激してやはり畜生になつたのぢやな。若(も)し彼が畜生であつたのを改心して人間に成つたと為たら、同時に君も畜生を罷(や)めにやならんじやな」
「彼が人間に成る? 能はざる事だ! 僕は高利を貪(むさぼ)る畜生だけれど、人を欺く事は為んのだ。詐(いつは)つて人の誠を受けて、さうしてそれを売るやうな残忍な事は決して為んのだ。始から高利と名宣(なの)つて貸すのだから、否な者は借りんが可いので、借りん者を欺いて貸すのぢやない。宮の如き畜生が何で再び人間に成り得(う)るものか」
何為(なぜ)成り得(え)んのか」
何為(なぜ)成り得(え)るのか」
「さうなら君は彼の人間に成り得んのを望むのか」
「望むも望まんも、あんな者に用は無い!」
 寧(むし)ろその面(めん)に唾(つば)せんとも思へる貫一の気色(けしき)なり。
「そりや彼には用は無いぢやらうけれど、君の為に言ふべきことぢやと思ふから話すのぢやが、彼は今では大いに悔悟してをるぞ。君に対して罪を悔いてをるぞ!」
 貫一は吾を忘れて嗤笑(あざわら)ひぬ。彼はその如何(いか)に賤(いやし)むべきか、謂はんやうもあらぬを念(おも)ひて、更に嗤笑(あざわら)ひ猶嗤笑ひ、遏(や)めんとして又嗤笑ひぬ。
「彼もさうして悔悟してをるのぢやから、君も悔悟するが可からう、悔悟する時ぢやらうと思ふ」
「彼の悔悟は彼の悔悟で、僕の与(あづか)る事は無い。畜生も少しは思知つたと見える、それも可からう」
「先頃計らず彼に逢うたのじや、すると、僕に向うて涙を流して、そりや真実悔悟してをるのじや。さうして僕に詑(わび)を為てくれ、それが成らずば、君に一遍逢せてくれ、と縋(すが)つて頼むのじやな、けれど僕も思ふところが有るから拒絶はした。又君に対しても、彼がその様に悔悟してゐるから容(ゆる)して遣れと勧めは為(せ)ん、それは別問題じや。但(ただ)僕として君に言ふところは、彼は悔悟して独(ひと)り苦んでをる。即(すなは)ち彼は自ら罰せられてをるのぢやから、君は君として怨(うらみ)を釈(と)いて可からうと思ふ。君がその怨を釈いたなら、昔の間に復(かへ)るべきぢやらうと考へるのじや。
 君は今のところ慰められてをらん、それで又、何日(いつ)慰めらるるとも解らんと言うたな、然しじや、彼が悔悟してからにその様に思うてをると聞いたら、君はそれを以つて大いに慰められはせんかな。君がこの幾年間に得た金銭(マネエ)、それは幾多(いくら)か知らんけれど、その寡(すくな)からん金銭(マネエ)よりは、彼が終(つひ)に悔悟したと聞いた一言(いちごん)の方が、遙(はるか)に大いなる力を以つて君の心を慰むるであらうと思ふのじやが、どうか」
「それは僕が慰められるよりは、宮が苦まなければならん為の悔悟だらう。宮が前非を悟つた為に、僕が失つた者を再び得られる訳ぢやない、さうして見れば、僕の今日(こんにち)はそれに因(よ)つて少(すこし)も慰められるところは無いのだ。憎いことは彼は飽くまで憎い、が、その憎さに僕が慰められずにゐるのではないからして、宮その者の一身に向つて、僕は棄てられた怨を報いやうなどとは決して思つてをらん、畜生に讐(あだ)を復(かへ)す価は無いさ。
 今日(こんにち)になつて彼が悔悟した、それでも好く悔悟したと謂ひたいけれど、これは固(もと)よりさう有るべき事なのだ。始にあんな不心得を為なかつたら、悔悟する事は無かつたらうに——不心得であつた、非常な不心得であつた!」
 彼は黯然(あんぜん)として空(むなし)く懐(おも)へるなり。
「僕は彼の事は言はんのじや。又彼が悔悟した為に君の失うた者が再び得らるる訳でないから、それぢや慰められんと謂ふのなら、それで可(よ)いのじや。要するに、君はその失うた者が取返されたら可いのぢやらう、さうしてその目的を以つて君は貨(かね)を殖(こしら)へてをるのぢやらう、なあ、さうすりやその貨さへ得られたら、好んで不正な営業を為る必要は有るまいが。君が失うた者が有る事は知つてをる。それが為に常に楽まんのも、同情を表してゐる、そこで金銭(マネエ)の力に頼(よ)つて慰められやうとしてゐる、に就いては異議も有るけれど、それは君の考に委(まか)する。貨(かね)を殖(こしら)ゆるも可い、可いとする以上は大いに富むべしじや。けれど、富むと云ふのは貪(むさぼ)つて聚(あつ)むるのではない、又貪つて聚めんけりや貨は得られんのではない、不正な手段を用(もちゐ)んでも、富む道は幾多(いくら)も有るぢやらう。君に言ふのも、な、その目的を変へよではない、止(た)だ手段を改めよじや。路(みち)は違へても同じ高嶺(たかね)の月を見るのじやが」
辱(かたじけ)ないけれど、僕の迷は未だ覚めんのだから、間は発狂してゐる者と想つて、一切(いつせつ)かまひ付けずに措いてくれ給へ」
「さうか。どうあつても僕の言(ことば)は用(もちゐ)られんのじやな」
容(ゆる)してくれ給へ」
「何を容すのじや! 貴様は俺を棄てたのではないか、俺も貴様を棄てたのじやぞ、容すも容さんも有るものか」
今日限(こんにちかぎり)互に棄てて別れるに就いては、僕も一箇(ひとつ)聞きたい事が有る。それは君の今の身の上だが、どうしたのかね」
「見たら解るぢやらう」
「見たばかりで解るものか」
「貧乏してをるのよ」
「それは解つてゐるぢやないか」
「それだけじや」
「それだけの事が有るものか。何で官途を罷(や)めて、さうしてそんなに貧乏してゐるのか、様子が有りさうぢやないか」
「話したところで狂人(きちがひ)には解らんのよ」
 荒尾は空嘯(そらうそぶ)きて起たんと為(す)なり。
「解つても解らんでも可いから、まあ話すだけは話してくれ給へ」
「それを聞いてどう為る。ああ貴様は何か、金でも貸さうと云ふのか。No thank(ノオ サンク)じや、赤貧洗ふが如く窮してをつても、心は怡然(いぜん)として楽んでをるのじや」
「それだから猶(なほ)、どう為てさう窮して、それを又楽んでゐるのか、それには何か事情が有るのだらう、から、それを聞せてくれ給へと言ふのだ」
 荒尾は故(ことさ)らに哈々(こうこう)として笑へり。
「貴様如き無血虫(むけつちゆう)がそんな事を聞いたとて何が解るもので。人間らしい事を言ふな」
「さうまで辱(はづかし)められても辞(ことば)を返すことの出来ん程、僕の躯(からだ)は腐つて了つたのだ」
「固よりじや」
「かう腐つて了つた僕の躯(からだ)は今更為方が無い。けれども、君は立派に学位も取つて、参事官の椅子にも居た人、国家の為に有用の器(うつは)であることは、決して僕の疑はんところだ。で、僕は常に君の出世を予想し、又陰(ひそか)にそれを祷(いの)つてをつたのだ。君は僕を畜生と言ひ、狂人と言ひ、賊と言ふけれど、君を懐(おも)ふ念の僕の胸中を去つた事はありはせんよ。今日(こんにち)まで君の外には一人(いちにん)の友(フレンド)も無いのだ。一昨年(をととし)であつた、君が静岡へ赴任すると聞いた時は、嬉くもあり、可懐(なつかし)くもあり、又考へて見れば、自分の身が悲くもなつて、僕は一日飯も食はんでゐた。それに就けても、久し振で君に逢つて慶賀(よろこび)も言ひたいと念(おも)つたけれど、どうも逢れん僕の躯(からだ)だから、切(せめ)て陰ながらでも君の出世の姿が見たいと、新橋の停車場(ステエション)へ行つて、君の立派に成つたのを見た時は、何もかも忘れて僕は唯嬉くて涙が出た」
 さてはと荒尾も心陰(こころひそか)に頷(うなづ)きぬ。
「君の出世を見て、それほど嬉かつた僕が、今日(こんにち)君のそんなに零落してゐるのを見る心持はどんなであるか、察し給へ。自分の身を顧ずにかう云ふ事を君に向つて言ふべきではないけれど、僕はもう己(おのれ)を棄ててゐるのだ。一婦女子(いつぷじよし)の詐如(いつはりごと)きに憤つて、それが為に一身を過つたと知りながら、自身の覚悟を以て匡正(きようせい)することの出来んと謂ふのは、全く天性愚劣の致すところと、自ら恨むよりは無いので、僕は生きながら腐れて、これで果てるのだ。君の親友であつた間貫一は既に亡き者に成つたのだ、とさう想つてくれ給へ。であるから、これは間が言ふのではない。君の親友の或者が君の身を愛(をし)んで忠告するのだとして聴いてくれ給へ。どう云ふ事情か、君が話してくれんから知れんけれど、君の躯は十分自重して、社会に立つて壮(さかん)なる働(はたらき)を作(な)して欲いのだ。君はさうして窮迫してゐるやうだけれど、決して世間から棄てられるやうな君でない事を僕は信ずるのだから、一箇人(いつこじん)として己の為に身を愛(をし)みたまへと謂ふのではなく、国家の為に自重し給へと願ふのだ。君の親友の或者は君がその才を用る為に社会に出やうと為るならば、及ぶ限の助力を為る精神であるのだ」
 貫一の面(おもて)は病などの忽(たちま)ち癒(い)えけんやうに輝きつつ、如此(かくのごと)く潔くも麗(うるはし)き辞(ことば)を語れるなり。
「うう、それぢや君は何か、僕のかうして落魄(らくはく)してをるのを見て気毒(きのどく)と思ふのか」
「君が謂ふほどの畜生でもない!」
其処(そこ)じや、間。世間に貴様のやうな高利貸が在る為に、あつぱれ用(もちゐ)らるべき人才の多くがじや、名を傷(きずつ)け、身を誤られて、社会の外(ほか)に放逐されて空(むなし)く朽つるのじやぞ。国家の為に自重せい、と僕の如き者にでもさう言うてくるるのは忝(かたじけ)ないが、同じ筆法を以つて、君も社会の公益の為にその不正の業を罷(や)めてくれい、と僕は又頼むのじや。今日(こんにち)の人才を滅(ほろぼ)す者は、曰(いは)く色、曰く高利貸ぢやらう。この通り零落(おちぶ)れてをる僕が気毒と思ふなら、君の為に艱(なやま)されてをる人才の多くを一層不敏(ふびん)と思うて遣れ。
 君が愛(ラヴ)に失敗して苦むのもじや、或人が金銭(マネエ)の為に苦むのも、苦むと云ふ点に於ては差異(かはり)は無いぞ。で、僕もかうして窮迫してをる際ぢやから、憂を分つ親友の一人は誠欲いのじや、昔の間貫一のやうな友(フレンド)が有つたらばと思はん事は無い。その友(フレンド)が僕の身を念(おも)うてくれて、社会へ打つて出て壮(さかん)に働け、一臂(いつぴ)の力を仮さうと言うのであつたら、僕は如何(いか)に嬉からう! 世間に最も喜ぶべき者は友(フレンド)、最も悪(にく)むべき者は高利貸ぢや。如何(いか)に高利貸の悪むべきかを知つてをるだけ、僕は益(ますま)す友(フレンド)を懐(おも)ふのじや。その昔の友(フレンド)が今日(こんにち)の高利貸——その悪むべき高利貸! 吾又何をか言はんじや」
 彼は口を閉ぢて、貫一を疾視せり。
「段々の君の忠告、僕は難有(ありがた)い。猶自分にも篤と考へて、この腐れた躯(からだ)が元の通潔白な者に成り得られるなら、それに越した幸は無いのだ。君もまた自愛してくれ給へ。僕は君には棄てられても、君の大いに用られるのを見たいのだ。又必ず大いに用られなければならんその人が、さうして不遇で居るのは、残念であるよりは僕は悲い。そんなに念(おも)つてもゐるのだから一遍君の処を訪ねさしてくれ給へ。何処(どこ)に今居るかね」
「まあ、高利貸などは来て貰(もら)はん方が可い」
「その日は友(フレンド)として訪ねるのだ」
「高利貸に友(フレンド)は持たんものな」
 雍(しとや)かに紙門(ふすま)を押啓(おしひら)きて出来(いできた)れるを、誰(たれ)かと見れば満枝なり。彼如何(いか)なれば不躾(ぶしつけ)にもこの席には顕(あらは)れけん、と打駭(うちおどろ)ける主(あるじ)よりも、荒尾が心の中こそ更に匹(たぐ)ふべくもあらざるなりけれ。いでや、彼は窘(くるし)みてその長き髯(ひげ)をば痛(したたか)に拈(ひね)りつ。されど狼狽(うろた)へたりと見られんは口惜(くちを)しとやうに、遽(にはか)にその手を胸高(むなたか)に拱(こまぬ)きて、動かざること山の如しと打控(うちひか)へたる様(さま)も、自(おのづか)らわざとらしくて、また見好(みよ)げにはあらざりき。
 満枝は先(ま)づ主(あるじ)に挨拶(あいさつ)して、さて荒尾に向ひては一際(ひときは)礼を重く、しかも躬(みづから)は手の動き、目の視(み)るまで、専(もつぱ)ら貴婦人の如く振舞ひつつ、笑(ゑ)むともあらず面(おもて)を和(やはら)げて姑(しばら)く辞(ことば)を出(いだ)さず。荒尾はこの際なかなか黙するに堪(た)へずして、
「これは不思議な所で! 成程間とは御懇意かな」
「君はどうして此方(こちら)を識(し)つてゐるのだ」
 左瞻右視(とみかうみ)して貫一は呆(あき)るるのみなり。
「そりや少し識つてをる。然し、長居はお邪魔ぢやらう、大きに失敬した」
「荒尾さん」
 満枝は※(のが)さじと呼留めて、
「かう云ふ処で申上げますのも如何(いかが)で御座いますけれど」
「ああ、そりや此(ここ)で聞くべき事ぢやない」
「けれど毎(いつ)も御不在ばかりで、お話が付きかねると申して弱り切つてをりますで御座いますから」
「いや、会うたところでからに話の付けやうもないのじや。遁(に)げも隠れも為んから、まあ、時節を待つて貰はうさ」
「それはどんなにもお待ち申上げますけれど、貴方の御都合の宜(よろし)いやうにばかり致してはをられませんで御座います。そこはお察しあそばしませな」
「うう、随分酷(ひど)い事を察しさせられるのじやね」
「近日に是非私(わたくし)お願ひ申しに伺ひますで御座いますから、どうぞ宜く」
「そりや一向宜くないかも知れん」
「ああ、さう、この前でございましたか、あの者が伺ひました節、何か御無礼な事を申上げましたとかで、大相な御立腹で、お刀をお抜き遊ばして、斬(き)つて了(しま)ふとか云ふ事が御座いましたさうで」
「有つた」
「あれ、本当にさやうな事を遊ばしましたので?」
 満枝は彼に耻(は)ぢよとばかり嗤笑(あざわら)ひぬ。さ知つたる荒尾は飽くまで真顔を作りて、
「本当とも! 実際那奴(あやつ)※却(たたきき)つて了はうと思うた」
「然しお考へ遊ばしたで御座いませう」
「まあその辺ぢや。あれでも犬猫ぢやなし、斬捨てにもなるまい」
「まあ、怖(こは)い事ぢや御座いませんか。私(わたくし)なぞは滅多に伺ふ訳には参りませんで御座いますね」
 そは誰(た)が事を言ふならんとやうに、荒尾は頂(うなじ)を反(そら)して噪(ののめ)き笑ひぬ。
「僕が美人を斬るか、その目で僕が殺さるるか。どれ帰つて、刀でも拭(ふ)いて置かう」
「荒尾君、夕飯(ゆふめし)の支度が出来たさうだから、食べて行つてくれ給へ」
「それは折角ぢやが、盗泉の水は飲まんて」
「まあ貴方、私お給仕を勤めます。さあ、まあお下にゐらしつて」
 満枝は荒尾の立てる脚下(あしもと)に褥(しとね)を推付(おしつ)けて、実(げ)に還さじと主(あるじ)にも劣らず最惜(いとをし)む様なり。
「全で御夫婦のやうじやね。これは好一対じや」
「そのお意(つもり)で、どうぞお席にゐらしつて」
 固(もと)より留(とどま)らざるべき荒尾は終(つひ)に行かんとしつつ、
「間、貴様は……」
「…………」
「…………」
 彼は唇(くちびる)の寒かるべきを思ひて、空(むなし)く鬱抑(うつよく)して帰り去れり。その言はざりし語(ことば)は直(ただち)に貫一が胸に響きて、彼は人の去(い)にける迹(あと)も、なほ聴くに苦(くるし)き面(おもて)を得挙(えあ)げざりけり。

