金色夜叉(こんじきやしや)

尾崎紅葉




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     第 一 章

 新橋停車場(しんばしステエション)の大時計は四時を過(すぐ)ること二分余(よ)、東海道行の列車は既に客車の扉(とびら)を鎖(さ)して、機関車に烟(けふり)を噴(ふか)せつつ、三十余輛(よりよう)を聯(つら)ねて蜿蜒(えんえん)として横(よこた)はりたるが、真承(まうけ)の秋の日影に夕栄(ゆふばえ)して、窓々の硝子(ガラス)は燃えんとすばかりに耀(かがや)けり。駅夫は右往左往に奔走して、早く早くと喚(わめ)くを余所(よそ)に、大蹈歩(だいとうほ)の寛々(かんかん)たる老欧羅巴(エウロッパ)人は麦酒樽(ビイルだる)を窃(ぬす)みたるやうに腹突出(つきいだ)して、桃色の服着たる十七八の娘の日本の絵日傘(ゑひがさ)の柄(え)に橙(オレンジ)色のリボンを飾りたるを小脇(こわき)にせると推並(おしなら)び、おのれが乗物の顔して急ぐ気色(けしき)も無く過(すぐ)る後より、蚤取眼(のみとりまなこ)になりて遅れじと所体頽(しよたいくづ)して駈来(かけく)る女房の、嵩高(かさだか)なる風呂敷包を抱(いだ)くが上に、四歳(よつ)ほどの子を背負ひたるが、何処(どこ)の扉も鎖したるに狼狽(うろた)ふるを、車掌に強曳(しよぴか)れて漸(やうや)く安堵(あんど)せる間(ま)も無く、青洟垂(あをばなたら)せる女の子を率ゐて、五十余(あまり)の老夫(おやぢ)のこれも戸惑(とまどひ)して往(ゆ)きつ復(もど)りつせし揚句(あげく)、駅夫に曳(ひか)れて室内に押入れられ、如何(いか)なる罪やあらげなく閉(た)てらるる扉に袂(たもと)を介(はさ)まれて、もしもしと救(すくひ)を呼ぶなど、未(いま)だ都を離れざるにはや旅の哀(あはれ)を見るべし。
 五人一隊の若き紳士等は中等室の片隅(かたすみ)に円居(まどゐ)して、その中に旅行らしき手荷物を控へたるは一人よりあらず、他は皆横浜までとも見ゆる扮装(いでたち)にて、紋付の袷羽織(あはせはおり)を着たるもあれば、精縷(セル)の背広なるもあり、袴(はかま)着けたるが一人、大島紬(おほしまつむぎ)の長羽織と差向へる人のみぞフロックコオトを着て、待合所にて受けし餞別(せんべつ)の瓶(びん)、凾(はこ)などを網棚(あみだな)の上に片附けて、その手を摩払(すりはら)ひつつ窓より首を出(いだ)して、停車場(ステエション)の方(かた)をば、求むるものありげに望見(のぞみみ)たりしが、やがて藍(あゐ)の如き晩霽(ばんせい)の空を仰ぎて、
「不思議に好い天気に成つた、なあ。この分なら大丈夫じや」
「今晩雨になるのも又一興だよ、ねえ、甘糟(あまかす)」
 黒餅(こくもち)に立沢瀉(たちおもだか)の黒紬(くろつむぎ)の羽織着たるがかく言ひて示すところあるが如き微笑を洩(もら)せり。甘糟と呼れたるは、茶柳条(ちやじま)の仙台平(せんだいひら)の袴を着けたる、この中にて独(ひと)り頬鬚(ほほひげ)の厳(いかめし)きを蓄(たくは)ふる紳士なり。
 甘糟の答ふるに先(さきだ)ちて、背広の風早(かざはや)は若きに似合はぬ皺嗄声(しわがれごゑ)を振搾(ふりしぼ)りて、
「甘糟は一興で、君は望むところなのだらう」
「馬鹿言へ。甘糟の痒(かゆ)きに堪(た)へんことを僕は丁(ちやん)と洞察(どうさつ)してをるのだ」
「これは憚様(はばかりさま)です」
 大島紬の紳士は黏着(へばりつ)いたるやうに靠(もた)れたりし身を遽(にはか)に起して、
「風早、君と僕はね、今日は実際犠牲に供されてゐるのだよ。佐分利(さぶり)と甘糟は夙(かね)て横浜を主張してゐるのだ。何でもこの間遊仙窟(ゆうせんくつ)を見出して来たのだ。それで我々を引張つて行つて、大いに気焔(きえん)を吐く意(つもり)なのさ」
「何じやい、何じやい! 君達がこの二人に犠牲に供されたと謂(い)ふなら、僕は四人の為に売られたんじや。それには及ばんと云ふのに、是非浜まで見送ると言うで、気の毒なと思うてをつたら、僕を送るのを名として君達は……怪(け)しからん事(こつ)たぞ。学生中からその方は勉強しをつた君達の事ぢやから、今後は実に想遣(おもひや)らるるね。ええ、肩書を辱(はづかし)めん限は遣るも可(よ)からうけれど、注意はしたまへよ、本当に」
 この老実の言(げん)を作(な)すは、今は四年(よとせ)の昔間貫一(はざまかんいち)が兄事(けいじ)せし同窓の荒尾譲介(あらおじようすけ)なりけり。彼は去年法学士を授けられ、次いで内務省試補に挙(あ)げられ、踰えて一年の今日(こんにち)愛知県の参事官に栄転して、赴任の途に上れるなり。その齢(よはひ)と深慮と誠実との故(ゆゑ)を以つて、彼は他の同学の先輩として推服するところたり。
「これで僕は諸君へ意見の言納(いひをさめ)じや。願(ねがは)くは君達も宜(よろし)く自重してくれたまへ」
 面白く発(はや)りし一座も忽(たちま)ち白(しら)けて、頻(しきり)に燻(くゆ)らす巻莨(まきたばこ)の煙の、急駛(きゆうし)せる車の逆風(むかひかぜ)に扇(あふ)らるるが、飛雲の如く窓を逸(のが)れて六郷川(ろくごうがわ)を掠(かす)むあるのみ。
 佐分利は幾数回(あまたたび)頷(うなづ)きて、
「いやさう言れると慄然(ぞつ)とするよ、実は嚮(さつき)停車場(ステエション)で例の『美人(びじ)クリイム』(こは美人の高利貸を戯称せるなり)を見掛けたのだ。あの声で蜥蜴啖(とかげくら)ふかと思ふね、毎(いつ)見ても美いには驚嘆する。全(まる)で淑女(レディ)の扮装(いでたち)だ。就中(なかんづく)今日は冶(めか)してをつたが、何処(どこ)か旨(うま)い口でもあると見える。那奴(あいつ)に搾(しぼ)られちや克(かな)はん、あれが本当の真綿で首だらう」
「見たかつたね、それは。夙(かね)て御高名は聞及んでゐる」
 と大島紬(おほしまつむぎ)の猶(なほ)続けんとするを遮(さへぎ)りて、甘糟の言へる。
「おお、宝井が退学を吃(く)つたのも、其奴(そいつ)が債権者の重(おも)なる者だと云ふぢやないか。余程好い女ださうだね。黄金(きん)の腕環なんぞ篏(は)めてゐると云ふぢやないか。酷(ひど)い奴な! 鬼神のお松だ。佐分利はその劇なるを知りながら係(かか)つたのは、大いに冒険の目的があつて存するのだらうけれど、木乃伊(ミイラ)にならんやうに褌(ふんどし)を緊(し)めて掛るが可いぜ」
誰(たれ)か其奴(そいつ)には尻押(しりおし)が有るのだらう。亭主が有るのか、或(あるひ)は情夫(いろ)か、何か有るのだらう」
 皺嗄声(しわがれごゑ)は卒然としてこの問を発せるなり。
「それに就いては小説的の閲歴(ライフ)があるのさ、情夫(いろ)ぢやない、亭主がある、此奴(こいつ)が君、我々の一世紀前(ぜん)に鳴した高利貸(アイス)で、赤樫権三郎(あかがしごんざぶろう)と云つては、いや無法な強慾で、加ふるに大々的※物(いんぶつ)と来てゐるのだ」
「成程! 積極(しやくきよく)と消極と相触れたので爪(つめ)に火が※(とも)る訳だな」
 大島紬が得意の※浪(まぜかへし)に、深沈なる荒尾も已(や)むを得ざらんやうに破顔しつ。
「その赤樫と云ふ奴は貸金の督促を利用しては女を弄(もてあそ)ぶのが道楽で、此奴(こいつ)の為に汚(けが)された者は随分意外の辺(へん)にも在るさうな。そこで今の『美人(びじ)クリイム』、これもその手に罹(かか)つたので、原(もと)は貧乏士族の娘で堅気であつたのだが、老猾(おやぢ)この娘を見ると食指大いに動いた訳で、これを俘(とりこ)にしたさに父親に少しばかりの金を貸したのだ。期限が来ても返せん、それを何とも言はずに、後から後からと三四度も貸して置いて、もう好い時分に、内に手が無くて困るから、半月ばかり仲働(なかばたらき)に貸してくれと言出した。これはよしんば奴の胸中が見え透いてゐたからとて、勢ひ辞(ことわ)りかねる人情だらう。今から六年ばかり前の事で、娘が十九の年老猾(おやぢ)は六十ばかりの禿顱(はげあたま)の事だから、まさかに色気とは想はんわね。そこで内へ引張つて来て口説いたのだ。女房といふ者は無いので、怪しげな爨妾然(たきざはりぜん)たる女を置いてをつたのが、その内にいつか娘は妾同様になつたのはどうだい!」
 固唾(かたづ)を嚥(の)みたりし荒尾は思ふところありげに打頷(うちうなづ)きて、
「女といふ者はそんなものじやて」
 甘糟はその面(おもて)を振仰ぎつつ、
「驚いたね、君にしてこの言あるのは。荒尾が女を解釈せうとは想はなんだ」
「何故かい」
 佐分利の話を進むる折から、※車(きしや)は遽(にはか)に速力を加へぬ。
佐「聞えん聞えん、もつと大きな声で」
甘「さあ、御順にお膝繰(ひざくり)だ」
佐「荒尾、あの葡萄酒(ぶどうしゆ)を抜かんか、喉(のど)が渇(かわ)いた。これからが佳境に入(い)るのだからね」
甘「中銭(なかせん)があるのは酷(ひど)い」
佐「蒲田(かまだ)、君は好い莨(たばこ)を吃(す)つてゐるぢやないか、一本頂戴(ちようだい)」
甘「いや、図に乗ること。僕は手廻(てまはり)の物を片附けやう」
佐「甘糟、※児(マッチ)を持つてゐるか」
甘「そら、お出(いで)だ。持参いたしてをりまする仕合(しあはせ)で」
 佐分利は居長高(ゐたけだか)になりて、
些(ちよつ)と点(つ)けてくれ」
 葡萄酒の紅(くれなゐ)を啜(すす)り、ハヴァナの紫を吹きて、佐分利は徐(おもむろ)に語(ことば)を継ぐ、
所謂(いはゆる)一朶(いちだ)の梨花海棠(りかかいどう)を圧してからに、娘の満枝は自由にされて了(しま)つた訳だ。これは無論親父には内証だつたのだが、当座は荐(しき)つて帰りたがつた娘が、後には親父の方から帰れ帰れ言つても、帰らんだらう。その内に段々様子が知れたもので、侍形気(かたぎ)の親父は非常な立腹だ。子でない、親でないと云ふ騒になつたね。すると禿(はげ)の方から、妾だから不承知なのだらう、籍を入れて本妻に直すからくれろといふ談判になつた。それで逢つて見ると娘も、阿父(おとつ)さん、どうか承知して下さいは、親父益(ますま)す意外の益す不服だ。けれども、天魔に魅入られたものと親父も愛相(あいそ)を尽(つか)して、唯(ただ)一人の娘を阿父さん彼自身より十歳(とを)ばかりも老漢(おやぢ)の高利貸にくれて了つたのだ。それから満枝は益す禿の寵(ちよう)を得て、内政を自由にするやうになつたから、定めて生家(さと)の方へ貢(みつ)ぐと思の外、極(きめ)の給(もの)の外は塵葉(ちりつぱ)一本饋(や)らん。これが又禿の御意(ぎよい)に入つたところで、女め熟(つらつ)ら高利(アイス)の塩梅(あんばい)を見てゐる内に、いつかこの商売が面白くなつて来て、この身代(しんだい)我物と考へて見ると、一人の親父よりは金銭(かね)の方が大事、といふ不敵な了簡(りようけん)が出た訳だね」
「驚くべきものじやね」
 荒尾は可忌(いまは)しげに呟(つぶや)きて、稍(やや)不快の色を動(うごか)せり。
「そこで、敏捷(びんしよう)な女には違無い、自然と高利(アイス)の呼吸を呑込んで、後には手の足りん時には禿の代理として、何処(どこ)へでも出掛けるやうになつたのは益す驚くべきものだらう。丁度一昨年辺(あたり)から禿は中気が出て未(いま)だに動けない。そいつを大小便の世話までして、女の手一つで盛(さかん)に商売をしてゐるのだ。それでその前年かに親父は死んだのださうだが、板の間に薄縁(うすべり)を一板(いちまい)敷いて、その上で往生したと云ふくらゐの始末だ。病気の出る前などはろくに寄せ付けなんださうだがな、残刻と云つても、どう云ふのだか余り気が知れんぢやないかな——然(しか)し事実だ。で、禿はその通の病人だから、今ではあの女が独(ひとり)で腕を揮(ふる)つて益す盛に遣(や)つてゐる。これ則(すなは)ち『美人(びじ)クリイム』の名ある所以(ゆゑん)さ。
 年紀(とし)かい、二十五だと聞いたが、さう、漸(やうや)う二三とよりは見えんね。あれで可愛(かはゆ)い細い声をして物柔(ものやはらか)に、口数(くちかず)が寡(すくな)くつて巧い言(こと)をいふこと、恐るべきものだよ。銀貨を見て何処の国の勲章だらうなどと言ひさうな、誠に上品な様子をしてゐて、書替(かきかへ)だの、手形に願ふのと、急所を衝(つ)く手際(てぎは)の婉曲(えんきよく)に巧妙な具合と来たら、実に魔薬でも用ゐて人の心を痿(なや)すかと思ふばかりだ。僕も三度ほど痿(なや)されたが、柔能く剛を制すで、高利貸(アイス)には美人が妙! 那彼(あいつ)に一国を預ければ輙(すなは)ちクレオパトラだね。那彼には滅されるよ」
 風早は最も興を覚えたる気色(けしき)にて、
「では、今はその禿顱(はげ)は中風(ちゆうふう)で寐(ね)たきりなのだね、一昨年(をととし)から? それでは何か虫があるだらう。有る、有る、それくらゐの女で神妙にしてゐるものか、無いと見せて有るところがクレオパトラよ。然し、壮(さかん)な女だな」
「余り壮なのは恐れる」
 佐分利は頭(かしら)を抑(おさ)へて後様(うしろさま)に靠(もた)れつつ笑ひぬ。次いで一同も笑ひぬ。
 佐分利は二年生たりしより既に高利の大火坑に堕(お)ちて、今はしも連帯一判、取交(とりま)ぜ五口(いつくち)の債務六百四十何円の呵責(かしやく)に膏(あぶら)を取(とら)るる身の上にぞありける。次いでは甘糟の四百円、大島紬氏は卒業前にして百五十円、後(ご)に又二百円、無疵(むきず)なるは風早と荒尾とのみ。
 ※車は神奈川に着きぬ。彼等の物語をば笑(ゑま)しげに傍聴したりし横浜商人体(しようにんてい)の乗客は、幸(さいはひ)に無聊(ぶりよう)を慰められしを謝すらんやうに、懇(ねんごろ)に一揖(いつゆう)してここに下車せり。暫(しばら)く話の絶えける間(ひま)に荒尾は何をか打案ずる体(てい)にて、その目を空(むなし)く見据ゑつつ漫語(そぞろごと)のやうに言出(いひい)でたり。
「その後誰(たれ)も間(はざま)の事を聞かんかね」
「間貫一かい」と皺嗄声(しわかれごゑ)は問反(とひかへ)せり。
「おお、誰やらぢやつたね、高利貸(アイス)の才取(さいとり)とか、手代(てだい)とかしてをると言うたのは」
蒲「さうさう、そんな話を聞いたつけね。然し、間には高利貸(アイス)の才取は出来ない。あれは高利を貸すべく余り多くの涙を有つてゐるのだ」
 我が意を得つと謂(い)はんやうに荒尾は頷(うなづ)きて、猶(なほ)も思に沈みゐたり。佐分利と甘糟の二人はその頃一級先(さきだ)ちてありければ、間とは相識らざるなりき。
荒「高利貸(アイス)と云ふのはどうも妄(うそ)ぢやらう。全く余り多くの涙を有つてをる。惜い事をした、得難い才子ぢやつたものね。あれが今居らうなら……」
 彼は忍びやかに太息(ためいき)を泄(もら)せり。
「君達は今逢うても顔を見忘れはすまいな」
風「それは覚えてゐるとも。あれの峭然(ぴん)と外眥(めじり)の昂(あが)つた所が目標(めじるし)さ」
蒲「さうして髪(あたま)の癖毛(くせつけ)の具合がな、愛嬌(あいきよう)が有つたぢやないか。デスクの上に頬杖(ほほづゑ)を抂(つ)いて、かう下向になつて何時(いつ)でも真面目(まじめ)に講義を聴いてゐたところは、何処(どこ)かアルフレッド大王に肖(に)てゐたさ」
 荒尾は仰ぎて笑へり。
「君は毎(いつ)も妙な事を言ふ人ぢやね。アルフレッド大王とは奇想天外だ。僕の親友を古英雄に擬してくれた御礼に一盃(いつぱい)を献じやう」
蒲「成程、君は兄弟のやうにしてをつたから、始終憶(おも)ひ出すだらうな」
「僕は実際死んだ弟(おとと)よりも間の居らなくなつたのを悲む」
 愁然として彼は頭(かしら)を俛(た)れぬ。大島紬は受けたる盃(さかづき)を把(と)りながら、更に佐分利が持てる猪口(ちよく)を借りて荒尾に差しつ。
「さあ、君を慰める為に一番(ひとつ)間の健康を祝さう」
 荒尾の喜は実(げ)に溢(あふ)るるばかりなりき。
「おお、それは辱(かたじけ)ない」
 盈々(なみなみ)と酒を容(い)れたる二つの猪口は、彼等の目より高く挙げらるると斉(ひとし)く戞(かつ)と相撃(あひう)てば、紅(くれなゐ)の雫(しづく)の漏るが如く流るるを、互に引くより早く一息(ひといき)に飲乾したり。これを見たる佐分利は甘糟の膝を揺(うごか)して、
「蒲田は如才ないね。面(つら)は醜(まづ)いがあの呼吸で行くから、往々拾ひ物を為るのだ。ああ言(いは)れて見ると誰(たれ)でも些(ちよつ)と憎くないからね」
甘「遉(さすが)は交際官試補!」
佐「試補々々!」
風「試補々々立つて泣きに行く……」
荒「馬鹿な!」
 言(ことば)を改めて荒尾は言出(いひいだ)せり。
「どうも僕は不思議でならんが、停車場(ステエション)で間を見たよ。間に違無いのじや」
 唯(ただ)の今(いま)陰ながらその健康を祷(いの)りし蒲田は拍子を抜して彼の面(おもて)を眺(なが)めたり。
「ふう、それは不思議。他(むかふ)は気が着かなんだかい」
「始は待合所の入口(いりくち)の所で些(ちよつ)と顔が見えたのじや。余り意外ぢやつたから、僕は思はず長椅子(ソオフワア)を起つと、もう見えなくなつた。それから有間(しばらく)して又偶然(ふつと)見ると、又見えたのじや」
甘「探偵小説だ」
荒「その時も起ちかけると又見えなくなつて、それから切符を切つて歩場(プラットフォーム)へ入るまで見えなかつたのじやが、入つて少し来てから、どうも気になるから振返つて見ると、傍(そば)の柱に僕を見て黒い帽を揮(ふ)つとる者がある、それは間よ。帽を揮つとつたから間に違無いぢやないか」
 横浜! 横浜! と或(あるひ)は急に、或は緩(ゆる)く叫ぶ声の窓の外面(そとも)を飛過(とびすぐ)るとともに、響は雑然として起り、迸(ほとばし)り出(い)づる、群集(くんじゆ)は玩具箱(おもちやばこ)を覆(かへ)したる如く、場内の彼方(かなた)より轟(とどろ)く鐸(ベル)の音(ね)はこの響と混雑との中を貫きて奔注せり。
[#ここから章末まで2字下げ、本文とは1行アキ]
昨七日(さくなぬか)イ便の葉書にて(飯田町(いいだまち)局消印)美人クリイム[#「クリイム」に傍点]の語にフエアクリイム或(あるひ)はベルクリイムの傍訓有度(ぼうくんありたく)との言(げん)を貽(おく)られし読者あり。ここにその好意を謝するとともに、聊(いささ)か弁ずるところあらむとす。おのれも始め美人[#「美人」に傍点]の英語を用ゐむと思ひしかど、かかる造語は憖(なまじひ)に理詰ならむよりは、出まかせの可笑(をかし)き響あらむこそ可(よ)かめれとバイスクリイムとも思着(おもひつ)きしなり。意(こころ)は美アイスクリイムなるを、ビ、アイ——バイの格にて試みしが、さては説明を要すべき炊冗(くだくだ)しさを嫌(きら)ひて、更に美人[#「美人」に傍点]の二字にびじ[#「びじ」に傍点]訓を付せしを、校合者(きようごうしや)の思僻(おもひひが)めてん[#「ん」に傍点]字(じ)は添へたるなり。陋(いや)しげなるびじ[#「びじ」に傍点]クリイムの響の中(うち)には嘲弄(とうろう)の意(こころ)も籠(こも)らむとてなり。なほ高諭(こうゆ)を請(こ)ふ(三〇・九・八附読売新聞より)

     第 二 章

 柵(さく)の柱の下(もと)に在りて帽を揮(ふ)りたりしは、荒尾が言(ことば)の如く、四年の生死(しようし)を詳悉(つまびらか)にせざりし間貫一にぞありける。彼は親友の前に自(みづから)の影を晦(くらま)し、その消息をさへ知らせざりしかど、陰ながら荒尾が動静の概略(あらまし)を伺ふことを怠らざりき、こ回(たび)その参事官たる事も、午後四時発の列車にて赴任する事をも知るを得しかば、余所(よそ)ながら暇乞(いとまごひ)もし、二つには栄誉の錦(にしき)を飾れる姿をも見んと思ひて、群集(くんじゆ)に紛れてここには来(きた)りしなりけり。
 何(なに)の故(ゆゑ)に間は四年の音信(おとづれ)を絶ち、又何の故にさしも懐(おもひ)に忘れざる旧友と相見て別(べつ)を為さざりしか。彼が今の身の上を知らば、この疑問は自(おのづか)ら解釈せらるべし。
 柵の外に立ちて列車の行くを送りしは独(ひと)り間貫一のみにあらず、そこもとに聚(つど)ひし老若貴賤(ろうにやくきせん)の男女(なんによ)は皆個々の心をもて、愁ふるもの、楽むもの、虞(きづか)ふもの、或は何とも感ぜぬものなど、品変れども目的は一(いつ)なり。数分時の混雑の後車の出(い)づるとともに、一人散り、二人散りて、彼の如く久(ひさし)う立尽せるはあらざりき。やがて重き物など引くらんやうに彼の漸(やうや)く踵(きびす)を旋(めぐら)せし時には、推重(おしかさな)るまでに柵際(さくぎは)に聚(つど)ひし衆(ひと)は殆(ほとん)ど散果てて、駅夫の三四人が箒(はうき)を執りて場内を掃除せるのみ。
 貫一は差含(さしぐま)るる涙を払ひて、独り後(おく)れたるを驚きけん、遽(にはか)に急ぎて、蓬莱橋口(ほうらいばしぐち)より出(い)でんと、あだかも石段際に寄るところを、誰(たれ)とも知らで中等待合の内より声を懸けぬ。
「間さん!」
 慌(あわ)てて彼の見向く途端に、
些(ちよつ)と」と戸口より半身を示して、黄金(きん)の腕環の気爽(けざやか)に耀(かがや)ける手なる絹ハンカチイフに唇辺(くちもと)を掩(おほ)いて束髪の婦人の小腰を屈(かが)むるに会へり。艶(えん)なる面(おもて)に得も謂(い)はれず愛らしき笑(ゑみ)をさへ浮べたり。
「や、赤樫(あかがし)さん!」
 婦人の笑(ゑみ)もて迎ふるには似ず、貫一は冷然として眉(まゆ)だに動かさず。
好(よ)い所でお目に懸りましたこと。急にお話を致したい事が出来ましたので、まあ、些(ちよつ)と此方(こち)へ」
 婦人は内に入れば、貫一も渋々跟(つ)いて入るに、長椅子(ソオフワア)に掛(かく)れば、止む無くその側(そば)に座を占めたり。
「実はあの保険建築会社の小車梅(おぐるめ)の件なのでございますがね」
 彼は黒樗文絹(くろちよろけん)の帯の間を捜(さぐ)りて金側時計を取出(とりいだ)し、手早く収めつつ、
貴方(あなた)どうせ御飯前でゐらつしやいませう。ここでは、御話も出来ませんですから、何方(どちら)へかお供を致しませう」
 紫紺塩瀬(しほぜ)に消金(けしきん)の口金(くちがね)打ちたる手鞄(てかばん)を取直して、婦人はやをら起上(たちあが)りつ。迷惑は貫一が面(おもて)に顕(あらは)れたり。
何方(どちら)へ?」
何方(どちら)でも、私には解りませんですから貴方(あなた)のお宜(よろし)い所へ」
「私にも解りませんな」
「あら、そんな事を仰有(おつしや)らずに、私は何方でも宜(よろし)いのでございます」
 荒布革(あらめがは)の横長なる手鞄(てかばん)を膝の上に掻抱(かきいだ)きつつ貫一の思案せるは、その宜き方(かた)を択ぶにあらで、倶(とも)に行くをば躊躇(ちゆうちよ)せるなり。
「まあ、何にしても出ませう」
「さやう」
 貫一も今は是非無く婦人に従ひて待合所の出会頭(であひがしら)に、入来(いりく)る者ありて、その足尖(つまさき)を挫(ひし)げよと踏付けられぬ。驚き見れば長高(たけたか)き老紳士の目尻も異(あやし)く、満枝の色香(いろか)に惑ひて、これは失敬、意外の麁相(そそう)をせるなりけり。彼は猶懲(なほこ)りずまにこの目覚(めざまし)き美形(びけい)の同伴をさへ暫(しばら)く目送(もくそう)せり。
 二人は停車場(ステエション)を出でて、指す方(かた)も無く新橋に向へり。
「本当に、貴方、何方へ参りませう」
「私は、何方でも」
「貴方、何時までもそんな事を言つてゐらしつてはきりがございませんから、好い加減に極(き)めやうでは御坐いませんか」
「さやう」
 満枝は彼の心進まざるを暁(さと)れども、勉(つと)めて吾意(わがい)に従はしめんと念(おも)へば、さばかりの無遇(ぶあしらひ)をも甘んじて、
「それでは、貴方、鰻※(うなぎ)は上(あが)りますか」
鰻※? 遣りますよ」
鶏肉(とり)と何方が宜(よろし)うございます」
「何方でも」
「余り御挨拶(ごあいさつ)ですね」
何為(なぜ)ですか」
 この時貫一は始めて満枝の面(おもて)に眼(まなこ)を移せり。百(もも)の媚(こび)を含みて※(みむか)へし彼の眸(まなじり)は、未(いま)だ言はずして既にその言はんとせる半(なかば)をば語尽(かたりつく)したるべし。彼の為人(ひととなり)を知りて畜生と疎(うと)める貫一も、さすがに艶なりと思ふ心を制し得ざりき。満枝は貝の如き前歯と隣れる金歯とを露(あらは)して片笑(かたゑ)みつつ、
「まあ、何為(なぜ)でも宜うございますから、それでは鶏肉(とり)に致しませうか」
「それも可(い)いでせう」
 三十間堀(さんじつけんぼり)に出でて、二町ばかり来たる角(かど)を西に折れて、唯(と)有る露地口に清らなる門構(かどがまへ)して、光沢消硝子(つやけしガラス)の軒燈籠(のきとうろう)に鳥と標(しる)したる方(かた)に、人目にはさぞ解(わけ)あるらしう二人は連立ちて入りぬ。いと奥まりて、在りとも覚えぬ辺(あたり)に六畳の隠座敷の板道伝(わたりづたひ)に離れたる一間に案内されしも宜(うべ)なり。
 懼(おそ)れたるにもあらず、困(こう)じたるにもあらねど、又全くさにあらざるにもあらざらん気色(けしき)にて貫一の容(かたち)さへ可慎(つつま)しげに黙して控へたるは、かかる所にこの人と共にとは思懸(おもひか)けざる為体(ていたらく)を、さすがに胸の安からぬなるべし。通し物は逸早(いちはや)く満枝が好きに計ひて、少頃(しばし)は言(ことば)無き二人が中に置れたる莨盆(たばこぼん)は子細らしう※(ちゆう)の百和香(ひやつかこう)を燻(くゆ)らせぬ。
「間さん、貴方どうぞお楽に」
「はい、これが勝手で」
「まあ、そんな事を有仰(おつしや)らずに、よう、どうぞ」
「内に居つても私はこの通なのですから」
嘘(うそ)を有仰(おつしや)いまし」
 かくても貫一は膝(ひざ)を崩(くづ)さで、巻莨入(まきたばこいれ)を取出(とりいだ)せしが、生憎(あやにく)一本の莨もあらざりければ、手を鳴さんとするを、満枝は先(さきん)じて、
「お間に合せにこれを召上りましな」
 麻蝦夷(あさえぞ)の御主殿持(ごしゆでんもち)とともに薦(すす)むる筒の端(はし)より焼金(やききん)の吸口は仄(ほのか)に耀(かがや)けり。歯は黄金(きん)、帯留は黄金(きん)、指環は黄金(きん)、腕環は黄金(きん)、時計は黄金(きん)、今又煙管(きせる)は黄金(きん)にあらずや。黄金(きん)なる哉(かな)、金(きん)、金(きん)! 知る可(べ)し、その心も金(きん)! と貫一は独(ひと)り可笑(をか)しさに堪(た)へざりき。
「いや、私は日本莨は一向可(い)かんので」
 言ひも訖(をは)らぬ顔を満枝は熟(じつ)と視(み)て、
決(け)して穢(きたな)いのでは御坐いませんけれど、つい心着(こころつ)きませんでした」
 懐紙(ふところがみ)を出(いだ)してわざとらしくその吸口を捩拭(ねぢぬぐ)へば、貫一も少(すこし)く慌(あわ)てて、
決(け)してさう云ふ訳ぢやありません、私は日本莨は用ゐんのですから」
 満枝は再び彼の顔を眺めつ。
「貴方、嘘をお吐(つ)きなさるなら、もう少し物覚(ものおぼえ)を善く遊ばせよ」
「はあ?」
「先日鰐淵(わにぶち)さんへ上つた節、貴方召上つてゐらしつたではございませんか」
「はあ?」
瓢箪(ひようたん)のやうな恰好(かつこう)のお煙管で、さうして羅宇(らう)の本(もと)に些(ちよつ)と紙の巻いてございました」
「あ!」と叫びし口は頓(とみ)に塞(ふさ)がざりき。満枝は仇無(あどな)げに口を掩(おほ)ひて笑へり。この罰として貫一は直(ただち)に三服の吸付莨を強(し)ひられぬ。
 とかくする間(ま)に盃盤(はいばん)は陳(つら)ねられたれど、満枝も貫一も三盃(ばい)を過し得ぬ下戸(げこ)なり。女は清めし猪口(ちよく)を出(いだ)して、
「貴方、お一盞(ひとつ)」
「可かんのです」
「又そんな事を」
「今度は実際」
「それでは麦酒(ビール)に致しませうか」
「いや、酒は和洋とも可かんのですから、どうぞ御随意に」
 酒には礼ありて、おのれ辞せんとならば、必ず他に侑(すす)めて酌せんとこそあるべきに、甚(はなはだし)い哉、彼の手を束(つか)ねて、御随意にと会釈せるや、満枝は心憎しとよりはなかなかに可笑しと思へり。
「私も一向不調法なのでございますよ。折角差上げたものですからお一盞(ひとつ)お受け下さいましな」
 貫一は止む無くその一盞(ひとつ)を受けたり。はやかく酒になりけれども、満枝が至急と言ひし用談に及ばざれば、
「時に小車梅(おぐるめ)の件と云ふのはどんな事が起りましたな」
「もうお一盞召上れ、それからお話を致しますから。まあ、お見事! もうお一盞」
 彼は忽(たちま)ち眉(まゆ)を攅(あつ)めて、
「いやそんなに」
「それでは私が戴(いただ)きませう、恐入りますがお酌を」
「で、小車梅の件は?」
「その件の外(ほか)に未だお話があるのでございます」
「大相有りますな」
「酔はないと申上げ難(にく)い事なのですから、私少々酔ひますから貴方、憚様(はばかりさま)ですが、もう一つお酌を」
「酔つちや困ります。用事は酔はん内にお話し下さい」
「今晩は私酔ふ意(つもり)なのでございますもの」
 その媚(こび)ある目の辺(ほとり)は漸(やうや)く花桜の色に染みて、心楽しげに稍(やや)身を寛(ゆるやか)に取成したる風情(ふぜい)は、実(げ)に匂(にほひ)など零(こぼ)れぬべく、熱しとて紺の絹精縷(きぬセル)の被風(ひふ)を脱げば、羽織は無くて、粲然(ぱつ)としたる紋御召の袷(あはせ)に黒樗文絹(くろちよろけん)の全帯(まるおび)、華麗(はなやか)に紅(べに)の入りたる友禅の帯揚(おびあげ)して、鬢(びん)の後(おく)れの被(かか)る耳際(みみぎは)を掻上(かきあ)ぐる左の手首には、早蕨(さわらび)を二筋(ふたすぢ)寄せて蝶(ちよう)の宿れる形(かた)したる例の腕環の爽(さはやか)に晃(きらめ)き遍(わた)りぬ。常に可忌(いまは)しと思へる物をかく明々地(あからさま)に見せつけられたる貫一は、得堪(えた)ふまじく苦(にが)りたる眉状(まゆつき)して密(ひそか)に目を※(そら)しつ。彼は女の貴族的に装(よそほ)へるに反して、黒紬(くろつむぎ)の紋付の羽織に藍千筋(あゐせんすぢ)の秩父銘撰(ちちぶめいせん)の袷着て、白縮緬(しろちりめん)の兵児帯(へこおび)も新(あたらし)からず。
 彼を識(し)れりし者は定めて見咎(みとが)むべし、彼の面影(おもかげ)は尠(すくな)からず変りぬ。愛らしかりしところは皆失(う)せて、四年(よとせ)に余る悲酸と憂苦と相結びて常に解けざる色は、自(おのづか)ら暗き陰を成してその面(おもて)を蔽(おほ)へり。撓(たゆ)むとも折るべからざる堅忍の気は、沈鬱せる顔色(がんしよく)の表に動けども、嘗(かつ)て宮を見しやうの優き光は再びその眼(まなこ)に輝かずなりぬ。見ることの冷(ひややか)に、言ふことの謹(つつし)めるは、彼が近来の特質にして、人はこれが為に狎(な)るるを憚(はばか)れば、自(みづから)もまた苟(いやしく)も親みを求めざるほどに、同業者は誰(たれ)も誰も偏人として彼を遠(とほざ)けぬ。焉(いづく)んぞ知らん、貫一が心には、さしもの恋を失ひし身のいかで狂人たらざりしかを怪(あやし)むなりけり。
 彼は色を正して、満枝が独り興に乗じて盃(さかづき)を重ぬる体(てい)を打目戍(うちまも)れり。
「もう一盞(ひとつ)戴きませうか」
 笑(ゑみ)を漾(ただ)ふる眸(まなじり)は微醺(びくん)に彩られて、更に別様の媚(こび)を加へぬ。
「もう止したが可いでせう」
貴方(あなた)が止せと仰有(おつしや)るなら私は止します」
敢(あへ)て止せとは言ひません」
「それぢや私酔ひますよ」
 答無かりければ、満枝は手酌(てじやく)してその半(なかば)を傾けしが、見る見る頬の麗く紅(くれなゐ)になれるを、彼は手もて掩(おほ)ひつつ、
「ああ、酔ひましたこと」
 貫一は聞かざる為(まね)して莨を燻(くゆ)らしゐたり。
「間さん、……」
「何ですか」
「私今晩は是非お話し申したいことがあるので御坐いますが、貴方お聴き下さいますか」
「それをお聞き申す為に御同道したのぢやありませんか」
 満枝は嘲(あざけら)むが如く微笑(ほほゑ)みて、
「私何だか酔つてをりますから、或は失礼なことを申上げるかも知れませんけれど、お気に障(さ)へては困りますの。然(しか)し、御酒(ごしゆ)の上で申すのではございませんから、どうぞそのお意(つもり)で、宜(よろし)うございますか」
撞着(どうちやく)してゐるぢやありませんか」
「まあそんなに有仰(おつしや)らずに、高(たか)が女の申すことでございますから」
 こは事難(ことむづかし)うなりぬべし。克(かな)はぬまでも多少は累を免れんと、貫一は手を拱(こまぬ)きつつ俯目(ふしめ)になりて、力(つと)めて関(かかは)らざらんやうに持成(もてな)すを、満枝は擦寄(すりよ)りて、
「これお一盞(ひとつ)で後は決(け)してお強ひ申しませんですから、これだけお受けなすつて下さいましな」
 貫一は些(さ)の言(ことば)も出(いだ)さでその猪口(ちよく)を受けつ。
「これで私の願は届きましたの」
易(やす)い願ですな」と、あはや出(い)でんとせし唇(くちびる)を結びて、貫一は纔(わづか)に苦笑して止みぬ。
「間さん」
「はい」
「貴方失礼ながら、何でございますか、鰐淵さんの方に未(ま)だお長くゐらつしやるお意(つもり)なのですか。然し、いづれ独立あそばすので御坐いませう」
勿論(もちろん)です」
「さうして、まづ何頃(いつごろ)彼方(あちら)と別にお成りあそばすお見込なのでございますの」
「資本のやうなものが少しでも出来たらと思つてゐます」
 満枝は忽(たちま)ち声を斂(をさ)めて、物思はしげに差俯(さしうつむ)き、莨盆の縁(ふち)をば弄(もてあそ)べるやうに煙管(きせる)もて刻(きざみ)を打ちてゐたり。折しも電燈の光の遽(にはか)に晦(くら)むに驚きて顔を挙(あぐ)れば、又旧(もと)の如く一間(ひとま)は明(あかる)うなりぬ。彼は煙管を捨てて猶暫(なほしば)し打案じたりしが、
「こんな事を申上げては甚(はなは)だ失礼なのでございますけれど、何時まで彼方(あちら)にゐらつしやるよりは、早く独立あそばした方が宜(よろし)いでは御坐いませんか。もし明日にもさうと云ふ御考でゐらつしやるならば、私……こんな事を申しては……烏滸(をこ)がましいので御坐いますが、大した事は出来ませんけれど、都合の出来るだけは御用達申して上げたいのでございますが、さう遊ばしませんか」
 意外に打れたる貫一は箸(はし)を扣(ひか)へて女の顔を屹(き)と視(み)たり。
「さう遊ばせよ」
「それはどう云ふ訳ですか」
 実に貫一は答に窮せるなりき。
「訳ですか?」と満枝は口籠(くちごも)りたりしが、
「別に申上げなくてもお察し下さいましな。私だつて何時までも赤樫(あかがし)に居たいことは無いぢやございませんか。さう云ふ訳なのでございます」
全然(さつぱり)解らんですな」
「貴方、可うございますよ」
 可恨(うらめ)しげに満枝は言(ことば)を絶ちて、横膝(よこひざ)に莨を拈(ひね)りゐたり。
「失礼ですけれど、私はお先へ御飯を戴きます」
 貫一が飯桶(めしつぎ)を引寄せんとするを、はたと抑(おさ)へて、
「お給仕なれば私致します」
「それは憚様(はばかりさま)です」
 満枝は飯桶を我が側に取寄せしが、茶椀(ちやわん)をそれに伏せて、彼方(あなた)の壁際(かべぎは)に推遣(おしや)りたり。
「未だお早うございますよ。もうお一盞召上れ」
「もう頭が痛くて克(かな)はんですから赦(ゆる)して下さい。腹が空いてゐるのですから」
「お餒(ひもじ)いところを御飯を上げませんでは、さぞお辛(つら)うございませう」
「知れた事ですわ」
「さうでございませう。それなら、此方(こちら)で思つてゐることが全(まる)で先方(さき)へ通らなかつたら、餒いのに御飯を食べないのよりか夐(はるか)に辛うございますよ。そんなにお餒じければ御飯をお附け申しますから、貴方も只今の御返事をなすつて下さいましな」
「返事と言はれたつて、有仰(おつしや)ることの主意が能(よ)く解らんのですもの」
何故(なぜ)お了解(わかり)になりませんの」
 責むるが如く男の顔を見遣れば、彼もまた詰(なじ)るが如く見返しつ。
「解らんぢやありませんか。親い御交際の間でもない私に資本を出して下さる。さうしてその訳はと云へば、貴方も彼処(あすこ)を出る。解らんぢやありませんか。どうか飯を下さいな」
「解らないとは、貴方、お酷いぢやございませんか。ではお気に召さないのでございますか」
「気に入らんと云ふ事は有りませんが、縁も無い貴方に金を出して戴く……」
「あれ、その事ではございませんてば」
「どうも非常に腹が空(す)いて来ました」
「それとも貴方外(ほか)にお約束でも遊ばした御方がお在(あん)なさるのでございますか」
 彼終(つひ)に鋒鋩(ほうぼう)を露(あらは)し来(きた)れるよと思へば、貫一は猶(なほ)解せざる体(てい)を作(な)して、
「妙な事を聞きますね」
 と苦笑せしのみにて続く言(ことば)もあらざるに、満枝は図を外(はづ)されて、やや心惑へるなりけり。
「さう云ふやうなお方がお在(あん)なさらなければ、……私貴方にお願があるのでございます」
 貫一も今は屹(きつ)と胸を据ゑて、
「うむ、解りました」
「ああ、お了解(わかり)になりまして?!」
 嬉しと心を言へらんやうの気色(けしき)にて、彼の猪口(ちよく)に余(あま)せし酒を一息(ひといき)に飲乾(のみほ)して、その盃をつと貫一に差せり。
「又ですか」
「是非!」
 発(はずみ)に乗せられて貫一は思はず受(うく)ると斉(ひとし)く盈々(なみなみ)注(そそが)れて、下にも置れず一口附くるを見たる満枝が歓喜(よろこび)!
「その盃は清めてございませんよ」
 一々底意ありて忽諸(ゆるがせ)にすべからざる女の言を、彼はいと可煩(わづらはし)くて持余(もてあま)せるなり。
「お了解(わかり)になりましたら、どうぞ御返事を」
「その事なら、どうぞこれぎりにして下さい」
 僅(わづか)にかく言ひ放ちて貫一は厳(おごそ)かに沈黙しつ。満枝もさすがに酔(ゑひ)を冷(さま)して、彼の気色(けしき)を候(うかが)ひたりしに、例の言寡(ことばすくな)なる男の次いでは言はざれば、
「私もこんな可耻(はづかし)い事を、一旦申上げたからには、このままでは済されません」
 貫一は緩(ゆるや)かに頷(うなづ)けり。
「女の口からかう云ふ事を言出しますのは能々(よくよく)の事でございますから、それに対するだけの理由を有仰(おつしや)つて、どうぞ十分に私が得心の参るやうにお話し下さいましな、私座興でこんな事を申したのではございませんから」
御尤(ごもつとも)です。私のやうな者でもそんなに言つて下さると思へば、決して嬉くない事はありません。ですから、その御深切に対して裹(つつ)まず自分の考量(かんがへ)をお話し申します。けれど、私は御承知の偏屈者でありますから、衆(ひと)とは大きに考量が違つてをります。
 第一、私は一生妻(さい)といふ者は決(け)して持たん覚悟なので。御承知か知りませんが、元、私は書生でありました。それが中途から学問を罷(や)めて、この商売を始めたのは、放蕩(ほうとう)で遣損(やりそこな)つたのでもなければ、敢(あへ)て食窮(くひつ)めた訳でも有りませんので。書生が可厭(いや)さに商売を遣らうと云ふのなら、未だ外(ほか)に幾多(いくら)も好い商売は有りますさ、何を苦んでこんな極悪非道な、白日(はくじつ)盗(とう)を為(な)すと謂(い)はうか、病人の喉口(のどくち)を干(ほ)すと謂(い)はうか、命よりは大事な人の名誉を殺して、その金銭を奪取る高利貸などを択(えら)むものですか」
 聴居る満枝は益(ますま)す酔(ゑひ)を冷されぬ。
「不正な家業と謂ふよりは、もう悪事ですな。それを私が今日(こんにち)始めて知つたのではない、知つて身を堕(おと)したのは、私は当時敵手(さき)を殺して自分も死にたかつたくらゐ無念極(きはま)る失望をした事があつたからです。その失望と云ふのは、私が人を頼(たのみ)にしてをつた事があつて、その人達も頼れなければならん義理合になつてをつたのを、不図した慾に誘れて、約束は違へる、義理は捨てる、さうして私は見事に売られたのです」
 火影(ひかげ)を避けんとしたる彼の目の中に遽(にはか)に耀(かがや)けるは、なほ新(あらた)なる痛恨の涙の浮べるなり。
「実に頼少(たのみすくな)い世の中で、その義理も人情も忘れて、罪も無い私の売られたのも、原(もと)はと云へば、金銭(かね)からです。仮初(かりそめ)にも一匹(いつぴき)の男子たる者が、金銭(かね)の為に見易(みか)へられたかと思へば、その無念といふものは、私は一(い)……一生忘れられんです。
 軽薄でなければ詐(いつはり)、詐でなければ利慾、愛相(あいそ)の尽きた世の中です。それほど可厭(いや)な世の中なら、何為(なぜ)一思(ひとおもひ)に死んで了はんか、と或は御不審かも知れん。私は死にたいにも、その無念が障(さはり)になつて死切れんのです。売られた人達を苦めるやうなそんな復讐(ふくしゆう)などは為たくはありません、唯自分だけで可いから、一旦受けた恨! それだけは屹(きつ)と霽(はら)さなければ措(お)かん精神。片時でもその恨を忘れることの出来ん胸中といふものは、我ながらさう思ひますが、全(まる)で発狂してゐるやうですな。それで、高利貸のやうな残刻の甚(はなはだし)い、殆(ほとん)ど人を殺す程の度胸を要する事を毎日扱つて、さうして感情を暴(あら)してゐなければとても堪へられんので、発狂者には適当の商売です。そこで、金銭(かね)ゆゑに売られもすれば、辱(はづかし)められもした、金銭の無いのも謂はば無念の一つです。その金銭が有つたら何とでも恨が霽されやうか、とそれを楽(たのしみ)に義理も人情も捨てて掛つて、今では名誉も色恋も無く、金銭より外には何の望(のぞみ)も持たんのです。又考へて見ると、憖(なまじ)ひ人などを信じるよりは金銭を信じた方が間違が無い。人間よりは金銭の方が夐(はる)か頼(たのみ)になりますよ。頼にならんのは人の心です!
 先(まづ)かう云ふ考でこの商売に入つたのでありますから、実を申せば、貴方の貸して遣らうと有仰(おつしや)る資本は欲いが、人間の貴方には用が無いのです」
 彼は仰ぎて高笑(たかわらひ)しつつも、その面(おもて)は痛く激したり。
 満枝は、彼の言(ことば)の決して譌(いつはり)ならざるべきを信じたり。彼の偏屈なる、実(げ)にさるべき所見(かんがへ)を懐けるも怪むには足らずと思へるなり。されども、彼は未だ恋の甘きを知らざるが故(ゆゑ)に、心狭くもこの面白き世に偏屈の扉(とびら)を閉ぢて、詐(いつはり)と軽薄と利欲との外なる楽あるを暁(さと)らざるならん。やがて我そを教へんと、満枝は輙(たやす)く望を失はざるなりき。
「では何でございますか、私の心もやはり頼にならないとお疑ひ遊ばすのでございますか」
「疑ふ、疑はんと云ふのは二の次で、私はその失望以来この世の中が嫌(きらひ)で、総(すべ)ての人間を好まんのですから」
「それでは誠も誠も——命懸けて貴方を思ふ者がございましても?」
「勿論! 別して惚(ほ)れたの、思ふのと云ふ事は大嫌です」
「あの、命を懸けて慕つてゐるといふのがお了解(わかり)になりましても」
「高利貸の目には涙は無いですよ」
 今は取付く島も無くて、満枝は暫(しば)し惘然(ぼうぜん)としてゐたり。
「どうぞ御飯を頂戴」
 打萎(うちしを)れつつ満枝は飯(めし)を盛りて出(いだ)せり。
「これは恐入ります」
 彼は啖(くら)ふこと傍(かたはら)に人無き若(ごと)し。満枝の面(おもて)は薄紅(うすくれなゐ)になほ酔(ゑひ)は有りながら、酔(よ)へる体(てい)も無くて、唯打案じたり。
「貴方も上りませんか」
 かく会釈して貫一は三盃目(さんばいめ)を易(か)へつ。やや有りて、
「間さん」と、呼れし時、彼は満口に飯を啣(ふく)みて遽(にはか)に応(こた)ふる能(あた)はず、唯目を挙(あ)げて女の顔を見たるのみ。
「私もこんな事を口に出しますまでには、もしや貴方が御承知の無い時には、とそれ等を考へまして、もう多時(しばらく)胸に畳んでをつたのでございます。それまで大事を取つてをりながら、かう一も二も無く奇麗にお謝絶(ことわり)を受けては、私実に面目(めんぼく)無くて……余(あんま)り悔(くやし)うございますわ」
 慌忙(あわただし)くハンカチイフを取りて、片手に恨泣(うらみなき)の目元を掩(おほ)へり。
「面目無くて私、この座が起(たた)れません。間さん、お察し下さいまし」
 貫一は冷々(ひややか)に見返りて、
「貴方一人を嫌つたと云ふ訳なら、さうかも知れませんけれど、私は総(すべ)ての人間が嫌なのですから、どうぞ悪(あし)からず思つて下さい。貴方も御飯をお上んなさいな。おお! さうして小車梅(おぐるめ)の件に就いてのお話は?」
 泣赤(なきあか)めたる目を拭(ぬぐ)ひて満枝は答へず。
「どう云ふお話ですか」
「そんな事はどうでも宜(よろし)うございます。間さん、私、どうしても思切れませんから、さう思召(おぼしめ)して下さい。で、お可厭(いや)ならお可厭で宜うございますから、私がこんなに思つてゐることを、どうぞ何日(いつ)までもお忘れなく……きつと覚えてゐらつしやいましよ」
「承知しました」
「もつと優(やさし)い言(ことば)をお聞せ下さいましな」
「私も覚えてゐます」
「もつと何とか有仰(おつしや)りやうが有りさうなものではございませんか」
「御志は決(け)して忘れません。これなら宜いでせう」
 満枝は物をも言はずつと起ちしが、飜然(ひらり)と貫一の身近に寄添ひて、
「お忘れあそばすな」と言ふさへに力籠(ちからこも)りて、その太股(ふともも)を絶(したた)か撮(つめ)れば、貫一は不意の痛に覆(くつがへ)らんとするを支へつつ横様(よこさま)に振払ふを、満枝は早くも身を開きて、知らず顔に手を打鳴して婢(をんな)を呼ぶなりけり。