     (四) の 三

 程も有らずラムプは点(とも)されて、止(た)だ在りけるままに竦(すく)みゐたる彼の傍(かたはら)に置るるとともに、その光に照さるる満枝の姿は、更に粧(よそほひ)をも加へけんやうに怪(け)しからず妖艶(あでやか)に、宛然(さながら)色香(いろか)を擅(ほしいまま)にせる牡丹(ぼたん)の枝を咲撓(さきたわ)めたる風情(ふぜい)にて、彼は親しげに座を進めつ。
間(はざま)さん、貴方(あなた)どうあそばして、非常にお鬱(ふさ)ぎ遊ばしてゐらつしやるぢや御座いませんか」
 貫一は怠(たゆ)くも纔(わづか)に目を移して、
「一体貴方はどうして荒尾を御存じなのですか」
「私よりは、貴方があの方の御朋友(ごほうゆう)でゐらつしやるとは、実に私意外で御座いますわ」
「貴方はどうして御存じなのです」
「まあ債務者のやうな者なので御座います」
「債務者? 荒尾が? 貴方の?」
「私が直接に関係した訳ぢや御座いませんのですけれど」
「はあ、さうして額(たか)は若干(どれほど)なのですか」
「三千円ばかりでございますの」
「三千円? それでその直接の貸主(かしぬし)と謂(い)ふのは何処(どこ)の誰ですか」
 満枝は彼の遽(にはか)に捩向(ねぢむ)きて膝(ひざ)の前(すす)むをさへ覚えざらんとするを見て、歪(ゆが)むる口角(くちもと)に笑(ゑみ)を忍びつ、
「貴方は実に現金でゐらつしやるのね。御自分のお聴になりたい事は熱心にお成りで、平生(へいぜい)私がお話でも致すと、全(まる)で取合つても下さいませんのですもの」
「まあ可いです」
些(ちよつ)とも可い事はございません」
「うう、さうすると直接の貸主と謂ふのが有るのですね」
「存じません」
「お話し下さいな、様子に由つてはその金は私から弁償しやうとも思ふのですから」
「私貴方からは戴きません」
「上げるのではない、弁償するのです」
「いいえ、貴方とは御相談になりません。又貴方が是非弁償なさると云ふ事ならば、私あの債権を棄てて了ひます」
「それは何為(なぜ)ですか」
「何為でも宜(よろし)う御座いますわ。ですから、貴方が弁償なさらうと思召(おぼしめ)すなら、私に債権を棄てて了へと有仰(おつしや)つて下さいまし、さう致せば私喜んで棄てます」
「どう云ふ訳ですか」
「どう云ふ訳で御座いますか」
甚(はなは)だ解らんぢやありませんか」
勿論(もちろん)解らんので御座いますとも。私自分で自分が解らんくらゐで御座いますもの。然し貴方も間さん、随分お解りに成りませんのね」
「いいや、僕は解つてゐます」
「ええ、解つてゐらつしやりながら些(ちよつ)ともお解りにならないのですから、私も益(ますま)す解らなくなりますですから、さう思つてゐらつしやいまし」
 満枝は金煙管(きんぎせる)に手炉(てあぶり)の縁(ふち)を丁(ちよう)と拍(う)ちて、男の顔に流眄(ながしめ)の怨(うらみ)を注ぐなり。
「まあさう云ふ事を言はずに、ともかくもお話をなすつて下さい」
「御勝手ねえ、貴方は」
「さあ、お話し下さいな」
「唯今お話致しますよ」
 満枝は遽(にはか)に煙管(きせる)を索(もと)めて、さて傍(かたはら)に人無き若(ごと)く緩(ゆるやか)に煙(けふり)を吹きぬ。
「貴方の債務者であらうとは実に意外だ」
「…………」
「どうも事実として信ずる事は出来んくらゐだ」
「…………」
「三千円! 荒尾が三千円の負債を何で為たのか、殆(ほとん)ど有得べき事でないのだけれど、……」
「…………」
 唯(と)見れば、満枝はなほも煙管を放たざるなり。
「さあ、お話し下さいな」
「こんなに遅々(ぐづぐづ)してをりましたら、さぞ貴方憤(じれ)つたくてゐらつしやいませう」
「憤つたいのは知れてゐるぢやありませんか」
「憤つたいと云ふものは、決(け)して好い心持ぢやございませんのね」
「貴方は何を言つてお在(いで)なのです!」
「はいはい恐入りました。それぢや早速お話を致しませう」
「どうぞ」
蓋(たし)か御承知でゐらつしやいましたらう。前(ぜん)に宅に居りました向坂(さぎさか)と申すの、あれが静岡へ参つて、今では些(ちよつ)と盛(さかん)に遣つてをるので御座います。それで、あの方は静岡の参事官でお在(いで)なのでした。さやうで御座いましたらう。その頃向坂の手から何したので御座います。究竟(つまり)あの方もその件から論旨免官のやうな事にお成なすつて、又東京へお還りにならなければ為方が無いので、彼方(あちら)を引払ふのに就いて、向坂から話が御座いまして、宅の方へ始は委任して参つたので御座いましたけれど、丁度去年の秋頃から全然(すつかり)此方(こちら)へ引継いで了ふやうな都合に致しましたの。
 然し、それは取立に骨が折れるので御座いましてね、ああして止(とん)と遊んでお在(いで)も同様で、飜訳(ほんやく)か何か少(すこし)ばかり為さる御様子なのですから、今のところではどうにも手の着けやうが無いので御座いますわ」
「はあ成程。然し、あれが何で三千円と云ふ金を借りたかしらん」
「それはあの方は連帯者なので御座います」
「はあ! さうして借主は何者ですか」
大館朔郎(おおだちさくろう)と云ふ岐阜の民主党員で、選挙に失敗したものですから、その運動費の後肚(あとばら)だとか云ふ話でございました」
「うむ、如何(いか)にも! 大館朔郎……それぢや事実でせう」
「御承知でゐらつしやいますか」
「それは荒尾に学資を給した人で、あれが始終恩人と言つてをつたその人だ」
 はやその言(ことば)の中(うち)に彼の心は急に傷(いた)みぬ。己(おのれ)の敬愛せる荒尾譲介の窮して戚々(せきせき)たらず、天命を楽むと言ひしは、真に義の為に功名を擲(なげう)ち、恩の為に富貴を顧ざりし故(ゆゑ)にあらずや。彼の貧きは万々人の富めるに優(まさ)れり。君子なる吾友(わがとも)よ。さしも潔き志を抱(いだ)ける者にして、その酬らるる薄倖(はつこう)の彼の如く甚(はなはだし)く酷なるを念ひて、貫一は漫(そぞ)ろ涙の沸く目を閉ぢたり。

     第 五 章

 遽(にはか)に千葉に行く事有りて、貫一は午後五時の本所(ほんじよ)発を期して車を飛せしに、咄嗟(あなや)、一歩の時を遅れて、二時間後(のち)の次回を待つべき倒懸(とうけん)の難に遭(あ)へるなり。彼は悄々(すごすご)停車場前の休憇処に入(い)りて奥の一間なる縞毛布(しまケット)の上に温茶(ぬるちや)を啜(すす)りたりしが、門(かど)を出づる折受取りし三通の郵書の鞄(かばん)に打込みしままなるを、この時取出(とりいだ)せば、中に一通の M., Shigis——と裏書せるが在り。
「ええ、又寄来(よこ)した!」
 彼はこれのみ開封せずして、やがて他の読※(よみがら)と一つに投入れし鞄を※(はた)と閉づるや、枕に引寄せて仰臥(あふぎふ)すと見れば、はや目を塞(ふさ)ぎて睡(ねむり)を促さんと為るなりき。されども、彼は能(よ)く睡(ねぶ)るを得べきか。さすがにその人の筆の蹟(あと)を見ては、今更に憎しとも恋しとも、絶えて念(おもひ)には懸けざるべしと誓へる彼の心も、睡らるるまでに安かる能はざるなり。
 いで、この文こそは宮が送りし再度の愬(うつたへ)にて、その始て貫一を驚かせし一札(いつさつ)は、約(およ)そ二週間前に彼の手に入りて、一字も漏れずその目に触れしかど、彼は曩(さき)に荒尾に答へしと同様の意を以(も)てその自筆の悔悟を読みぬ。こたびとてもまた同き繰言(くりごと)なるべきを、何の未練有りて、徒(いたづら)に目を汚(けが)し、懐(おもひ)を傷(きずつ)けんやと、気強くも右より左に掻遣(かきや)りけるなり。
 宮は如何(いか)に悲しからん! この両度の消息は、その苦き胸を剖(さ)き、その切なる誠を吐きて、世をも身をも忘れし自白なるを。事若し誤らば、この手証は生ながら葬らるべき罪を獲(う)るに余有るものならずや。さしも覚悟の文ながら、彼はその一通の力を以て直(ただち)に貫一の心を解かんとは思設けざりき。
 故(ゆゑ)に幾日の後に待ちて又かく聞えしを、この文にもなほ験(しるし)あらずば、彼は弥増(いやま)す悲(かなしみ)の中に定めて三度(みたび)の筆を援(と)るなるべし。知らずや、貫一は再度の封をだに切らざりしを——三度(みたび)、五度(いつたび)、七度(ななたび)重ね重ねて十(と)百通に及ばんとも、貫一は断じてこの愚なる悔悟を聴かじと意(こころ)を決せるを。
 静に臥(ふ)したりし貫一は忽ち起きて鞄を開き、先づかの文を出(いだ)し、※児(マッチ)捜(さぐ)りて、封のままなるその端(はし)に火を移しつつ、火鉢(ひばち)の上に差翳(さしかざ)せり。一片の焔(ほのほ)は烈々(れつれつ)として、白く※(あが)るものは宮の思の何か、黒く壊落(くづれお)つるものは宮が心の何か、彼は幾年(いくとせ)の悲(かなしみ)と悔とは嬉くも今その人の手に在りながら、すげなき烟(けふり)と消えて跡無くなりぬ。
 貫一は再び鞄を枕にして始の如く仰臥(あふぎふ)せり。
 間(しばし)有りて婢(をんな)どもの口々に呼邀(よびむか)ふる声して、入来(いりき)し客の、障子越(ごし)なる隣室に案内されたる気勢(けはひ)に、貫一はその男女(なんによ)の二人連(づれ)なるを知れり。
 彼等は若き人のやうにもあらず頗(すこぶ)る沈寂(しめやか)に座に着きたり。
「まだ沢山時間が有るから寛(ゆつく)り出来る。さあ、鈴(すう)さん、お茶をお上んなさい」
 こは男の声なり。
貴方(あなた)本当にこの夏にはお帰んなさいますのですか」
盆過(ぼんすぎ)には是非一度帰ります。然しね、お話をした通り尊父(をぢ)さんや尊母(をば)さんの気が変つて了つてお在(いで)なのだから、鈴さんばかりそんなに思つてゐておくれでも、これがどうして、円く納るものぢやない。この上はもう唯諦(ただあきら)めるのだ。私(わたし)は男らしく諦めた!」
雅(まさ)さんは男だからさうでせうけれど、私(わたし)は諦(あきら)めません。さうぢやないとお言ひなさるけれど、雅さんは阿父(おとつ)さんや阿母(おつか)さんの為方(しかた)を慍(おこ)つてお在(いで)なのに違無い。それだから私までが憎いので、いいえ、さうよ、私は何でも可いから、若し雅さんが引取つて下さらなければ、一生何処(どこ)へも適(い)きはしませんから」
 女は処々(ところどころ)聞き得ぬまでの涙声になりぬ。
「だつて、尊父さんや尊母さんが不承知であつて見れば、幾許(いくら)私の方で引取りたくつても引取る訳に行かないぢやありませんか。それも、誰(たれ)を怨(うら)む訳も無い、全く自分が悪いからで、こんな躯(からだ)に疵(きず)の付いた者に大事の娘をくれる親は無い、くれないのが尤(もつとも)だと、それは私は自分ながら思つてゐる」
「阿父さんや阿母さんがくれなくても、雅さんさへ貰(もら)つて下されば可いのぢやありませんか」
「そんな解らない事を言つて! 私だつてどんなに悔(くやし)いか知れはしない。それは自分の不心得からあんな罪にも陥ちたのだけれど、実を謂へば、高利貸の※(わな)に罹(かか)つたばかりで、自分の躯には生涯の疵(きず)を付け、隻(ひとり)の母親は……殺して了ひ、又その上に……許婚(いひなづけ)は破談にされ、……こんな情無い思を為る位なら、不如(いつそ)私は牢(ろう)の中で死んで了つた……方が可かつた!」
「あれ、雅さん、そんな事を……」
 両箇(ふたり)は一度に哭(な)き出(いだ)せり。
「阿母さんがあん畜生(ちきしよう)の家を焼いて、夫婦とも焼死んだのは好い肚癒(はらいせ)ぢやあるけれど、一旦私の躯に附いたこの疵は消えない。阿母さんも来月は鈴(すう)さんが来てくれると言つて、朝晩にそればかり楽(たのしみ)にして在(ゐな)すつた……のだし」
 女(をんな)はつと出でし泣音(なくね)の後を怺(こら)へ怺へて啜上(すすりあ)げぬ。
私(わたし)も破談に為(す)る気は少も無いけれど、これは私の方から断るのが道だから、必ず悪く思つて下さるな」
「いいえ……いいえ……私は……何も……断られる訳はありません」
「私に添へば、鈴さんの肩身も狭くなつて、生涯何のかのと人に言れなけりやならない。それがお気毒だから、私は自分から身を退(ひ)いて、これまでの縁と諦(あきら)めてゐるので、然し、鈴さん、私は貴方の志は決して忘れませんよ」
 女は唯愈(いよい)よ咽(むせ)びゐたり。音も立てず臥(ふ)したりし貫一はこの時忍び起きて、障子の其処此処(そこここ)より男を隙見(すきみ)せんと為たりけれど、竟(つひ)に意(こころ)の如くならで止みぬ。然(しか)れども彼は正(まさし)くその声音(こわね)に聞覚(ききおぼえ)あるを思合せぬ。かの男は鰐淵の家に放火せし狂女の子にて、私書偽造罪を以て一年の苦役を受けし飽浦雅之(あくらまさゆき)ならずと為(せ)んや。さなり、女のその名を呼べるにても知らるるを、と独(ひと)り頷(うなづ)きつつ貫一は又潜(ひそま)りて聴耳立てたり。
嘘(うそ)にもさうして志は忘れないなんて言つて下さる程なら、やつぱり約束通り私を引取つて下さいな。雅さんがああ云ふ災難にお遭(あひ)なので、それが為に縁を切る意(つもり)なら、私は、雅さん、……一年が間……塩断(しほだち)なんぞ為はしませんわ」
 彼は自らその苦節を憶(おも)ひて泣きぬ。
「雅さんが自分に悪い事を為てあんな訳に成つたのぢやなし、高利貸の奴に瞞(だま)されて無実の罪に陥ちたのは、雅さんの災難だと、私は倶共(ともども)に悔(くや)し……悔し……悔(くやし)いとは思つてゐても、それで雅さんの躯に疵が附いたから、一処になるのは迷惑だなんと何時(いつ)私が思つて! 雅さん、私はそんな女ぢやありません、そんな女ぢや……ない!」
 この心を知らずや、と情極(じようきはま)りて彼の悶(もだ)え慨(なげ)くが手に取る如き隣には、貫一が内俯(うつぷし)に頭(かしら)を擦付(すりつ)けて、巻莨(まきたばこ)の消えしを※(ささ)げたるままに横(よこた)はれるなり。
「雅さんは私をそんな女だとお思ひのは、貴方がお留守中の私の事を御存じないからですよ。私は三月(みつき)の余(よ)も疾(わづら)つて……そんな事も雅さんは知つてお在(いで)ぢやないのでせう。それは、阿父(おとつ)さんや阿母(おつか)さんは雅さんのところへ上げる気は無いにしても、私は私の了簡で、若しああ云ふ事が有つたので雅さんの肩身が狭くなるやうなら、私は猶更雅さんのところへ適(ゆ)かずにはゐられない。さうして私も雅さんと一処に肩身が狭くなりたいのですから。さうでなけりや、子供の内からあんなに可愛(かはい)がつて下すつた雅さんの尊母(おつか)さんに私は済まない。
 親が不承知なのを私が自分の了簡通(りようけんどほり)に為るのは、そりや不孝かも知れませんけれど、私はどうしても雅さんのところへ適(ゆ)きたいのですから、お可厭(いや)でなくば引取つて下さいましな。私の事はかまひませんから雅さんが貰つて下さるお心持がお有(あん)なさるのか、どうだか唯それを聞して下さいな」
 貫一は身を回(めぐら)して臂枕(ひざまくら)に打仰(うちあふ)ぎぬ。彼は己(おのれ)が与へし男の不幸よりも、添(そは)れぬ女の悲(かなしみ)よりも、先(ま)づその娘が意気の壮(さかん)なるに感じて、あはれ、世にはかかる切なる恋の焚(もゆ)る如き誠もあるよ、と頭(かしら)は熱(ねつ)し胸は轟(とどろ)くなり。
 さて男の声は聞ゆ。
「それは、鈴(すう)さん、言ふまでもありはしない。私もこんな目にさへ遭(あ)はなかつたら、今頃は家内三人で睦(むつまし)く、笑つて暮してゐられるものを、と思へば猶の事、私は今日の別が何とも謂(いは)れないほど情無い。かうして今では人に顔向(かほむけ)も出来ないやうな身に成つてゐる者をそんなに言つてくれるのは、この世の中に鈴さん一人だと私は思ふ。その優い鈴さんと一処に成れるものなら、こんな結構な事は無いのだけれど、尊父(をぢ)さん、尊母(をば)さんの心にもなつて見たら、今の私には添(そは)されないのは、決して無理の無いところで、子を念ふ親の情(じよう)は、何処(どこ)の親でも差違(かはり)は無い。そこを考へればこそ、私は鈴さんの事は諦(あきら)めると云ふので、子として親に苦労を懸けるのは、不孝どころではない、悪事だ、立派な罪だ! 私は自分の不心得から親に苦労を懸けて、それが為に阿母さんもああ云ふ事に成つて了つたのだから、実は私が手に掛けて殺したも同然。その上に又私ゆゑに鈴さんの親達に苦労を懸けては、それぢや人の親まで殺すと謂つたやうな者だから、私も諦められないところを諦めて、これから一働して世に出られるやうに成るのを楽(たのしみ)に、やつぱり暗い処に入つてゐる気で精一杯勉強するより外は無い、と私は覚悟してゐるのです」
「それぢや、雅さんは内の阿父(おとつ)さんや阿母(おつか)さんの事はそんなに思つて下すつても、私の事は些(ちつと)も思つては下さらないのですね。私の躯なんぞはどうならうと、雅さんはかまつては下さらないのね」
「そんな事が有るものぢやない! 私だつて……」
「いいえ、可うございます。もう可いの、雅さんの心は解りましたから」
「鈴さん、それは違つてゐるよ。それぢや鈴さんは全(まる)で私の心を酌んではおくれでないのだ」
「それは雅さんの事よ。阿父さんや阿母さんの事をさうして思つて下さる程なら、本人の私の事だつて思つて下さりさうな者ぢやありませんか。雅さんのところへ適(ゆ)くと極(きま)つて、その為に御嫁入道具まで丁(ちやん)と調(こしら)へて置きながら、今更外へ適(ゆか)れますか、雅さんも考へて見て下さいな。阿父さんや阿母さんが不承知だと謂つても、そりや余(あんま)り酷(ひど)いわ、余り勝手だわ! 私は死んでも他(よそ)へは適きはしませんから、可いわ、可いわ、私は可いわ!」
 女は身を顫(ふるは)して泣沈めるなるべし。
「そんな事をお言ひだつて、それぢやどう為(せ)うと云ふのです」
「どう為ても可う御座います、私は自分の心で極(き)めてゐますから」
 亜(つ)いで男の声は為(せ)ざりしが、間有(しばしあ)りて孰(いづれ)より語り出でしとも分かず、又一時(ひとしきり)密々(ひそひそ)と話声の洩(も)れけれど、調子の低かりければ此方(こなた)には聞知られざりき。彼等は久くこの細語(ささめごと)を息(や)めずして、その間一たびも高く言(ことば)を出(いだ)さざりしは、互にその意(こころ)に逆(さか)ふところ無かりしなるべし。
「きつと? きつとですか」
 始て又明かに聞えしは女の声なり。
「さうすれば私もその気で居るから」
 かくて彼等の声は又低うなりぬ。されど益す絮々(じよじよ)として飽かず語れるなり。貫一は心陰(こころひそか)に女の成効を祝し、かつ雅之たる者のこれが為に如何(いか)に幸(さいはひ)ならんかを想ひて、あたかも妙(たへ)なる楽の音(ね)の計らず洩聞(もれきこ)えけんやうに、憂(う)かる己をも忘れんとしつ。
 今かの娘の宮ならば如何(いか)ならん、吾かの雅之ならば如何ならん。吾は今日(こんにち)の吾たるを択(えら)ぶ可(べ)きか、将(はた)かの雅之たるを希(こひねが)はんや。貫一は空(むなし)うかく想へり。
 宮も嘗(かつ)て己に対して、かの娘に遜(ゆづ)るまじき誠を抱(いだ)かざるにしもあらざりき。彼にして若(も)し金剛石(ダイアモンド)の光を見ざりしならば、また吾をも刑余に慕ひて、その誠を全(まつた)うしたらんや。唯継(ただつぐ)の金力を以て彼女を脅(おびやか)したらんには、またかの雅之を入獄の先に棄てたりけんや。耀(かがや)ける金剛石(ダイアモンド)と汚(けが)れたる罪名とは、孰(いづれ)か愛を割(さ)くの力多かる。
 彼は更にかく思へり。
 唯その人を命として、己(おのれ)も有らず、家も有らず、何処(いづこ)の野末(のずゑ)にも相従(あひしたが)はんと誓へるかの娘の、竟(つひ)に利の為に志を移さざるを得べきか。又は一旦その人に与へたる愛を吝(をし)みて、再び価高く他に売らんと為るなきを得べきか。利と争ひて打勝れたると、他の愛と争ひて敗れたると、吾等の恨は孰に深からん。
 彼は又かくも思へるなり。
 それ愛の最も篤(あつ)からんには、利にも惑はず、他に又易(か)ふる者もあらざる可きを、仮初(かりそめ)もこれの移るは、その最も篤きにあらざるを明(あか)せるなり。凡(およ)そ異性の愛は吾愛の如く篤かるを得ざる者なるか、或(ある)は己の信ずらんやうに、宮の愛の特(こと)に己にのみ篤からざりしなるか。吾は彼の不義不貞を憤るが故(ゆゑ)に世上の恋なる者を疑ひ、かつ渾(すべ)てこれを斥(しりぞ)けぬ。されどもその一旦の憤(いきどほり)は、これを斥けしが為に消ゆるにもあらずして、その必ず得べかりし物を失へるに似たる怏々(おうおう)は、吾心を食尽(はみつく)し、終(つひ)に吾身を斃(たふ)すにあらざれば、得やは去るまじき悪霊(あくりよう)の如く執念(しゆうね)く吾を苦むるなり。かかれば何事にも楽むを知らざりし心の今日偶(たまた)ま人の相悦(あひよろこ)ぶを見て、又躬(みづから)も怡(よろこ)びつつ、楽(たのし)の影を追ふらんやうなりしは何の故ならん。よし吾は宮の愛ならずとも、これに易ふる者を得て、とかくはこの心を慰めしむ可きや。
 彼はいよいよ思廻(おもひめぐら)せり。
 宮はこの日頃吾に篤からざりしを悔いて、その悔を表せんには、何等の事を成さんも唯吾命(めい)のままならんとぞ言来(いひこ)したる。吾はその悔の為にはかの憤(いきどほり)を忘るべきか、任他(さはれ)吾恋の旧(むかし)に復(かへ)りて再び完(まつた)かるを得るにあらず、彼の悔は彼の悔のみ、吾が失意の恨は終に吾が失意の恨なるのみ。この恨は富山に数倍せる富に因(よ)りて始て償はるべきか、或(あるひ)はその富を獲んとする貪欲(どんよく)はこの恨を移すに足るか。
 彼は苦(くるし)き息(いき)を嘘(ふ)きぬ。
 吾恋を壊(やぶ)りし唯継! 彼等の恋を壊らんと為(せ)しは誰(た)そ、その吾の今千葉に赴(おもむ)くも、又或は壊り、或は壊らんと為るにあらざる無きか。しかもその貪欲は吾に何をか与へんとすらん。富か、富は吾が狂疾を医(い)すべき特効剤なりや。かの妨げられし恋は、破鏡の再び合ふを得て楽み、吾が割(さか)れし愛は落花の復(かへ)る無くして畢(をは)らんのみ! いで、吾はかくて空く埋(うづも)るべきか、風に因(よ)りて飛ぶべきか、水に落ちて流るべきか。
 貫一は船橋を過(すぐ)る燈(ともしび)暗き汽車の中(うち)に在り。

     第 六 章

 千葉より帰りて五日の後 M., Shigis——の書信(ふみ)は又来(きた)りぬ。貫一は例に因(よ)りて封のまま火中してけり。その筆の跡を見れば、忽(たちま)ち浮ぶその人の面影(おもかげ)は、唯継と並び立てる梅園の密会にあらざる無きに、彼は殆(ほとん)ど当時に同(おなじ)き憤(いかり)を発して、先の二度なるよりはこの三度(みたび)に及べるを、径廷(をこがまし)くも廻らぬ筆の力などを以(も)て、旧(むかし)に返し得べき未練の吾に在りとや想へる、愚なる精衛の来(きた)りて大海(だいかい)を填(うづ)めんとするやと、却(かへ)りて頑(かたくな)に自ら守らんとも為なり。
 さりとも知らぬ宮は蟻(あり)の思を運ぶに似たる片便(かたたより)も、行くべき方には音づるるを、さてかの人の如何(いか)に見るらん、書綴(かきつづ)れる吾誠(わがまこと)の千に一つも通ずる事あらば、掛けても願へる一筋(ひとすぢ)の緒(いとぐち)ともなりなんと、人目あらぬ折毎には必ず筆採(ふでと)りて、その限無き思(おもひ)を写してぞ止まざりし。
 唯継は近頃彼の専(もつぱ)ら手習すと聞きて、その善き行(おこなひ)を感ずる余(あまり)に、良き墨、良き筆、良き硯(すずり)、良き手本まで自ら求め来ては、この難有(ありがた)き心掛の妻に遣(おく)りぬ。宮はそれ等を汚(けがら)はしとて一切用ること無く、後には夫の机にだに向はずなりけり。かく怠らず綴(つづ)られし文は、又六日(むゆか)を経て貫一の許(もと)に送られぬ。彼は四度(よたび)の文をも例の灰と棄てて顧ざりしに、日を経(ふ)ると思ふ程も無く、五度(いつたび)の文は来にけり。よし送り送りて千束(ちつか)にも余れ、手に取るからの烟(けむ)ぞと侮(あなど)れる貫一も、曾(かつ)て宮には無かりし執着のかばかりなるを謂知(いひし)らず異(あやし)みつつ、今日のみは直(すぐ)にも焚(や)かざりしその文を、一度(ひとたび)は披(ひら)き見んと為たり。
「然し……」
 彼は輙(たやす)く手を下さざりき。
赦(ゆる)してくれと謂ふのだらう。その外には、見なければ成らん用事の有る訳は無い。若(も)し有ると為れば、それは見る可からざる用事なのだ。赦してくれなら赦して遣(や)る、又赦さんでも既に赦れてゐるのではないか。悔悟したなら、悔悟したで、それで可い。悔悟したから、赦したからと云つて、それがどうなるのだ。それが今日(こんにち)の貫一と宮との間に如何(いか)なる影響を与へるのだ。悔悟したからあれの操(みさを)の疵(きず)が愈(い)えて、又赦したから、富山の事が無い昔に成るのか。その点に於(おい)ては、貫一は飽くまでも十年前の貫一だ。宮! 貴様は一生汚(けが)れた宮ではないか。ことの破れて了(しま)つた今日(こんにち)になつて悔悟も赦してくれも要(い)つたものか、無益な事だ! 少(すこし)も汚(けが)れん宮であるから愛してをつたのだ、それを貴様は汚して了つたから怨んだのだ。さうして一遍汚れた以上は、それに対する十倍の徳を行(おこな)つても、その汚れたのを汚れざる者に改めることは到底出来んのだ。
 であるから何と言つた! 熱海で別れる時も、お前の外(ほか)に妻と思ふ者は無い、一命に換へてもこの縁は切られんから、俺(おれ)のこの胸の中を可憐(あはれ)と思つて、十分決心してくれ、と実に男を捨てて頼んだではないか。その貫一に負(そむ)いて……何の面目(めんぼく)有つて今更悔悟……晩(おそ)い!」
 彼はその文を再三柱に鞭(むちう)ちて、終に繩(なは)の如く引捩(ひきねぢ)りぬ。
 打続きて宮が音信(たより)の必ず一週に一通来ずと謂ふこと無くて、披(ひらか)れざるに送り、送らるるに披(ひらか)かざりしも、はや算(かぞ)ふれば十通に上(のぼ)れり。さすがに今は貫一が見る度(たび)の憤(いかり)も弱りて、待つとにはあらねど、その定りて来る文の繁(しげ)きに、自(おのづか)ら他の悔い悲める宮在るを忘るる能(あた)はずなりぬ。されど、その忘るる能はざるも、遽(にはか)に彼を可懐(なつかし)むにはあらず、又その憤の弱れるも、彼を赦し、彼を容(い)れんと為るにあらずして、始(はじめ)に恋ひしをば棄てられ、後には棄てしを悔らるる身の、その古き恋はなほ己(おのれ)に存し、彼の新なる悔は切に※(まつは)るも徒(いたづら)に凍えて水を得たるに同(おなじ)かるこの両(ふたつ)の者の、相対(あひたい)して相拯(あひすく)ふ能はざる苦艱(くげん)を添ふるに過ぎざるをや。ここに於て貫一は披かぬ宮が文に向へば、その幾倍の悲きものを吾と心に読みて、かの恨ならぬ恨も生じ、かの憤(いかり)ならぬ憤も発して、憂身独(うきみひとり)の儚(はかな)き世をば如何(いか)にせんやうも知らで、唯安からぬ昼夜を送りつつ、出づるに入るに茫々(ぼうぼう)として、彼は屡(しばし)ばその貪(むさぼ)るをさへ忘るる事ありけり。劇(はげし)く物思ひて寝(い)ねざりし夜の明方近く疲睡を催せし貫一は、新緑の雨に暗き七時の閨(ねや)に魘(おそは)るる夢の苦く頻(しきり)に呻(うめ)きしを、老婢(ろうひ)に喚(よば)れて、覚めたりと知りつつ現(うつつ)ならず又睡りけるを、再び彼に揺起(ゆりおこさ)れて驚けば、
「お客様でございます」
「お客? 誰だ」
「荒尾さんと有仰(おつしや)いました」
「何、荒尾? ああ、さうか」
 主(あるじ)の急ぎ起きんとすれば、
「お通し申しますで御座いますか」
「おお、早くお通し申して。さうしてな、唯今起きましたところで御座いますから、暫(しばら)く失礼致しますとさう申して」
 貫一はかの一別の後三度(みたび)まで彼の隠家(かくれが)を訪ひしかど、毎(つね)に不在に会ひて、二度に及べる消息の返書さへあらざりければ、安否の如何(いかが)を満枝に糺(ただ)せしに、変る事無く其処(そこ)に住めりと言ふに、さては真(まこと)に交(まじはり)を絶たんとすならんを、姑(しばら)く強(しひ)て追はじと、一月余(あまり)も打絶えたりしに、彼方(あなた)より好(よ)くこそ来つれ、吾がこの苦(くるしみ)を語るべきは唯彼在るのみなるを、朋(とも)の来(きた)れるも、実(げ)にかくばかり楽きはあらざらん。今日は酒を出(いだ)して一日(いちじつ)彼を還さじなど、心忙(こころせはし)きまでに歓(よろこ)ばれぬ。
 絶交せるやうに疏音(そいん)なりし荒尾の、何の意ありて卒(にはか)に訪来(とひきた)れるならん。貫一はその何の意なりやを念(おも)はず、又その突然の来叩(おとづれ)をも怪(あやし)まずして、畢竟(ひつきよう)彼の疏音なりしはその飄然(ひようぜん)主義の拘(かか)らざる故(ゆゑ)、交(まじはり)を絶つとは言ひしかど、誼(よしみ)の吾を棄つるに忍びざる故と、彼はこの人のなほ己(おのれ)を友として来(きた)れるを、有得べからざる事とは信ぜざりき。
 手水場(てうづば)を出来(いでき)し貫一は腫※(はれまぶた)の赤きを連※(しばたた)きつつ、羽織の紐(ひも)を結びも敢(あ)へず、つと客間の紙門(ふすま)を排(ひら)けば、荒尾は居らず、かの荒尾譲介は居らで、美(うつくし)う装(よそほ)へる婦人の独(ひと)り羞含(はぢがまし)う控へたる。打惑(うちまど)ひて入(い)りかねたる彼の目前(まのあたり)に、可疑(うたがはし)き女客も未(いま)だ背(そむ)けたる面(おもて)を回(めぐら)さず、細雨(さいう)静(しづか)に庭樹(ていじゆ)を撲(う)ちて滴(したた)る翠(みどり)は内を照せり。
「荒尾さんと有仰(おつしや)るのは貴方で」
 彼は先づかく会釈して席に着きけるに、婦人は猶も面(おもて)を示さざらんやうに頭(かしら)を下げて礼を作(な)せり。しかも彼は輙(たやす)くその下げたる頭(かしら)と※(つか)へたる手とを挙げざるなりき。始に何者なりやと驚(おどろか)されし貫一は、今又何事なりやと弥(いよい)よ呆(あき)れて、彼の様子を打矚(うちまも)れり。乍(たちま)ち有りて貫一の眼(まなこ)は慌忙(あわただし)く覓(もと)むらん色を作(な)して、婦人の俯(うつむ)けるを※(き)と窺(うかが)ひたりしが、
「何ぞ御用でございますか」
「…………」
 彼は益(ますま)す急に左瞻右視(とみかうみ)して窺ひつ。
「どう云ふ御用向でございますか。伺ひませう」
「…………」
 露置く百合(ゆり)の花などの仄(ほのか)に風を迎へたる如く、その可疑(うたがはし)き婦人の面(おもて)は術無(じゆつな)げに挙らんとして、又慙(は)ぢ懼(おそ)れたるやうに遅疑(たゆた)ふ時、
「宮!?」と貫一の声は筒抜けて走りぬ。
 宮は嬉し悲しの心昧(こころくら)みて、身も世もあらず泣伏したり。
「何用有つて来た!」
 怒(いか)るべきか、この時。恨むべきか、この時。辱(はぢし)むべきか、悲むべきか、号(さけ)ぶべきか、詈(ののし)るべきか、責むべきか、彼は一時に万感の相乱(あひみだ)れて急なるが為に、吾を吾としも覚ゆる能はずして打顫(うちふる)ひゐたり。
貫一(かんいつ)さん! どうぞ堪忍(かんにん)して下さいまし」
 宮は漸(やうや)う顔を振挙げしも、凄(すさまじ)く色を変へたる貫一の面(おもて)に向ふべくもあらで萎(しを)れ俯(ふ)しぬ。
「早く帰れ!」
「…………」
「宮!」
 幾年(いくとせ)聞かざりしその声ならん。宮は危みつつも可懐(なつか)しと見る目を覚えず其方(そなた)に転(うつ)せば、鋭く※(みむか)ふる貫一の眼(まなこ)の湿(うるほ)へるは、既に如何(いか)なる涙の催せしならん。
「今更お互に逢ふ必要は無い。又お前もどの顔で逢ふ意(つもり)か。先達而(せんだつて)から頻(しきり)に手紙を寄来(よこ)すが、あれは一通でも開封したのは無い、来れば直(すぐ)に焼棄てて了ふのだから、以来は断じて寄来さんやうに。私(わたし)は今病中で、かうしてゐるのも太儀(たいぎ)でならんのだから、早く帰つて貰ひたい」
 彼は老婢を召して、
「お客様のお立(たち)だ、お供にさう申して」
 取附く島もあらず思悩(おもひなや)める宮を委(お)きて、貫一は早くも独り座を起たんとす。
「貫一さん、私(わたし)は今日は死んでも可(い)い意(つもり)でお目に掛りに来たのですから、貴方(あなた)の存分にどんな目にでも遭(あは)せて、さうしてそれでともかくも今日は勘弁して、お願ですから私の話を聞いて下さいまし」
「何の為に!」
「私は全く後悔しました! 貫一さん、私は今になつて後悔しました!! 悉(くはし)い事はこの間からの手紙に段々書いて上げたのですけれど、全(まる)で見ては下さらないのでは、後悔してゐる私のどんな切ない思をしてゐるか、お解りにはならないでせうが、お目に掛つて口では言ふに言(いは)れない事ばかり、設(たと)ひ書けない私の筆でも、あれをすつかり見て下すつたら、些(ちつ)とはお腹立も直らうかと、自分では思ふのです。色々お詑(わび)は為る意(つもり)でも、かうしてお目に掛つて見ると、面目(めんぼく)が無いやら、悲いやらで、何一語(ひとこと)も言へないのですけれど、貫一さん、とても私は来られる筈(はず)でない処へかうして来たのには、死ぬほどの覚悟をしたのと思つて下さいまし」
「それがどう為たのだ」
「さうまで覚悟をして、是非お話を為たい事が有るのですから、御迷惑でもどうぞ、どうぞ、貫一さん、ともかくも聞いて下さいまし」
 涙ながらに手を※(つか)へて、吾が足下(あしもと)に額叩(ぬかづ)く宮を、何為らんとやうに打見遣りたる貫一は、
「六年前(ぜん)の一月十七日、あの時を覚えてゐるか」
「…………」
「さあ、どうか」
「私は忘れは為ません」
「うむ、あの時の貫一の心持を今日お前が思知るのだ」
「堪忍して下さい」
 唯(と)見る間に出行(いでゆ)く貫一、咄嗟(あなや)、紙門(ふすま)は鉄壁よりも堅く閉(た)てられたり。宮はその心に張充(はりつ)めし望を失ひてはたと領伏(ひれふ)しぬ。
「豊、豊!」と老婢を呼ぶ声劇(はげし)く縁続(えんつづき)の子亭(はなれ)より聞(きこ)ゆれば、直(ぢき)に走り行く足音の響きしが、やがて返し来(きた)れる老婢は客間に顕(あらは)れぬ。宮は未だ頭(かしら)を挙げずゐたり。可憐(しをらし)き束髪の頸元深(えりもとふか)く、黄蘖染(おうばくぞめ)の半衿(はんえり)に紋御召(もんおめし)の二枚袷(にまいあはせ)を重ねたる衣紋(えもん)の綾(あや)先(ま)づ謂はんやう無く、肩状(かたつき)優(やさし)う内俯(うつふ)したる脊(そびら)に金茶地(きんちやぢ)の東綴(あづまつづれ)の帯高く、勝色裏(かついろうら)の敷乱(しきみだ)れつつ、白羽二重(しろはぶたへ)のハンカチイフに涙を掩(おほ)へる指に赤く、白く指環(リング)の玉を耀(かがやか)したる、殆(ほとん)ど物語の画をも看(み)るらん心地して、この美き人の身の上に何事の起りけると、豊は可恐(おそろし)きやうにも覚ゆるぞかし。
「あの、申上げますが、主人は病中の事でございますもので、唯今生憎(あいにく)と急に気分が悪くなりましたので、相済みませんで御座いますが中座を致しました。恐入りますで御座いますが、どうぞ今日(こんにち)はこれで御立帰(おたちかへり)を願ひますで御座います」
 面(おもて)を抑へたるままに宮は涙を啜(すす)りて、
「ああ、さやうで御座いますか」
「折角お出(いで)のところを誠にどうもお気毒さまで御座います」
「唯今些(ちよつ)と支度を致しますから、もう少々置いて戴(いただ)きますよ」
「さあさあ、貴方(あなた)御遠慮無く御寛(ごゆるり)と遊ばしまし。又何だか降出して参りまして、今日(こんにち)はいつそお寒過ぎますで御座います」
 彼の起ちし迹(あと)に宮は身支度を為るにもあらで、始て甦(よみがへ)りたる人の唯在るが如くに打沈みてぞゐたる。やや久(ひさし)かるに客の起たんとする模様あらねば、老婢は又出来(いできた)れり。宮はその時遽(にはか)に身※(みづくろい)して
「それではお暇(いとま)を致します。些(ちよつ)と御挨拶だけ致して参りたいのですから、何方(どちら)にお寝(よ)つてお在(いで)ですか……」
「はい、あの何でございます、どうぞもうおかまひ無く……」
「いいえ、御挨拶だけ些(ちよつ)と」
「さやうで御座いますか。では此方(こちら)へ」
 主(あるじ)の本意(ほい)ならじとは念(おも)ひながら、老婢は止むを得ず彼を子亭(はなれ)に案内(あない)せり。昨夜(ゆふべ)の収めざる蓐(とこ)の内に貫一は着のまま打仆(うちたふ)れて、夜着(よぎ)も掻巻(かいまき)も裾(すそ)の方(かた)に蹴放(けはな)し、枕(まくら)に辛(から)うじてその端(はし)に幾度(いくたび)か置易(おきかへ)られし頭(かしら)を載(の)せたり。
 思ひも懸けず宮の入来(いりく)るを見て、起回(おきかへ)らんとせし彼の膝下(ひざもと)に、早くも女の転(まろ)び来て、立たんと為れば袂(たもと)を執り、猶(なほ)も犇(ひし)と寄添ひて、物をも言はず泣伏したり。
「ええ、何の真似(まね)だ!」
 突返さんとする男の手を、宮は両手に抱(いだ)き緊(し)めて、
「貫一さん!」
「何を為る、この恥不知(はぢしらず)!」
「私が悪かつたのですから、堪忍して下さいまし」
「ええ、聒(やかまし)い! ここを放さんか」
「貫一さん」
「放さんかと言ふに、ええ、もう!」
 その身を楯(たて)に宮は放さじと争ひて益(ますま)す放さず、両箇(ふたり)が顔は互に息の通はんとすばかり近く合ひぬ。一生又相見(あひみ)じと誓へるその人の顔の、おのれ眺(なが)めたりし色は疾(と)く失せて、誰(たれ)ゆゑ今の別(べつ)に※(えん)なるも、なほ形のみは変らずして、実(げ)にかの宮にして宮ならぬ宮と、吾は如何(いか)にしてここに逢へる! 貫一はその胸の夢むる間(ひま)に現(うつつ)ともなく彼を矚(まも)れり。宮は殆(ほとん)ど情極(きはま)りて、纔(わづか)に狂せざるを得たるのみ。
 彼は人の頭(かしら)より大いなるダイアモンドを乞ふが為に、この貫一の手を把(と)る手をば釈(と)かざらん。大いなるダイアモンドか、幾許(いかばかり)大いなるダイアモンドも、宮は人の心の最も小き誠に値せざるを既に知りぬ。彼の持(も)たるダイアモンドはさせる大いなる者ならざれど、その棄去りし人の誠は量無(はかりな)きものなりしが、嗟乎(ああ)、今何処(いづこ)に在りや。その嘗(かつ)て誠を恵みし手は冷(ひやや)かに残れり。空(むなし)くその手を抱(いだ)きて泣かんが為に来(きた)れる宮が悔は、実(げ)に幾許(いかばかり)大いなる者ならん。
「さあ、早く帰れ!」
「もう二度と私はお目には掛りませんから、今日のところはどうとも堪忍して、打(ぶ)つなり、殴(たた)くなり貫一さんの勝手にして、さうして少小(すこし)でも機嫌(きげん)を直して、私のお詑(わび)に来た訳を聞いて下さい」
「ええ、煩(うるさ)い!」
「それぢや打つとも殴くともして……」
 身悶(みもだえ)して宮の縋(すが)るを、
「そんな事で俺(おれ)の胸が霽(は)れると思つてゐるか、殺しても慊(あきた)らんのだ」
「ええ、殺れても可い! 殺して下さい。私は、貫一さん、殺して貰ひたい、さあ、殺して下さい、死んで了つた方が可いのですから」
「自分で死ね!」
 彼は自ら手を下(くだ)して、この身を殺すさへ屑(いさぎよ)からずとまでに己(おのれ)を鄙(いやし)むなるか、余に辛(つら)しと宮は唇(くちびる)を咬(か)みぬ。
「死ね、死ね。お前も一旦棄てた男なら、今更見(みつ)とも無い態(ざま)を為ずに何為(なぜ)死ぬまで立派に棄て通さんのだ」
「私は始から貴方を棄てる気などは有りはしません。それだから篤(とつく)りとお話を為たいのです。死んで了へとお言ひでなくても、私はもう疾(とう)から自分ぢや生きてゐるとは思つてゐません」
「そんな事聞きたくはない。さあ、もう帰れと言つたら帰らんか!」
「帰りません! 私はどんな事してもこのままぢや……帰れません」
 宮は男の手をば益す弛(ゆる)めず、益す激する心の中(うち)には、夫もあらず、世間もあらずなりて、唯この命を易(か)ふる者を失はじと一向(ひたぶる)に思入るなり。
 折から縁に足音するは、老婢の来るならんと、貫一は取られたる手を引放たんとすれど、こは如何(いかに)、宮は些(ちと)も弛(ゆる)めざるのみか、その容(かたち)をだに改めんと為ず。果して足音は紙門(ふすま)の外に逼(せま)れり。
「これ、人が来る」
「…………」
 宮は唯力を極(きは)めぬ。
 不意にこの体(てい)を見たる老婢は、半(なかば)啓(あ)けたる紙門(ふすま)の陰に顔引入れつつ、
赤樫(あかがし)さんがお出(いで)になりまして御座います」
 窮厄の色はつと貫一の面(おもて)に上(のぼ)れり。
「ああ、今其方(そつち)へ行くから。——さあ、客が有るのだ、好加減に帰らんか。ええ、放せ。客が有ると云ふのにどうするのか」
「ぢや私はここに待つてゐますから」
「知らん! もう放せと言つたら」
 用捨もあらず宮は捻倒(ねぢたふ)されて、落花の狼藉(ろうぜき)と起き敢(あ)へぬ間に貫一は出行(いでゆ)く。