     第 三 章

 赤坂氷川(あかさかひかわ)の辺(ほとり)に写真の御前(ごぜん)と言へば知らぬ者無く、実(げ)にこの殿の出(い)づるに写真機械を車に積みて随(したが)へざることあらざれば、自(おのづか)ら人目を※(のが)れず、かかる異名(いみよう)は呼るるにぞありける。子細(しさい)を明めずしては、「将棊(しようぎ)の殿様」の流かとも想はるべし。あらず! 才の敏、学の博、貴族院の椅子を占めて優に高かるべき器(うつは)を抱(いだ)きながら、五年を独逸(ドイツ)に薫染せし学者風を喜び、世事を抛(なげう)ちて愚なるが如く、累代の富を控へて、無勘定の雅量を肆(ほしいまま)にすれども、なほ歳(とし)の入るものを計るに正(まさ)に出づるに五倍すてふ、子爵中有数の内福と聞えたる田鶴見良春(たづみよしはる)その人なり。
 氷川なる邸内には、唐破風造(からはふづくり)の昔を摸(うつ)せる館(たち)と相並びて、帰朝後起せし三層の煉瓦造(れんがづくり)の異(あやし)きまで目慣れぬ式なるは、この殿の数寄(すき)にて、独逸に名ある古城の面影(おもかげ)を偲(しの)びてここに象(かたど)れるなりとぞ。これを文庫と書斎と客間とに充(あ)てて、万足(よろづた)らざる無き閑日月(かんじつげつ)をば、書に耽(ふけ)り、画に楽(たのし)み、彫刻を愛し、音楽に嘯(うそぶ)き、近き頃よりは専(もつぱ)ら写真に遊びて、齢(よはひ)三十四に※(およ)べども頑(がん)として未(いま)だ娶(めと)らず。その居るや、行くや、出づるや、入るや、常に飄然(ひようぜん)として、絶えて貴族的容儀を修めざれど、自(おのづか)らなる七万石の品格は、面白(おもてしろ)う眉秀(まゆひい)でて、鼻高く、眼爽(まなこさはやか)に、形(かたち)の清(きよら)に揚(あが)れるは、皎(こう)として玉樹(ぎよくじゆ)の風前に臨めるとも謂(い)ふべくや、御代々(ごだいだい)御美男にわたらせらるるとは常に藩士の誇るところなり。
 かかれば良縁の空(むなし)からざること、蝶(ちよう)を捉(とら)へんとする蜘蛛(くも)の糸より繁(しげ)しといへども、反顧(かへりみ)だに為(せ)ずして、例の飄然忍びては酔(ゑひ)の紛れの逸早(いつはや)き風流(みやび)に慰み、内には無妻主義を主張して、人の諌(いさめ)などふつに用ゐざるなりけり。さるは、かの地に留学の日、陸軍中佐なる人の娘と相愛(あひあい)して、末の契も堅く、月下の小舟(をぶね)に比翼の櫂(かひ)を操(あやつ)り、スプレイの流を指(ゆびさ)して、この水の終(つひ)に涸(か)るる日はあらんとも、我が恋の※(ほのほ)の消ゆる時あらせじ、と互の誓詞(せいし)に詐(いつはり)はあらざりけるを、帰りて母君に請(こ)ふことありしに、いと太(いた)う驚かれて、こは由々(ゆゆ)しき家の大事ぞや。夷狄(いてき)は**よりも賤(いやし)むべきに、畏(かしこ)くも我が田鶴見の家をばなでう禽獣(きんじゆう)の檻(おり)と為すべき。あな、可疎(うとま)しの吾子(あこ)が心やと、涙と共に掻口説(かきくど)きて、悲(かなし)び歎きの余は病にさへ伏したまへりしかば、殿も所為無(せんな)くて、心苦う思ひつつも、猶(なほ)行末をこそ頼めと文の便(たより)を度々(たびたび)に慰めて、彼方(あなた)も在るにあられぬ三年(みとせ)の月日を、憂(う)きは死ななんと味気(あぢき)なく過せしに、一昨年(をととし)の秋物思ふ積りやありけん、心自から弱りて、存(ながら)へかねし身の苦悩(くるしみ)を、御神(みかみ)の恵(めぐみ)に助けられて、導かれし天国の杳(よう)として原(たづ)ぬべからざるを、いとど可懐(なつか)しの殿の胸は破れぬべく、ほとほと知覚の半をも失ひて、世と絶つの念益(ますま)す深く、今は無尽の富も世襲の貴きも何にかはせんと、唯懐(ただおもひ)を亡(な)き人に寄せて、形見こそ仇(あだ)ならず書斎の壁に掛けたる半身像は、彼女(かのをんな)が十九の春の色を苦(ねんごろ)に手写(しゆしや)して、嘗(かつ)て貽(おく)りしものなりけり。
 殿はこの失望の極放肆(ほうし)遊惰の裏(うち)に聊(いささ)か懐(おもひ)を遣(や)り、一具の写真機に千金を擲(なげう)ちて、これに嬉戯すること少児(しように)の如く、身をも家をも外(ほか)にして、遊ぶと費すとに余念は無かりけれど、家令に畔柳元衛(くろやなぎもとえ)ありて、その人迂(う)ならず、善く財を理し、事を計るに由りて、かかる疎放の殿を戴(いただ)ける田鶴見家も、幸(さいはひ)に些(さ)の破綻(はたん)を生ずる無きを得てけり。
 彼は貨殖の一端として密(ひそか)に高利の貸元を営みけるなり。千、二千、三千、五千、乃至(ないし)一万の巨額をも容易に支出する大資本主たるを以(も)て、高利貸の大口を引受くる輩(はい)のここに便(たよ)らんとせざるはあらず。されども慧(さかし)き畔柳は事の密なるを策の上と為(な)して叨(みだり)に利の為に誘はれず、始よりその藩士なる鰐淵直行(ただゆき)の一手に貸出すのみにて、他は皆彼の名義を用ゐて、直接の取引を為さざれば、同業者は彼の那辺(いづれ)にか金穴(きんけつ)あるを疑はざれども、その果して誰なるやを知る者絶えてあらざるなりき。
 鰐淵(わにぶち)の名が同業間に聞えて、威権をさをさ四天王の随一たるべき勢あるは、この資本主の後楯(うしろだて)ありて、運転神助の如きに由るのみ。彼は元田鶴見の藩士にて、身柄は謂(い)ふにも足らぬ足軽頭(あしがるがしら)に過ぎざりしが、才覚ある者なりければ、廃藩の後(のち)出(い)でて小役人を勤め、転じて商社に事(つか)へ、一時或(あるひ)は地所家屋の売買を周旋し、万年青(おもと)を手掛け、米屋町(こめやまち)に出入(しゆつにゆう)し、何(いづ)れにしても世渡(よわたり)の茶を濁さずといふこと無かりしかど、皆思はしからで巡査を志願せしに、上官の首尾好く、竟(つひ)には警部にまで取立てられしを、中ごろにして金(きん)これ権(けん)と感ずるところありて、奉職中蓄得(たくはへえ)たりし三百余円を元に高利貸を始め、世間の未(いま)だこの種の悪手段に慣れざるに乗じて、或(ある)は欺き、或は嚇(おど)し、或は賺(すか)し、或は虐(しひた)げ、纔(わづか)に法網を潜(くぐ)り得て辛(から)くも繩附(なはつき)たらざるの罪を犯し、積不善の五六千円に達せし比(ころ)、あだかも好し、畔柳の後見を得たりしは、虎(とら)に翼を添へたる如く、現に彼の今運転せる金額は殆(ほとん)ど数万に上るとぞ聞えし。
 畔柳はこの手より穫(とりい)るる利の半(なかば)は、これを御殿(ごてん)の金庫に致し、半はこれを懐(ふところ)にして、鰐淵もこれに因(よ)りて利し、金(きん)は一(いつ)にしてその利を三にせる家令が六臂(ろつぴ)の働(はたらき)は、主公が不生産的なるを補ひて猶(なほ)余ありとも謂(い)ふべくや。
 鰐淵直行、この人ぞ間貫一が捨鉢(すてばち)の身を寄せて、牛頭馬頭(ごずめず)の手代と頼まれ、五番町なるその家に四年(よとせ)の今日(こんにち)まで寄寓(きぐう)せるなり。貫一は鰐淵の裏二階なる八畳の一間を与へられて、名は雇人なれども客分に遇(あつか)はれ、手代となり、顧問となりて、主(あるじ)の重宝大方ならざれば、四年(よとせ)の久(ひさし)きに弥(わた)れども主は彼を出(いだ)すことを喜ばず、彼もまた家を構(かま)ふる必要無ければ、敢(あへ)て留るを厭(いと)ふにもあらで、手代を勤むる傍(かたはら)若干(そくばく)の我が小額をも運転して、自(おのづか)ら営む便(たより)もあれば、今憖(なまじ)ひにここを出でて痩臂(やせひぢ)を張らんよりは、然(しか)るべき時節の到来を待つには如(し)かじと分別せるなり。彼は啻(ただ)に手代として能(よ)く働き、顧問として能く慮(おもんぱか)るのみをもて、鰐淵が信用を得たるにあらず、彼の齢(よはひ)を以てして、色を近けず、酒に親まず、浪費せず、遊惰せず、勤むべきは必ず勤め、為すべきは必ず為して、己(おのれ)を衒(てら)はず、他(ひと)を貶(おとし)めず、恭謹にしてしかも気節に乏からざるなど、世に難有(ありがた)き若者なり、と鰐淵は寧(むし)ろ心陰(こころひそか)に彼を畏(おそ)れたり。
 主(あるじ)は彼の為人(ひととなり)を知りし後(のち)、如此(かくのごと)き人の如何(いか)にして高利貸などや志せると疑ひしなり、貫一は己(おのれ)の履歴を詐(いつは)りて、如何なる失望の極身をこれに墜(おと)せしかを告げざるなりき。されども彼が高等中学の学生たりしことは後に顕(あらは)れにき。他の一事の秘に至りては、今もなほ主が疑問に存すれども、そのままに年経にければ、改めて穿鑿(せんさく)もせられで、やがては、暖簾(のれん)を分けて屹(きつ)としたる後見(うしろみ)は為てくれんと、鰐淵は常に疎(おろそか)ならず彼が身を念(おも)ひぬ。直行は今年五十を一つ越えて、妻なるお峯(みね)は四十六なり。夫は心猛(たけ)く、人の憂(うれひ)を見ること、犬の嚏(くさめ)の如く、唯貪(ただむさぼ)りて※(あ)くを知らざるに引易へて、気立(きだて)優しとまでにはあらねど、鬼の女房ながらも尋常の人の心は有(も)てるなり。彼も貫一の偏屈なれども律義(りちぎ)に、愛すべきところとては無けれど、憎ましきところとては猶更(なほさら)にあらぬを愛して、何くれと心着けては、彼の為に計りて善かれと祈るなりける。
 いと幸(さち)ありける貫一が身の上哉(かな)。彼は世を恨むる余(あまり)その執念の駆(か)るままに、人の生ける肉を啖(くら)ひ、以つて聊(いささ)か逆境に暴(さら)されたりし枯膓(こちよう)を癒(いや)さんが為に、三悪道に捨身の大願を発起(ほつき)せる心中には、百の呵責(かしやく)も、千の苦艱(くげん)も固(もと)より期(ご)したるを、なかなかかかる寛(ゆたか)なる信用と、かかる温(あたたか)き憐愍(れんみん)とを被(かうむ)らんは、羝羊(ていよう)の乳(ち)を得んとよりも彼は望まざりしなり。憂の中の喜なる哉(かな)、彼はこの喜を如何(いか)に喜びけるか。今は呵責をも苦艱(くげん)をも敢(あへ)て悪(にく)まざるべき覚悟の貫一は、この信用の終(つひ)には慾の為に剥(は)がれ、この憐愍(れんみん)も利の為に吝(をし)まるる時の目前なるべきを固く信じたり。

     (三) の 二

 毒は毒を以て制せらる。鰐淵(わにぶち)が債務者中に高利借の名にしおふ某(ぼう)党の有志家某あり。彼は三年来生殺(なまごろし)の関係にて、元利五百余円の責(せめ)を負ひながら、奸智(かんち)を弄(ろう)し、雄弁を揮(ふる)ひ、大胆不敵に構(かま)へて出没自在の計(はかりごと)を出(いだ)し、鰐淵が老巧の術といへども得て施すところ無かりければ、同業者のこれに係(かか)りては、逆捩(さかねぢ)を吃(く)ひて血反吐(ちへど)を噴(はか)されし者尠(すくな)からざるを、鰐淵は弥(いよい)よ憎しと思へど、彼に対しては銕桿(かなてこ)も折れぬべきに持余しつるを、克(かな)はぬまでも棄措(すてお)くは口惜(くちをし)ければ、せめては令見(みせしめ)の為にも折々釘(くぎ)を刺して、再び那奴(しやつ)の翅(はがい)を展(の)べしめざらんに如(し)かずと、昨日(きのふ)は貫一の曠(ぬか)らず厳談せよと代理を命ぜられてその家に向ひしなり。
 彼は散々に飜弄(ほんろう)せられけるを、劣らじと罵(ののし)りて、前後四時間ばかりその座を起ちも遣(や)らで壮(さかん)に言争ひしが、病者に等き青二才と侮(あなど)りし貫一の、陰忍(しんねり)強く立向ひて屈する気色(けしき)あらざるより、有合ふ仕込杖(しこみつゑ)を抜放し、おのれ還(かへ)らずば生けては還さじと、二尺余(あまり)の白刃を危(あやふ)く突付けて脅(おびやか)せしを、その鼻頭(はなさき)に待(あしら)ひて愈(いよい)よ動かざりける折柄(をりから)、来合せつる壮士三名の乱拳に囲れて門外に突放され、少しは傷など受けて帰来(かへりき)にけるが、これが為に彼の感じ易(やす)き神経は甚(はなはだし)く激動して夜もすがら眠を成さず、今朝は心地の転(うた)た勝(すぐ)れねば、一日の休養を乞ひて、夜具をも収めぬ一間に引籠(ひきこも)れるなりけり。かかることありし翌日は夥(おびただし)く脳の憊(つか)るるとともに、心乱れ動きて、その憤(いか)りし後(のち)を憤り、悲みし後を悲まざれば已(や)まず、為に必ず一日の勤を廃するは彼の病なりき。故(ゆゑ)に彼は折に触れつつその体(たい)の弱く、その情の急なる、到底この業に不適当なるを感ぜざること無し。彼がこの業に入りし最初の一年は働より休の多かりし由を言ひて、今も鰐淵の笑ふことあり。次の年よりは漸(やうや)く慣れてけれど、彼の心は決(け)してこの悪を作(な)すに慣れざりき。唯能(ただよ)く忍得るを学びたるなり。彼の学びてこれを忍得るの故は、爾来(じらい)終天の失望と恨との一日(いちじつ)も忘るる能(あた)はざるが為に、その苦悶(くもん)の余勢を駆りて他の方面に注がしむるに過ぎず。彼はその失望と恨とを忘れんが為には、以外の堪(た)ふまじき苦悶を辞せざるなり。されども彼は今もなほ往々自ら為せる残刻を悔い、或(ある)は人の加ふる侮辱に堪(た)へずして、神経の過度に亢奮(こうふん)せらるる為に、一日の調摂を求めざるべからざる微恙(びよう)を得ることあり。
 朗(ほがらか)に秋の気澄みて、空の色、雲の布置(ただずまひ)匂(にほ)はしう、金色(きんしよく)の日影は豊に快晴を飾れる南受(みなみうけ)の縁障子を隙(すか)して、爽(さはやか)なる肌寒(はださむ)の蓐(とこ)に長高(たけたか)く痩(や)せたる貫一は横(よこた)はれり。蒼(あを)く濁(にご)れる頬(ほほ)の肉よ、※(さらば)へる横顔の輪廓(りんかく)よ、曇の懸れる眉(まゆ)の下に物思はしき眼色(めざし)の凝りて動かざりしが、やがて崩(くづ)るるやうに頬杖(ほほづゑ)を倒して、枕嚢(くくりまくら)に重き頭(かしら)を落すとともに寝返りつつ掻巻(かいまき)引寄せて、拡げたりし新聞を取りけるが、見る間もあらず投遣(なげや)りて仰向になりぬ。折しも誰(たれ)ならん、階子(はしご)を昇来(のぼりく)る音す。貫一は凝然として目を塞(ふた)ぎゐたり。紙門(ふすま)を啓(あ)けて入来(いりきた)れるは主(あるじ)の妻なり。貫一の慌(あわ)てて起上るを、そのままにと制して、机の傍(かたはら)に坐りつ。
「紅茶を淹(い)れましたからお上んなさい。少しばかり栗(くり)を茹(ゆ)でましたから」
 手籃(てかご)に入れたる栗と盆なる茶器とを枕頭(まくらもと)に置きて、
「気分はどうです」
「いや、なあに、寝てゐるほどの事は無いので。これは色々御馳走様(ごちそうさま)でございます」
「冷めない内にお上んなさい」
 彼は会釈して珈琲茶碗(カフヒイちやわん)を取上げしが、
旦那(だんな)は何時(いつ)頃お出懸(でかけ)になりました」
「今朝は毎(いつも)より早くね、氷川(ひかわ)へ行くと云つて」
 言ふも可疎(うとま)しげに聞えけれど、さして貫一は意(こころ)も留めず、
「はあ、畔柳(くろやなぎ)さんですか」
「それがどうだか知れないの」
 お峯は苦笑(にがわらひ)しつ。明(あきらか)なる障子の日脚(ひざし)はその面(おもて)の小皺(こじわ)の読まれぬは無きまでに照しぬ。髪は薄けれど、櫛(くし)の歯通りて、一髪(いつぱつ)を乱さず円髷(まるわげ)に結ひて顔の色は赤き方(かた)なれど、いと好く磨(みが)きて清(きよら)に滑(なめらか)なり。鼻の辺(あたり)に薄痘痕(うすいも)ありて、口を引窄(ひきすぼ)むる癖あり。歯性悪ければとて常に涅(くろ)めたるが、かかるをや烏羽玉(ぬばたま)とも謂(い)ふべく殆(ほとん)ど耀(かがや)くばかりに麗(うるは)し。茶柳条(ちやじま)のフラネルの単衣(ひとへ)に朝寒(あささむ)の羽織着たるが、御召縮緬(ちりめん)の染直しなるべく見ゆ。貫一はさすがに聞きも流されず、
何為(なぜ)ですか」
 お峯は羽織の紐(ひも)を解きつ結びつして、言はんか、言はざらんかを遅(ためら)へる風情(ふぜい)なるを、強(し)ひて問はまほしき事にはあらじと思へば、貫一は籃(かご)なる栗を取りて剥(む)きゐたり。彼は姑(しばら)く打案ぜし後、
「あの赤樫(あかがし)の別品(べつぴん)さんね、あの人は悪い噂(うはさ)が有るぢやありませんか、聞きませんか」
「悪い噂とは?」
「男を引掛けては食物(くひもの)に為るとか云ふ……」
 貫一は覚えず首を傾けたり。曩(さき)の夜の事など思合すなるべし。
「さうでせう」
「一向聞きませんな。那奴(あいつ)男を引掛けなくても金銭(かね)には窮(こま)らんでせうから、そんな事は無からうと思ひますが……」
「だから可(い)けない。お前さんなんぞもべいろしや[#「べいろしや」に傍点]組の方ですよ。金銭(かね)が有るから為ないと限つたものですか。さう云ふ噂が私の耳へ入つてゐるのですもの」
「はて、な」
「あれ、そんな剥きやうをしちや食べるところは無い、此方(こつち)へお貸しなさい」
「これは憚様(はばかりさま)です」
 お峯はその言はんとするところを言はんとには、墨々(まじまじ)と手を束(つか)ねて在らんより、事に紛らしつつ語るの便(たより)あるを思へるなり。彼は更に栗の大いなるを択(えら)みて、その頂(いただき)よりナイフを加へつ。
些(ちよい)と見たつてそんな事を為さうな風ぢやありませんか。お前さんなんぞは堅人(かたじん)だから可いけれど、本当にあんな者に係合(かかりあ)ひでもしたら大変ですよ」
「さう云ふ事が有りますかな」
「だつて、私の耳へさへ入る位なのに、お前さんが万更知らない事は無からうと思ひますがね。あの別品さんがそれを遣(や)ると云ふのは評判ですよ。金窪(かなくぼ)さん、鷲爪(わしづめ)さん、それから芥原(あくたはら)さん、皆(みんな)その話をしてゐましたよ」
或(あるひ)はそんな評判があるのかも知れませんが、私は一向聞きません。成程、ああ云ふ風ですから、それはさうかも知れません」
「外の人にはこんな話は出来ません。長年気心も知り合つて家内(うち)の人も同(おんな)じのお前さんの事だから、私もお話を為るのですけれどね、困つた事が出来て了つたの——どうしたら可からうかと思つてね」
 お峯がナイフを執れる手は漸(やうや)く鈍くなりぬ。
「おや、これは大変な虫だ。こら、御覧なさい。この虫はどうでせう」
「非常ですな」
「虫が付いちや可けません! 栗には限らず」
「さうです」
 お峯は又一つ取りて剥(む)き始めけるが、心進まざらんやうにナイフの運(はこび)は愈(いよい)よ等閑(なほざり)なりき。
「これは本当にお前さんだから私は信仰して話を為るのですけれど、此処(ここ)きりの話ですからね」
「承知しました」
 貫一は食はんとせし栗を持ち直して、屹(き)とお峯に打向ひたり。聞く耳もあらずと知れど、秘密を語らんとする彼の声は自(おのづ)から潜(ひそま)りぬ。
「どうも私はこの間から異(をかし)いわいと思つてゐたのですが、どうも様子がね、内の夫(ひと)があの別品さんに係合(かかりあひ)を付けてゐやしないかと思ふの——どうもそれに違無いの!」
 彼ははや栗など剥かずなりぬ。貫一は揺笑(ゆすりわらひ)して、
「そんな馬鹿な事が、貴方(あなた)……」
「外の人ならいざ知らず、附いてゐる女房(にようぼ)の私が……それはもう間違無しよ!」
 貫一は熟(じつ)と思ひ入りて、
「旦那はお幾歳(いくつ)でしたな」
「五十一、もう爺(ぢぢい)ですわね」
 彼は又思案して、
「何ぞ証拠が有りますか」
「証拠と云つて、別に寄越した文を見た訳でもないのですけれど、そんな念を推さなくたつて、もう違無いの!!」
 息巻くお峯の前に彼は面(おもて)を俯(ふ)して言はず、静に思廻(おもひめぐ)らすなるべし。お峯は心着きて栗を剥き始めつ。その一つを終ふるまで言(ことば)を継がざりしが、さて徐(おもむろ)に、
「それはもう男の働とか云ふのだから、妾(めかけ)も楽(たのしみ)も可うございます。これが芸者だとか、囲者(かこひもの)だとか云ふのなら、私は何も言ひはしませんけれど第一は、赤樫(あかがし)さんといふ者があるのぢやありませんか、ねえ。その上にあの女だ! 凡(ただ)の代物(しろもの)ぢやありはしませんわね。それだから私は実に心配で、心火(ちんちん)なら可いけれど、なかなか心火どころの洒落(しやれ)た沙汰(さた)ぢやありはしません。あんな者に係合(かかりあ)つてゐた日には、末始終どんな事になるか知れやしない、それが私は苦労でね。内の夫(ひと)もあのくらゐ利巧で居ながらどうしたと云ふのでせう。今朝出掛けたのもどうも異(をかし)いの、確に氷川へ行つたんぢやないらしい。だから御覧なさい。この頃は何となく冶(しや)れてゐますわね、さうして今朝なんぞは羽織から帯まで仕立下(したておろ)し渾成(づくめ)で、その奇麗事と謂(い)つたら、何(いつ)が日(ひ)にも氷川へ行くのにあんなに※(めか)した事はありはしません。もうそれは氷川でない事は知れきつてゐるの」
「それが事実なら困りましたな」
「あれ、お前さんは未だそんな気楽なことを言つてゐるよ。事実ならッて、事実に違無いと云ふのに」
 貫一の気乗せぬをお峯はいと歯痒(はがゆ)くて心苛(いら)つなるべし。
「はあ、事実とすれば弥(いよい)よ善くない。あの女に係合つちや全く妙でない。御心配でせう」
「私は悋気(りんき)で言ふ訳ぢやない、本当に旦那の身を思つて心配を為るのですよ、敵手(あひて)が悪いからねえ」
 思ひ直せども貫一が腑(ふ)には落ちざるなりけり。
「さうして、それは何頃(いつごろ)からの事でございます」
「ついこの頃ですよ、何でも」
然(しか)し、何(な)にしろ御心配でせう」
「それに就いて是非お頼があるんですがね、折を見て私も篤(とつく)り言はうと思ふのです。就いてはこれといふ証拠が無くちや口が出ませんから、何とか其処(そこ)を突止めたいのだけれど、私の体(からだ)ぢや戸外(おもて)の様子が全然(さつぱり)解らないのですものね」
御尤(ごもつとも)」
「で、お前さんと見立ててお頼があるんです。どうか内々様子を探つて見て下さいな。お前さんが寝てお在(いで)でないと、実は今日早速お頼があるのだけれど、折が悪いのね」
 行けよと命ぜられたるとなんぞ択ばん、これ有る哉(かな)、紅茶と栗と、と貫一はその余(あまり)に安く売られたるが独(ひと)り可笑(をかし)かりき。
「いえ、一向差支(さしつかへ)ございません。どういふ事ですか」
「さう? 余(あんま)りお気の毒ね」
 彼の赤き顔の色は耀(かがや)くばかりに懽(よろこ)びぬ。
「御遠慮無く有仰(おつしや)つて下さい」
「さう? 本当に可いのですか」
 お峯は彼が然諾(ぜんだく)の爽(さはやか)なるに遇(あ)ひて、紅茶と栗とのこれに酬ゆるの薄儀に過ぎたるを、今更に可愧(はづかし)く覚ゆるなり。
「それではね、本当に御苦労で済まないけれど、氷川まで行つて見て来て下されば、それで可いのですよ。畔柳さんへ行つて、旦那が行つたか、行かないか、若(も)し行つたのなら、何頃(いつごろ)行つて何頃帰つたか、なあに、十(とを)に九(ここのつ)まではきつと行きはしませんから。その様子だけ解れば、それで可いのです。それだけ知れれば、それで探偵が一つ出来たのですから」
「では行つて参りませう」
 彼は起ちて寝衣帯(ねまきおび)を解かんとすれば、
「お待ちなさいよ、今俥(くるま)を呼びに遣(や)るから」
 かく言捨ててお峯は忙(せはし)く階子(はしご)を下行(おりゆ)けり。
 迹(あと)に貫一は繰返し繰返しこの事の真偽を案じ煩(わづら)ひけるが、服を改めて居間を出でんとしつつ、
「女房に振られて、学士に成損(なりそこな)つて、後が高利貸の手代で、お上さんの秘密探偵か!」
 と端無(はしな)く思ひ浮べては漫(そぞろ)に独(ひと)り打笑(うちゑま)れつ。