     (六) の 二

 座敷外に脱ぎたる紫裏(むらさきうら)の吾妻(あづま)コオトに目留めし満枝は、嘗(かつ)て知らざりしその内曲(うちわ)の客を問はで止む能(あた)はざりき。又常に厚く恵(めぐま)るる老婢は、彼の為に始終の様子を告(つぐ)るの労を吝(をし)まざりしなり。さてはと推せし胸の内は瞋恚(しんい)に燃えて、可憎(につく)き人の疾(と)く出で来(こ)よかし、如何(いか)なる貌(かほ)して我を見んと為(す)らん、と焦心(せきごころ)に待つ間のいとどしう久(ひさし)かりしに、貫一はなかなか出(い)で来ずして、しかも子亭(はなれ)のほとほと人気(ひとけ)もあらざらんやうに打鎮(うちしづま)れるは、我に忍ぶかと、弥(いよい)よ満枝は怺(こら)へかねて、
「お豊さん、もう一遍旦那(だんな)様にさう申して来て下さいな、私(わたし)今日は急ぎますから、些(ちよつ)とお目に懸りたいと」
「でも、私(わたくし)は誠に参り難(にく)いので御座いますよ、何だかお話が大変込入つてお在(いで)のやうで御座いますから」
「かまはんぢやありませんか、私がさう申したと言つて行くのですもの」
「ではさう申上げて参りますです」
「はあ」
 老婢は行きて、紙門(ふすま)の外より、
「旦那さま、旦那さま」
此方(こちら)にお在(いで)は御座いませんよ」
 かく答へしは客の声なり。豊は紙門(ふすま)を開きて、
「おや、さやうなので御座いますか」
 実(げ)に主(あるじ)は在らずして、在るが如くその枕頭(まくらもと)に坐れる客の、猶悲(なほかなしみ)の残れる面(おもて)に髪をば少し打乱(うちみだ)し、左の※(わきあけ)の二寸ばかりも裂けたるままに姿も整はずゐたりしを、遽(にはか)に引枢(ひきつくろ)ひつつ、
「今し方其方(そちら)へお出(いで)なすつたのですが……」
「おや、さやうなので御座いますか」
那裡(あちら)のお客様の方へお出(いで)なすつたのでは御座いませんか」
「いいえ、貴方、那裡(あちら)のお客様が急ぐと有仰(おつしや)つてで御座いますものですから、さう申上げに参つたので御座いますが、それぢやまあ、那辺(どちら)へいらつしやいましたらう!」
那裡(あちら)にもゐらつしやいませんの!」
「さやうなので御座いますよ」
 老婢はここを倉皇(とつかは)起ちて、満枝が前に、
此方(こちら)へもいらつしやいませんで御座いますか」
「何が」
「あの、那裡(あちら)にもゐらつしやいませんので御座いますが」
「旦那様が? どうして」
「今し方這裡(こちら)へ出てお在(いで)になつたのださうで御座います」
嘘(うそ)、嘘ですよ」
「いいえ、那裡(あちら)にはお客様がお一人でゐらつしやるばかり……」
「嘘ですよ」
「いいえ、どういたして貴方、決して嘘ぢや御座いません」
「だつて、此方(こちら)へお出(いで)なさりは為ないぢやありませんか」
「ですから、まあ、何方(どつち)へいらつしやつたのかと思ひまして……」
那裡(あちら)にきつと隠れてでもお在(いで)なのですよ」
「貴方、そんな事が御座いますものですか」
「どうだか知れはしません」
「はてね、まあ。お手水(てうづ)ですかしらん」
 随処(そこら)尋ねんとて彼は又倉皇(とつかは)起ちぬ。
 有効無(ありがひな)きこの侵辱(はづかしめ)に遭(あ)へる吾身(わがみ)は如何(いか)にせん、と満枝は無念の遣(や)る方無さに色を変へながら、些(ちと)も騒ぎ惑はずして、知りつつ食(は)みし毒の験(しるし)を耐へ忍びゐたらんやうに、得も謂(いは)れず窃(ひそか)に苦めり。宮はその人の遁(のが)れ去りしこそ頼(たのみ)の綱は切られしなれと、はや留るべき望も無く、まして立帰るべき力は有らで、罪の報(むくい)は悲くも何時まで儚(はかな)きこの身ならんと、打俯(うちふ)し、打仰ぎて、太息(ためいき)※(つ)くのみ
 颯(さ)と空の昏(くら)み行く時、軒打つ雨は漸(やうや)く密なり。
 戸棚(とだな)、押入(おしいれ)の外(ほか)捜さざる処もあらざりしに、終(つひ)に主(あるじ)を見出(みいだ)さざる老婢は希有(けう)なる貌(かほ)して又子亭(はなれ)に入来(いりきた)れり。
何方(どちら)にもゐらつしやいませんで御座いますが……」
「あら、さやうですか。ではお出掛にでも成つたのでは御座いませんか」
「さやうで御座いますね。一体まあどうなすつたと云ふので御座いませう、那裡(あちら)にも這裡(こちら)にもお客様を置去(おきざり)に作(なす)つてからに。はてね、まあ、どうもお出掛になる訳は無いので御座いますけれど、家中には何処(どつこ)にもゐらつしやらないところを見ますと、お出掛になつたので御座いますかしらん。それにしても……まあ御免あそばしまして」
 彼は又満枝の許(もと)に急ぎ行きて、事の由(よし)を告げぬ。
「いいえ、貴方(あなた)、私は見て参りましたので御座いますよ。子亭(はなれ)にゐらつしやりは致しません、それは大丈夫で御座います」
 彼は遽(にはか)に心着きて履物(はきもの)を検(あらた)め来んとて起ちけるに、踵(つ)いで起てる満枝の庭前(にはさき)の縁に出づると見れば、※々(つかつか)と行きて子亭(はなれ)の入口に顕(あらは)れたり。
 宮は何人(なにびと)の何の為に入来(いりきた)れるとも知らず、先(ま)づ愕(おどろ)きつつも彼を迎へて容(かたち)を改めぬ。吾が恋人の恋人を拝まんとてここに来にける満枝の、意外にも敵の己(おのれ)より少(わか)く、己より美く、己より可憐(しをらし)く、己より貴(たつと)きを見たる妬(ねた)さ、憎さは、唯この者有りて可怜(いと)しさ故に、他(ひと)の情(なさけ)も誠も彼は打忘るるよとあはれ、一念の力を剣(つるぎ)とも成して、この場を去らず刺殺(さしころ)さまほしう、心は躍(をど)り襲(かか)り、躍り襲らんと為るなりけり。
 宮は稍羞(ややはぢら)ひて、葉隠(はがくれ)に咲遅れたる花の如く、夕月の涼(すずし)う棟(むね)を離れたるやうに満枝は彼の前に進出(すすみい)でて、互に対面の礼せし後、
「始めましてお目に掛りますで御座いますが、間様の……御親戚? でゐらつしやいますで御座いますか」
 憎き人をば一番苦めんの満枝が底意なり。
「はい親類筋の者で御座いまして」
「おや、さやうでゐらつしやいますか。手前は赤樫満枝と申しまして、間様とは年来の御懇意で、もう御親戚同様に御交際を致して、毎々お世話になつたり、又及ばずながらお世話も致したり、始終お心易く致してをりますで御座いますが、ついぞ、まあ従来(これまで)お見上げ申しませんで御座いました」
「はい、つい先日まで長らく遠方に参つてをりましたもので御座いますから」
「まあ、さやうで。余程何でございますか、御遠方で?」
「はい……広島の方に居りまして御座います」
「はあ、さやうで。唯今は何方(どちら)に」
池端(いけのはた)に居ります」
「へえ、池端、お宜(よろし)い処で御座いますね。然し、夙(かね)て間様のお話では、御自分は身寄も何も無いから、どうぞ親戚同様に末の末まで交際したいと有仰(おつしや)るもので御座いますから、全くさうとばかり私(わたくし)信じてをりましたので御座いますよ。それに唯今かうして伺ひますれば、御立派な御親戚がお有り遊ばすのに、どう云ふお意(つもり)であんな事を有仰つたので御座いませう。何も親戚のお有りあそばす事をお隠しになるには当らんぢや御座いませんか。あの方は時々さう云ふ水臭い事を一体作(なさ)るので御座いますよ」
 疑(うたがひ)の雲は始て宮が胸に懸(かか)りぬ。父が甞(かつ)て病院にて見し女の必ず訳有るべしと指(さ)せしはこれならん。さては客来(きやくらい)と言ひしも詐(いつはり)にて、或(あるひ)は内縁の妻と定れる身の、吾を咎(とが)めて邪魔立せんとか、但(ただし)は彼人(かのひと)のこれ見よとてここに引出(ひきいだ)せしかと、今更に差(たが)はざりし父が言(ことば)を思ひて、宮は仇(あだ)の為に病めるを笞(むちう)たるるやうにも覚ゆるなり。いよいよ長く居るべきにあらぬ今日のこの場はこれまでと潔く座を起たんとしたりけれど、何処(いづく)にか潜めゐる彼人(かのひと)の吾が還るを待ちて忽(たちま)ち出で来て、この者と手を把(と)り、面(おもて)を並べて、可哀(あはれ)なる吾をば笑ひ罵(ののし)りもやせんと想へば、得堪(えた)へず口惜(くちをし)くて、如何(いか)にせば可(よ)きと心苦(こころくるし)く遅(ためら)ひゐたり。
「お久しぶりで折角お出(いで)のところを、生憎(あいにく)と余義無い用向の使が見えましたもので、お出掛になつたので御座いますが、些(ちよつ)と遠方でございますから、お帰来(かへり)の程は夜にお成りで御座いませう、近日どうぞ又御寛(ごゆつく)りとお出(い)で遊ばしまして」
「大相長座(ちようざ)を致しまして、貴方の御用のお有り遊ばしたところを、心無いお邪魔を致しまして、相済みませんで御座いました」
「いいえ、もう、私共は始終上つてをるので御座いますから、些(ちよつ)とも御遠慮には及びませんで御座います。貴方こそさぞ御残念でゐらつしやいませう」
「はい、誠に残念でございます」
「さやうで御座いませうとも」
「四五年ぶりで逢ひましたので御座いますから、色々昔話でも致して今日(こんにち)は一日遊んで参らうと楽(たのしみ)に致してをりましたのを、実に残念で御座います」
「大きに」
「さやうなら私はお暇(いとま)を致しませう」
「お帰来(かへり)で御座いますか。丁度唯今小降で御座いますね」
「いいえ、幾多(いくら)降りましたところが俥(くるま)で御座いますから」
 互に憎し、口惜(くちを)しと鎬(しのぎ)を削る心の刃(やいば)を控へて、彼等は又相見(あひみ)ざるべしと念じつつ別れにけり。