     第 四 章

 貫一は直(ただち)に俥(くるま)を飛(とば)して氷川なる畔柳(くろやなぎ)のもとに赴(おもむ)けり。その居宅は田鶴見子爵の邸内に在りて、裏門より出入(しゆつにゆう)すべく、館(やかた)の側面を負ひて、横長に三百坪ばかりを木槿垣(もくげがき)に取廻して、昔形気(むかしかたぎ)の内に幽(ゆか)しげに造成(つくりな)したる二階建なり。構(かまへ)の可慎(つつまし)う目立たぬに引易(ひきか)へて、木口(きぐち)の撰択(せんたく)の至れるは、館の改築ありし折その旧材を拝領して用ゐたるなりとぞ。
 貫一も彼の主(あるじ)もこの家に公然の出入(でいり)を憚(はばか)る身なれば、玄関側(わき)なる格子口(こうしぐち)より訪(おとづ)るるを常とせり。彼は戸口に立寄りけるに、鰐淵の履物(はきもの)は在らず。はや帰りしか、来(こ)ざりしか、或(あるひ)は未(いま)だ見えざるにや、とにもかくにもお峯が言(ことば)にも符号すれども、直(ただち)にこれを以て疑を容(い)るべきにあらずなど思ひつつ音なへば、応ずる者無くて、再びする時聞慣れたる主(あるじ)の妻の声して、連(しきり)に婢(をんな)の名を呼びたりしに、答へざりければやがて自ら出(い)で来て、
「おや、さあ、お上んなさい。丁度好いところへお出(いで)でした」
 眼(まなこ)のみいと大くて、病勝(やまひがち)に痩衰(やせおとろ)へたる五体は燈心(とうしみ)の如く、見るだに惨々(いたいた)しながら、声の明(あきらか)にして張ある、何処(いづこ)より出(い)づる音(ね)ならんと、一たびは目を驚かし、一たびは耳を驚かすてふ、貫一が一種の化物と謂(い)へるその人なり。年は五十路(いそぢ)ばかりにて頭(かしら)の霜繁(しもしげ)く夫よりは姉なりとぞ。
 貫一は屋敷風の恭(うやうやし)き礼を作(な)して、
「はい、今日(こんにち)は急ぎまするので、これで失礼を致しまする。主人は今朝ほど此方(こちら)様へ伺ひましたでございませうか」
「いいえ、お出(いで)はありませんよ。実はね、ちとお話が有るので、お目に懸(かか)りたいと申してをりましたところ。唯今(ただいま)御殿へ出てをりますので、些(ちよつ)と呼びに遣りませうから、暫(しばら)くお上んなすつて」
 言はるるままに客間に通りて、端近(はしちか)う控ふれば、彼は井(ゐ)の端(はた)なりし婢(をんな)を呼立てて、速々(そくそく)主(あるじ)の方(かた)へ走らせつ。莨盆(たばこぼん)を出(いだ)し、番茶を出(いだ)せしのみにて、納戸(なんど)に入りける妻は再び出(い)で来(きた)らず。この間は貫一は如何(いか)にこの探偵一件を処置せんかと工夫してゐたり。やや有りて婢の息促(いきせ)き還来(かへりき)にける気勢(けはひ)せしが、やがて妻の出でて例の声を振ひぬ。
「さあ唯今些(ちよつ)と手が放せませんので、御殿の方に居りますから、どうか彼方(あちら)へお出なすつて。直(ぢき)其処(そこ)ですよ。婢に案内を為せます。あの豊(とよ)や!」
 暇乞(いとまごひ)して戸口を出づれば、勝手元の垣の側(きは)に二十歳(はたち)かと見ゆる物馴顔(ものなれがほ)の婢の待(ま)てりしが、後(うしろ)さまに帯※(おびかひつくろ)ひつつ道知辺(みちしるべ)す。垣に沿ひて曲れば、玉川砂礫(ざり)を敷きたる径(こみち)ありて、出外(ではづ)るれば子爵家の構内(かまへうち)にて、三棟(みむね)並べる塗籠(ぬりごめ)の背後(うしろ)に、桐(きり)の木高く植列(うゑつら)ねたる下道(したみち)の清く掃いたるを行窮(ゆきつむ)れば、板塀繞(いたべいめぐ)らせる下屋造(げやつくり)の煙突より忙(せは)しげなる煙(けふり)立昇りて、折しも御前籠(ごぜんかご)舁入(かきい)るるは通用門なり。貫一もこれを入(い)りて、余所(よそ)ながら過来(すぎこ)し厨(くりや)に、酒の香(か)、物煮る匂頻(にほひしき)りて、奥よりは絶えず人の通ふ乱響(ひしめき)したる、来客などやと覚えつつ、畔柳が詰所なるべき一間(ひとま)に導かれぬ。

     (四) の 二

 畔柳元衛(くろやなぎもとえ)の娘静緒(しずお)は館(やかた)の腰元に通勤せるなれば、今日は特に女客の執持(とりもち)に召れて、高髷(たかわげ)、変裏(かはりうら)に粧(よそひ)を改め、お傍不去(そばさらず)に麁略(そりやく)あらせじと冊(かしづ)くなりけり。かくて邸内遊覧の所望ありければ、先(ま)づ西洋館の三階に案内すとて、迂廻階子(まはりばしご)の半(なかば)を昇行(のぼりゆ)く後姿(うしろすがた)に、その客の如何(いか)に貴婦人なるかを窺(うかが)ふべし。鬘(かつら)ならではと見ゆるまでに結做(ゆひな)したる円髷(まるわげ)の漆の如きに、珊瑚(さんご)の六分玉(ろくぶだま)の後挿(うしろざし)を点じたれば、更に白襟(しろえり)の冷※(れいえん)物類(たぐ)ふべき無く、貴族鼠(きぞくねずみ)の※高縮緬(しぼたかちりめん)五紋(いつつもん)なる単衣(ひとへ)を曳(ひ)きて、帯は海松(みる)色地に装束(しようぞく)切摸(きれうつし)の色紙散(しきしちらし)の七糸(しちん)を高く負ひたり。淡紅色(ときいろ)紋絽(もんろ)の長襦袢(ながじゆばん)の裾(すそ)は上履(うはぐつ)の歩(あゆみ)に緩(ゆる)く匂零(にほひこぼ)して、絹足袋(きぬたび)の雪に嫋々(たわわ)なる山茶花(さざんか)の開く心地す。
 この麗(うるはし)き容(かたち)をば見返り勝に静緒は壁側(かべぎは)に寄りて二三段づつ先立ちけるが、彼の俯(うつむ)きて昇(のぼ)れるに、櫛(くし)の蒔絵(まきゑ)のいと能(よ)く見えければ、ふとそれに目を奪はれつつ一段踏み失(そこ)ねて、凄(すさまじ)き響の中にあなや僵(たふ)れんと為(し)たり。幸(さいはひ)に怪我(けが)は無かりけれど、彼はなかなか己(おのれ)の怪我などより貴客(きかく)を駭(おどろ)かせし狼藉(ろうぜき)をば、得も忍ばれず満面に慚(は)ぢて、
「どうも飛んだ麁相(そそう)を致しまして……」
「いいえ。貴方本当に何処(どこ)もお傷(いた)めなさりはしませんか」
「いいえ。さぞ吃驚(びつくり)遊ばしたでございませう、御免あそばしまして」
 こ度(たび)は薄氷(はくひよう)を蹈(ふ)む想(おもひ)して一段を昇る時、貴婦人はその帯の解けたるを見て、
些(ちよつ)とお待ちなさい」
 進寄りて結ばんとするを、心着きし静緒は慌(あわ)て驚きて、
「あれ、恐入(おそれい)ります」
可(よ)うございますよ。さあ、熟(じつ)として」
「あれ、それでは本当に恐入りますから」
 争ひ得ずして竟(つひ)に貴婦人の手を労(わづらは)せし彼の心は、溢(あふ)るるばかり感謝の情を起して、次いではこの優しさを桜の花の薫(かをり)あらんやうにも覚ゆるなり。彼は女四書(じよししよ)の内訓(ないくん)に出でたりとて屡(しばし)ば父に聴さるる「五綵服(ごさいふく)を盛(さかん)にするも、以つて身の華(か)と為すに足らず、貞順道(ていじゆんみち)に率(したが)へば、乃(すなは)ち以つて婦徳を進むべし」の本文(ほんもん)に合(かな)ひて、かくてこそ始めて色に矜(ほこ)らず、その徳に爽(そむ)かずとも謂ふべきなれ。愛(め)でたき人にも遇(あ)へるかなと絶(したたか)に思入りぬ。
 三階に着くより静緒は西北(にしきた)の窓に寄り行きて、効々(かひがひ)しく緑色の帷(とばり)を絞り硝子戸(ガラスど)を繰揚(くりあ)げて、
「どうぞ此方(こちら)へお出(いで)あそばしまして。ここが一番見晴(みはらし)が宜(よろし)いのでございます」
「まあ、好(よ)い景色ですことね! 富士が好く晴れて。おや、大相木犀(もくせい)が匂(にほ)ひますね、お邸内(やしきうち)に在りますの?」
 貴婦人はこの秋霽(しゆうせい)の朗(ほがらか)に濶(ひろ)くして心往くばかりなるに、夢など見るらん面色(おももち)して佇(たたず)めり。窓を争ひて射入(さしい)る日影は斜(ななめ)にその姿を照して、襟留(えりどめ)なる真珠は焚(も)ゆる如く輝きぬ。塵(ちり)をだに容(ゆる)さず澄みに澄みたる添景の中(うち)に立てる彼の容華(かほばせ)は清く鮮(あざやか)に見勝(みまさ)りて、玉壺(ぎよくこ)に白き花を挿(さ)したらん風情(ふぜい)あり。静緒は女ながらも見惚(みと)れて、不束(ふつつか)に眺入(ながめい)りつ。
 その目の爽(さはやか)にして滴(したた)るばかり情(なさけ)の籠(こも)れる、その眉(まゆ)の思へるままに画(えが)き成せる如き、その口元の莟(つぼみ)ながら香(か)に立つと見ゆる、その鼻の似るものも無くいと好く整ひたる、肌理濃(きめこまやか)に光をさへ帯びたる、色の透(とほ)るばかりに白き、難を求めなば、髪は濃くて瑩沢(つややか)に、頭(かしら)も重げに束(つか)ねられたれど、髪際(はへぎは)の少(すこし)く打乱れたると、立てる容(かたち)こそ風にも堪(た)ふまじく繊弱(なよやか)なれど、面(おもて)の痩(やせ)の過ぎたる為に、自(おのづか)ら愁(うれはし)う底寂(そこさびし)きと、頸(えり)の細きが折れやしぬべく可傷(いたはし)きとなり。
 されどかく揃(そろ)ひて好き容量(きりよう)は未(いま)だ見ずと、静緒は心に驚きつつ、蹈外(ふみはづ)せし麁忽(そこつ)ははや忘れて、見据うる流盻(ながしめ)はその物を奪はんと覘(ねら)ふが如く、吾を失へる顔は間抜けて、常は顧らるる貌(かたち)ありながら、草の花の匂無きやうに、この貴婦人の傍(かたはら)には見劣せらるること夥(おびただし)かり。彼は己(おのれ)の間抜けたりとも知らで、返す返すも人の上を思ひて止(や)まざりき。実(げ)にこの奥方なれば、金時計持てるも、真珠の襟留せるも、指環を五つまで穿(さ)せるも、よし馬車に乗りて行かんとも、何をか愧(は)づべき。婦(をんな)の徳をさへ虧(か)かでこの嬋娟(あでやか)に生れ得て、しかもこの富めるに遇(あ)へる、天の恵(めぐみ)と世の幸(さち)とを併(あは)せ享(う)けて、残る方(かた)無き果報のかくも痛(いみじ)き人もあるものか。美きは貧くて、売らざるを得ず、富めるは醜くて、買はざるを得ず、二者(ふたつ)は※(かな)はぬ世の習なるに、女ながらもかう生れたらんには、その幸(さいはひ)は男にも過ぎぬべしなど、若き女は物羨(ものうらやみ)の念強けれど、妬(ねた)しとは及び難くて、静緒は心に畏(おそ)るるなるべし。
 彼は貴婦人の貌(かたち)に耽(ふけ)りて、その※待(もてなし)にとて携へ来つる双眼鏡を参らするをば気着かでゐたり。こは殿の仏蘭西(フランス)より持ち帰られし名器なるを、漸(やうや)く取出(とりいだ)して薦(すす)めたり。形は一握(いちあく)の中に隠るるばかりなれど、能(よ)く遠くを望み得る力はほとほと神助と疑ふべく、筒は乳白色の玉(ぎよく)もて造られ、僅(わづか)に黄金(きん)細工の金具を施したるのみ。
 やがて双眼鏡は貴婦人の手に在りて、措(お)くを忘らるるまでに愛(め)でられけるが、目の及ばぬ遠き限は南に北に眺尽(ながめつく)されて、彼はこの鏡(グラス)の凡(ただ)ならず精巧なるに驚ける状(さま)なり。
那処(あすこ)に遠く些(ほん)の小楊枝(こようじ)ほどの棒が見えませう、あれが旗なので、浅黄(あさぎ)に赤い柳条(しま)の模様まで昭然(はつきり)見えて、さうして旗竿(はたさを)の頭(さき)に鳶(とび)が宿(とま)つてゐるが手に取るやう」
「おや、さやうでございますか。何でもこの位の眼鏡は西洋にも多度(たんと)御座いませんさうで、招魂社(しようこんしや)のお祭の時などは、狼煙(のろし)の人形が能(よ)く見えるのでございます。私はこれを見まする度(たび)にさやう思ひますのでございますが、かう云う風に話が聞えましたらさぞ宜(よろし)うございませう。余(あんま)り近くに見えますので、音や声なんぞが致すかと想ふやうでございます」
「音が聞えたら、彼方此方(あちこち)の音が一所に成つて粉雑(ごちやごちや)になつて了(しま)ひませう」
 かく言ひて斉(ひとし)く笑へり。静緒は客遇(きやくあしらひ)に慣れたれば、可羞(はづか)しげに見えながらも話を求むるには拙(つたな)からざりき。
「私は始めてこれを見せて戴(いただ)きました折、殿様に全然(すつかり)騙(だま)されましたのでございます。鼻の前(さき)に見えるだらうと仰せられますから、さやうにございますと申上げますと、見えたら直(すぐ)にその眼鏡を耳に推付(おつつ)けて見ろ、早くさへ耳に推付(おつつ)ければ、音でも声でも聞えると仰せられますので……」
 淀無(よどみな)く語出(かたりい)づる静緒の顔を見入りつつ貴婦人は笑(ゑ)ましげに聴ゐたり。
「私は急いで推付けましたのでございます」
「まあ!」
「なに、ちつとも聞えは致しませんのでございますから、さやう申上げますと、推付けやうが悪いと仰せられまして、御自身に遊ばして御覧なさるのでございますよ。何遍致して見ましたか知れませんのでございますけれど、何も聞えは致しませんので。さやう致しますると、お前では可かんと仰せられまして、御供を致してをりました御家来から、御親類方も御在(おいで)でゐらつしやいましたが、皆為(みんななす)つて御覧遊ばしました」
 貴婦人は怺(こら)へかねて失笑せり。
「あら、本当なのでございますよ。それで、未だ推付けやうが悪い、もつと早く早くと仰せられるものでございますから、御殿に居ります速水(はやみ)と申す者は余(あんま)り急ぎましたので、耳の此処(ここ)を酷(ひど)く打(ぶ)ちまして、血を出したのでございます」
 彼の歓(よろこ)べるを見るより静緒は椅子を持来(もちきた)りて薦(すす)めし後、さて語り続くるやう。
「それで誰(たれ)にも聞えないのでございます。さやう致しますると、殿様は御自身に遊ばして御覧で、なるほど聞えない。どうしたのか知らんなんて、それは、もう実にお真面目(まじめ)なお顔で、わざと御考へあそばして、仏蘭西(フランス)に居た時には能(よ)く聞えたのだが、日本は気候が違ふから、空気の具合が眼鏡の度に合はない、それで聞えないのだらうと仰せられましたのを、皆本当に致して、一年ばかり釣られてをりましたのでございます」
 その名器を手にし、その耳にせし人を前にせる貴婦人の興を覚ゆることは、殿の悪作劇(あくさげき)を親く睹(み)たらんにも劣らざりき。
「殿様はお面白(おもしろ)い方でゐらつしやいますから、随分そんな事を遊ばしませうね」
「それでもこの二三年はどうも御気分がお勝(すぐ)れ遊ばしませんので、お険(むづかし)いお顔をしてゐらつしやるのでございます」
 書斎に掛けたる半身の画像こそその病根なるべきを知れる貴婦人は、卒(にはか)に空目遣(そらめづかひ)して物の思はしげに、例の底寂(そこさびし)う打湿(うちしめ)りて見えぬ。
 やや有りて彼は徐(しづか)に立ち上りけるが、こ回(たび)は更に邇(ちか)きを眺めんとて双眼鏡を取り直してけり。彼方此方(あなたこなた)に差向くる筒の当所(あてど)も無かりければ、偶(たまた)ま唐楪葉(からゆづりは)のいと近きが鏡面(レンズ)に入(い)り来(き)て一面に蔓(はびこ)りぬ。粒々の実も珍く、何の木かとそのまま子細に視たりしに、葉蔭を透きて人顔の見ゆるを、心とも無く眺めけるに、自(おのづ)から得忘れぬ面影に肖(に)たるところあり。
 貴婦人は差し向けたる手を緊(しか)と据ゑて、目を拭(ぬぐ)ふ間も忙(せはし)く、なほ心を留めて望みけるに、枝葉(えだは)の遮(さへぎ)りてとかくに思ふままならず。漸(やうや)くその顔の明(あきらか)に見ゆる隙(ひま)を求めけるが、別に相対(さしむか)へる人ありて、髪は黒けれども真額(まつかう)の瑩々(てらてら)禿(は)げたるは、先に挨拶(あいさつ)に出(い)でし家扶の畔柳にて、今一人なるその人こそ、眉濃(まゆこ)く、外眦(まなじり)の昂(あが)れる三十前後の男なりけれ。得忘れぬ面影に肖(に)たりとは未(おろか)や、得忘れぬその面影なりと、ゆくりなくも認めたる貴婦人の鏡(グラス)持てる手は兢々(わなわな)と打顫(うちふる)ひぬ。
 行く水に数画(かずか)くよりも儚(はかな)き恋しさと可懐(なつか)しさとの朝夕に、なほ夜昼の別(わかち)も無く、絶えぬ思はその外ならざりし四年(よとせ)の久きを、熱海の月は朧(おぼろ)なりしかど、一期(いちご)の涙に宿りし面影は、なかなか消えもやらで身に添ふ幻を形見にして、又何日(いつか)は必ずと念懸(おもひか)けつつ、雨にも風にも君が無事を祈りて、心は毫(つゆ)も昔に渝(かは)らねど、君が恨を重ぬる宮はここに在り。思ひに思ふのみにて別れて後の事は知らず、如何(いか)なる労(わづらひ)をやさまでは積みけん、齢(よはひ)よりは面瘁(おもやつれ)して、異(あやし)うも物々しき分別顔(ふんべつかほ)に老いにけるよ。幸薄(さいはひうす)く暮さるるか、着たるものの見好げにもあらで、なほ書生なるべき姿なるは何にか身を寄せらるるならんなど、思は置所無く湧出(わきい)でて、胸も裂けぬべく覚ゆる時、男の何語りてや打笑む顔の鮮(あざやか)に映れば、貴婦人の目よりは涙すずろに玉の糸の如く流れぬ。今は堪(た)へ難くて声も立ちぬべきに、始めて人目あるを暁(さと)りて失(しな)したりと思ひたれど、所為無(せんな)くハンカチイフを緊(きびし)く目に掩(あ)てたり。静緒の驚駭(おどろき)は謂ふばかり無く、
「あれ、如何(いか)が遊ばしました」
「いえ、なに、私は脳が不良(わるい)ものですから、余(あんま)り物を瞶(みつ)めてをると、どうかすると眩暈(めまひ)がして涙の出ることがあるので」
「お腰をお掛け遊ばしまし、少しお頭(ぐし)をお摩(さす)り申上げませう」
「いえ、かうしてをると、今に直(ぢき)に癒(なほ)ります。憚(はばかり)ですがお冷(ひや)を一つ下さいましな」
 静緒は驀地(ましぐら)に行かんとす。
「あの、貴方(あなた)、誰にも有仰(おつしや)らずにね、心配することは無いのですから、本当に有仰らずに、唯私が嗽(うがひ)をすると言つて、持つて来て下さいましよ」
「はい、畏(かしこま)りました」
 彼の階子(はしご)を下り行くと斉(ひとし)く貴婦人は再び鏡(グラス)を取りて、葉越(はごし)の面影を望みしが、一目見るより漸含(さしぐ)む涙に曇らされて、忽(たちま)ち文色(あいろ)も分かずなりぬ。彼は静無(しどな)く椅子に崩折(くづを)れて、縦(ほしいま)まに泣乱したり。

     (四) の 三

 この貴婦人こそ富山宮子にて、今日夫なる唯継(ただつぐ)と倶(とも)に田鶴見子爵に招れて、男同士のシャンペンなど酌交(くみかは)す間(ま)を、請うて庭内を遊覧せんとて出でしにぞありける。
 子爵と富山との交際は近き頃よりにて、彼等の孰(いづれ)も日本写真会々員たるに因(よ)れり。自(おのづか)ら宮の除物(のけもの)になりて二人の興に入(い)れるは、想ふにその物語なるべし。富山はこの殿と親友たらんことを切望して、ひたすらその意(こころ)を獲(え)んと力(つと)めけるより、子爵も好みて交(まじは)るべき人とも思はざれど、勢ひ疎(うとん)じ難(がた)くして、今は会員中善く識(し)れるものの最(さい)たるなり。爾来(じらい)富山は益(ますま)す傾慕して措(お)かず、家にツィシアンの模写と伝へて所蔵せる古画の鑒定(かんてい)を乞ふを名として、曩(さき)に芝西久保(しばにしのくぼ)なる居宅に請じて疎(おろそか)ならず饗(もてな)す事ありければ、その返(かへし)とて今日は夫婦を招待(しようだい)せるなり。
 会員等は富山が頻(しきり)に子爵に取入るを見て、皆その心を測りかねて、大方は彼為(かれため)にするところあらんなど言ひて陋(いやし)み合へりけれど、その実敢(あへ)て為にせんとにもあらざるべし。彼は常にその友を択べり。富山が交(まじは)るところは、その地位に於(おい)て、その名声に於て、その家柄に於て、或(あるひ)はその資産に於て、孰(いづれ)の一つか取るべき者ならざれば決して取らざりき。されば彼の友とするところは、それらの一つを以て優に彼以上に価する人士にあらざるは無し。実(げ)に彼は美き友を有(も)てるなり。さりとて彼は未(いま)だ曾(かつ)てその友を利用せし事などあらざれば、こたびも強(あながち)に有福なる華族を利用せんとにはあらで、友として美き人なれば、かく勉(つと)めて交(まじはり)は求むるならん。故(ゆゑ)に彼はその名簿の中に一箇(いつか)の憂(うれひ)を同(おなじ)うすべき友をだに見出(みいだ)さざるを知れり。抑(そもそ)も友とは楽(たのしみ)を共にせんが為の友にして、若(も)し憂を同うせんとには、別に金銭(マネイ)ありて、人の助を用ゐず、又決して用ゐるに足らずと信じたり。彼の美き友を択ぶは固(もと)よりこの理に外ならず、寔(まこと)に彼の択べる友は皆美けれども、尽(ことごと)くこれ酒肉の兄弟(けいてい)たるのみ。知らず、彼はこれを以てその友に満足すとも、なほこれをその妻に於けるも然(しか)りと為(な)すの勇あるか。彼が最愛の妻は、その一人を守るべき夫の目を※(かす)めて陋(いやし)みても猶(なほ)余ある高利貸の手代に片思の涙を灑(そそ)ぐにあらずや。
 宮は傍(かたはら)に人無しと思へば、限知られぬ涙に掻昏(かきく)れて、熱海の浜に打俯(うちふ)したりし悲歎(なげき)の足らざるをここに続(つ)がんとすなるべし。階下(した)より仄(ほのか)に足音の響きければ、やうやう泣顔隠して、わざと頭(かしら)を支へつつ室(しつ)の中央(まなか)なる卓子(テエブル)の周囲(めぐり)を歩みゐたり。やがて静緒の持来(もちきた)りし水に漱(くちそそ)ぎ、懐中薬(かいちゆうくすり)など服して後、心地復(をさま)りぬとて又窓に倚(よ)りて外方(とのがた)を眺めたりしが、
「ちよいと、那処(あすこ)に、それ、男の方の話をしてお在(いで)の所も御殿の続きなのですか」
何方(どちら)でございます。へ、へい、あれは父の詰所で、誰か客と見えまする」
「お宅は? 御近所なのですか」
「はい、お邸内(やしきうち)でございます。これから直(ぢき)に見えまする、あの、倉の左手に高い樅(もみ)の木がございませう、あの陰に見えます二階家が宅なのでございます」
「おや、さうで。それではこの下から直(ずつ)とお宅の方へ行(い)かれますのね」
「さやうでございます。お邸の裏門の側でございます」
「ああさうですか。では些(ちつ)とお庭の方からお邸内を見せて下さいましな」
「お邸内と申しても裏門の方は誠に穢(きたな)うございまして、御覧あそばすやうな所はございませんです」
 宮はここを去らんとして又葉越(はごし)の面影を窺(うかが)へり。
「付かない事をお聞き申すやうですが、那処(あすこ)にお父様(とつさま)とお話をしてゐらつしやるのは何地(どちら)の方ですか」
 彼の親達は常に出入(でいり)せる鰐淵(わにぶち)の高利貸なるを明さざれば、静緒は教へられし通りを告(つぐ)るなり。
他(あれ)は番町の方の鰐淵と申す、地面や家作などの売買(うりかひ)を致してをります者の手代で、間(はざま)とか申しました」
「はあ、それでは違ふか知らん」
 宮は聞えよがしに独語(ひとりご)ちて、その違(たが)へるを訝(いぶか)るやうに擬(もてな)しつつ又其方(そなた)を打目戍(うちまも)れり。
「番町はどの辺で?」
「五番町だとか申しました」
「お宅へは始終見えるのでございますか」
「はい、折々参りますのでございます」
 この物語に因(よ)りて宮は彼の五番町なる鰐淵といふに身を寄するを知り得たれば、この上は如何(いか)にとも逢ふべき便(たより)はあらんと、獲難(えがた)き宝を獲たるにも勝(まさ)れる心地せるなり。されどもこの後相見んことは何日(いつ)をも計られざるに、願うては神の力も及ぶまじき今日の奇遇を仇(あだ)に、余所(よそ)ながら見て別れんは本意無(ほいな)からずや。若(も)し彼の眼(まなこ)に睨(にら)まれんとも、互の面(おもて)を合せて、言(ことば)は交(かは)さずとも切(せめ)ては相見て相知らばやと、四年(よとせ)を恋に饑(う)ゑたる彼の心は熬(いら)るる如く動きぬ。
 さすがに彼の気遣(きづか)へるは、事の危(あやふ)きに過ぎたるなり。附添さへある賓(まらうど)の身にして、賤(いやし)きものに遇(あつか)はるる手代風情(ふぜい)と、しかもその邸内(やしきうち)の径(こみち)に相見て、万一不慮の事などあらば、我等夫婦は抑(そも)や幾許(いかばか)り恥辱を受くるならん。人にも知られず、我身一つの恥辱ならんには、この面(おもて)に唾吐(つばはか)るるも厭(いと)はじの覚悟なれど奇遇は棄つるに惜き奇遇ながら、逢瀬(あふせ)は今日の一日(ひとひ)に限らぬものを、事の破(やぶれ)を目に見て愚に躁(はやま)るべきや。ゆめゆめ今日は逢ふべき機(をり)ならず、辛(つら)くとも思止まんと胸は据ゑつつも、彼は静緒を賺(すか)して、邸内(やしきうち)を一周せんと、西洋館の後(うしろ)より通用門の側(わき)に出でて、外塀際(そとべいぎは)なる礫道(ざりみち)を行けば、静緒は斜(ななめ)に見ゆる父が詰所の軒端(のきば)を指(さ)して、
那処(あすこ)が唯今の客の参つてをります所でございます」
 実(げ)に唐楪葉(からゆづりは)は高く立ちて、折しく一羽の小鳥来鳴(きな)けり。宮が胸は異(あやし)うつと塞(ふたが)りぬ。
 楼(たかどの)を下りてここに来たるは僅少(わづか)の間(ひま)なれば、よもかの人は未(いま)だ帰らざるべし、若しここに出で来(きた)らば如何(いか)にすべきなど、さすがに可恐(おそろし)きやうにも覚えて、歩(あゆみ)は運べど地を踏める心地も無く、静緒の語るも耳には入(い)らで、さて行くほどに裏門の傍(かたはら)に到りぬ。
 遊覧せんとありしには似で、貴婦人の目を挙(あぐ)れども何処(いづこ)を眺むるにもあらず、俯(うつむ)き勝に物思はしき風情(ふぜい)なるを、静緒は怪くも気遣(きづかはし)くて、
「まだ御気分がお悪うゐらつしやいますか」
「いいえ、もう大概良いのですけれど、未(ま)だ何だか胸が少し悪いので」
「それはお宜(よろし)うございません。ではお座敷へお帰りあそばしました方がお宜うございませう」
家(うち)の中よりは戸外(おもて)の方が未だ可いので、もう些(ち)と歩いてゐる中には復(をさま)りますよ。ああ、此方(こちら)がお宅ですか」
「はい、誠に見苦い所でございます」
「まあ、奇麗な! 木槿(もくげ)が盛(さかり)ですこと。白ばかりも淡白(さつぱり)して好(よ)いぢやありませんか」
 畔柳の住居(すまひ)を限として、それより前(さき)は道あれども、賓(まらうど)の足を容(い)るべくもあらず、納屋、物干場、井戸端などの透きて見ゆる疎垣(まだらがき)の此方(こなた)に、樫(かし)の実の夥(おびただし)く零(こぼ)れて、片側(かたわき)に下水を流せる細路(ほそみち)を鶏の遊び、犬の睡(ねむ)れるなど見るも悒(いぶせ)きに、静緒は急ぎ返さんとせるなり。貴婦人もはや返さんとするとともに恐懼(おそれ)は忽(たちま)ちその心を襲へり。
 この一筋道を行くなれば、もしかの人の出来(いできた)るに会はば、遁(のが)れんやうはあらで明々地(あからさま)に面(おもて)を合すべし。さるは望まざるにもあらねど、静緒の見る目あるを如何(いか)にせん。仮令(たとひ)此方(こなた)にては知らぬ顔してあるべきも、争(いか)でかの人の見付けて驚かざらん。固(もと)より恨を負へる我が身なれば、言(ことば)など懸けらるべしとは想はねど、さりとてなかなか道行く人のやうには見過されざるべし。ここに宮を見たるその驚駭(おどろき)は如何ならん。仇(あだ)に遇(あ)へるその憤懣(いきどほり)は如何ならん。必ずかの人の凄(すさまじ)う激せるを見ば、静緒は幾許(いかばかり)我を怪むらん。かく思ひ浮ぶると斉(ひとし)く身内は熱して冷(つめた)き汗を出(いだ)し、足は地に吸るるかとばかり竦(すく)みて、宮はこれを想ふにだに堪(た)へざるなりけり。脇道(わきみち)もあらば避けんと、静緒に問へば有らずと言ふ。知りつつもこの死地に陥りたるを悔いて、遣(や)る方も無く惑へる宮が面色(おももち)の穏(やす)からぬを見尤(みとが)めて、静緒は窃(ひそか)に目を側(そば)めたり。彼はいとどその目を懼(おそ)るるなるべし。今は心も漫(そぞろ)に足を疾(はや)むれば、土蔵の角(かど)も間近になりて其処(そこ)をだに無事に過ぎなば、と切(しきり)に急がるる折しも、人の影は突(とつ)としてその角より顕(あらは)れつ。宮は眩(めくるめ)きぬ。
 これより帰りてともかくもお峯が前は好(よ)きやうに言譌(いひこしら)へ、さて篤と実否を糺(ただ)せし上にて私(ひそか)に為(せ)んやうも有らんなど貫一は思案しつつ、黒の中折帽を稍(やや)目深(まぶか)に引側(ひきそば)め、通学に馴(なら)されし疾足(はやあし)を駆りて、塗籠(ぬりこめ)の角より斜(ななめ)に桐の並木の間(あひ)を出でて、礫道(ざりみち)の端を歩み来(きた)れり。
 四辺(あたり)に往来(ゆきき)のあるにあらねば、二人の姿は忽(たちま)ち彼の目に入りぬ。一人は畔柳の娘なりとは疾(と)く知られけれど、顔打背(かほうちそむ)けたる貴婦人の眩(まばゆ)く着飾りたるは、子爵家の客なるべしと纔(わづか)に察せらるるのみ。互に歩み寄りて一間ばかりに近(ちかづ)けば、貫一は静緒に向ひて慇懃(いんぎん)に礼するを、宮は傍(かたはら)に能(あた)ふ限は身を窄(すぼ)めて密(ひそか)に流盻(ながしめ)を凝したり。その面(おもて)の色は惨として夕顔の花に宵月の映(うつろ)へる如く、その冷(ひややか)なるべきもほとほと、相似たりと見えぬ。脚(あし)は打顫(うちふる)ひ打顫ひ、胸は今にも裂けぬべく轟(とどろ)くを、覚(さと)られじとすれば猶(なほ)打顫ひ猶轟きて、貫一が面影の目に沁(し)むばかり見ゆる外は、生きたりとも死にたりとも自ら分かぬ心地してき。貫一は帽を打着て行過ぎんとする際(きは)に、ふと目鞘(めざや)の走りて、館の賓(まらうど)なる貴婦人を一瞥(べつ)せり。端無(はしな)くも相互(たがひ)の面(おもて)は合へり。宮なるよ! 姦婦(かんぷ)なるよ! 銅臭の肉蒲団(にくぶとん)なるよ! とかつは驚き、かつは憤り、はたと睨(ね)めて動かざる眼(まなこ)には見る見る涙を湛(たた)へて、唯一攫(ひとつかみ)にもせまほしく肉の躍(をど)るを推怺(おしこら)へつつ、窃(ひそか)に歯咬(はがみ)をなしたり。可懐(なつか)しさと可恐(おそろ)しさと可耻(はづか)しさとを取集めたる宮が胸の内は何に喩(たと)へんやうも無く、あはれ、人目だにあらずば抱付(いだきつ)きても思ふままに苛(さいな)まれんをと、心のみは憧(あこが)れながら身を如何(いかに)とも為難(しがた)ければ、せめてこの誠は通ぜよかしと、見る目に思を籠(こ)むるより外はあらず。
 貫一はつと踏出して始の如く足疾(あしばや)に過行けり。宮は附人(つきひと)に面を背(そむ)けて、唇(くちびる)を咬(か)みつつ歩めり。驚きに驚かされし静緒は何事とも弁(わきま)へねど、推(すい)すべきほどには推して、事の秘密なるを思へば、賓(まらうど)の顔色のさしも常ならず変りて可悩(なやま)しげなるを、問出でんも可(よし)や否(あし)やを料(はか)りかねて、唯可慎(つつまし)う引添ひて行くのみなりしが、漸く庭口に来にける時、
「大相お顔色がお悪くてゐらつしやいますが、お座敷へお出(いで)あそばして、お休み遊ばしましては如何(いかが)でございます」
「そんなに顔色が悪うございますか」
「はい、真蒼(まつさを)でゐらつしやいます」
「ああさうですか、困りましたね。それでは彼方(あちら)へ参つて、又皆さんに御心配を懸けると可(い)けませんから、お庭を一周(ひとまはり)しまして、その内には気分が復(なほ)りますから、さうしてお座敷へ参りませう。然し今日は大変貴方(あなた)のお世話になりまして、お蔭様で私も……」
「あれ、飛んでもない事を有仰(おつしや)います」
 貴婦人はその無名指(むめいし)より繍眼児(めじろ)の押競(おしくら)を片截(かたきり)にせる黄金(きん)の指環を抜取りて、懐紙(ふところかみ)に包みたるを、
「失礼ですが、これはお礼のお証(しるし)に」
 静緒は驚き怖(おそ)れたるなり。
「はい……かう云ふ物を……」
可(よ)うございますから取つて置いて下さい。その代り誰にもお見せなさらないやうに、阿父様(おとつさま)にも阿母様(おつかさま)にも誰にも有仰(おつしや)らないやうに、ねえ」
 受けじと為るを手籠(てごめ)に取せて、互に何も知らぬ顔して、木の間伝ひに泉水の麁朶橋(そたばし)近く寄る時、書院の静なるに夫の高笑(たかわらひ)するが聞えぬ。
 宮はこの散歩の間に勉(つと)めて気を平(たひら)げ、色を歛(をさ)めて、ともかくも人目を※(のが)れんと計れるなり。されどもこは酒を窃(ぬす)みて酔はざらんと欲するに同(おなじ)かるべし。
 彼は先に遭(あ)ひし事の胸に鏤(ゑ)られたらんやうに忘るる能(あた)はざるさへあるに、なかなか朽ちも果てざりし恋の更に萠出(もえい)でて、募りに募らんとする心の乱(みだれ)は、堪(た)ふるに難(かた)き痛苦(くるしみ)を齎(もたら)して、一歩は一歩より、胸の逼(せま)ること急に、身内の血は尽(ことごと)くその心頭(しんとう)に注ぎて余さず熬(い)らるるかと覚ゆるばかりなるに、かかる折は打寛(うちくつろ)ぎて意任(こころまか)せの我が家に独り居たらんぞ可(よ)き。人に接して強(し)ひて語り、強ひて笑ひ、強ひて楽まんなど、あな可煩(わづらは)しと、例の劇(はげし)く唇(くちびる)を咬(か)みて止まず。
 築山陰(つきやまかげ)の野路(のぢ)を写せる径(こみち)を行けば、蹈処無(ふみどころな)く地を這(は)ふ葛(くず)の乱れ生(お)ひて、草藤(くさふぢ)、金線草(みづひき)、紫茉莉(おしろい)の色々、茅萱(かや)、穂薄(ほすすき)の露滋(つゆしげ)く、泉水の末を引きて※々(ちよろちよろ)水(みづ)を卑(ひく)きに落せる汀(みぎは)なる胡麻竹(ごまたけ)の一叢(ひとむら)茂れるに隠顕(みえかくれ)して苔蒸(こけむ)す石組の小高きに四阿(あづまや)の立てるを、やうやう辿り着きて貴婦人は艱(なやま)しげに憩へり。
 彼は静緒の柱際(はしらぎは)に立ちて控ふるを、
「貴方もお草臥(くたびれ)でせう、あれへお掛けなさいな。未だ私の顔色は悪うございますか」
 その色の前(さき)にも劣らず蒼白(あをざ)めたるのみならで、下唇の何に傷(きずつ)きてや、少(すこし)く血の流れたるに、彼は太(いた)く驚きて、
「あれ、お唇から血が出てをります。如何(いかが)あそばしました」
 ハンカチイフもて抑へければ、絹の白きに柘榴(ざくろ)の花弁(はなびら)の如く附きたるに、貴婦人は懐鏡(ふところかがみ)取出(とりいだ)して、咬(か)むことの過ぎし故(ゆゑ)ぞと知りぬ。実(げ)に顔の色は躬(みづから)も凄(すご)しと見るまでに変れるを、庭の内をば幾周(いくめぐり)して我はこの色を隠さんと為(す)らんと、彼は心陰(こころひそか)に己(おのれ)を嘲(あざけ)るなりき。
 忽(たちま)ち女の声して築山の彼方(あなた)より、
「静緒さん、静緒さん!」
 彼は走り行き、手を鳴して応(こた)へけるが、やがて木隠(こがくれ)に語(かたら)ふ気勢(けはひ)して、返り来ると斉(ひとし)く賓(まらうど)の前に会釈して、
「先程からお座敷ではお待兼でゐらつしやいますさうで御座いますから、直(すぐ)に彼方(あちら)へお出(いで)あそばしますやうに」
「おや、さうでしたか。随分先から長い間道草を食べましたから」
 道を転じて静緒は雲帯橋(うんたいきよう)の在る方(かた)へ導けり。橋に出づれば正面の書院を望むべく、はや所狭(ところせま)きまで盃盤(はいばん)を陳(つら)ねたるも見えて、夫は席に着きゐたり。
 此方(こなた)の姿を見るより子爵は縁先に出でて麾(さしまね)きつつ、
「そこをお渡りになつて、此方(こちら)に燈籠(とうろう)がございませう、あの傍(そば)へ些(ちよつ)とお出で下さいませんか。一枚像(とら)して戴きたい」
 写真機は既に好き処に据ゑられたるなり。子爵は庭に下立(おりた)ちて、早くもカメラの覆(おほひ)を引被(ひきかつ)ぎ、かれこれ位置を取りなどして、
「さあ、光線の具合が妙だ!」
 いでや、事の様(よう)を見んとて、慢々(ゆらゆら)と出来(いできた)れるは富山唯継なり。片手には葉巻(シガア)の半(なかば)燻(くゆ)りしを撮(つま)み、片臂(かたひぢ)を五紋の単羽織(ひとへはおり)の袖(そで)の内に張りて、鼻の下の延びて見ゆるやうの笑(ゑみ)を浮べつつ、
「ああ、おまへ其処(そこ)に居らんければ可かんよ、何為(なぜ)歩いて来るのかね」
 子爵の慌(あわ)てたる顔はこの時毛繻子(けじゆす)の覆の内よりついと顕(あらは)れたり。
「可けない! 那処(あすこ)に居て下さらなければ可けませんな。何、御免を蒙(かうむ)る? ——可けない! お手間は取せませんから、どうぞ」
「いや、貴方(あなた)は巧い言(こと)をお覚えですな。お手間は取せませんは余程好い」
「この位に言つて願はんとね、近頃は写してもらふ人よりは写したがる者の方が多いですからね。さあ、奥さん、まあ、彼方(あちら)へ。静緒、お前奥さんを那処(あすこ)へお連れ申して」
 唯継は目もて示して、
「お前、早く行かんけりや可かんよ、折角かうして御支度(ごしたく)をなすつて下すつたのに、是非願ひな。ええ。あの燈籠の傍(そば)へ立つのだ。この機械は非常に結構なのだから是非願ひな。何も羞含(はにか)むことは無いぢやないか、何羞含む訳ぢやない? さうとも羞含むことは無いとも、始終内で遣(や)つてをるのに、あれで可いのさ。姿勢(かたち)は私が見て遣るから早くおいで。燈籠へ倚掛(よつかか)つて頬杖(ほほづゑ)でも※(つ)いて、空を眺(なが)めてゐる状(かたち)なども可いよ。ねえ、如何(いかが)でせう」
「結構。結構」と子爵は頷(うなづ)けり。
 心は進まねど強ひて否(いな)むべくもあらねば、宮は行きて指定の位置に立てるを、唯継は望み見て、
「さう棒立ちになつてをつちや可かんぢやないか。何ぞ持つてをる方が可いか知らんて」
 かく呟(つぶや)きつつ庭下駄を引掛(ひきか)け、急ぎ行きて、その想へるやうに燈籠に倚(よら)しめ、頬杖を※(つか)しめ、空を眺めよと教へて、袂(たもと)の皺(しわ)めるを展(の)べ、裾(すそ)の縺(もつれ)を引直し、さて好しと、少(すこし)く退(の)きて姿勢を見るとともに、彼はその面(おもて)の可悩(なやまし)げに太(いた)くも色を変へたるを発見して、直(ただち)に寄り来つ、
「どうしたのだい、おまへ、その顔色は? 何処(どこ)か不快(わるい)のか、ええ。非常な血色だよ。どうした」
「少しばかり頭痛がいたすので」
「頭痛? それぢやかうして立つてをるのは苦いだらう」
「いいえ、それ程ではないので」
「苦いやうなら我慢をせんとも、私(わし)が訳を言つてお謝絶(ことわり)をするから」
「いいえ、宜(よろし)うございますよ」
「可いかい、本当に可いかね。我慢をせんとも可いから」
「宜うございますよ」
「さうか、然し非常に可厭(いや)な色だ」
 彼は眷々(けんけん)として去る能(あた)はざるなり。待ちかねたる子爵は呼べり。
如何(いかが)ですか」
 唯継は慌忙(あわただし)く身を開きて、
「一つこれで御覧下さい」
 鏡面(レンズ)に照して二三の改むべきを注意せし後、子爵は種板(たねいた)を挿入(さしい)るれば、唯継は心得てその邇(ちかき)を避けたり。
 空を眺むる宮が目の中(うち)には焚(も)ゆらんやうに一種の表情力充満(みちみ)ちて、物憂さの支へかねたる姿もわざとならず。色ある衣(きぬ)は唐松(からまつ)の翠(みどり)の下蔭(したかげ)に章(あや)を成して、秋高き清遠の空はその後に舗(し)き、四脚(よつあし)の雪見燈籠を小楯(こだて)に裾の辺(あたり)は寒咲躑躅(かんざきつつじ)の茂(しげみ)に隠れて、近きに二羽の鵞(が)の汀(みぎは)に※(あさ)るなど、寧(むし)ろ画にこそ写さまほしきを、子爵は心に喜びつつ写真機の前に進み出で、今や鏡面(レンズ)を開かんと構ふる時、貴婦人の頬杖は忽(たちま)ち頽(くづ)れて、その身は燈籠の笠の上に折重なりて岸破(がば)と伏しぬ。