     第 七 章

 家の内を隈無(くまな)く尋ぬれども在らず、さては今にも何処(いづこ)よりか帰来(かへりこ)んと待てど暮せど、姿を晦(くらま)せし貫一は、我家ながらも身を容(い)るる所無き苦紛(くるしまぎ)れに、裏庭の木戸より傘(かさ)も※(さ)さで忍び出でけるなり。
 されど唯一目散に脱(のが)れんとのみにて、卒(にはか)に志す方(かた)もあらぬに、生憎(あやにく)降頻(ふりしき)る雨をば、辛(から)くも人の軒などに凌(しの)ぎつつ、足に任せて行くほどに、近頃思立ちて折節(をりふし)通へる碁会所の前に出でければ、ともかくも成らんとて、其処(そこ)に躍入(をどりい)りけり。
 客は三組ばかり、各(おのおの)静に窓前の竹の清韻(せいいん)を聴きて相対(あひたい)せる座敷の一間(ひとま)奥に、主(あるじ)は乾魚(ひもの)の如き親仁(おやぢ)の黄なる髯(ひげ)を長く生(はや)したるが、兀然(こつぜん)として独(ひと)り盤を磨(みが)きゐる傍に通りて、彼は先(ま)づ濡(ぬ)れたる衣(きぬ)を炙(あぶ)らんと火鉢(ひばち)に寄りたり。
 異(あやし)み問はるるには能(よ)くも答へずして、貫一は余りに不思議なる今日の始末を、その余波(なごり)は今も轟(とどろ)く胸の内に痛(したた)か思回(おもひめぐら)して、又空(むなし)く神(しん)は傷(いた)み、魂(こん)は驚くといへども、我や怒(いか)る可き、事や哀(あはれ)むべき、或(あるひ)は悲む可きか、恨む可きか、抑(そもそ)も喜ぶ可きか、慰む可きか、彼は全く自ら弁ぜず。五内(ごない)渾(すべ)て燃え、四肢(しし)直(ただち)に氷らんと覚えて、名状すべからざる感情と煩悶(はんもん)とは新に来(きた)りて彼を襲へるなり。
 主(あるじ)は貫一が全濡(づぶぬれ)の姿よりも、更に可訝(いぶかし)きその気色(けしき)に目留めて、問はでも椿事(ちんじ)の有りしを疑はざりき。ここまで身は遁(のが)れ来にけれど、なかなか心安からで、両人(ふたり)を置去(おきざり)に為(せ)し跡は如何(いかに)、又我が為(せ)んやうは如何(いかに)など、彼は打惑へり。沸くが如きその心の騒(さわが)しさには似で、小暗(をぐら)き空に満てる雨声(うせい)を破りて、三面の盤の鳴る石は断続して甚(はなは)だ幽なり。主(あるじ)はこの時窓際(まどぎは)の手合観(てあはせみ)に呼れたれば、貫一は独り残りて、未だ乾(ひ)ぬ袂(たもと)を翳(かざ)しつつ、愈(いよい)よ限無く惑ひゐたり。遽(にはか)に人の騒立つるに愕(おどろ)きて顔を挙(あぐ)れば、座中尽(ことごと)く頸(くび)を延べて己(おの)が方(かた)を眺め、声々に臭しと喚(よば)はるに、見れば、吾が羽織の端(はし)は火中に落ちて黒煙(くろけふり)を起つるなり。直(ぢき)に揉消(もみけ)せば人は静(しづま)るとともに、彼もまた前(さき)の如し。
 少頃(しばし)有りて、門(かど)に入来(いりき)し女の訪(おとな)ふ声して、
「宅の旦那(だんな)様はもしや這裡(こちら)へいらつしやりは致しませんで為(し)たらうか」
 主は忽(たちま)ち髯(ひげ)の頤(おとがひ)を回(めぐら)して、
「ああ、奥にお在(いで)で御座いますよ」
 豊かと差覗(さしのぞ)きたる貫一は、
「おお、傘を持つて来たのか」
「はい。此方(こちら)にお在(いで)なので御座いましたか、もう方々お捜し申しました」
「さうか。客は帰つたか」
「はい、疾(とう)にお帰(かへり)になりまして御座います」
「四谷のも帰つたか」
「いいえ、是非お目に掛りたいと有仰(おつしや)いまして」
「居る?」
「はい」
「それぢや見付からんと言つて措(お)け」
「ではお帰りに成りませんので?」
「も少し経(た)つたら帰る」
直(ぢき)にもうお中食(ひる)で御座いますが」
可(い)いから早く行けよ」
未(ま)だ旦那様は朝御飯も」
「可いと言ふに!」
 老婢は傘と足駄(あしだ)とを置きて悄々(すごすご)還りぬ。
 程無く貫一も焦げたる袂(たもと)を垂れて出行(いでゆ)けり。
 彼はこの情緒の劇(はげし)く紛乱せるに際して、可煩(わづらはし)き満枝に※(まつは)らるる苦悩に堪へざるを思へば、その帰去(かへりさ)らん後までは決(け)して還らじと心を定めて、既に所在(ありか)を知られたる碁会所を立出(たちい)でしが、いよいよ指して行くべき方(かた)は有らず。はや正午と云ふに未(いま)だ朝の物さへ口に入れず、又半銭をも帯びずして、如何(いか)に為(せ)んとするにか有らん、猶降りに降る雨の中を茫々然(ぼうぼうぜん)として彷徨(さまよ)へり。
 初夏の日は長かりけれど、纔(わづか)に幾局の勝負を決せし盤の上には、殆(ほとん)ど惜き夢の間に昏(く)れて、折から雨も霽(は)れたれば、好者(すきもの)どもも終(つひ)に碁子(きし)を歛(をさ)めて、惣立(そうだち)に帰るをあたかも送らんとする主の忙々(いそがはし)く燈(ひ)ともす比(ころ)なり、貫一の姿は始て我家の門(かど)に顕(あらは)れぬ。
 彼は内に入(い)るより、
「飯を、飯を!」と婢(をんな)を叱(しつ)して、颯(さ)と奥の間の紙門(ふすま)を排(ひら)けば、何ぞ図らん燈火(ともしび)の前に人の影在り。
 彼は立てるままに目を※(みは)りつ。されど、その影は後向(うしろむき)に居て動かんとも為(せ)ず。満枝は未(いま)だ往かざるか、と貫一は覚えず高く舌打したり。女は尚(なほ)も殊更(ことさら)に見向かぬを、此方(こなた)もわざと言(ことば)を掛けずして子亭(はなれ)に入り、豊を呼びて衣を更(か)へ、膳(ぜん)をも其処(そこ)に取寄せしが、何とか為けん、必ず入来(いりく)べき満枝の食事を了(をは)るまでも来ざるなりき。却(かへ)りて仕合好(しあはせよ)しと、貫一は打労(うちつか)れたる身を暢(のびや)かに、障子の月影に肱枕(ひぢまくら)して、姑(しばら)く喫烟(きつえん)に耽(ふけ)りたり。
 敢(あへ)て恋しとにはあらねど、苦しげに羸(やつ)れたる宮が面影(おもかげ)の幻は、頭(かしら)を回(めぐ)れる一蚊(ひとつか)の声の去らざらんやうに襲ひ来て、彼が切なる哀訴も従ひて憶出(おもひい)でらるれば、なほ往きかねて那辺(そこら)に忍ばずやと、風の音にも幾度(いくたび)か頭(かしら)を挙げし貫一は、婆娑(ばさ)として障子に揺(ゆ)るる竹の影を疑へり。
 宮は何時(いつ)までここに在らん、我は例の孤(ひとり)なり。思ふに、彼の悔いたるとは誠ならん、我の死を以(も)て容(ゆる)さざるも誠なり。彼は悔いたり、我より容さば容さるべきを、さは容さずして堅く隔つる思も、又怪(あやし)きまでに貫一は佗(わびし)くて、その釈(と)き難き怨(うらみ)に加ふるに、或種の哀(あはれ)に似たる者有るを感ずるなりき。いと淡き今宵の月の色こそ、その哀にも似たるやうに打眺(うちなが)めて、他(ひと)の憎しとよりは転(うた)た自(みづから)を悲しと思続けぬ。彼は竟(つひ)に堪へかねたる気色(けしき)にて障子を推啓(おしあく)れば、涼(すずし)き空に懸れる片割月(かたわれづき)は真向(まむき)に彼の面(おもて)に照りて、彼の愁ふる眼(まなこ)は又痛(したた)かにその光を望めり。
「間さん」
 居たるを忘れし人の可疎(うとまし)き声に見返れば、はや背後(うしろ)に坐れる満枝の、常は人を見るに必ず笑(ゑみ)を帯びざる無き目の秋波(しほ)も乾(かわ)き、顔色などは殊(こと)に槁(か)れて、などかくは浅ましきと、心陰(こころひそか)に怪む貫一。
「ああ、未だ御在(おいで)でしたか」
「はい、居りました。お午前(ひるまへ)から私(わたくし)お待ち申してをりました」
「ああ、さうでしたか、それは大きに失礼しました。さうして何ぞ急な用でも」
「急な用が無ければ、お待ち申してをつては悪いので御座いますか」
 語気の卒(にはか)に※(はげし)きを駭(おどろ)ける貫一は、空(むなし)く女の顔を見遣(みや)るのみ。
「お悪いで御座いませう。お悪いのは私能く存じてをります。第一お待ち申してをりましたのよりは、今朝ほど私の参りましたのが、一層お悪いので御座いませう。飛(とん)だ御娯(おたのしみ)のお邪魔を致しまして、間さん、誠に私相済みませんで御座いました」
 その眼色(まなざし)は怨(うらみ)の鋩(きつさき)を露(あらは)して、男の面上を貫かんとやうに緊(きびし)く見据ゑたり。
 貫一は苦笑して、
貴方(あなた)は何を※(ばか)な事を言つてゐるのですか」
「今更※(かく)しなさるには及びませんさ。若い男と女が一間(ひとま)に入つて、取付(とつつ)き引付(ひつつ)きして泣いたり笑つたりしてをれば、訳は大概知れてをるぢや御座いませんか。私あれに控へてをりまして、様子は大方存じてをります。七歳(ななつ)や八歳(やつ)の子供ぢや御座いません、それ位の事は誰にだつて直(ぢき)に解りませうでは御座いませんか。
 爾後(それから)貴方がお出掛になりますと私直(ぢき)にここのお座敷へ推掛(おしか)けて参つて、あの御婦人にお目に掛りましたので御座います」
 絮(くど)しと聞流せし貫一も、ここに到りて耳を欹(そばだ)てぬ。
「さうして色々お話を伺ひまして、お二人の中も私能く承知致しました。あの方も又有仰(おつしや)らなくても可ささうな事までお話を作(なさ)いますので、それは随分聞難(ききにく)い事まで私伺ひました」
 為失(しな)したりと貫一は密(ひそか)に術無(じゆつな)き拳(こぶし)を握れり。満枝は猶(なほ)も言足らで、
「然し、間さん、遉(さすが)に貴方で御座いますのね、私敬服して、了ひました。失礼ながら貴方のお腕前に驚きましたので御座います。ああ云つた美婦人を御娯(おたのしみ)にお持ち遊ばしてゐながら、世間へは偏人だ事の、一国者(いつこくもの)だ事のと、その方へ掛けては実に奇麗なお顔を遊ばして、今日の今朝まで何年が間と云ふもの秘隠(ひしかくし)に隠し通してゐらしつたお手際(てぎは)には私実に驚入つて一言(いちごん)も御座いません。能く凄(すご)いとか何とか申しますが、貴方のやうなお方の事をさう申すので御座いませう」
「もうつまらん事を……、貴方何ですか」
「お口ぢやさう有仰(おつしや)つても、実はお嬉(うれし)いので御座いませう。あれ、ああしちや考へてゐらつしやる! そんなにも恋(こひし)くてゐらつしやるのですかね」
 されば我が出行(いでゆ)きし迹(あと)をこそ案ぜしに、果してかかる※(わざはひ)は出で来にけり。由無(よしな)き者の目には触れけるよ、と貫一はいと苦く心跼(こころくぐま)りつつ、物言ふも憂き唇を閉ぢて、唯月に打向へるを、女は此方(こなた)より熟々(つくづく)と見透(みすか)して目も放たず。
「間さん、貴方さう黙つてゐらつしやらんでも宜(よろし)いでは御座いませんか。ああ云ふお美(うつくし)いのを御覧に成つた後では、私如き者には口をお利(き)きに成るのもお可厭(いや)なのでゐらつしやいませう。私お察し申してをります。ですから私決して絮(くど)い事は申上げません。少し聞いて戴きたい事が御座いますのですから、庶(どう)かそれだけ言(いは)して下さいまし」
 貫一は冷(ひややか)に目を転(うつ)して、
「何なりと有仰(おつしや)い」
「私もう貴方を殺して了ひたい!」
「何です?!」
「貴方を殺して、あれも殺して、さうして自分も死んで了ひたく思ふのです」
「それも可いでせう。可いけれど何で私(わたし)が貴方に殺されるのですか」
「間さん、貴方はその訳を御存無(ごぞんじな)いと有仰(おつしや)るのですか、どの口で有仰るのですか」
「これは怪(けし)からん! 何ですと」
「怪からんとは、貴方も余(あんま)りな事を有仰るでは御座いませんか」
 既に恨み、既に瞋(いか)りし満枝の眼(まなこ)は、ここに到りて始て泣きぬ。いと有るまじく思掛けざりし貫一は寧(むし)ろ可恐(おそろ)しと念(おも)へり。
「貴方はそんなにも私が憎くてゐらつしやるのですか。何で又さうお憎みなさるのですか。その訳をお聞せ下さいまし。私それが伺ひたい、是非伺はなければ措(お)きません」
「貴方を何日(いつ)私が憎みました。そんな事は有りません」
「では、何で怪からんなどと有仰(おつしや)います」
「怪からんぢやありませんか、貴方に殺される訳が有るとは。私は決(け)して貴方に殺される覚(おぼえ)は無い」
 満枝は口惜(くちを)しげに頭(かしら)を掉(ふ)りて、
「有ります! 立派に有ると私信じてをります」
「貴方が独(ひとり)で信じても……」
「いいえ、独で有らうが何で有らうが、自分の心に信じた以上は、私それを貫きます」
「私を殺すと云ふのですか」
「随分殺しかねませんから、覚悟をなすつてゐらつしやいまし」
「はあ、承知しました」
 いよいよ昇れる月に木草の影もをかしく、庭の風情(ふぜい)は添(そは)りけれど、軒端(のきば)なる芭蕉葉(ばしようば)の露夥(つゆおびただし)く夜気の侵すに堪(た)へで、やをら内に入りたる貫一は、障子を閉(た)てて燈(ひ)を明(あか)うし、故(ことさら)に床の間の置時計を見遣りて、
「貴方、もうお帰りに成つたが可いでせう、余り晩(おそ)くなるですから。ええ?」
憚(はばか)り様で御座います」
「いや、御注意を申すのです」
「その御注意が憚り様で御座いますと申上げるので」
「ああ、さうですか」
「今朝のあの方なら、そんな御注意なんぞは遊ばさんで御座いませう。如何(いかが)ですか」
 憎さげに言放ちて、彼は吾矢の立つを看(み)んとやうに、姑(しばら)く男の顔色を候(うかが)ひしが、
「一体あれは何者なので御座います!」
 犬にも非ず、猫にも非ず、汝(なんぢ)に似たる者よと思ひけれど、言争(いひあらそ)はんは愚なりと勘弁して、彼は才(わづか)に不快の色を作(な)せしのみ。満枝は益す独り憤(じ)れて、
旧(ふる)いお馴染(なじみ)ださうで御座いますが、あの恰好(かつこう)は、商売人ではなし、万更の素人(しろうと)でもないやうな、貴方も余程(よつぽど)不思議な物をお好み遊ばすでは御座いませんか。然し、間さん、あれは主有(ぬしあ)る花で御座いませう」
 妄(みだり)に言へるならんと念(おも)へど、如何(いか)にせん貫一が胸は陰(ひそか)に轟(とどろ)けるを。
「どうですか、なあ」
「さう云ふ者を対手(あひて)に遊ばすと、別(べつ)してお楽(たのしみ)が深いとか申しますが、その代(かはり)に罪も深いので御座いますよ。貴方が今日(こんにち)まで巧(たくみ)に隠し抜いてゐらしつた訳も、それで私能く解りました。こればかりは余り公(おほやけ)に御自慢は出来ん事で御座いますもの、秘密に遊ばしますのは実に御尤(ごもつとも)で御座います。
 その大事の秘密を、人も有らうに、貴方の嫌(きら)ひの嫌ひの大御嫌(だいおきら)ひの私に知られたのは、どんなにかお心苦(こころくるし)くゐらつしやいませう。私十分お察し申してをります。然し私に取りましては、これ程幸(さいはひ)な事は無いので御座います。貴方が余り片意地に他(ひと)を苦めてばかりゐらしつたから、今度は私から思ふ様これで苦めて上げるのです。さう思召(おぼしめ)してゐらつしやい!」
 聞訖(ききをは)りたる貫一は吃々(きつきつ)として窃笑(せつしよう)せり。
「貴方は気でも違ひは為(せ)んですか」
「少しは違つてもをりませう。誰がこんな気違(きちがひ)には作(な)すつたのです。私気が違つてゐるなら、今朝から変に成つたので御座いますよ。お宅に詣(あが)つて気が違つたのですから、元の正気に復(なほ)してお還し下さいまし」
 彼は擦寄(すりよ)り、擦寄りて貫一の身近に逼(せま)れり。浅ましく心苦(こころくるし)かりけれど迯(に)ぐべくもあらねば、臭き物に鼻を掩(おほ)へる心地しつつ、貫一は身を側(そば)め側め居たり。満枝は猶(なほ)も寄添はまほしき風情(ふぜい)にて、
「就きましては、私一言(いちごん)貴方に伺ひたい事が有るので御座いますが、これはどうぞ御遠慮無く貴方の思召す通を丁(ちやん)と有仰(おつしや)つてお聞せ下さいまし、宜(よろし)う御座いますか」
「何ですか」
「なんですかでは可厭(いや)です、宜(よろし)いと截然(きつぱり)有仰(おつしや)つて下さい。さあ、さあ、貴方」
「けれども……」
「けれどもぢや御座いません。私の申す事だと、貴方は毎(いつ)も気の無い返事ばかり遊ばすのですけれど、何も御迷惑に成る事では御座いませんのです、私の申す事に就て貴方が思召す通を答へて下されば、それで宜(よろし)いのですから」