     第 五 章

 遊佐良橘(ゆさりようきつ)は郷里に在りし日も、出京の遊学中も、頗(すこぶ)る謹直を以(も)て聞えしに、却(かへ)りて、日本周航会社に出勤せる今日(こんにち)、三百円の高利の為に艱(なやま)さるると知れる彼の友は皆驚けるなり。或ものは結婚費なるべしと言ひ、或ものは外(おもて)を張らざるべからざる為の遣繰(やりくり)なるべしと言ひ、或ものは隠遊(かくれあそび)の風流債ならんと説くもありて、この不思議の負債とその美き妻とは、遊佐に過ぎたる物が二つに数へらるるなりき。されどもこは謂(い)ふべからざる事情の下に連帯の印(いん)を仮(か)せしが、形(かた)の如く腐れ込みて、義理の余毒の苦を受(うく)ると知りて、彼の不幸を悲むものは、交際官試補なる法学士蒲田(かまだ)鉄弥と、同会社の貨物課なる法学士風早庫之助(かざはやくらのすけ)とあるのみ。
 凡(およ)そ高利の術たるや、渇者(かつしや)に水を売るなり。渇の甚(はなはだし)く堪(た)へ難き者に至りては、決してその肉を割(さ)きてこれを換ふるを辞せざるべし。この急に乗じてこれを売る、一杯の水もその値(あたひ)玉漿(ぎよくしよう)を盛るに異る無し。故(ゆゑ)に前後不覚に渇する者能くこれを買ふべし、その渇の癒(いゆ)るに及びては、玉漿なりとして喜び吃(きつ)せしものは、素(も)と下水の上澄(うはずみ)に過ぎざるを悟りて、痛恨、痛悔すといへども、彼は約の如く下水の倍量をばその鮮血に搾(しぼ)りその活肉に割きて以て返さざるべからず。噫(ああ)、世間の最も不敵なる者高利を貸して、これを借(か)るは更に最も不敵なる者と為さざらんや。ここを以(も)て、高利は借(か)るべき人これを借りて始めて用ゐるべし。さらずばこれを借るの覚悟あるべきを要す。これ風早法学士の高利貸に対する意見の概要なり。遊佐は実にこの人にあらず、又この覚悟とても有らざるを、奇禍に罹(かか)れる哉(かな)と、彼は人の為ながら常にこの憂(うれひ)を解く能(あた)はざりき。
 近きに郷友会(きようゆうかい)の秋季大会あらんとて、今日委員会のありし帰(かへる)さを彼等は三人(みたり)打連れて、遊佐が家へ向へるなり。
「別に御馳走(ごちそう)と云つては無いけれど、松茸(まつだけ)の極新(ごくあたらし)いのと、製造元から貰(もら)つた黒麦酒(くろビイル)が有るからね、鶏(とり)でも買つて、寛(ゆつく)り話さうぢやないか」
 遊佐が弄(まさぐ)れる半月形の熏豚(ハム)の罐詰(かんづめ)も、この設(まうけ)にとて途(みち)に求めしなり。
 蒲田の声は朗々として聴くに快く、
蒲「それは結構だ。さう泊(とまり)が知れて見ると急ぐにも当らんから、どうだね、一ゲエム。君はこの頃風早と対(たい)に成つたさうだが、長足の進歩ぢやないか。然(しか)し、どうもその長足のちやう[#「ちやう」に傍点]はてう[#「てう」に傍点](貂)足らず、続(つ)ぐにフロックを以つて為るのぢやないかい。この頃は全然(すつかり)フロックが止(とま)つた? ははははは[#「ははははは」に傍点]、それはお目出度(めでた)いやうな御愁傷のやうな妙な次第だね。然し、フロックが止つたのは明(あきらか)に一段の進境を示すものだ。まあ、それで大分話せるやうになりました」
 風早は例の皺嗄声(しわかれごゑ)して大笑(たいしよう)を発せり。
風「更に一段の進境を示すには、竪杖(たてキュウ)をして二寸三分クロオスを裂(やぶ)かなければ可けません」
蒲「三たび臂(ひぢ)を折つて良医となるさ。あれから僕は竪杖(たてキュウ)の極意を悟つたのだ」
風「へへへ、この頃の僕の後曳(あとびき)の手際(てぎは)も知らんで」
 これを聞きて、こたびは遊佐が笑へり。
遊「君の後曳も口ほどではないよ。この間那処(あすこ)の主翁(おやぢ)がさう言つてゐた、風早さんが後曳を三度なさると新いチョオクが半分失(なくな)る……」
蒲「穿得(うがちえ)て妙だ」
風「チョオクの多少は業(わざ)の巧拙には関せんよ。遊佐が無闇(むやみ)に杖(キュウ)を取易(とりか)へるのだつて、決して見(み)とも好くはない」
 蒲田は手もて遽(にはか)に制しつ。
「もう、それで可い。他(ひと)の非を挙げるやうな者に業(わざ)の出来た例(ためし)が無い。悲い哉(かな)君達の球も蒲田に八十で底止(とまり)だね」
風「八十の事があるものか」
蒲「それでは幾箇(いくつ)で来るのだ」
「八十五よ」
「五とは情無い! 心の程も知られける哉(かな)だ」
「何でも可いから一ゲエム行かう」
「行かうとは何だ! 願ひますと言ふものだ」
 語(ことば)も訖(をは)らざるに彼は傍腹(ひばら)に不意の肱突(ひぢつき)を吃(くら)ひぬ。
「あ、痛(いた)! さう強く撞(つ)くから毎々球が滾(ころ)げ出すのだ。風早の球は暴(あら)いから癇癪玉(かんしやくだま)と謂ふのだし、遊佐のは馬鹿に柔(やはらか)いから蒟蒻玉(こんにやくだま)。それで、二人の撞くところは電公(かみなり)と蚊帳(かや)が捫択(もんちやく)してゐるやうなものだ」
風「ええ、自分がどれほど撞けるのだ」
蒲「さう、多度(たんと)も行かんが、天狗(てんぐ)の風早に二十遣るのさ」
 二人は劣らじと諍(あらが)ひし末、直(ただち)に一番の勝負をいざいざと手薬煉(てぐすね)引きかくるを、遊佐は引分けて、
「それは飲んでからに為やう。夜が長いから後で寛(ゆつく)り出来るさ。帰つて風呂にでも入(い)つて、それから徐々(そろそろ)始めやうよ」
 往来繁(ゆききしげ)き町を湯屋の角より入(い)れば、道幅その二分の一ばかりなる横町の物売る店も雑(まじ)りながら閑静に、家並(やなみ)整へる中程に店蔵(みせぐら)の質店(しちや)と軒ラムプの並びて、格子木戸(こうしきど)の内を庭がかりにしたる門(かど)に楪葉(ゆづりは)の立てるぞ遊佐が居住(すまひ)なる。
 彼は二人を導きて内格子を開きける時、彼の美き妻は出(い)で来(きた)りて、伴へる客あるを見て稍(やや)打惑へる気色(けしき)なりしが、遽(にはか)に笑(ゑみ)を含みて常の如く迎へたり。
「さあ、どうぞお二階へ」
「座敷は?」と夫に尤(とが)められて、彼はいよいよ困(こう)じたるなり。
唯今(ただいま)些(ちよい)と塞(ふさが)つてをりますから」
「ぢや、君、二階へどうぞ」
 勝手を知れる客なれば※々(づかづか)と長四畳を通りて行く跡に、妻は小声になりて、
鰐淵(わにぶち)から参つてをりますよ」
「来たか!」
「是非お目に懸りたいと言つて、何と言つても帰りませんから、座敷へ上げて置きました、些(ちよい)とお会ひなすつて、早く還(かへ)してお了(しま)ひなさいましな」
松茸(まつだけ)はどうした」
 妻はこの暢気(のんき)なる問に驚かされぬ。
「貴方、まあ松茸なんぞよりは早く……」
「待てよ。それからこの間の黒麦酒(くろビイル)な……」
「麦酒も松茸もございますから早くあれを還してお了ひなさいましよ。私(わたし)は那奴(あいつ)が居ると思ふと不快(いや)な心持で」
 遊佐も差当りて当惑の眉(まゆ)を顰(ひそ)めつ。二階にては例の玉戯(ビリアアド)の争(あらそひ)なるべし、さも気楽に高笑(たかわらひ)するを妻はいと心憎く。
 少間(しばし)ありて遊佐は二階に昇り来(きた)れり。
蒲「浴(ゆ)に一つ行かうよ。手拭(てぬぐひ)を貸してくれ給へな」
遊「ま、待ち給へ、今一処に行くから。時に弱つて了つた」
 実(げ)に言ふが如く彼は心穏(こころおだや)かならず見ゆるなり。
風「まあ、坐りたまへ。どうしたのかい」
遊「坐つてもをられんのだ、下に高利貸(アイス)が来てをるのだよ」
蒲「那物(えてもの)が来たのか」
遊「先から座敷で帰来(かへり)を待つてをつたのだ。困つたね!」
 彼は立ちながら頭(かしら)を抑へて緩(ゆる)く柱に倚(よ)れり。
蒲「何とか言つて逐返(おつかへ)して了ひ給へ」
遊「なかなか逐返らんのだよ。陰忍(ひねくね)した皮肉な奴でね、那奴(あいつ)に捉(つかま)つたら耐(たま)らん」
蒲「二三円も叩(たた)き付けて遣るさ」
遊「もうそれも度々(たびたび)なのでね、他(むかふ)は書替を為(さ)せやうと掛つてゐるのだから、延期料を握つたのぢや今日は帰らん」
 風早は聴ゐるだに心苦くて、
「蒲田、君一つ談判してやり給へ、ええ、何とか君の弁を揮(ふる)つて」
「これは外の談判と違つて唯金銭(かね)づくなのだから、素手(すで)で飛込むのぢや弁の奮(ふる)ひやうが無いよ。それで忽諸(まごまご)すると飛んで火に入る夏の虫となるのだから、まあ君が行つて何とか話をして見たまへ。僕は様子を立聞して、臨機応変の助太刀(すけだち)を為るから」
 いと難(むづか)しと思ひながらも、かくては果てじと、遊佐は気を取直して下り行くなりけり。
風「気の毒な、萎(しを)れてゐる。あれの事だから心配してゐるのだ。君、何とかして拯(すく)つて遣り給へな」
蒲「一つ行つて様子を見て来やう。なあに、そんなに心配するほどの事は無いのだよ。遊佐は気が小いから可(い)かない。ああ云ふ風だから益(ますま)す脚下(あしもと)を見られて好い事を為れるのだ。高が金銭(かね)の貸借(かしかり)だ、命に別条は有りはしないさ」
「命に別条は無くても、名誉に別条が有るから、紳士たるものは懼(おそ)れるだらうぢやないか」
「ところが懼れない! 紳士たるものが高利(アイス)を貸したら[#「貸したら」に傍点]名誉に関らうけれど、高い利を払つて借りるのだから、安利(あんり)や無利息なんぞを借りるから見れば、夐(はるか)に以つて栄とするに足れりさ。紳士たりといへども金銭(かね)に窮(こま)らんと云ふ限は無い、窮つたから借りるのだ。借りて返さんと言ひは為(す)まいし、名誉に於て傷(きずつ)くところは少しも無い」
「恐入りました、高利(アイス)を借りやうと云ふ紳士の心掛は又別の物ですな」
「で、仮に一歩を譲るさ、譲つて、高利(アイス)を借りるなどは、紳士たるもののいとも慚(は)づべき行(おこなひ)と為るよ。さほど慚づべきならば始から借りんが可いぢやないか。既に借りた以上は仕方が無い、未(いま)だ借りざる先の慚づべき心を以つてこれに対せんとするも能(あた)はざるなりだらう。宋(そう)の時代であつたかね、何か乱が興(おこ)つた。すると上奏に及んだものがある、これは師(いくさ)を動かさるるまでもない、一人(いちにん)の将を河上(かじよう)へ遣(つかは)して、賊の方(かた)に向つて孝経(こうきよう)を読せられた事ならば、賊は自(おのづ)から消滅せん、は好いぢやないか。これを笑ふけれど、遊佐の如きは真面目(まじめ)で孝経を読んでゐるのだよ、既に借りてさ、天引四割(てんびきしわり)と吃(く)つて一月隔(おき)に血を吮(すは)れる。そんな無法な目に遭(あ)ひながら、未(いま)だ借りざる先の紳士たる徳義や、良心を持つてゐて耐るものか。孝経が解るくらゐなら高利(アイス)は貸しません、彼等は銭勘定の出来る毛族(けだもの)さ」
 得意の快弁流るる如く、彼は息をも継(つが)せず説来(とききた)りぬ。
濡(ぬ)れぬ内こそ露をもだ。遊佐も借りんのなら可いさ、既に借りて、無法な目に遭ひながら、なほ未(いま)だ借りざる先の良心を持つてゐるのは大きな※(あやまり)だ。それは勿論(もちろん)借りた後といへども良心を持たなければならんけれど、借りざる先の良心と、借りたる後の良心とは、一物(いちぶつ)にして一物ならずだよ。武士の魂(たましひ)と商人(あきんど)根性とは元是(これ)一物なのだ。それが境遇に応じて魂ともなれば根性ともなるのさ。で、商人根性といへども決して不義不徳を容(ゆる)さんことは、武士の魂と敢(あへ)て異るところは無い。武士にあつては武士魂なるものが、商人(あきんど)にあつては商人根性なのだもの。そこで、紳士も高利(アイス)などを借りん内は武士の魂よ、既に対高利(たいアイス)となつたら、商人根性にならんければ身が立たない。究竟(つまり)は敵に応ずる手段なのだ」
「それは固より御同感さ。けれども、紳士が高利(アイス)を借りて、栄と為るに足れりと謂(い)ふに至つては……」
 蒲田は恐縮せる状(さま)を作(な)して、
「それは少し白馬は馬に非(あら)ずだつたよ」
「時に、もう下へ行つて見て遣り給へ」
「どれ、一匕(いつぴ)深く探る蛟鰐(こうがく)の淵(えん)と出掛けやうか」
空拳(くうけん)を奈(いか)んだらう」
 一笑して蒲田は二階を下りけり。風早は独(ひと)り臥(ね)つ起きつ安否の気遣(きづかは)れて苦き無聊(ぶりよう)に堪へざる折から、主(あるじ)の妻は漸(やうや)く茶を持ち来りぬ。
「どうも甚(はなは)だ失礼を致しました」
「蒲田は座敷へ参りましたか」
 彼はその美き顔を少く赧(あか)めて、
「はい、あの居間へお出(いで)で、紙門越(ふすまごし)に様子を聴いてゐらつしやいます。どうもこんなところを皆様のお目に掛けまして、実にお可恥(はづかし)くてなりません」
「なあに、他人ぢやなし、皆様子を知つてゐる者ばかりですから構ふ事はありません」
私(わたくし)はもう彼奴(あいつ)が参りますと、惣毛竪(そうけだ)つて頭痛が致すのでございます。あんな強慾な事を致すものは全く人相が別でございます。それは可厭(いや)に陰気な※々(ねちねち)した、底意地の悪さうな、本当に探偵小説にでも在りさうな奴でございますよ」
 急足(いそぎあし)に階子(はしご)を鳴して昇り来りし蒲田は、
「おいおい風早、不思議、不思議」
 と上端(あがりはな)に坐れる妻の背後(うしろ)を過(すぐ)るとて絶(したた)かその足を蹈付(ふんづ)けたり。
「これは失礼を。お痛うございましたらう。どうも失礼を」
 骨身に沁(し)みて痛かりけるを妻は赤くなりて推怺(おしこら)へつつ、さり気無く挨拶(あいさつ)せるを、風早は見かねたりけん、
不相変(あひかはらず)麁相(そそつ)かしいね、蒲田は」
「どうぞ御免を。つい慌(あわ)てたものだから……」
「何をそんなに慌てるのさ」
落付(おちつか)れる訳のものではないよ。下に来てゐる高利貸(アイス)と云ふのは、誰(たれ)だと思ふ」
「君のと同し奴かい」
「人様の居る前で君の[#「君の」に傍点]とは怪しからんぢやないか」
「これは失礼」
「僕は妻君の足を蹈んだのだが、君は僕の面(つら)を蹈んだ」
「でも仕合(しあはせ)と皮の厚いところで」
怪(け)しからん!」
 妻の足の痛(いたみ)は忽(たちま)ち下腹に転(うつ)りて、彼は得堪へず笑ふなりけり。
風「常談どころぢやない、下では苦しんでゐる人があるのだ」
蒲「その苦しめてゐる奴だ、不思議ぢやないか、間だよ、あの間貫一だよ」
 敵寄すると聞きけんやうに風早は身構へて、
「間貫一、学校に居た?!」
「さう! 驚いたらう」
 彼は長き鼻息を出して、空(むなし)く眼(まなこ)を※(みは)りしが
「本当かい」
「まあ、見て来たまへ」
 別して呆(あき)れたるは主(あるじ)の妻なり。彼は鈍(おぞ)ましからず胸の跳(をど)るを覚えぬ。同じ思は二人が面(おもて)にも顕(あらは)るるを見るべし。
「下に参つてゐるのは御朋友(ごほうゆう)なのでございますか」
 蒲田は忙(せは)しげに頷(うなづ)きて、
「さうです。我々と高等中学の同級に居つた男なのですよ」
「まあ!」
夙(かね)て学校を罷(や)めてから高利貸(アイス)を遣つてゐると云ふ話は聞いてゐましたけれど、極温和(ごくおとなし)い男で、高利貸(アイス)などの出来る気ぢやないのですから、そんな事は虚(うそ)だらうと誰も想つてをつたのです。ところが、下に来てゐるのがその間貫一ですから驚くぢやありませんか」
「まあ! 高等中学にも居た人が何だつて高利貸などに成つたのでございませう」
「さあ、そこで誰も虚(うそ)と想ふのです」
本(ほん)にさうでございますね」
 少(すこし)き前に起ちて行きし風早は疑(うたがひ)を霽(はら)して帰り来(きた)れり。
「どうだ、どうだ」
「驚いたね、確に間貫一!」
「アルフレッド大王の面影(おもかげ)があるだらう」
「エッセクスを逐払(おつぱら)はれた時の面影だ。然し彼奴(あいつ)が高利貸を遣らうとは想はなかつたが、どうしたのだらう」
「さあ、あれで因業(いんごう)な事が出来るだらうか」
「因業どころではございませんよ」
 主(あるじ)の妻はその美き顔を皺(しわ)めたるなり。
蒲「随分酷(ひど)うございますか」
妻「酷うございますわ」
 こたびは泣顔せるなり。風早は決するところ有るが如くに余せし茶をば遽(にはか)に取りて飲干し、
「然し間であるのが幸(さいはひ)だ、押掛けて行つて、昔の顔で一つ談判せうぢやないか。我々が口を利くのだ、奴もさう阿漕(あこぎ)なことは言ひもすまい。次手(ついで)に何とか話を着けて、元金(もときん)だけか何かに負けさして遣らうよ。那奴(あいつ)なら恐れることは無い」
 彼の起ちて帯締直すを蒲田は見て、
「まるで喧嘩(けんか)に行くやうだ」
「そんな事を言はずに自分も些(ちつ)と気凛(きりつ)とするが可い、帯の下へ時計の垂下(ぶらさが)つてゐるなどは威厳を損じるぢやないか」
「うむ、成程」と蒲田も立上りて帯を解けば、主(あるじ)の妻は傍(かたはら)より、
「お羽織をお取りなさいましな」
「これは憚様(はばかりさま)です。些(ちよつ)と身支度に婦人の心添(こころぞへ)を受けるところは堀部安兵衛(ほりべやすべえ)といふ役だ。然し芝居でも、人数(にんず)が多くて、支度をする方は大概取つて投げられるやうだから、お互に気を着ける事だよ」
「馬鹿な! 間(はざま)如きに」
「急に強くなつたから可笑(をかし)い。さあ。用意は好(い)いよ」
此方(こつち)も可(い)い」
 二人は膝を正して屹(き)と差向へり。
妻「お茶を一つ差上げませう」
蒲「どうしても敵討(かたきうち)の門出(かどで)だ。互に交す茶盃(ちやさかづき)か」

     第 六 章

 座敷には窘(くるし)める遊佐と沈着(おちつ)きたる貫一と相対して、莨盆(たばこぼん)の火の消えんとすれど呼ばず、彼の傍(かたはら)に茶托(ちやたく)の上に伏せたる茶碗(ちやわん)は、嘗(かつ)て肺病患者と知らで出(いだ)せしを恐れて除物(のけもの)にしたりしをば、妻の取出してわざと用ゐたるなり。
 遊佐は憤(いきどほり)を忍べる声音(こわね)にて、
「それは出来んよ。勿論(もちろん)朋友(ほうゆう)は幾多(いくら)も有るけれど、書替の連帯を頼むやうな者は無いのだから。考へて見給へ、何(なん)ぼ朋友の中だと云つても外の事と違つて、借金の連帯は頼めないよ。さう無理を言つて困らせんでも可いぢやないか」
 貫一の声は重きを曳(ひ)くが如く底強く沈みたり。
敢(あへ)て困らせるの、何のと云ふ訳ではありません。利は下さらず、書替は出来んと、それでは私(わたくし)の方が立ちません。何方(どちら)とも今日は是非願はんければならんのでございます。連帯と云つたところで、固(もと)より貴方(あなた)がお引受けなさる精神なれば、外の迷惑にはならんのですから、些(ほん)の名義を借りるだけの話、それくらゐの事は朋友の誼(よしみ)として、何方(どなた)でも承諾なさりさうなものですがな。究竟(つまり)名義だけあれば宜(よろし)いので、私の方では十分貴方を信用してをるのですから、決(け)してその連帯者に掛らうなどとは思はんのです。ここで何とか一つ廉(かど)が付きませんと、私も主人に対して言訳がありません。利を受取る訳に行かなかつたから、書替をして来たと言へば、それで一先(ひとまづ)句切が付くのでありますから、どうぞ一つさう願ひます」
 遊佐は答ふるところを知らざるなり。
何方(どなた)でも可うございます、御親友の内で一名」
「可かんよ、それは到底可かんのだよ」
「到底可かんでは私の方が済みません。さう致すと、自然御名誉に関(かかは)るやうな手段も取らんければなりません」
「どうせうと言ふのかね」
「無論差押(さしおさへ)です」
 遊佐は強(し)ひて微笑を含みけれど、胸には犇(ひし)と応(こた)へて、はや八分の怯気(おじけ)付きたるなり。彼は悶(もだ)えて捩断(ねぢき)るばかりにその髭(ひげ)を拈(ひね)り拈りて止まず。
「三百円やそこらの端金(はしたがね)で貴方(あなた)の御名誉を傷(きずつ)けて、後来御出世の妨碍(さまたげ)にもなるやうな事を為るのは、私の方でも決(け)して可好(このまし)くはないのです。けれども、此方(こちら)の請求を容(い)れて下さらなければ已(や)むを得んので、実は事は穏便の方が双方の利益なのですから、更に御一考を願ひます」
「それは、まあ、品に由つたら書替も為んではないけれど、君の要求は、元金(もときん)の上に借用当時から今日(こんにち)までの制規の利子が一ケ年分と、今度払ふべき九十円の一月分を加へて三百九十円かね、それに対する三月分の天引が百十七円強(なにがし)、それと合(がつ)して五百円の証書面に書替へろと云ふのだらう。又それが連帯債務と言ふだらうけれど、一文だつて自分が費(つか)つたのでもないのに、この間九十円といふものを取られた上に、又改めて五百円の証書を書(かか)される! 余(あんま)り馬鹿々々しくて話にならん。此方(こつち)の身にも成つて少しは斟酌(しんしやく)するが可いぢやないか。一文も費ひもせんで五百円の証書が書けると想ふかい」
 空嘯(そらうそぶ)きて貫一は笑へり。
「今更そんな事を!」
 遊佐は陰(ひそか)に切歯(はがみ)をなしてその横顔を睨付(ねめつ)けたり。
 彼も※(のが)れ難き義理に迫りて連帯の印捺(いんつ)きしより、不測の禍(わざはひ)は起りてかかる憂き目を見るよと、太(いた)く己(おのれ)に懲りてければ、この際人に連帯を頼みて、同様の迷惑を懸(か)くることもやと、断じて貫一の請求を容(い)れざりき。さりとて今一つの請求なる利子を即座に払ふべき道もあらざれば、彼の進退はここに谷(きはま)るとともに貫一もこの場は一寸(いつすん)も去らじと構へたれば、遊佐は羂(わな)に係れる獲物の如く一分時毎に窮する外は無くて、今は唯身に受くべき謂無(いはれな)き責苦を受けて、かくまでに悩まさるる不幸を恨み、飜(ひるがへ)りて一点の人情無き賤奴(せんど)の虐待を憤る胸の内は、前後も覚えず暴(あ)れ乱れてほとほと引裂けんとするなり。
「第一今日は未だ催促に来る約束ぢやないのではないか」
「先月の二十日(はつか)にお払ひ下さるべきのを、未(いま)だにお渡(わたし)が無いのですから、何日(いつ)でも御催促は出来るのです」
 遊佐は拳(こぶし)を握りて顫(ふる)ひぬ。
「さう云ふ怪しからん事を! 何の為に延期料を取つた」
「別に延期料と云つては受取りません。期限の日に参つたのにお払が無い、そこで空(むなし)く帰るその日当及び俥代(くるまだい)として下すつたから戴きました。ですから、若(も)しあれに延期料と云ふ名を附けたらば、その日の取立を延期する料とも謂ふべきでせう」
「貴、貴様は! 最初十円だけ渡さうと言つたら、十円では受取らん、利子の内金(うちきん)でなしに三日間の延期料としてなら受取る、と言つて持つて行つたぢやないか。それからついこの間又十円……」
「それは確に受取りました。が、今申す通り、無駄足(むだあし)を踏みました日当でありますから、その日が経過すれば、翌日から催促に参つても宜(よろし)い訳なのです。まあ、過去つた事は措(お)きまして……」
「措けんよ。過去りは為んのだ」
今日(こんにち)はその事で上つたのではないのですから、今日(こんにち)の始末をお付け下さいまし。ではどうあつても書替は出来んと仰有(おつしや)るのですな」
「出来ん!」
「で、金(きん)も下さらない?」
「無いから遣れん!」
 貫一は目を側めて遊佐が面(おもて)を熟(じ)と候(うかが)へり。その冷(ひややか)に鋭き眼(まなこ)の光は異(あやし)く彼を襲ひて、坐(そぞろ)に熱する怒気を忘れしめぬ。遊佐は忽(たちま)ち吾に復(かへ)れるやうに覚えて、身の危(あやふ)きに処(を)るを省みたり。一時を快くする暴言も竟(つひ)に曳(ひか)れ者(もの)の小唄(こうた)に過ぎざるを暁(さと)りて、手持無沙汰(てもちぶさた)に鳴(なり)を鎮めつ。
「では、何(いつ)ごろ御都合が出来るのですか」
 機を制して彼も劣らず和(やはら)ぎぬ。
「さあ、十六日まで待つてくれたまへ」
聢(しか)と相違ございませんか」
「十六日なら相違ない」
「それでは十六日まで待ちますから……」
「延期料かい」
「まあ、お聞きなさいまし、約束手形を一枚お書き下さい。それなら宜(よろし)うございませう」
「宜い事も無い……」
「不承を有仰(おつしや)るところは少しも有りはしません、その代り何分(なんぶん)か今日(こんにち)お遣(つかは)し下さい」
 かく言ひつつ手鞄(てかばん)を開きて、約束手形の用紙を取出(とりいだ)せり。
「銭は有りはせんよ」
僅少(わづか)で宜(よろし)いので、手数料として」
「又手数料か! ぢや一円も出さう」
「日当、俥代なども入つてゐるのですから五円ばかり」
「五円なんと云ふ金円(かね)は有りはせん」
「それぢや、どうも」
 彼は遽(にはか)に躊躇(ちゆうちよ)して、手形用紙を惜めるやうに拈(ひね)るなりけり。
「ええ、では三円ばかり出さう」
 折から紙門(ふすま)を開きけるを弗(ふ)と貫一の※(みむか)ふる目前(めさき)に、二人の紳士は徐々(しづしづ)と入来(いりきた)りぬ。案内も無くかかる内証の席に立入りて、彼等の各(おのおの)心得顔なるは、必ず子細あるべしと思ひつつ、彼は少(すこし)く座を動(ゆる)ぎて容(かたち)を改めたり。紳士は上下(かみしも)に分れて二人が間に坐りければ、貫一は敬ひて礼を作(な)せり。
蒲「どうも曩(さき)から見たやうだ、見たやうだと思つてゐたら、間君ぢやないか」
風「余り様子が変つたから別人かと思つた。久く会ひませんな」
 貫一は愕然(がくぜん)として二人の面(おもて)を眺めたりしが、忽(たちま)ち身の熱するを覚えて、その誰なるやを憶出(おもひいだ)せるなり。
「これはお珍(めづらし)い。何方(どなた)かと思ひましたら、蒲田君に風早君。久くお目に掛りませんでしたが、いつもお変無く」
蒲「その後はどうですか、何か当時は変つた商売をお始めですな——儲(まうか)りませう」
 貫一は打笑(うちゑ)みて、
「儲りもしませんが、間違つてこんな事になつて了ひました」
 彼の毫(いささか)も愧(は)づる色無きを見て、二人は心陰(こころひそか)に呆(あき)れぬ。侮(あなど)りし風早もかくては与(くみ)し易(やす)からず思へるなるべし。
蒲「儲けづくであるから何でも可いけれど、然(しか)し思切つた事を始めましたね。君の性質で能(よ)くこの家業が出来ると思つて感服しましたよ」
「真人間に出来る業(わざ)ぢやありませんな」
 これ実に真人間にあらざる人の言(ことば)なり。二人はこの破廉耻(はれんち)の老面皮(ろうめんぴ)を憎しと思へり。
蒲「酷(ひど)いね、それぢや君は真人間でないやうだ」
私(わたし)のやうな者が憖(なまじ)ひ人間の道を守つてをつたら、とてもこの世の中は渡れんと悟りましたから、学校を罷(や)めるとともに人間も罷めて了つて、この商売を始めましたので」
風「然し真人間時分の朋友であつた僕等にかうして会つてゐる間だけは、依旧(やはり)真人間で居てもらひたいね」
 風早は親しげに放笑せり。
蒲「さうさう、それ、あの時分浮名(うきな)の聒(やかまし)かつた、何とか云つたけね、それ、君の所に居つた美人さ」
 貫一は知らざる為(まね)してゐたり。
風「おおおおあれ? さあ、何とか云つたつけ」
蒲「ねえ、間君、何とか云つた」
 よしその旧友の前に人間の面(おもて)を赧(あか)めざる貫一も、ここに到りて多少の心を動かさざるを得ざりき。
「そんなつまらん事を」
蒲「この頃はあの美人と一所ですか、可羨(うらやまし)い」
「もう昔話は御免下さい。それでは遊佐さん、これに御印(ごいん)を願ひます」
 彼は矢立(やたて)の筆を抽(ぬ)きて、手形用紙に金額を書入れんとするを、
風「ああ些(ちよつ)と、その手形はどう云ふのですね」
 貫一の簡単にその始末を述ぶるを聴きて、
「成程御尤(ごもつとも)、そこで少しお話を為たい」
 蒲田は姑(しばら)く助太刀の口を噤(つぐ)みて、皺嗄声(しわがれごゑ)の如何(いか)に弁ずるかを聴かんと、吃余(すひさし)の葉巻を火入(ひいれ)に挿(さ)して、威長高(ゐたけだか)に腕組して控へたり。
「遊佐君の借財の件ですがね、あれはどうか特別の扱(あつかひ)をして戴きたいのだ。君の方も営業なのだから、御迷惑は掛けませんさ、然し旧友の頼(たのみ)と思つて、少し勘弁をしてもらひたい」
 彼も答へず、これも少時(しばし)は言はざりしが、
「どうかね、君」
「勘弁と申しますと?」
究竟(つまり)君の方に損の掛らん限は減(ま)けてもらひたいのだ。知つての通り、元金(もとこ)の借金は遊佐君が連帯であつて、実際頼れて印を貸しただけの話であるのが、測らず倒れて来たといふ訳なので、それは貸主の目から見れば、そんな事はどうでも可いのだから、取立てるものは取立てる、其処(そこ)は能(よ)く解つてゐる、からして今更その愚痴を言ふのぢやない。然し朋友の側から遊佐君を見ると、飛んだ災難に罹(かか)つたので、如何(いか)にも気の毒な次第。ところで、図(はか)らずも貸主が君と云ふので、轍鮒(てつぷ)の水を得たる想(おもひ)で我々が中へ入つたのは、営業者の鰐淵として話を為るのではなくて、旧友の間(はざま)として、実は無理な頼も聴いてもらひたいのさ。夙(かね)て話は聞いてゐるが、あの三百円に対しては、借主の遠林(とおばやし)が従来(これまで)三回に二百七十円の利を払つて在(あ)る。それから遊佐君の手で九十円、合計三百六十円と云ふものが既に入つてゐるのでせう。して見ると、君の方には既に損は無いのだ、であるから、この三百円の元金(もときん)だけを遊佐君の手で返せば可いといふ事にしてもらひたいのだ」
 貫一は冷笑せり。
「さうすれば遊佐君は三百九十円払ふ訳だが、これが一文も費(つか)はずに空(くう)に出るのだから随分辛(つら)い話、君の方は未(ま)だ未だ利益になるのをここで見切るのだからこれも辛い。そこで辛さ競(くらべ)を為るのだが、君の方は三百円の物が六百六十円になつてゐるのだから、立前(たちまへ)にはなつてゐる、此方(こつち)は三百九十円の全損(まるぞん)だから、ここを一つ酌量してもらひたい、ねえ、特別の扱で」
全(まる)でお話にならない」
 秋の日は短(みじか)しと謂(い)はんやうに、貫一は手形用紙を取上げて、用捨無く約束の金額を書入れたり。一斉に彼の面(おもて)を注視せし風早と蒲田との眼(まなこ)は、更に相合うて瞋(いか)れるを、再び彼方(あなた)に差向けて、いとど厳(きびし)く打目戍(うちまも)れり。
風「どうかさう云ふ事にしてくれたまへ」
貫「それでは遊佐さん、これに御印(ごいん)を願ひませう。日限(にちげん)は十六日、宜(よろし)うございますか」
 この傍若無人の振舞に蒲田の怺(こら)へかねたる気色(けしき)なるを、風早は目授(めまぜ)して、
「間君、まあ少し待つてくれたまへよ。恥を言はんければ解らんけれど、この借金は遊佐君には荷が勝過ぎてゐるので、利を入れるだけでも方(ほう)が付かんのだから、長くこれを背負つてゐた日には、体も一所(いつしよ)に沈没して了ふばかり、実に一身の浮沈に関(かか)る大事なので、僕等も非常に心配してゐるやうなものの、力が足らんで如何(いかに)とも手の着けやうが無い。対手(あいて)が君であつたのが運の尽きざるところなのだ。旧友の僕等の難を拯(すく)ふと思つて、一つ頼を聴いてくれ給へ。全然(まるまる)損を掛けやうと云ふのぢやないのだから、決(け)してさう無理な頼ぢやなからうと思ふのだが、どうかね、君」
私(わたくし)は鰐淵の手代なのですから、さう云ふお話は解りかねます。遊佐さん、では、今日(こんにち)はまあ三円頂戴してこれに御印をどうぞお早く」
 遊佐はその独(ひとり)に計ひかねて覚束(おぼつか)なげに頷(うなづ)くのみ。言はで忍びたりし蒲田の怒(いかり)はこの時衝(つ)くが如く、
「待ち給へと言ふに! 先から風早が口を酸(す)くして頼んでゐるのぢやないか、銭貰(ぜにもらひ)が門(かど)に立つたのぢやない、人に対するには礼と云ふものがある、可然(しかるべ)き挨拶(あいさつ)を為たまへ」
「お話がお話だから可然(しかるべ)き御挨拶の為やうが無い」
「黙れ、間(はざま)! 貴様の頭脳(あたま)は銭勘定ばかりしてゐるので、人の言ふ事が解らんと見えるな。誰がその話に可然(しかるべき)挨拶を為ろと言つた。友人に対する挙動が無礼だから節(たしな)めと言つたのだ。高利貸なら高利貸のやうに、身の程を省みて神妙にしてをれ。盗人(ぬすつと)の兄弟分のやうな不正な営業をしてゐながら、かうして旧友に会つたらば赧(あか)い顔の一つも為ることか、世界漫遊でもして来たやうな見識で、貴様は高利を貸すのをあつぱれ名誉と心得てゐるのか。恥を恥とも思はんのみか、一枚の証文を鼻に懸けて我々を侮蔑(ぶべつ)したこの有様を、荒尾譲介(あらおじようすけ)に見せて遣りたい! 貴様のやうな畜生に生れ変つた奴を、荒尾はやはり昔の間貫一だと思つて、この間も我々と話して、貴様の安否を苦にしてな、実の弟(おとと)を殺したより、貴様を失つた方が悲いと言つて鬱(ふさ)いでゐたぞ。その一言(いちごん)に対しても少しは良心の眠(ねむり)を覚せ! 真人間の風早庫之助と蒲田鉄弥が中に入るからは決して迷惑を掛けるやうな事は為んから、今日は順(おとなし)く帰れ、帰れ」
「受取るものを受取らなくては帰れもしません。貴下方(あなたがた)がそれまで遊佐さんの件に就いて御心配下さいますなら、かう為(な)すつて下さいませんか、ともかくもこの約束手形は遊佐さんから戴きまして、この方の形(かた)はそれで一先(ひとまづ)附くのですから、改めて三百円の証書をお書き下さいまし、風早君と蒲田君の連帯にして」
 蒲田はこの手段を知るの経験あるなり。
「うん、宜(よろし)い」
「ではさう為(なす)つて下さるか」
「うん、宜い」
「さう致せば又お話の付けやうもあります」
「然し気の毒だな、無利息、十個年賦(じつかねんぷ)は」
「ええ? 常談ぢやありません」
 さすがに彼の一本参りしを、蒲田は誇りかに嘲笑(せせらわらひ)しつ。
風「常談は措いて、いづれ四五日内(うち)に篤(とく)と話を付けるから、今日のところは、久しぶりで会つた僕等の顔を立てて、何も言はずに帰つてくれ給へな」
「さう云ふ無理を有仰(おつしや)るで、私の方も然るべき御挨拶[#「然るべき御挨拶」に傍点]が出来なくなるのです。既に遊佐さんも御承諾なのですから、この手形はお貰ひ申して帰ります。未だ外(ほか)へ廻るで急ぎますから、お話は後日寛(ゆつく)り伺ひませう。遊佐さん、御印を願ひますよ。貴方(あなた)御承諾なすつて置きながら今になつて遅々(ぐづぐづ)なすつては困ります」
蒲「疫病神(やくびようがみ)が戸惑(とまどひ)したやうに手形々々と煩(うるさ)い奴だ。俺(おれ)が始末をして遣らうよ」
 彼は遊佐が前なる用紙を取りて、
蒲「金壱百拾七円……何だ、百拾七円とは」
遊「百十七円? 九十円だよ」
蒲「金壱百拾七円とこの通り書いてある」
 かかる事は能(よ)く知りながら彼はわざと怪しむなりき。
遊「そんな筈(はず)は無い」
 貫一は彼等の騒ぐを尻目に挂(か)けて、
「九十円が元金(もときん)、これに加へた二十七円は天引の三割、これが高利(アイス)の定法(じようほう)です」
 音もせざれど遊佐が胆は潰(つぶ)れぬ。
「お……ど……ろ……いたね!」
 蒲田は物をも言はず件(くだん)の手形を二つに引裂き、遊佐も風早もこれはと見る間に、猶(なほ)も引裂き引裂き、引捩(ひきねぢ)りて間が目先に投遣(なげや)りたり。彼は騒げる色も無く、
「何を為(なさ)るのです」
「始末をして遣つたのだ」
「遊佐さん、それでは手形もお出し下さらんのですな」
 彼は間が非常手段を取らんとするよ、と心陰(こころひそか)に懼(おそれ)を作(な)して、
「いやさう云ふ訳ぢやない……」
 蒲田は※(きつ)と膝(ひざ)を前(すす)めて、
「いや、さう云ふ訳だ!」
 彼の鬼臉(こはもて)なるをいと稚(をさな)しと軽(かろ)しめたるやうに、間はわざと色を和(やはら)げて、
「手形の始末はそれで付いたか知りませんが、貴方(あなた)も折角中へ入つて下さるなら、も少し男らしい扱をなさいましな。私(わたくし)如き畜生とは違つて、貴方は立派な法学士」
「おお俺が法学士ならどうした」
「名実が相副(あひそ)はんと謂ふのです」
「生意気なもう一遍言つて見ろ」
「何遍でも言ひます。学士なら学士のやうな所業を為(な)さい」
 蒲田が腕(かひな)は電光の如く躍(をど)りて、猶言はんとせし貫一が胸先を諸掴(もろつかみ)に無図(むず)と捉(と)りたり。
「間、貴様は……」
 捩向(ねぢむ)けたる彼の面(おもて)を打目戍(うちまも)りて、
「取つて投げてくれやうと思ふほど憎い奴でも、かうして顔を見合せると、白い二本筋の帽子を冠(かぶ)つて煖炉(ストオブ)の前に膝を並べた時分の姿が目に附いて、嗚呼(ああ)、順(おとなし)い間を、と力抜(ちからぬけ)がして了ふ。貴様これが人情だぞ」
 鷹(たか)に遭(あ)へる小鳥の如く身動(みうごき)し得為(えせ)で押付けられたる貫一を、風早はさすがに憫然(あはれ)と見遣りて、
「蒲田の言ふ通りだ。僕等も中学に居た頃の間(はざま)と思つて、それは誓つて迷惑を掛けるやうな事は為んから、君も友人の誼(よしみ)を思つて、二人の頼を聴いてくれ給へ」
「さあ、間、どうだ」
「友人の誼は友人の誼、貸した金は貸した金で自(おのづ)から別問題……」
 彼は忽ち吭迫(のどつま)りて言ふを得ず、蒲田は稍(やや)強く緊(し)めたるなり。
「さあ、もつと言へ、言つて見ろ。言つたら貴様の呼吸(いき)が止るぞ」
 貫一は苦しさに堪(た)へで振釈(ふりほど)かんと※(もが)けども嘉納流(かのうりゆう)の覚ある蒲田が力に敵しかねて、なかなかその為すに信(まか)せたる幾分の安きを頼むのみなりけり。遊佐は驚き、風早も心ならず、
「おい蒲田、可いかい、死にはしないか」
「余り、暴(あら)くするなよ」
 蒲田は哄然(こうぜん)として大笑(たいしよう)せり。
「かうなると金力よりは腕力だな。ねえ、どうしてもこれは水滸伝(すいこでん)にある図だらう。惟(おも)ふに、凡(およ)そ国利を護(まも)り、国権を保つには、国際公法などは実は糸瓜(へちま)の皮、要は兵力よ。万国の上には立法の君主が無ければ、国と国との曲直の争(あらそひ)は抑(そもそ)も誰(たれ)の手で公明正大に遺憾無(いかんな)く決せらるるのだ。ここに唯一つ審判の機関がある、曰(いは)く戦(たたかひ)!」
風「もう釈(ゆる)してやれ、大分(だいぶ)苦しさうだ」
蒲「強国にして辱(はづかし)められた例(ためし)を聞かん、故(ゆゑ)に僕は外交の術も嘉納流よ」
遊「余り酷(ひど)い目に遭せると、僕の方へ報(むく)つて来るから、もう舎(よ)してくれたまへな」
 他(ひと)の言(ことば)に手は弛(ゆる)めたれど、蒲田は未(いま)だ放ちも遣らず、
「さあ、間、返事はどうだ」
吭(のど)を緊められても出す音(ね)は変りませんよ。間は金力には屈しても、腕力などに屈するものか。憎いと思ふならこの面(つら)を五百円の紙幣束(さつたば)でお撲(たた)きなさい」
「金貨ぢや可かんか」
「金貨、結構です」
「ぢや金貨だぞ!」
 油断せる貫一が左の高頬(たかほ)を平手打に絶(したた)か吃(くらは)すれば、呀(あ)と両手に痛を抑(おさ)へて、少時(しばし)は顔も得挙(えあ)げざりき。蒲田はやうやう座に復(かえ)りて、
「急には此奴(こいつ)帰らんね。いつそここで酒を始めやうぢやないか、さうして飲みかつ談ずると為(せ)う」
「さあ、それも可(よ)からう」
 独り可からぬは遊佐なり。
「ここで飲んぢや旨(うま)くないね。さうして形が付かなければ、何時(いつ)までだつて帰りはせんよ。酒が仕舞(しまひ)になつてこればかり遺(のこ)られたら猶(なほ)困る」
宜(よろし)い、帰去(かへり)には僕が一所に引張つて好い処へ連れて行つて遣るから。ねえ、間、おい、間と言ふのに」
「はい」
「貴様、妻君有るのか。おお、風早!」
 と彼は横手を拍(う)ちて不意に※(さけ)べば
「ええ、吃驚(びつくり)する、何だ」
憶出(おもひだ)した。間の許婚(いひなづけ)はお宮、お宮」
「この頃はあれと一所かい。鬼の女房に天女だけれど、今日(こんにち)ぢや大きに日済(ひなし)などを貸してゐるかも知れん。ええ、貴様、そんな事を為(さ)しちや可かんよ。けれども高利貸(アイス)などは、これで却(かへ)つて女子(をんな)には温(やさし)いとね、間、さうかい。彼等の非義非道を働いて暴利を貪(むさぼ)る所以(ゆゑん)の者は、やはり旨いものを食ひ、好い女を自由にして、好きな栄耀(えよう)がして見たいと云ふ、唯それだけの目的より外に無いのだと謂ふが、さうなのかね。我々から考へると、人情の忍ぶ可からざるを忍んで、経営惨憺(さんたん)と努めるところは、何ぞ非常の目的があつて貨(かね)を殖(こしら)へるやうだがな、譬(たと)へば、軍用金を聚(あつ)めるとか、お家の宝を質請(しちうけ)するとか。単に己(おのれ)の慾を充さうばかりで、あんな思切つて残刻な仕事が出来るものではないと想ふのだ。許多(おほく)のガリガリ亡者(もうじや)は論外として、間貫一に於(おい)ては何ぞ目的が有るのだらう。こんな非常手段を遣るくらゐだから、必ず非常の目的が有つて存(そん)するのだらう」
 秋の日は忽(たちま)ち黄昏(たそが)れて、稍(やや)早けれど燈(ともし)を入るるとともに、用意の酒肴(さけさかな)は順を逐(お)ひて運び出(いだ)されぬ。
「おつと、麦酒(ビイル)かい、頂戴(ちようだい)。鍋(なべ)は風早の方へ、煮方は宜(よろし)くお頼み申しますよ。うう、好い松茸(まつだけ)だ。京でなくてはかうは行かんよ——中が真白(ましろ)で、庖丁(ほうちよう)が軋(きし)むやうでなくては。今年は不作(はづれ)だね、瘠(や)せてゐて、虫が多い、あの雨が障(さは)つたのさ。間、どうだい、君の目的は」
「唯貨(かね)が欲いのです」
「で、その貨をどうする」
「つまらん事を! 貨はどうでもなるぢやありませんか。どうでもなる貨だから欲い、その欲い貨だから、かうして催促もするのです。さあ、遊佐さん、本当にどうして下さるのです」
風「まあ、これを一盃(いつぱい)飲んで、今日は機嫌(きげん)好く帰つてくれ給へ」
蒲「そら、お取次だ」
私(わたくし)は酒は不可(いかん)のです」
蒲「折角差したものだ」
「全く不可のですから」
 差付けらるるを推除(おしの)くる機(はずみ)に、コップは脆(もろ)くも蒲田の手を脱(すべ)れば、莨盆(たばこぼん)の火入(ひいれ)に抵(あた)りて発矢(はつし)と割れたり。
「何を為る!」
 貫一も今は怺(こら)へかねて、
「どうしたと!」
 やをら起たんと為るところを、蒲田が力に胸板(むないた)を衝(つか)れて、一耐(ひとたまり)もせず仰様(のけさま)に打僵(うちこ)けたり。蒲田はこの隙(ひま)に彼の手鞄(てかばん)を奪ひて、中なる書類を手信(てまかせ)に掴出(つかみだ)せば、狂気の如く駈寄(かけよ)る貫一、
「身分に障(さは)るぞ!」と組み付くを、利腕捉(ききうでと)つて、
「黙れ!」と捩伏(ねぢふ)せ、
「さあ、遊佐、その中に君の証書が在るに違無いから、早く其奴(そいつ)を取つて了ひ給へ」
 これを聞きたる遊佐は色を変へぬ。風早も事の余(あまり)に暴なるを快(こころよ)しと為ざるなりき。貫一は駭(おどろ)きて、撥返(はねかへ)さんと右に左に身を揉むを、蹈跨(ふんまたが)りて捩揚(ねぢあ)げ捩揚げ、蒲田は声を励して、
「この期(ご)に及んで! 躊躇(ちゆうちよ)するところでないよ。早く、早く、早く! 風早、何を考へとる。さあ、遊佐、ええ、何事も僕が引受けたから、かまはず遣り給へ。証書を取つて了へば、後は細工はりうりう僕が心得てゐるから、早く探したまへと言ふに」
 手を出しかねたる二人を睨廻(ねめまは)して、蒲田はなかなか下に貫一の悶(もだ)ゆるにも劣らず、独(ひと)り業(ごう)を沸(にや)して、効無(かひな)き地鞴(ぢただら)を踏みてぞゐたる。
風「それは余り遣過ぎる、善(よ)くない、善くない」
善(い)いも悪いもあるものか、僕が引受けたからかまはんよ。遊佐、君の事ぢやないか、何を※然(ぼんやり)してゐるのだ」
 彼はほとほと慄(をのの)きて、寧(むし)ろ蒲田が腕立(うでだて)の紳士にあるまじきを諌(いさ)めんとも思へるなり。腰弱き彼等の与(くみ)するに足らざるを憤れる蒲田は、宝の山に入(い)りながら手を空(むなし)うする無念さに、貫一が手も折れよとばかり捩上(ねぢあぐ)れば、
「ああ、待つた待つた。蒲田君、待つてくれ、何とか話を付けるから」
「ええ聒(やかまし)い。君等のやうな意気地無しはもう頼まん。僕が独(ひとり)で遣つて見せるから、後学の為に能く見て置き給へ」
 かく言捨てて蒲田は片手して己(おのれ)の帯を解かんとすれば、時計の紐(ひも)の生憎(あやにく)に絡(からま)るを、躁(あせ)りに躁りて引放さんとす。
風「独(ひとり)でどうするのだよ」
 彼はさすがに見かねて手を仮さんと寄り進みつ。
蒲「どうするものか、此奴(こいつ)を蹈縛(ふんじば)つて置いて、僕が証書を探すわ」
「まあ、余り穏(おだやか)でないから、それだけは思ひ止(とま)り給へ。今間も話を付けると言つたから」
「何か此奴(こいつ)の言ふ事が!」
 間は苦(くるし)き声を搾(しぼ)りて、
「きつと話を付けるから、この手を釈(ゆる)してくれ給へ」
風「きつと話を付けるな——此方(こつち)の要求を容(い)れるか」
間「容れる」
 詐(いつはり)とは知れど、二人の同意せざるを見て、蒲田もさまではと力挫(ちからくじ)けて、竟(つひ)に貫一を放ちてけり。
 身を起すとともに貫一は落散りたる書類を掻聚(かきあつ)め、鞄(かばん)を拾ひてその中に捩込(ねぢこ)み、さて慌忙(あわただし)く座に復(かへ)りて、
「それでは今日(こんにち)はこれでお暇(いとま)をします」
 蒲田が思切りたる無法にこの長居は危(あやふ)しと見たれば、心に恨は含みながら、陽(おもて)には克(かな)はじと閉口して、重ねて難題の出(い)でざる先にとかくは引取らんと為るを、
「待て待て」と蒲田は下司扱(げすあつかひ)に呼掛けて、
「話を付けると言つたでないか。さあ、約束通り要求を容(い)れん内は、今度は此方(こつち)が還(かへ)さんぞ」
 膝推向(ひざおしむ)けて迫寄(つめよ)る気色(けしき)は、飽くまで喧嘩を買はんとするなり。
「きつと要求は容れますけれど、嚮(さつき)から散々の目に遭(あは)されて、何だか酷く心持が悪くてなりませんから、今日はこれで還して下さいまし。これは長座(ちようざ)をいたしてお邪魔でございました。それでは遊佐さん、いづれ二三日の内に又上つてお話を願ひます」
 忽(たちま)ち打つて変りし貫一の様子に蒲田は冷笑(あざわらひ)して、
「間、貴様は犬の糞(くそ)で仇(かたき)を取らうと思つてゐるな。遣つて見ろ、そんな場合には自今(これから)毎(いつ)でも蒲田が現れて取挫(とりひし)いで遣るから」
「間も男なら犬の糞ぢや仇(かたき)は取らない」
利(き)いた風なことを言ふな」
風「これさ、もう好加減にしないかい。間も帰り給へ。近日是非篤と話をしたいから、何事もその節だ。さあ、僕が其処(そこ)まで送らう」
 遊佐と風早とは起ちて彼を送出(おくりいだ)せり。主(あるじ)の妻は縁側より入(い)り来(きた)りぬ。
「まあ、貴方(あなた)、お蔭様で難有(ありがた)う存じました。もうもうどんなに好い心持でございましたらう」
「や、これは。些(ちよつ)と壮士(そうし)芝居といふところを」
「大相宜(よろし)い幕でございましたこと。お酌を致しませう」
 件(くだん)の騒動にて四辺(あたり)の狼藉(ろうぜき)たるを、彼は効々(かひかひ)しく取形付けてゐたりしが、二人はやがて入来(いりく)るを見て、
「風早さん、どうもお蔭様で助りました、然し飛んだ御迷惑様で。さあ、何も御坐いませんけれど、どうぞ貴下方御寛(ごゆる)り召上つて下さいまし」
 妻の喜は溢(あふ)るるばかりなるに引易(ひきか)へて、遊佐は青息(あをいき)※(つ)きて思案に昏(く)れたり。
「弱つた! 君がああして取緊(とつち)めてくれたのは可いが、この返報に那奴(あいつ)どんな事を為るか知れん。明日(あした)あたり突然(どん)と差押(さしおさへ)などを吃(くは)せられたら耐(たま)らんな」
「余り蒲田が手酷(てひど)い事を為るから、僕も、さあ、それを案じて、惴々(はらはら)してゐたぢやないか。嘉納流も可いけれど、後前(あとさき)を考へて遣つてくれなくては他迷惑(はためいわく)だらうぢやないか」
「まあ、待ち給へと言ふことさ」
 蒲田は袂(たもと)の中を撈(かいさぐ)りて、揉皺(もめしわ)みたる二通の書類を取出(とりいだ)しつ。
風「それは何だ」
遊「どうしたのさ」
 何ならんと主(あるじ)の妻も鼻の下を延べて窺(うかが)へり。
風「何だか僕も始めてお目に掛るのだ」
 彼は先づその一通を取りて披見(ひらきみ)るに、鰐淵直行に対する債務者は聞きも知らざる百円の公正証書謄本なり。
 二人は蒲田が案外の物持てるに驚(おどろか)されて、各(おのおの)息を凝(こら)して※(みは)れる眼(まなこ)を動さず。蒲田も無言の間(うち)に他の一通を取りて披(ひら)けば、妻はいよいよ近(ちかづ)きて差覗(さしのぞ)きつ。四箇(よつ)の頭顱(かしら)はラムプの周辺(めぐり)に麩(ふ)に寄る池の鯉(こひ)の如く犇(ひし)と聚(あつま)れり。
「これは三百円の証書だな」
 一枚二枚と繰り行けば、債務者の中に鼻の前(さき)なる遊佐良橘の名をも署(しる)したり、蒲田は弾機仕掛(ばねじかけ)のやうに躍(をど)り上りて、
「占めた! これだこれだ」
 驚喜の余り身を支へ得ざる遊佐の片手は鶤(しやも)の鉢(はち)の中にすつぱと落入り、乗出す膝頭(ひざがしら)に銚子(ちようし)を薙倒(なぎたふ)して、
「僕のかい、僕のかい」
「どう、どう、どう」と証書を取らんとする風早が手は、筋(きん)の活動(はたらき)を失へるやうにて幾度(いくたび)も捉(とら)へ得ざるなりき。
「まあ!」と叫びし妻は忽(たちま)ち胸塞(むねふたが)りて、その後を言ふ能はざるなり。蒲田は手の舞ひ、膝の蹈(ふ)むところを知らず、
「占めたぞ! 占めたぞ!! 難有(ありがた)い!!!」
 証書は風早の手に移りて、遊佐とその妻と彼と六(むつ)の目を以(も)て子細にこれを点検して、その夢ならざるを明(あきら)めたり。
「君はどうしたのだ」
 風早の面(おもて)はかつ呆(あき)れ、かつ喜び、かつ懼(をそ)るるに似たり。やがて証書は遊佐夫婦の手に渡りて、打拡げたる二人が膝の上に、これぞ比翼読なるべき。更に麦酒(ビイル)の満(まん)を引きし蒲田は「血は大刀に滴(したた)りて拭(ぬぐ)ふに遑(いとま)あらざる」意気を昂(あ)げて、
「何と凄(すご)からう。奴を捩伏(ねぢふ)せてゐる中に脚(あし)で掻寄(かきよ)せて袂(たもと)へ忍ばせたのだ——早業(はやわざ)さね」
「やはり嘉納流にあるのかい」
「常談言つちや可かん。然しこれも嘉納流の教外別伝(きようげべつでん)さ」
「遊佐の証書といふのはどうして知つたのだ」
「それは知らん。何でも可いから一つ二つ奪つて置けば、奴を退治(たいじ)る材料になると考へたから、早業をして置いたのだが、思ひきやこれが覘(ねら)ふ敵(かたき)の証書ならんとは、全く天の善に与(くみ)するところだ」
風「余り善でもない。さうしてあれを此方(こつち)へ取つて了へば、三百円は蹈(ふ)めるのかね」
蒲「大蹈(おほふ)め! 少し悪党になれば蹈める」
風「然し、公正証書であつて見ると……」
蒲「あつても差支無(さしつかへな)い。それは公証人役場には証書の原本が備付けてあるから、いざと云ふ日にはそれが物を言ふけれど、この正本(せいほん)さへ引揚げてあれば、間貫一いくら地動波動(じたばた)したつて『河童(かつぱ)の皿に水の乾(かわ)いた』同然、かうなれば無証拠だから、矢でも鉄砲でも持つて来いだ。然し、全然(まるまる)蹈むのもさすがに不便(ふびん)との思召(おぼしめし)を以つて、そこは何とか又色を着けて遣らうさ。まあまあ君達は安心してゐたまへ。蒲田弁理公使が宜(よろし)く樽爼(そんそ)の間(かん)に折衝して、遊佐家を泰山(たいざん)の安きに置いて見せる。嗚呼(ああ)、実に近来の一大快事だ!」
 人々の呆(あき)るるには目も掛けず、蒲田は証書を推戴(おしいただ)き推戴きて、
「さあ、遊佐君の為に万歳を唱へやう。奥さん、貴方(あなた)が音頭(おんど)をお取んなさいましよ——いいえ、本当に」
 小心なる遊佐はこの非常手段を極悪大罪と心安からず覚ゆるなれど、蒲田が一切を引受けて見事に埒(らち)開けんといふに励されて、さては一生の怨敵(おんてき)退散の賀(いはひ)と、各(おのおの)漫(そぞろ)に前(すす)む膝を聚(あつ)めて、長夜(ちようや)の宴を催さんとぞ犇(ひしめ)いたる。