勿論(もちろん)答へます。それは当然(あたりまへ)の事ぢやないですか」
「それが当然(あたりまへ)でなく、極打明けて少しも裹(つつ)まずに言つて戴きたいのですから」
 善(よし)と貫一は頷(うなづ)きつ。
「では、きつと有仰つて下さいまし。間さん、貴方(あなた)は私を※(うるさ)い奴だと思召してゐらつしやるで御座いませう。私始終さう思ひながら、貴方の御迷惑もかまはずにやつぱりかうして附纏(つきまと)つてゐるのは、自分の口から箇様(かよう)な事を申すのも、甚(はなは)だ可笑(をかし)いので御座いますけれど、私、実に貴方の事は片時でも忘れは致しませんのです。それは如何(いか)に思つてをりましたところが、元来(もともと)私と云ふ者を嫌(きら)ひ抜いて御在(おいで)なのですから、あの歌が御座いますね、行く水に数画(かずか)くよりも儚(はかな)きは、思はぬ人を思ふなりけりとか申す、実にその通り、行く水に数を画くやうな者で、私の願の※(かな)ふ事は到底無いので御座いませう。もうさうと知りながら、それでも、間さん、私こればかりは諦(あきら)められんので御座います。
 こんな者に見込れて、さぞ御迷惑ではゐらつしやいませうけれども私がこれ程までに思つてゐると云ふ事は、貴方も御存(ごぞんじ)でゐらつしやいませう。私が熱心に貴方の事を思つてゐると云ふ事で御座います、それはお了解(わかり)に成つてゐるで御座いませう」
「さうですな……そりや或(あるひ)はさうかも知れませんけれど……」
「何を言つてゐらつしやるのですね、貴方は、或(あるひ)はもさうかもないでは御座いませんか! さも無ければ、私何も貴方に※(うるさ)がられる訳は御座いませんさ、貴方も私を※(うるさ)いと思召すのが、現に何よりの証拠で。漆膠(しつこ)くて困ると御迷惑してゐらつしやるほど、承知を遊ばしてお在(いで)のでは御座いませんか」
「それはさう謂へばそんなものです」
「貴方から嫌はれ抜いてゐるにも関(かかは)らず、こんなに私が思つてゐると云ふ事は、十分御承知なので御座いませう」
「さう」
「で、私従来(これまで)に色々申上げた事が御座いましたけれど、些(ちよつ)とでもお聴き遊ばしては下さいませんでした。それは表面の理窟(りくつ)から申せば、無理なお願かも知れませんけれど、私は又私で別に考へるところが有つて、決(け)して貴方の有仰(おつしや)るやうな道に外(はづ)れた事とは思ひませんのです。よしんばさうでありましても、こればかりは外の事とは別で、お互にかうと思つた日には、其処(そこ)に理窟も何も有るのでは御座いません。究竟(つまり)貴方がそれを口実にして遁(に)げてゐらつしやるのは、始から解り切つてゐるので。然し、貴方も人から偏屈だとか、一国だとか謂れてゐらつしやるのですから、成程儀剛(ぎごは)な片意地なところもお有(あん)なすつて、色恋の事なんぞには貪着(とんちやく)を遊ばさん方で、それで私の心も汲分けては下さらんのかと、さうも又思つたり致して、実は貴方の頑固(がんこ)なのを私歯痒(はがゆ)いやうに存じてをつたので御座います……ところが!」
 と言ひも敢(あ)へず煙管(きせる)を取りて、彼は貫一の横膝(よこひざ)をば或る念力(ねんりき)強く痛(したた)か推したり。
「何を作(なさ)るのです!」
 払へば取直すその煙管にて、手とも云はず、膝とも云はず、当るを幸(さいはひ)に満枝は又打ち被(かか)る。
 こは何事と駭(おどろ)ける貫一は、身を避(さく)る暇(いとま)もあらず三つ四つ撃れしが、遂(つひ)に取つて抑へて両手を働かせじと為れば、内俯(うつぷし)に引据ゑられたる満枝は、物をも言はで彼の股(もも)の辺(あたり)に咬付(かみつ)いたり。怪(けし)からぬ女哉(かな)、と怒(いかり)の余に手暴(てあら)く捩放(ねぢはな)せば、なほ辛(から)くも縋(すが)れるままに面(おもて)を擦付(すりつ)けて咽泣(むせびなき)に泣くなりき。
 貫一は唯不思議の為体(ていたらく)に呆(あき)れ惑ひて言(ことば)も出(い)でず、漸(やうや)く泣ゐる彼を推斥(おしの)けんと為たれど、膠(にかは)の附きたるやうに取縋りつつ、益す泣いて泣いて止まず。涙の湿(うるほひ)は単衣(ひとへ)を透(とほ)して、この難面(つれな)き人の膚(はだへ)に沁(し)みぬ。
 捨置かば如何(いか)に募らんも知らずと、貫一は用捨無く※放(もぎはな)して、起たんと為るを、彼は虚(すか)さず※(まつは)りて、又泣顔を擦付(すりつく)れば、怺(こら)へかねたる声を励す貫一、
「貴方は何を為るのですか! 好い加減になさい」
「…………」
「さうして早くお帰りなさい」
「帰りません!」
「帰らん? 帰らんけりや宜(よろし)い。もう明日(あす)からは貴方のここへ足蹈(あしぶみ)の出来んやうに為て了(しま)ふから、さうお思ひなさい」
「私死んでも参ります!」
「今まで我慢をしてゐたですけれど、もう抛(はふ)つて置かれんから、私は赤樫さんに会つて、貴方の事をすつかり話して了ひます」
 満枝は始て涙に沾(うるほ)へる目を挙げたり。
「はあ、お話し下さい」
「…………」
「赤樫に聞えましたら、どう致すので御座います」
 貫一は歯を鳴して急上(せきあ)げたり。
「貴方は……実に……驚入(おどろきい)つた根性ですな! 赤樫は貴方の何ですか」
「間さん、貴方は又赤樫を私の何だと思召してゐらつしやるのですか」
怪(けし)からん!」
 彼は憎き女の頬桁(ほほげた)をば撃つて撃つて打割(うちわ)る能(あた)はざるを憾(うらみ)と為(す)なるべし。
定(さだめ)てあれは私の夫だと思召すので御座いませうが、決(け)してさやうでは御座いませんです」
「そんなら何(なん)ですか」
往日(いつぞや)もお話致しましたが、金力で無理に私を奪つて、遂にこんな体にして了つた、謂はば私の讐(かたき)も同然なので。成程人は夫婦とも申しませうが私の気では何とも思つてをりは致しません。さうですから、自分の好いた方(かた)に惚(ほ)れて騒ぐ分は、一向差支(さしつかへ)の無い独身(ひとりみ)も同じので御座います。
 間さん、どうぞ赤樫にお会ひ遊ばしたら、満枝の奴が惚れてゐて為方が無いから、内の御膳炊(ごぜんたき)に貰つて遣るから、さう思へと、貴方が有仰(おつしや)つて下さいまし。私豊(とよ)の手伝でも致して、此方(こなた)に一生奉公を致します。
 貴方は大方赤樫に言ふと有仰(おつしや)つたら、震へ上つて私が怖(こは)がりでも為ると思召すのでせうが、私驚きも恐れも致しません、寧(むし)ろ勝手なのですけれど、赤樫がそれは途方に昧(く)れるで御座いませう」
 貫一はほとほと答ふるところを知らず。満枝も然(しか)こそは呆(あき)れつらんと思へば、
「それは実際で御座いますの。若し話が一つ間違つて、面倒な事でも生じましたら、私が困りますよりは余程赤樫の方が困るのは知れてゐるのですから、私を遠(とほざ)けやう為に、お話をなさるのなら、徒爾(むだ)な事で御座います。赤樫は私を恐れてをりませうとも、私些(ちよつ)ともあの人を恐れてはをりませんです。けれども、折角さう思召(おぼしめ)すものなら、物は試(ためし)で御座いますから、間さん、貴方、赤樫にお話し遊ばして御覧なさいましな。
 私も貴方の事を吹聴致します。ああ云ふ主(ぬし)有る婦人と関係遊ばして、始終人目を忍んで逢引(あひびき)してゐらつしやる事を触散(ふれちら)しますから、それで何方(どちら)が余計迷惑するか、比較事(くらべつこ)を致しませう。如何(いかが)で御座います」
男勝(をとこまさ)りの機敏な貴方にも似合はん、さすがは女だ」
「何で御座います?」
「お聞きなさい。男と女が話をしてゐれば、それが直(ただ)ちに逢引(あひびき)ですか。又妙齢(としごろ)の女でさへあれば、必ず主有るに極(きま)つてゐるのですか。浅膚(あさはか)な邪推とは言ひながら、人を誣(し)ふるも太甚(はなはだし)い! 失敬千万な、気を着けて口をお利(き)きなさい」
「間さん、貴方、些(ちよつ)と此方(こちら)をお向きなさい」
 手を取りて引けば、振釈(ふりほど)き、
「ええ、もう貴方は」
※(うるさ)いでせう
勿論(もちろん)」
「私向後(これから)もつと、もつともつと※くして上げるのです。さあ、貴方、今何と有仰(おつしや)つたので御座います、浅膚(あさはか)な邪推ですつて? 貴方こそも少し気を着けてお口をお利(き)き遊ばせな、貴方も男子でゐらつしやるなら、何為(なぜ)立派に、その通だ。情婦(をんな)が有るのがどうしたと、かう打付(ぶつつ)けて有仰らんのです。間さん、私貴方に向つてそんな事をかれこれ申す権利は無い女なので御座いますよ。幾多(いくら)さう云ふ権利を有ちたくても、有つ事が出来ずにゐるので御座います。それに、何も私の前を憚(はばか)つて、さう向(むき)に成つてお隠し遊ばすには当らんでは御座いませんか。
 私実を申しませうか、箇様(かよう)なので御座います。貴方が余所外(よそほか)に未だ何百人愛してゐらつしやる方(かた)が有りませうとも、それで愛相(あいそ)を尽(つか)して、貴方の事を思切るやうな、私そんな浮気な了簡(りようけん)ではないのです。又貴方の御迷惑に成る秘密を洩(もら)しましたところで、※(かな)はない願が※ふ訳ではないので御座いませう。どう思召してゐらつしやるか存じませんけれど、私それ程卑怯(ひきよう)な女ではない積(つもり)で御座います。
 世間へ吹聴して貴方を困らせるなどと申したのは、あれは些(ほん)のその場の憎まれ口で、私決(け)してそんな心は微塵(みじん)も無いので御座いますから、どうかそのお積で、お心持を悪く遊ばしませんやうに。つい口が過ぎましたのですから、御勘弁遊ばしまして。私この通お詫(わび)を致します」
 満枝は惜まず身を下(くだ)して、彼の前に頭(かしら)を低(さ)ぐる可憐(しをら)しさよ。貫一は如何(いか)にとも為(す)る能はずして、窃(ひそか)に首(かうべ)を掻(か)いたり。
就(つ)きましては、私今から改めて折入つた御願が有るので御座いますが貴方も従来(これまで)の貴方ではなしに、十分人情を解してゐらつしやる間さんとして宣告を下して戴きたいので御座います。そのお辞(ことば)次第で、私もう断然何方(どちら)に致しても了簡を極めて了ひますですから、間さん、貴方も庶(どう)か歯に衣(きぬ)を着せずに、お心に在る通りをそのまま有仰つて下さいまし。宜(よろし)う御座いますか。
 今更新く申上げませんでも、私の心は奥底まで見通しに貴方は御存(ごぞんじ)でゐらつしやるのです。従来(これまで)も随分絮(くど)く申上げましたけれど、貴方は一図に私をお嫌(きら)ひ遊ばして、些(ちよつと)でも私の申す事は取上げては下さらんのです——さやうで御座いませう。貴方からそんなに嫌(きら)はれてゐるのですから、私もさう何時まで好い耻(はぢ)を掻かずとも、早く立派に断念して了へば宜(よ)いのです。私さう申すと何で御座いますけれど、これでも女子(をんな)にしては極未練の無い方で、手短(てみじか)に一か八(ばち)か決して了ふ側(がは)なので御座います。それがこの事ばかりは実に我ながら何為(なぜ)かう意気地が無からうと思ふ程、……これが迷つたと申すので御座いませう。自分では物に迷つた事と云ふは無い積の私、それが貴方の事ばかりには全く迷ひました。
 ですから、唯その胸の中(うち)だけを貴方に汲んで戴けば、私それで本望なので御座います。これ程に執心致してをる者を、徹頭徹尾貴方がお嫌ひ遊ばすと云ふのは、能く能くの因果で、究竟(つまり)貴方と私とは性が合はんので御座いませうから、それはもう致方(いたしかた)も有りませんが、そんなに為(さ)れてまでもやつぱりかうして慕つてゐるとは、如何(いか)にも不敏(ふびん)な者だと、設(たと)ひその当人はお気に召しませんでも、その心情はお察し遊ばしても宜いでは御座いませんか。決してそれをお察し遊ばす事の出来ない貴方ではないと云ふ事は、私今朝の事実で十分確めてをります。
 御自分が恋(こひし)く思召すのも、人が恋いのも、恋いに差(かはり)は無いで御座いませう。増(ま)して、貴方、片思(かたおもひ)に思つてゐる者の心の中はどんなに切ないでせうか、間さん、私貴方を殺して了ひたいと申したのは無理で御座いますか。こんな不束(ふつつか)な者でも、同じに生れた人間一人(いちにん)が、貴方の為には全(まる)で奴隷(どれい)のやうに成つて、しかも今貴方のお辞(ことば)を一言(ひとこと)聞きさへ致せば、それで死んでも惜くないとまでも思込んでゐるので御座います。其処(そこ)をお考へ遊ばしたら、如何(いか)に好かん奴であらうとも、雫(しづく)ぐらゐの情(なさけ)は懸けて遣(や)らう、と御不承が出来さうな者では御座いませんか。
 私もさう御迷惑に成る事は望みませんです、せめて満足致されるほどのお辞(ことば)を、唯一言(ひとこと)で宜いのですから、今までのお馴染効(なじみがひ)にどうぞ間さん、それだけお聞せ下さいまし」
 終に近く益す顫(ふる)へる声は、竟(つひ)に平生(へいぜい)の調(ちよう)をさへ失ひて聞えぬ。彼は正(まさし)くその一言(いちごん)の為には幾千円の公正証書を挙げて反古(ほぐ)に為んも、なかなか吝(をし)からぬ気色を帯びて逼(せま)れり。息は凝(こ)り、面(おもて)は打蒼(うちあを)みて、その袖(そで)よりは劒(つるぎ)を出(いだ)さんか、その心よりは笑(ゑみ)を出(いだ)さんか、と胸跳(むねをど)らせて片時(へんじ)も苦く待つなりき。
 切なりと謂はば実(げ)に極(きは)めて切なる、可憐(しをら)しと謂はば又極めて可憐き彼の心の程は、貫一もいと善く知れれど、他(た)の己(おのれ)を愛するの故(ゆゑ)を以(も)て直(ただ)ちに蛇蝎(だかつ)に親まんや、と却(かへ)りてその執念をば難堪(たへがた)く浅ましと思へるなり。
 されど又情として※(はげし)く言ふを得ざるこの場の仕儀なり。貫一は打悩(うちなや)める眉(まゆ)を強(しひ)て披(ひら)かせつつ、
「さうして貴方が満足するやうな一言(いちごん)?……どう云ふ事を言つたら可いのですか」
「貴方もまあ何を有仰(おつしや)つてゐらつしやるのでせう。御自分の有仰る事を他(ひと)にお聞き遊ばしたつて、誰が存じてをりますものですか」
「それはさうですけれど、私にも解らんから」
「解るも解らんも無いでは御座いませんか。それが貴方は何か巧い遁口上(にげこうじよう)を有仰(おつしや)らうとなさるから、急に御考も無いので、貴方に対する私、その私が満足致すやうな一言と申したら、間さん、外には有りは致しませんわ」
「いや、それなら解つてゐます……」
「解つてゐらつしやるなら些(ちよつ)と有仰(おつしや)つて下さいましな」
「それは解つてゐますけれど、貴方の言れるのはかうでせう。段々お話の有つたやうな訳であるから、とにかくその心情は察しても可からう、それを察してゐるのが善く解るやうな挨拶(あいさつ)を為てくれと云ふのぢやありませんか。実際それは余程難(むづかし)い、別にどうも外に言ひ様も無いですわ」
「まあ何でも宜(よろし)う御座いますから、私の満足致しますやうな御挨拶をなすつて下さいまし」
「だから、何と言つたら貴方が満足なさるのですか」
「私のこの心を汲んでさへ下されば、それで満足致すので御座います」
「貴方の思召(おぼしめし)は実に難有(ありがた)いと思つてゐます。私は永く記憶してこれは忘れません」
「間さん、きつとで御座いますか、貴方」
「勿論です」
「きつとで御座いますね」
「相違ありません!」
「きつと?」
「ええ!」
「その証拠をお見せ下さいまし」
「証拠を?」
「はあ。口頭(くちさき)ばかりでは私可厭(いや)で御座います。貴方もあれ程確(たしか)に有仰(おつしや)つたのですから、万更心に無い事をお言ひ遊ばしたのでは御座いますまい。さやうならそれだけの証拠が有る訳です。その証拠を見せて下さいますか」
「みせられる者なら見せますけれど」
「見せて下さいますか」
「見せられる者なら。然し……」
「いいえ、貴方が見せて下さる思召ならば……」
 驚破(すはや)、障子を推開(おしひら)きて、貫一は露けき庭に躍(をど)り下りぬ。つとその迹(あと)に顕(あらは)れたる満枝の面(おもて)は、斜(ななめ)に葉越(はごし)の月の冷(つめた)き影を帯びながらなほ火の如く燃えに燃えたり。

     第 八 章

 家の内には己(おのれ)と老婢(ろうひ)との外(ほか)に、今客も在らざるに、女の泣く声、詬(ののし)る声の聞ゆるは甚(はなは)だ謂無(いはれな)し、我(われ)或(あるひ)は夢むるにあらずやと疑ひつつ、貫一は枕(まくら)せる頭(かしら)を擡(もた)げて耳を澄せり。
 その声は急に噪(さわがし)く、相争(あひあらそ)ふ気勢(けはひ)さへして、はたはたと紙門(ふすま)を犇(ひしめ)かすは、愈(いよい)よ怪(あや)しと夜着(よぎ)排却(はねの)けて起ち行かんとする時、ばつさり紙門の倒るると斉(ひとし)く、二人の女の姿は貫一が目前(めさき)に転(まろ)び出(い)でぬ。
 苛(さいな)まれしと見ゆる方(かた)の髪は浮藻(うきも)の如く乱れて、着たるコートは雫(しづく)するばかり雨に濡(ぬ)れたり。その人は起上り様(さま)に男の顔を見て、嬉(うれ)しや、可懐(なつか)しやと心も空(そら)なる気色(けしき)。
貫一(かんいつ)さん」と匐(は)ひ寄らんとするを、薄色魚子(うすいろななこ)の羽織着て、夜会結(やかいむすび)に為(し)たる後姿(うしろすがた)の女は躍(をど)り被(かか)つて引据(ひきすう)れば、
「あれ、貫、貫一さん!」
 拯(すくひ)を求むるその声に、貫一は身も消入るやうに覚えたり。彼は念頭を去らざりし宮ならずや。七生(しちしよう)までその願は聴かじと郤(しりぞ)けたる満枝の、我の辛(つら)さを彼に移して、先の程より打ちも詬りもしたりけんを、猶慊(なほあきた)らで我が前に責むるかと、貫一は怺(こら)へかねて顫(ふる)ひゐたり。満枝は縦(ほしいま)まに宮を据(とら)へて些(ちと)も動かせず、徐(しづか)に貫一を見返りて、
間(はざま)さん、貴方(あなた)のお大事の恋人と云ふのはこれで御座いませう」
 頸髪取(えりがみと)つて宮が面(おもて)を引立てて、
「この女で御座いませう」
「貫一さん、私(わたし)は悔(くやし)う御座んす。この人は貴方の奥さんですか」
私(わたくし)奥さんならどうしたのですか」
「貫一さん!」
 彼は足擦(あしずり)して叫びぬ。満枝は直(ただ)ちに推伏(おしふ)せて、
「ええ、聒(やかまし)い! 貫一(かんいち)さんは其処(そこ)に一人居たら沢山ではありませんか。貴方より私が間さんには言ふ事が有るのですから、少し静にして聴いてお在(いで)なさい。
 間さん、私想ふのですね、究竟(つまり)かう云ふ女が貴方に腐れ付いてゐればこそ、どんなに申しても私の言(こと)は取上げては下さらんので御座いませう。貴方はそんなに未練がお有り遊ばしても、元この女は貴方を棄てて、余所(よそ)へ嫁に入つて了(しま)つたやうな、実に畜生にも劣つた薄情者なのでは御座いませんか。——私善く存じてゐますわ。貴方も余(あんま)り男らしくなくてお在(いで)なさる。それは如何(いか)にお可愛(かはい)いのか存じませんけれど、一旦愛相(あいそ)を尽(つか)して迯(に)げて行つた女を、いつまでも思込んで遅々(ぐづぐづ)してゐらつしやるとは、まあ何たる不見識な事でせう! 貴方はそれでも男子ですか。私ならこんな女は一息に刺殺(さしころ)して了(しま)ふのです」
 宮は跂返(はねかへ)さんと為(せ)しが、又抑(おさ)へられて声も立てず。
「間さん、貴方、私の申上げた事をば、やあ道ならぬの、不義のと、実に立派な口上を有仰(おつしや)いましたでは御座いませんか、それ程義のお堅い貴方なら、何為(なぜ)こんな淫乱(いんらん)の人非人(にんぴにん)を阿容(おめおめ)活(い)けてお置き遊ばすのですか。それでは私への口上に対しても、貴方男子の一分(いちぶん)が立たんで御座いませう。何為(なぜ)成敗は遊ばしません。さあ、私決(け)してもう二度と貴方には何も申しませんから、貴方もこの女を見事に成敗遊ばしまし。さもなければ、私も立ちませんです。
 間さん、どう遊ばしたので御座いますね、早く何とか遊ばして、貴方も男子の一分をお立てなさらんければ済まんところでは御座いませんか。私ここで拝見致してをりますから、立派に遣つて御覧あそばせ。卒(いざ)と云ふ場で貴方の腕が鈍つても、決して為損(しそん)じの無いやうに、私好(よ)い刃物(きれもの)をお貸し申しませう。さあ、間さん、これをお持ち遊ばせ」
 彼の懐(ふところ)を出でたるは蝋塗(ろぬり)の晃(きらめ)く一口(いつこう)の短刀なり。貫一はその殺気に撲(うた)れて一指をも得動かさず、空(むなし)く眼(まなこ)を輝(かがやか)して満枝の面(おもて)を睨(にら)みたり。宮ははや気死せるか、推伏(おしふ)せられたるままに声も無し。
「さあ、私かうして抑へてをりますから、吭(のど)なり胸なり、ぐつと一突(ひとつき)に遣(や)つてお了(しま)ひ遊ばせ。ええ、もう貴方は何を遅々(ぐづぐづ)してゐらつしやるのです。刀の持様(もちやう)さへ御存じ無いのですか、かうして抜いて!」
 と片手ながらに一揮(ひとふり)揮(ふ)れば、鞘(さや)は発矢(はつし)と飛散つて、電光袂(たもと)を廻(めぐ)る白刃(しらは)の影は、忽(たちま)ち飜(ひるがへ)つて貫一が面上三寸の処に落来(おちきた)れり。
「これで突けば可(よ)いのです」
「…………」
「さては貴方はこんな女に未(ま)だ未練が有つて、息の根を止めるのが惜くてゐらつしやるので御座いますね。殺して了はうと思ひながら、手を下す事が出来んのですね。私代つて殺して上げませう。何の雑作も無い事。些(ちよつ)と御覧あそばせな」
 言下(ごんか)に勿焉(こつえん)と消えし刃(やいば)の光は、早くも宮が乱鬢(らんびん)を掠(かす)めて顕(あらは)れぬ。※呀(あなや)と貫一の号(さけ)ぶ時、妙(いし)くも彼は跂起(はねお)きざまに突来る鋩(きつさき)を危(あやふ)く外(はづ)して、
「あれ、貫一さん!」
 と満枝の手首に縋(すが)れるまま、一心不乱の力を極(きは)めて捩伏(ねぢふ)せ捩伏(ねぢふ)せ、仰様(のけざま)に推重(おしかさな)りて仆(たふ)したり。
「貫、貫一さん、早く、早くこの刀を取つて下さい。さうして私を殺して下さい——貴方の手に掛けて殺して下さい。私は貴方の手に掛つて死ぬのは本望です。さあ、早く殺して、私は早く死にたい。貴方の手に掛つて死にたいのですから、後生だから一思(ひとおもひ)に殺して下さい!」
 この恐るべき危機に瀕(ひん)して、貫一は謂知(いひし)らず自ら異(あやし)くも、敢(あへ)て拯(すくひ)の手を藉(か)さんと為るにもあらで、しかも見るには堪へずして、空(むなし)く悶(もだ)えに悶えゐたり。必死と争へる両箇(ふたり)が手中の刃(やいば)は、或(あるひ)は高く、或は低く、右に左に閃々(せんせん)として、あたかも一鉤(いつこう)の新月白く風の柳を縫(ぬ)ふに似たり。
「貫一さん、貴方は私を見殺(みごろし)になさるのですか。どうでもこの女の手に掛けて殺すのですか! 私は命は惜くはないが、この女に殺されるのは悔(くやし)い! 悔い!! 私は悔い!!」
 彼は乱せる髪を夜叉(やしや)の如く打振り打振り、五体(ごたい)を揉(も)みて、唇(くちびる)の血を噴きぬ。彼も殺さじ、これも傷(きずつ)けじと、貫一が胸は車輪の廻(めぐ)るが若(ごと)くなれど、如何(いか)にせん、その身は内より不思議の力に緊縛(きんばく)せられたるやうにて、逸(はや)れど、躁(あせ)れど、寸分の微揺(ゆるぎ)を得ず、せめては声を立てんと為れば、吭(のんど)は又塞(ふさが)りて、銕丸(てつがん)を啣(ふく)める想(おもひ)。
 力も今は絶々に、はや危(あやふ)しと宮は血声を揚げて、
「貴方が殺して下さらなければ、私は自害して死にますから、貫一さん、この刀を取つて、私の手に持せて下さい。さ、早く、貫一さん、後生です、さ、さ、さあ取つて下さい」
 又激く捩合(ねぢあ)ふ郤含(はずみ)に、短刀は戞然(からり)と落ちて、貫一が前なる畳に突立(つつた)つたり。宮は虚(すか)さず躍(をど)り被(かか)りて、我物得つと手に為れば、遣らじと満枝の組付くを、推隔(おしへだ)つる腋(わき)の下より後突(うしろづき)に、※(つか)も透(とほ)れと刺したる急所、一声号(さけ)びて仰反(のけぞ)る満枝。鮮血! 兇器! 殺傷! 死体! 乱心! 重罪! 貫一は目も眩(く)れ、心も消ゆるばかりなり。宮は犇(ひし)と寄添ひて、
「もうこの上はどうで私は無い命です。お願ですから、貫一さん、貴方の手に掛けて殺して下さい。私はそれで貴方に赦(ゆる)された積で喜んで死にますから。貴方もどうぞそれでもう堪忍(かんにん)して、今までの恨は霽(はら)して下さいまし、よう、貫一さん。私がこんなに思つて死んだ後までも、貴方が堪忍して下さらなければ、私は生替(いきかはり)死替(しにかはり)して七生(しちしよう)まで貫一さんを怨(うら)みますよ。さあ、それだから私の迷はないやうに、貴方の口からお念仏を唱(とな)へて、これで一思ひに、さあ貫一さん、殺して下さい」
 朱(あけ)に染みたる白刃(しらは)をば貫一が手に持添へつつ、宮はその可懐(なつかし)き拳(こぶし)に頻回(あまたたび)頬擦(ほほずり)したり。
「私はこれで死んで了へば、もう二度とこの世でお目に掛ることは無いのですから、せめて一遍の回向(えこう)をして下さると思つて、今はの際(きは)で唯一言(ただひとこと)赦して遣ると有仰(おつしや)つて下さい。生きてゐる内こそどんなにも憎くお思ひでせうけれど、死んで了へばそれつきり、罪も恨も残らず消えて土に成つて了ふのです。私はかうして前非を後悔して、貴方の前で潔く命を捨てるのも、その御詑(おわび)が為たいばかりなのですから、貫一さん、既往(これまで)の事は水に流して、もう好い加減に堪忍して下さいまし。よう、貫一さん、貫一さん!
 今思へばあの時の不心得が実に悔(くやし)くて悔くて、私は何とも謂ひやうが無い! 貴方が涙を零(こぼ)して言つて下すつた事も覚えてゐます。後来(のちのち)きつと思中(おもひあた)るから、今夜の事を忘れるなとお言ひの声も、今だに耳に付いてゐるわ。私の一図の迷とは謂ひながら何為(なぜ)あの時に些少(すこし)でも気が着かなかつたか。愚(おろか)な自分を責めるより外は無いけれど、死んでもこんな回復(とりかへし)の付かない事を何で私は為ましたらう! 貫一さん、貴方の罰(ばち)が中(あた)つたわ! 私は生きてゐる空(そら)が無い程、貴方の罰が中つたのだわ! だから、もうこれで堪忍して下さい。よ、貫一さん。
 さうしてとてもこの罰の中つた躯(からだ)では、今更どうかうと思つても、願なんぞの※(かな)ふと云ふのは愚な事、未(ま)だ未だ憂目(うきめ)を見た上に思死(おもひじに)に死にでも為なければ、私の業(ごう)は滅(めつ)しないのでせうから、この世に未練は沢山有るけれど、私は早く死んで、この苦艱(くげん)を埋(う)めて了つて、さうして早く元の浄(きよ)い躯(からだ)に生れ替(かは)つて来たいのです。さう為たら、私は今度の世には、どんな艱難辛苦(かんなんしんく)を為ても、きつと貴方に添遂(そひと)げて、この胸に一杯思つてゐる事もすつかり善く聴いて戴(いただ)き、又この世で為遺(しのこ)した事もその時は十分為てお目に掛けて、必ず貴方にも悦(よろこ)ばれ、自分も嬉(うれし)い思を為て、この上も無い楽い一生を送る気です。今度の世には、貫一さん、私は決してあんな不心得は為ませんから、貴方も私の事を忘れずにゐて下さい。可(よ)うござんすか! きつと忘れずにゐて下さいよ。
 人は最期(さいご)の一念で生(しよう)を引くと云ふから、私はこの事ばかり思窮(おもひつ)めて死にます。貫一さん、この通だから堪忍して!」
 声震はせて縋(すが)ると見れば、宮は男の膝(ひざ)の上なる鋩(きつさき)目掛けて岸破(がば)と伏したり。
「や、行(や)つたな!」
 貫一が胸は劈(つんざ)けて始てこの声を出(いだ)せるなり。
「貫一さん!」
 無残やな、振仰ぐ宮が喉(のんど)は血に塗(まみ)れて、刃(やいば)の半(なかば)を貫けるなり。彼はその手を放たで苦き眼(まなこ)を※(みひら)きつつ、男の顔を視(み)んと為るを、貫一は気も漫(そぞろ)に引抱(ひつかか)へて、
「これ宮、貴様は、まあこれは何事だ!」
 大事の刃を抜取らんと為れど、一念凝(こ)りて些(ちと)も弛(ゆる)めぬ女の力。
「これを放せ、よ、これを放さんか。さあ、放せと言ふに、ええ、何為(なぜ)放さんのだ」
「貫、貫一さん」
「おお、何だ」
「私は嬉い。もう……もう思遺(おもひのこ)す事は無い。堪忍して下すつたのですね」
「まあ、この手を放せ」
「放さない! 私はこれで安心して死ぬのです。貫一さん、ああ、もう気が遠く成つて来たから、早く、早く、赦(ゆる)すと言つて聞せて下さい。赦すと、赦すと言つて!」
 血は滾々(こんこん)と益す流れて、末期(まつご)の影は次第に黯(くら)く逼(せま)れる気色。貫一は見るにも堪(た)へず心乱れて、
「これ、宮、確乎(しつかり)しろよ」
「あい」
「赦したぞ! もう赦した、もう堪……堪……堪忍……した!」
「貫一さん!」
「宮!」
「嬉い! 私は嬉い!」
 貫一は唯胸も張裂けぬ可く覚えて、言(ことば)は出(い)でず、抱(いだ)き緊(し)めたる宮が顔をば紛(はふ)り下つる熱湯の涙に浸して、その冷たき唇(くちびる)を貪(むさぼ)り吮(す)ひぬ。宮は男の唾(つばき)を口移(くちうつし)に辛(から)くも喉(のど)を潤(うるほ)して、
「それなら貫一さん、私は、吁(ああ)、苦(くるし)いから、もうこれで一思ひに……」
 と力を出(いだ)して刳(えぐ)らんと為るを、緊(しか)と抑へて貫一は、
「待て、待て待て! ともかくもこの手を放せ」
「いいえ、止めずに」
「待てと言ふに」
「早く死にたい!」
 漸(やうや)く刀を※放(もぎはな)せば、宮は忽(たちま)ち身を回(かへ)して、輾(こ)けつ転(ころ)びつ座敷の外に脱(のが)れ出づるを、
「宮、何処(どこ)へ行く!」
 遣(や)らじと伸(の)べし腕(かひな)は逮(およ)ばず、苛(いら)つて起ちし貫一は唯一掴(ひとつかみ)と躍り被(かか)れば、生憎(あやにく)満枝が死骸(しがい)に躓(つまづ)き、一間ばかり投げられたる其処(そこ)の敷居に膝頭(ひざがしら)を砕けんばかり強く打れて、※(のめ)りしままに起きも得ず、身を竦(すく)めて呻(うめ)きながらも、
「宮、待て! 言ふことが有るから待て! 豊、豊! 豊は居ないか。早く追掛けて宮を留めろ!」
 呼べど号(さけ)べど、宮は返らず、老婢は居らず、貫一は阿修羅(あしゆら)の如く憤(いか)りて起ちしが、又仆(たふ)れぬ。仆れしを漸く起回(おきかへ)りて、忙々(いそがはし)く四下(あたり)を※(みまは)せど、はや宮の影は在らず。その歩々(ほほ)に委(おと)せし血は苧環(をだまき)の糸を曳きたるやうに長く連(つらな)りて、畳より縁に、縁より庭に、庭より外に何処(いづこ)まで、彼は重傷(いたで)を負ひて行くならん。
 磐石(ばんじやく)を曳くより苦く貫一は膝の疼痛(いたみ)を怺(こら)へ怺へて、とにもかくにも塀外(へいそと)に※(よろぼ)ひ出づれば、宮は未(いま)だ遠くも行かず、有明(ありあけ)の月冷(つきひやや)かに夜は水の若(ごと)く白(しら)みて、ほのぼのと狭霧罩(さぎりこ)めたる大路の寂(せき)として物の影無き辺(あたり)を、唯独(ひと)り覚束無(おぼつかな)げに走れるなり。
「宮! 待て!」
 呼べば谺(こだま)は返せども、雲は幽(ゆう)にして彼は応(こた)へず。歯咬(はがみ)を作(な)して貫一は後を追ひぬ。
 固(もと)より間(あはひ)は幾許(いくばく)も有らざるに、急所の血を出(いだ)せる女の足取、引捉(ひつとら)ふるに何程の事有らんと、侮(あなど)りしに相違して、彼は始の如く走るに引易(ひきか)へ、此方(こなた)は漸く息疲(いきつか)るるに及べども、距離は竟(つひ)に依然として近(ちかづ)く能はず。こは口惜(くちを)し、と貫一は満身の力を励し、僵(たふ)るるならば僵れよと無二無三に走りたり。宮は猶脱(なほのが)るるほどに、帯は忽(たちま)ち颯(さ)と釈(と)けて脚(あし)に絡(まと)ふを、右に左に※払(けはら)ひつつ跌(つまづ)きては進み、行きては踉(よろめ)き、彼もはや力は竭(つ)きたりと見えながら、如何(いか)に為(せ)ん、其処(そこ)に伏して復(また)起きざる時、躬(みづから)も終(つひ)に及ばずして此処(ここ)に絶入(ぜつにゆう)せんと思へば、貫一は今に当りて纔(わづか)に声を揚ぐるの術(じゆつ)を余すのみ。
「宮!」と奮(ふる)つて呼びしかど、憫(あはれ)むべし、その声は苦き喘(あへぎ)の如き者なりき。我と吾肉を啖(くら)はんと想ふばかりに躁(あせ)れども、貫一は既に声を立つべき力をさへ失へるなり。さては効無(かひな)き己(おのれ)に憤(いかり)を作(な)して、益す休まず狂呼(きようこ)すれば、彼の吭(のんど)は終に破れて、汨然(こつぜん)として一涌(いちゆう)の鮮紅(せんこう)を嘔出(はきいだ)せり。心晦(こころくら)みて覚えず倒れんとする耳元に、松風(まつかぜ)驀然(どつ)と吹起りて、吾に復(かへ)れば、眼前の御壕端(おほりばた)。只看(み)る、宮は行き行きて生茂(おひしげ)る柳の暗きに分入りたる、入水(じゆすい)の覚悟に極(きはま)れりと、貫一は必死の声を搾(しぼ)りて連(しきり)に呼べば、咳入(せきい)り咳入り数口(すうこう)の咯血(かつけつ)、斑爛(はんらん)として地に委(お)ちたり。何思ひけん、宮は千条(ちすぢ)の緑の陰より、その色よりは稍(やや)白き面(おもて)を露(あらは)して、追来る人を熟(じ)と見たりしが、竟(つひ)に疲れて起きも得ざる貫一の、唯手を抗(あ)げて遙(はるか)に留(と)むるを、免(ゆる)し給へと伏拝(ふしをが)みて、つと茂の中(うち)に隠れたり。
 彼は己(おのれ)の死ぬべきを忘れて又起てり。駈寄(かけよ)る岸の柳を潜(くぐ)りて、水は深きか、宮は何処(いづこ)に、と葎(むぐら)の露に踏滑(ふみすべ)る身を危(あやふ)くも淵(ふち)に臨めば、※鞳(どうとう)と瀉(そそ)ぐ早瀬の水は、駭(おどろ)く浪(なみ)の体(たい)を尽(つく)し、乱るる流の文(ぶん)を捲(ま)いて、眼下に幾個の怪き大石(たいせき)、かの鰲背(ごうはい)を聚(あつ)めて丘の如く、その勢(いきほひ)を拒(ふせ)がんと為れど、触るれば払ひ、当れば飜(ひるがへ)り、長波の邁(ゆ)くところ滔々(とうとう)として破らざる為(な)き奮迅(ふんじん)の力は、両岸も為に震ひ、坤軸(こんじく)も為に轟(とどろ)き、蹈居(ふみゐ)る土も今にや崩(くづ)れなんと疑ふところ、衣袂(いべい)の雨濃(あめこまやか)に灑(そそ)ぎ、鬢髪(びんぱつ)の風転(うた)た急なり。
 あな凄(すさま)じ、と貫一は身毛(みのけ)も弥竪(よだ)ちて、縋(すが)れる枝を放ちかねつつ、看れば、叢(くさむら)の底に秋蛇(しゆうだ)の行くに似たる径(こみち)有りて、ほとほと逆落(さかおとし)に懸崖(けんがい)を下(くだ)るべし。危(あやふ)き哉(かな)と差覗(さしのぞ)けば、茅葛(かやかつら)の頻(しきり)に動きて、小笹棘(をざさうばら)に見えつ隠れつ段々と辷(すべ)り行くは、求むる宮なり。
 その死を止(とど)めんの一念より他(た)あらぬ貫一なれば、かくと見るより心も空に、足は地を踏む遑(いとま)もあらず、唯遅れじと思ふばかりよ、壑間(たにま)の嵐(あらし)の誘ふに委(まか)せて、驀直(ましぐら)に身を堕(おと)せり。
 或(あるひ)は摧(くだ)けて死ぬべかりしを、恙無(つつがな)きこそ天の佑(たすけ)と、彼は数歩の内に宮を追ひしが、流に浸(ひた)れる巌(いはほ)を渉(わた)りて、既に渦巻く滝津瀬(たきつせ)に生憎(あやにく)! 花は散りかかるを、
「宮!」
 と後(うしろ)に呼ぶ声残りて、前には人の影も在らず。
 咄嗟(とつさ)の遅(おくれ)を天に叫び、地に号(わめ)き、流に悶(もだ)え、巌に狂へる貫一は、血走る眼(まなこ)に水を射て、此処(ここ)や彼処(かしこ)と恋(こひし)き水屑(みくづ)を覓(もと)むれば、正(まさし)く浮木芥(うきぎあくた)の類とも見えざる物の、十間(じつけん)ばかり彼方(あなた)を揉みに揉んで、波間隠(なみまがくれ)に推流(おしなが)さるるは、人ならず哉(や)、宮なるかと瞳(ひとみ)を定むる折しもあれ、水勢其処(そこ)に一段急なり、在りける影は弦(つる)を放れし箭飛(やとび)を作(な)して、行方(ゆくへ)も知らずと胸潰(むねつぶ)るれば、忽(たちま)ち遠く浮き出でたり。
 嬉しやと貫一は、道無き道の木を攀(よ)ぢ、崖(がけ)を伝ひ、或(あるひ)は下りて水を踰(こ)え、石を躡(ふ)み、巌を廻(めぐ)り、心地死ぬべく踉蹌(ろうそう)として近(ちかづ)き見れば、緑樹(りよくじゆ)蔭愁(かげうれ)ひ、潺湲(せんかん)声咽(こゑむせ)びて、浅瀬に繋(かか)れる宮が骸(むくろ)よ!
 貫一は唯その上に泣伏したり。
 吁(ああ)、宮は生前に於(おい)て纔(わづか)に一刻の前(さき)なる生前に於て、この情(なさけ)の熱き一滴を幾許(いかばかり)かは忝(かたじけ)なみけん。今や千行垂(せんこうた)るといへども効無(かひな)き涙は、徒(いたづら)に無心の死顔に濺(そそ)ぎて宮の魂(こん)は知らざるなり。
 貫一の悲(かなしみ)は窮(きはま)りぬ。
「宮、貴様は死……死……死んだのか。自殺を為るさへ可哀(あはれ)なのに、この浅ましい姿はどうだ。
 刃(やいば)に貫き、水に溺(おぼ)れ、貴様はこれで苦くはなかつたか。可愛(かはい)い奴め、思迫(おもひつ)めたなあ!
 宮、貴様は自殺を為た上身を投げたのは、一つの死では慊(あきた)らずに、二つ命を捨てた気か。さう思つて俺は不敏(ふびん)だ!
 どんな事が有らうとも、貴様に対するあの恨は決して忘れんと誓つたのだ。誓つたけれども、この無残な死状(しにざま)を見ては、罪も恨(うらみ)も皆消えた! 赦したぞ、宮! 俺(おれ)は心の底から赦したぞ!
 今はの際(きは)に赦したと、俺が一言(ひとこと)云つたらば、あの苦い息の下から嬉いと言つたが、宮、貴様は俺に赦されるのがそんなに嬉いのか。好く後悔した! 立派な悔悟だぞ!!
 余り立派で、貫一は恥入つた! 宮、俺は面目(めんもく)無い! これまでの精神とは知らずに見殺(みごろし)に為たのは残念だつた! 俺が過(あやまり)だ! 宮、赦してくれよ! 可(い)いか、宮、可いか。
 嗚呼(ああ)死んで了ったのだ!!!」
 貫一は彼の死の余りに酷(むご)く、余りに潔きを見て、不貞の血は既に尽(ことごと)く沃(そそ)がれ、旧悪の膚(はだへ)は全く洗れて、残れる者は、悔の為に、誠の為に、己(おのれ)の為に捨てたる亡骸(なきがら)の、実(げ)に憐(あはれ)みても憐むべく、悲みても猶(なほ)及ばざる思の、今は唯極(きは)めて切なる有るのみ。
 かの烈々(れつれつ)たる怨念(おんねん)の跡無く消ゆるとともに、一旦涸(か)れにし愛慕の情は又泉の涌(わ)くらんやうに起りて、その胸に漲(みなぎ)りぬ。苦からず哉(や)、人亡(な)き後の愛慕は、何の思かこれに似る者あらん。彼はなかなか生ける人にこそ如何(いか)なる恨をも繋(か)くるの忍び易(やす)きを今ぞ知るなる。
 貫一は腸断(ちようた)ち涙連(なみだつらな)りて、我を我とも覚ゆる能はず。
「宮、貴様に手向(たむ)けるのは、俺のこの胸の中(うち)だ。これで成仏してくれ、よ。この世の事はこれまでだ、その代り今度の世には、貴様の言つた通り、必ず夫婦に成つて、百歳(ひやく)までも添(そひ)、添、添遂(そひと)げるぞ! 忘れるな、宮。俺も忘れん! 貴様もきつと覚えてゐろよ!」
 氷の如き宮が手を取り、犇(ひし)と握りて、永く眠れる面(おもて)を覗(のぞ)かんと為れば、涙急にして文色(あいろ)も分かず、推重(おしかさな)りて、怜(いと)しやと身を悶(もだ)えつつ少時(しばし)泣いたり。
「然し、宮、貴様は立派な者だ。一(ひとた)び罪を犯しても、かうして悔悟して自殺を為たのは、実に見上げた精神だ。さうなけりや成らん、天晴(あつぱれ)だぞ。それでこそ始て人間たるの面目(めんもく)が立つのだ。
 然るに、この貫一はどうか! 一端(いつぱし)男と生れながら、高が一婦(いつぷ)の愛を失つたが為に、志を挫(くぢ)いて一生を誤り、餓鬼(がき)の如き振舞(ふるまひ)を為て恥とも思はず、非道を働いて暴利を貪(むさぼ)るの外は何も知らん。その財(かね)は何に成るのか、何の為にそんな事を為るのか。
 凡(およ)そ人と謂(い)ふ者には、人として必ず尽すべき道が有る。己(おのれ)と云ふ者の外に人の道と云ふ者が有るのだ。俺はその道を尽してゐるか、尽さうと為てゐるか、思つた女と添ふ事が出来ん。唯それだけの事に失望して了つて、その失望の為に、苟(いやし)くも男と生れた一生を抛(なげう)たうと云ふのだ。人たるの効(かひ)は何処(どこ)に在る、人たる道はどうしたのか。
 噫(ああ)、誤つた!
 宮、貴様が俺に対して悔悟するならば、俺は人たるの道に対して悔悟しなけりや済まん躯(からだ)だ。貴様がかうして立派に悔悟したのを見て、俺は実に愧入(はぢい)りも為(す)りや、可羨(うらやまし)くもある。当初(はじめ)貴様に棄てられた為に、かう云ふ堕落をした貫一ならば、貴様の悔悟と共に俺も速(すみや)かに心を悛(あらた)めて、人たるの道に負ふところのこの罪を贖(つぐな)はなけりや成らん訳だ。
 嗟乎(ああ)、然し、何に就(つ)けても苦(くるし)い世の中だ!
 人間の道は道、義務は義務、楽(たのしみ)は又楽で、それも無けりや立たん。俺も鴫沢(しぎさわ)に居て宮を対手(あいて)に勉強してをつた時分は、この人世と云ふ者は唯面白い夢のやうに考へてゐた。
 あれが浮世なのか、これが浮世なのか。
 爾来(あれから)、今日(こんにち)までの六年間、人らしい思を為た日は唯の一日でも無かつた。それで何が頼(たのみ)で俺は活きてゐたのか。死を決する勇気が無いので活きてゐたやうなものだ! 活きてゐたのではない、死損(しにぞくな)つてゐたのだ!!
 鰐淵(わにぶち)は焚死(やけし)に、宮は自殺した、俺はどう為(す)るのか。俺のこの感情の強いのでは、又向来(これから)宮のこの死顔が始終目に着いて、一生悲い思を為なければ成らんのだらう。して見りや、今までよりは一層苦(くるしみ)を受けるのは知れてゐる。その中で俺は活きてゐて何を為るのか。
 人たるの道を尽す? 人たるの行(おこなひ)を為る? ああ、※(うるさ)い、※い! 人としてをればこそそんな義務も有る、人でなくさへあれば、何も要らんのだ。自殺して命を捨てるのは、一(いつ)の罪悪だと謂(い)ふ。或(あるひ)は罪悪かも知れん。けれども、茫々然(ぼうぼうぜん)と呼吸してゐるばかりで、世間に対しては何等(なにら)の益するところも無く、自身に取つてはそれが苦痛であるとしたら、自殺も一種の身始末(みじまつ)だ。増(ま)して、俺が今死ねば、忽(たちま)ち何十人の人が助り、何百人の人が懽(よろこ)ぶか知れん。
 俺も一箇(ひとり)の女故(ゆゑ)に身を誤つたその余(あと)が、盗人(ぬすと)家業の高利貸とまで堕落してこれでやみやみ死んで了ふのは、余り無念とは思ふけれど、当初(はじめ)に出損(でそくな)つたのが一生の不覚、あれが抑(そもそ)も不運の貫一の躯(からだ)は、もう一遍鍛直(きたへなほ)して出て来るより外(ほか)為方が無い。この世の無念はその時霽(はら)す!」
 さしも遣る方無く悲(かなし)めりし貫一は、その悲を立(たちどこ)ろに抜くべき術(すべ)を今覚れり。看々(みるみる)涙の頬(ほほ)の乾(かわ)ける辺(あたり)に、異(あやし)く昂(あが)れる気有(きあ)りて青く耀(かがや)きぬ。
「宮、待つてゐろ、俺も死ぬぞ! 貴様の死んでくれたのが余り嬉いから、さあ、貫一の命も貴様に遣る! 来世(らいせ)で二人が夫婦に成る、これが結納(ゆひのう)だと思つて、幾久(いくひさし)く受けてくれ。貴様も定めて本望だらう、俺も不足は少しも無いぞ」
 さらば往きて汝(なんぢ)の陥りし淵(ふち)に沈まん。沈まば諸共(もろとも)と、彼は宮が屍(かばね)を引起して背(うしろ)に負へば、その軽(かろ)きこと一片(ひとひら)の紙に等(ひと)し。怪(あや)しと見返れば、更に怪し! 芳芬(ほうふん)鼻を撲(う)ちて、一朶(いちだ)の白百合(しろゆり)大(おほい)さ人面(じんめん)の若(ごと)きが、満開の葩(はなびら)を垂れて肩に懸(かか)れり。
 不思議に愕(おどろ)くと為れば目覚(めさ)めぬ。覚むれば暁の夢なり。



底本:「金色夜叉」新潮文庫、新潮社
   1969(昭和44)年11月10日 第1刷発行
   1998(平成10)年1月15日 第39刷発行
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
ファイル作成:かとうかおり
2000年2月23日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



【表記について】

本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。
血眼(ちまなこ)を※(みひら)き
眼(まなこ)を※(みは)れり
立てるままに目を※(みは)りつ
洗ひ※(ざら)して
形※(かたちや)せたり
※々(さんさん)と
耳の根にも※(およ)びぬ
※(こがらし)
※(よろめ)きつつ
※(よろめ)ける
※(よろぼ)ひ出づれば
※却(さんきやく)して
※却(しやくきやく)して
※却(たたきき)つて
※(よわごし)
※(くも)れる
襞※(ひだ)
打※(うちのめ)して
打※(うちのめ)してくれやう
※(のめ)りしままに
※(さす)つて
目を※(そら)しつつ
夜を※(ひ)に
※(はぶし)
引※(ひきつくろ)ひ
溜息(ためいき)※(つ)きて
 太息(ためいき)※(つ)くのみ
※(のが)さざるなり
※(のが)さじと
差※(さしく)べければ
読※(よみがら)
※(はた)と
※児(マッチ)
※(あが)るものは
※(わな)に
※(ささ)げたるままに
傘(かさ)も※(さ)さで
悔は切に※(まつは)るも
満枝に※(まつは)らるる
虚(すか)さず※(まつは)りて
腫※(はれまぶた)
連※(しばたた)きつつ
※(つか)へたる手とを
手を※(つか)へて
※(き)と
※(みむか)ふる
身※(みづくろい)して
※(えん)なる
※(わきあけ)
※々(つかつか)と
※(はげし)きを
※(はげし)く
※(ばか)な事を
※(かく)しなさる
※(わざはひ)
※(うるさ)い奴だと
※(うるさ)がられる訳は
※(うるさ)いと思召すのが
※(うるさ)いでせう
※くして上げるのです
ああ、※(うるさ)い、※い!
私の願の※(かな)ふ事は
※(かな)はない願が※ふ
願なんぞの※(かな)ふ
※放(もぎはな)して
※呀(あなや)
※(つか)も
眼(まなこ)を※(みひら)きつつ
※放(もぎはな)せば
四下(あたり)を※(みまは)せど
※払(けはら)ひつつ
※鞳(どうとう)と