     第 七 章

 茫々(ぼうぼう)たる世間に放れて、蚤(はや)く骨肉の親むべき無く、況(いはん)や愛情の温(あたた)むるに会はざりし貫一が身は、一鳥も過ぎざる枯野の広きに塊然(かいぜん)として横(よこた)はる石の如きものなるべし。彼が鴫沢(しぎさわ)の家に在りける日宮を恋ひて、その優き声と、柔(やはらか)き手と、温き心とを得たりし彼の満足は、何等の楽(たのしみ)をも以外に求むる事を忘れしめき。彼はこの恋人をもて妻とし、生命として慊(あきた)らず、母の一部分となし、妹(いもと)の一部分となし、或(あるひ)は父の、兄の一部分とも為(な)して宮の一身は彼に於ける愉快なる家族の団欒(まどひ)に値せしなり、故(ゆゑ)に彼の恋は青年を楽む一場(いちじよう)の風流の麗(うるはし)き夢に似たる類(たぐひ)ならで、質はその文(ぶん)に勝てるものなりけり。彼の宮に於(お)けるは都(すべ)ての人の妻となすべき以上を妻として、寧(むし)ろその望むところ多きに過ぎずやと思はしむるまでに心に懸けて、自(みづから)はその至当なるを固く信ずるなりき。彼はこの世に一人の宮を得たるが為に、万木一時(いちじ)に花を着くる心地して、曩(さき)の枯野に夕暮れし石も今将(は)た水に温(ぬく)み、霞(かすみ)に酔(ゑ)ひて、長閑(のどか)なる日影に眠る如く覚えけんよ。その恋のいよいよ急に、いよいよ濃(こまやか)になり勝(まさ)れる時、人の最も憎める競争者の為に、しかも輙(たやす)く宮を奪はれし貫一が心は如何(いか)なりけん。身をも心をも打委(うちまか)せて詐(いつは)ることを知らざりし恋人の、忽ち敵の如く己(おのれ)に反(そむ)きて、空(むなし)く他人に嫁するを見たる貫一が心は更に如何(いか)なりけん。彼はここに於いて曩(さき)に半箇の骨肉の親むべきなく、一点の愛情の温むるに会はざりし凄寥(せいりよう)を感ずるのみにて止(とどま)らず、失望を添へ、恨を累(かさ)ねて、かの塊然たる野末(のずゑ)の石は、霜置く上に凩(こがらし)の吹誘ひて、皮肉を穿(うが)ち来(きた)る人生の酸味の到頭骨に徹する一種の痛苦を悩みて已(や)まざるなりき。実に彼の宮を奪れしは、その甞(かつ)て与へられし物を取去られし上に、与へられざりし物をも併(あは)せて取去られしなり。
 彼は或(あるひ)はその恨を抛(なげう)つべし、なんぞその失望をも忘れざらん。されども彼は永くその痛苦を去らしむる能はざるべし、一旦(ひとたび)太(いた)くその心を傷(きずつ)けられたるかの痛苦は、永くその心の存在と倶(とも)に存在すべければなり。その業務として行はざるべからざる残忍刻薄を自ら強(し)ふる痛苦は、能(よ)く彼の痛苦と相剋(あひこく)して、その間(かん)聊(いささ)か思(おもひ)を遣るべき余地を窃(ぬす)み得るに慣れて、彼は漸(やうや)く忍ぶべからざるを忍びて為し、恥づべきをも恥ぢずして行ひけるほどに、勁敵(けいてき)に遇(あ)ひ、悪徒に罹(かか)りて、或は弄(もてあそ)ばれ、或は欺かれ、或は脅(おびやか)され勢(いきほひ)毒を以つて制し、暴を以つて易(か)ふるの已(や)むを得ざるより、一(いつ)はその道の習に薫染して、彼は益(ますま)す懼(おそ)れず貪(むさぼ)るに至れるなり。同時に例の不断の痛苦は彼を撻(むちう)つやうに募ることありて、心も消々(きえきえ)に悩まさるる毎に、齷※(あくさく)利を趁(お)ふ力も失せて、彼はなかなか死の安きを懐(おも)はざるにあらず。唯その一旦にして易(やす)く、又今の空(むなし)き死を遂(と)げ了(をは)らんをば、いと効為(かひな)しと思返して、よし遠くとも心に期するところは、なでう一度(ひとたび)前(さき)の失望と恨とを霽(はら)し得て、胸裡(きようり)の涼きこと、氷を砕いて明鏡を磨(と)ぐが如く為ざらん、その夕(ゆふべ)ぞ我は正(まさ)に死ぬべきと私(ひそか)に慰むるなりき。
 貫一は一(いつ)はかの痛苦を忘るる手段として、一(いつ)はその妄執(もうしゆう)を散ずべき快心の事を買はんの目的をもて、かくは高利を貪(むさぼ)れるなり。知らず彼がその夕(ゆふべ)にして瞑(めい)せんとする快心の事とは何ぞ。彼は尋常復讐(ふくしゆう)の小術を成して、宮に富山に鴫沢に人身的攻撃を加へて快を取らんとにはあらず、今少(すこし)く事の大きく男らしくあらんをば企図(きと)せるなり。然れども、痛苦の劇(はげし)く、懐旧の恨に堪(た)へざる折々、彼は熱き涙を握りて祈るが如く嘆(かこ)ちぬ。
※(ああ)、こんな思を為るくらゐなら、いつそ潔く死んだ方が夐(はるか)に勝(まし)だ。死んでさへ了へば万慮空(むなし)くこの苦艱(くげん)は無いのだ。それを命が惜くもないのに死にもせず……死ぬのは易(やす)いが、死ぬことの出来んのは、どう考へても余り無念で、この無念をこのままに胸に納めて死ぬことは出来んのだ。貨(かね)が有つたら何が面白いのだ。人に言はせたら、今俺(おれ)の貯(たくは)へた貨(かね)は、高が一人の女の宮に換へる価はあると謂(い)ふだらう。俺には無い! 第一貨(かね)などを持つてゐるやうな気持さへ為(せ)んぢやないか。失望した身にはその望を取復(とりかへ)すほどの宝は無いのだ。※(ああ)、その宝は到底取復されん。宮が今罪を詑(わ)びて夫婦になりたいと泣き付いて来たとしても、一旦心を変じて、身まで涜(けが)された宮は、決して旧(もと)の宮ではなければ、もう間(はざま)の宝ではない。間の宝は五年前(ぜん)の宮だ。その宮は宮の自身さへ取復す事は出来んのだ。返す返す恋(こひし)いのは宮だ。かうしてゐる間(ま)も宮の事は忘れかねる、けれど、それは富山の妻になつてゐる今の宮ではない、噫(ああ)、鴫沢の宮! 五年前(ぜん)の宮が恋い。俺が百万円を積んだところで、昔の宮は獲(え)られんのだ! 思へば貨(かね)もつまらん。少(すくな)いながらも今の貨(かね)が熱海へ追つて行つた時の鞄(かばん)の中に在つたなら……ええ!!」
 頭(かしら)も打割るるやうに覚えて、この以上を想ふ能(あた)はざる貫一は、ここに到りて自失し了るを常とす。かかる折よ、熱海の浜に泣倒れし鴫沢の娘と、田鶴見(たずみ)の底に逍遙(しようよう)せし富山が妻との姿は、双々(そうそう)貫一が身辺を彷徨(ほうこう)して去らざるなり。彼はこの痛苦の堪ふべからざるに任せて、ほとほと前後を顧ずして他の一方に事を為すより、往々その性の為す能はざるをも為して、仮(か)さざること仇敵(きゆうてき)の如く、債務を逼(せま)りて酷を極(きは)むるなり。退(しりぞ)いてはこれを悔ゆるも、又折に触れて激すれば、忽(たちま)ち勢に駆られて断行するを憚(はばか)らざるなり。かくして彼の心に拘(かかつら)ふ事あれば、自(おのづか)ら念頭を去らざる痛苦をもその間に忘るるを得べく、素(もと)より彼は正(せい)を知らずして邪を為し、是(ぜ)を喜ばずして非(ひ)を為すものにあらざれば、己(おのれ)を抂(ま)げてこれを行ふ心苦しさは俯(ふ)して愧(は)ぢ、仰ぎて懼(おそ)れ、天地の間に身を置くところは、纔(わづか)にその容(い)るる空間だに猶濶(なほひろ)きを覚ゆるなれど、かの痛苦に較べては、夐(はるか)に忍ぶの易く、体(たい)のまた胖(ゆたか)なるをさへ感ずるなりけり。
 一向(ひたぶる)に神(しん)を労し、思を費して、日夜これを暢(のぶ)るに遑(いとま)あらぬ貫一は、肉痩(にくや)せ、骨立ち、色疲れて、宛然(さながら)死水(しすい)などのやうに沈鬱し了(をは)んぬ。その攅(あつ)めたる眉(まゆ)と空(むなし)く凝(こら)せる目とは、体力の漸(やうや)く衰ふるに反して、精神の愈(いよい)よ興奮するとともに、思の益(ますま)す繁(しげ)く、益す乱るるを、従ひて芟(か)り、従ひて解かんとすれば、なほも繁り、なほも乱るるを、竟(つひ)に如何(いか)に為(せ)ばや、と心も砕けつつ打悩めるを示せり。更に見よ、漆のやうに鮮潤(つややか)なりし髪は、後脳の辺(あたり)に若干(そくばく)の白きを交(まじ)へて、額に催せし皺(しわ)の一筋長く横(よこた)はれるぞ、その心の窄(せばま)れる襞(ひだ)ならざるべき、況(いは)んや彼の面(おもて)を蔽(おほ)へる蔭は益(ますま)す暗きにあらずや。
 吁(ああ)、彼はその初一念を遂(と)げて、外面(げめん)に、内心に、今は全くこの世からなる魔道に墜(お)つるを得たりけるなり。貪欲界(どんよくかい)の雲は凝(こ)りて歩々(ほほ)に厚く護(まも)り、離恨天(りこんてん)の雨は随所直(ただち)に灑(そそ)ぐ、一飛(いつぴ)一躍出でては人の肉を啖(くら)ひ、半生半死入(い)りては我と膓(はらわた)を劈(つんざ)く。居(を)る所は陰風常に廻(めぐ)りて白日を見ず、行けども行けども無明(むみよう)の長夜(ちようや)今に到るまで一千四百六十日、逢(あ)へども可懐(なつかし)き友の面(おもて)を知らず、交(まじは)れども曾(かつ)て情(なさけ)の蜜(みつ)より甘きを知らず、花咲けども春日(はるび)の麗(うららか)なるを知らず、楽来(たのしみきた)れども打背(うちそむ)きて歓(よろこ)ぶを知らず、道あれども履(ふ)むを知らず、善あれども与(くみ)するを知らず、福(さいはひ)あれども招くを知らず、恵あれども享(う)くるを知らず、空(むなし)く利欲に耽(ふけ)りて志を喪(うしな)ひ、偏(ひとへ)に迷執に弄(もてあそ)ばれて思を労(つか)らす、吁(ああ)、彼は終(つひ)に何をか成さんとすらん。間貫一の名は漸(やうや)く同業者間に聞えて、恐るべき彼の未来を属目(しよくもく)せざるはあらずなりぬ。
 かの堪(た)ふべからざる痛苦と、この死をも快くせんとする目的とあるが為に、貫一の漸く頻(しきり)なる厳談酷促(げんだんこくそく)は自(おのづ)から此処(ここ)に彼処(かしこ)に債務者の怨(うらみ)を買ひて、彼の為に泣き、彼の為に憤るもの寡(すくな)からず、同業者といへども時としては彼の余(あまり)に用捨無きを咎(とが)むるさへありけり。独(ひと)り鰐淵はこれを喜びて、強将の下弱卒を出(いだ)さざるを誇れるなり。彼は己(おのれ)の今日(こんにち)あるを致せし辛抱と苦労とは、未(いま)だ如此(かくのごと)くにして足るものならずとて、屡(しばし)ばその例を挙げては貫一を※(そそのか)し、飽くまで彼の意を強うせんと勉(つと)めき。これが為に慰めらるるとにはあらねど、その行へる残忍酷薄の人の道に欠けたるを知らざるにあらぬ貫一は、職業の性質既に不法なればこれを営むの非道なるは必然の理(ことわり)にて、己(おのれ)の為(な)すところは都(すべ)ての同業者の為すところにて、己一人(おのれいちにん)の残刻なるにあらず、高利貸なる者は、世間一様に如此(かくのごと)く残刻ならざるべからずと念(おも)へるなり。故(ゆゑ)に彼は決して己の所業のみ独(ひと)り怨(うらみ)を買ふべきにあらずと信じたり。
 実(げ)に彼の頼める鰐淵直行の如きは、彼の辛(から)うじてその半(なかば)を想ひ得る残刻と、終(つひ)に学ぶ能(あた)はざる譎詐(きつさ)とを左右にして、始めて今日(こんにち)の富を得てしなり。この点に於ては彼は一も二も無く貫一の師表たるべしといへども、その実さばかりの残刻と譎詐(きつさ)とを擅(ほしいまま)にして、なほ天に畏(おそ)れず、人に憚(はばか)らざる不敵の傲骨(ごうこつ)あるにあらず。彼は密(ひそか)に警(いまし)めて多く夜出(い)でず、内には神を敬して、得知れぬ教会の大信者となりて、奉納寄進に財を吝(をし)まず、唯これ身の無事を祈るに汲々(きゆうきゆう)として、自ら安ずる計(はかりごと)をなせり。彼は年来非道を行ひて、なほこの家栄え、身の全きを得るは、正(まさ)にこの信心の致すところと仕へ奉る御神(おんかみ)の冥護(みようご)を辱(かたじけ)なみて措(お)かざるなりき。貫一は彼の如く残刻と譎詐(きつさ)とに勇ならざりけれど、又彼の如く敬神と閉居とに怯(きよ)ならず、身は人と生れて人がましく行ひ、一(いつ)も曾(かつ)て犯せる事のあらざりしに、天は却(かへ)りて己を罰し人は却りて己を詐(いつは)り、終生の失望と遺恨とは濫(みだり)に断膓(だんちよう)の斧(をの)を揮(ふる)ひて、死苦の若(し)かざる絶痛を与ふるを思ひては、彼はよし天に人に憤るところあるも、懼(おそ)るべき無しと為(せ)るならん。貫一の最も懼れ、最も憚るところは自(みづから)の心のみなりけり。

     第 八 章

 用談果つるを俟(ま)ちて貫一の魚膠無(にべな)く暇乞(いとまごひ)するを、満枝は暫(しば)しと留置(とどめお)きて、用有りげに奥の間にぞ入(い)りたる。その言(ことば)の如く暫し待てども出(い)で来(こ)ざれば、又巻莨(まきたばこ)を取出(とりいだ)しけるに、手炉(てあぶり)の炭は狼(おほかみ)の糞(ふん)のやうになりて、いつか火の気の絶えたるに、檀座(たんざ)に毛糸の敷物したる石笠(いしがさ)のラムプの※(ほのほ)を仮りて、貫一は為(せ)う事無しに煙(けふり)を吹きつつ、この赤樫(あかがし)の客間を夜目ながら※(みまは)しつ
 袋棚(ふくろだな)なる置時計は十時十分前を指せり。違棚には箱入の人形を大小二つ並べて、その下は七宝焼擬(しつぽうやきまがひ)の一輪挿(いちりんざし)、蝋石(ろうせき)の飾玉を水色縮緬(みづいろちりめん)の三重(みつがさね)の褥(しとね)に載せて、床柱なる水牛の角の懸花入(かけはないれ)は松に隼(はやぶさ)の勧工場蒔絵(まきゑ)金々(きんきん)として、花を見ず。鋳物(いもの)の香炉の悪古(わるふる)びに玄(くす)ませたると、羽二重(はぶたへ)細工の花筐(はなかたみ)とを床に飾りて、雨中(うちゆう)の富士をば引攪旋(ひきかきまは)したるやうに落墨して、金泥精描の騰竜(のぼりりゆう)は目貫(めぬき)を打つたるかとばかり雲間(くもま)に耀(かがや)ける横物(よこもの)の一幅。頭(かしら)を回(めぐ)らせば、※間(びかん)に黄海(こうかい)大海戦の一間程なる水彩画を掲げて座敷の隅(すみ)には二鉢(ふたばち)の菊を据ゑたり。
 やや有りて出来(いできた)れる満枝は服を改めたるなり。糸織の衿懸(えりか)けたる小袖(こそで)に納戸(なんど)小紋の縮緬の羽織着て、七糸(しつちん)と黒繻子(くろじゆす)との昼夜帯して、華美(はで)なるシオウルを携へ、髪など撫付(なでつ)けしと覚(おぼし)く、面(おもて)も見違ふやうに軽く粧(よそほ)ひて、
「大変失礼を致しました。些(ちよつ)と私(わたくし)も其処(そこ)まで買物に出ますので、実は御一緒に願はうと存じまして」
 無礼なりとは思ひけれど、口説れし誼(よしみ)に貫一は今更腹も立て難くて、
「ああさうですか」
 満枝はつと寄りて声を低くし、
「御迷惑でゐらつしやいませうけれど」
 聴き飽きたりと謂(い)はんやうに彼は取合はで、
「それぢや参りませう。貴方(あなた)は何方(どちら)までお出(いで)なのですか」
私(わたくし)は大横町(おおよこちよう)まで」
 二人は打連れて四谷左門町(よつやさもんちよう)なる赤樫の家を出(い)でぬ。伝馬町通(てんまちようどおり)は両側の店に燈(ともし)を列(つら)ねて、未(ま)だ宵なる景気なれど、秋としも覚えず夜寒の甚(はなはだし)ければ、往来(ゆきき)も稀(まれ)に、空は星あれどいと暗し。
「何といふお寒いのでございませう」
「さやう」
「貴方、間さん、貴方そんなに離れてお歩き遊ばさなくても宜(よろし)いぢやございませんか。それではお話が達(とど)きませんわ」
 彼は町の左側をこたびは貫一に擦寄(すりよ)りて歩めり。
「これぢや私(わたくし)が歩き難(にく)いです」
「貴方お寒うございませう。私お鞄(かばん)を持ちませう」
「いいや、どういたして」
貴方(あなた)恐入りますが、もう少し御緩(ごゆつく)りお歩きなすつて下さいましな、私呼吸(いき)が切れて……」
 已(や)む無く彼は加減して歩めり。満枝は着重(きおも)るシォウルを揺上(ゆりあ)げて、
疾(とう)から是非お話致したいと思ふ事があるのでございますけれど、その後些(ちよつ)ともお目に掛らないものですから。間さん、貴方、本当に偶(たま)にはお遊びにいらしつて下さいましな。私もう決して先達而(せんだつて)のやうな事は再び申上げませんから。些(ち)といらしつて下さいましな」
「は、難有(ありがた)う」
「お手紙を上げましても宜うございますか」
「何の手紙ですか」
御機嫌伺(ごきげんうかがひ)の」
「貴方から機嫌を伺はれる訳が無いぢやありませんか」
「では、恋(こひし)い時に」
「貴方が何も私を……」
「恋いのは私の勝手でございますよ」
「然し、手紙は人にでも見られると面倒ですから、お辞(ことわり)をします」
「でも近日に私お話を致したい事があるのでございますから、鰐淵(わにぶち)さんの事に就きましてね、私はこれ程困つた事はございませんの。で、是非貴方に御相談を願はうと存じまして、……」
 唯(と)見れば伝馬町(てんまちよう)三丁目と二丁目との角なり。貫一はここにて満枝を撒(ま)かんと思ひ設けたるなれば、彼の語り続くるをも会釈為(せ)ずして立住(たちどま)りつ。
「それぢや私はここで失礼します」
 その不意に出(い)でて貫一の闇(くら)き横町に入(い)るを、
「あれ、貴方(あなた)、其方(そちら)からいらつしやるのですか。この通をいらつしやいましなね、わざわざ、そんな寂(さびし)い道をお出(いで)なさらなくても、此方(こつち)の方が順ではございませんか」
 満枝は離れ難なく二三間追ひ行きたり。
「なあに、此方(こつち)が余程近いのですから」
幾多(いくら)も違ひは致しませんのに、賑(にぎや)かな方をいらつしやいましよ。私その代り四谷見附(みつけ)の所までお送り申しますから」
「貴方に送つて戴(いただ)いたつて為やうが無い。夜が更(ふ)けますから、貴方も早く買物を為すつてお帰りなさいまし」
「そんなお為転(ためごかし)を有仰(おつしや)らなくても宜(よろし)うございます」
 かく言争ひつつ、行くにもあらねど留るにもあらぬ貫一に引添ひて、不知不識(しらずしらず)其方(そなた)に歩ませられし満枝は、やにはに立竦(たちすく)みて声を揚げつ。
「ああ! 間さん些(ちよつ)と」
「どうしました」
路悪(みちわる)へ入つて了(しま)つて、履物(はきもの)が取れないのでございますよ」
「それだから貴方はこんな方へお出(い)でなさらんが可いのに」
 彼は渋々寄り来(きた)れり。
憚様(はばかりさま)ですが、この手を引張つて下さいましな。ああ、早く、私転びますよ」
 シォウルの外に援(たすけ)を求むる彼の手を取りて引寄すれば、女は※(よろめ)きつつ泥濘(ぬかるみ)を出でたりしが、力や余りけん、身を支へかねて※(どう)と貫一に靠(もた)れたり。
「ああ、危い」
「転びましたら貴方(あなた)の所為(せゐ)でございますよ」
「馬鹿なことを」
 彼はこの時扶(たす)けし手を放たんとせしに、釘付(くぎつけ)などにしたらんやうに曳(ひ)けども振れども得離れざるを、怪しと女の面(おもて)を窺(うかが)へるなり。満枝は打背(うちそむ)けたる顔の半(なかば)をシオウルの端(はし)に包みて、握れる手をば弥(いよい)よ固く緊(し)めたり。
「さあ、もう放して下さい」
 益(ますま)す緊めて袖(そで)の中へさへ曳入れんとすれば、
「貴方、馬鹿な事をしては可けません」
 女は一語(ひとこと)も言はず、面も背けたるままに、その手は益(ますます)放たで男の行く方(かた)に歩めり。
「常談しちや可かんですよ。さあ、後(うしろ)から人が来る」
宜(よろし)うございますよ」
 独語(ひとりご)つやうに言ひて、満枝は弥(いよいよ)寄添ひつ。貫一は怺(こら)へかねて力任せに吽(うん)と曳けば、手は離れずして、女の体のみ倒れかかりぬ。
「あ、痛(いた)! そんな酷(ひど)い事をなさらなくても、其処(そこ)の角まで参ればお放し申しますから、もう少しの間どうぞ……」
「好い加減になさい」
 と暴(あらら)かに引払(ひつぱら)ひて、寄らんとする隙(ひま)もあらせず摩脱(すりぬ)くるより足を疾(はや)めて津守坂(つのかみざか)を驀直(ましぐら)に下りたり。
 やうやう昇れる利鎌(とかま)の月は乱雲(らんうん)を芟(か)りて、※(はるけ)き梢(こずゑ)の頂(いただき)に姑(しばら)く掛れり。一抹(いちまつ)の闇(やみ)を透きて士官学校の森と、その中なる兵営と、その隣なる町の片割(かたわれ)とは、懶(ものう)く寝覚めたるやうに覚束(おぼつか)なき形を顕(あらは)しぬ。坂上なる巡査派出所の燈(ともし)は空(むなし)く血紅(けつこう)の光を射て、下り行きし男の影も、取残されし女の姿も終(つひ)に見えず。

     (八) の 二

 片側町(かたかはまち)なる坂町(さかまち)は軒並(のきなみ)に鎖(とざ)して、何処(いづこ)に隙洩(すきも)る火影(ひかげ)も見えず、旧砲兵営の外柵(がいさく)に生茂(おひしげ)る群松(むらまつ)は颯々(さつさつ)の響を作(な)して、その下道(したみち)の小暗(をぐら)き空に五位鷺(ごいさぎ)の魂切(たまき)る声消えて、夜色愁ふるが如く、正(まさ)に十一時に垂(なんな)んとす。
 忽(たちま)ち兵営の門前に方(あた)りて人の叫ぶが聞えぬ、間貫一は二人の曲者(くせもの)に囲れたるなり。一人(いちにん)は黒の中折帽の鐔(つば)を目深(まぶか)に引下(ひきおろ)し、鼠色(ねずみいろ)の毛糸の衿巻(えりまき)に半面を裹(つつ)み、黒キャリコの紋付の羽織の下に紀州ネルの下穿(したばき)高々と尻※(しりからげ)して黒足袋(くろたび)に木裏の雪踏(せつた)を履(は)き、六分強(ろくぶづよ)なる色木(いろき)の弓の折(をれ)を杖(つゑ)にしたり。他は盲縞(めくらじま)の股引(ももひき)腹掛(はらがけ)に、唐桟(とうざん)の半纏(はんてん)着て、茶ヅックの深靴(ふかぐつ)を穿(うが)ち、衿巻の頬冠(ほほかぶり)に鳥撃帽子(とりうちぼうし)を頂きて、六角に削成(けずりな)したる檳榔子(びんろうじ)の逞きステッキを引抱(ひんだ)き、いづれも身材(みのたけ)貫一よりは低けれど、血気腕力兼備と見えたる壮佼(わかもの)どもなり。
「物取か。恨を受ける覚は無いぞ!」
「黙れ!」と弓の折[#「弓の折」に傍点]の寄るを貫一は片手に障(ささ)へて、
「僕は間貫一といふ者だ。恨があらば尋常に敵手(あひて)にならう。物取ならば財(かね)はくれる、訳も言はずに無法千万な、待たんか!」
 答は無くて揮下(ふりおろ)したる弓の折は貫一が高頬(たかほほ)を発矢(はつし)と打つ。眩(めくるめ)きつつも迯(にげ)行くを、猛然と追迫(おひせま)れる檳榔子は、件(くだん)の杖もて片手突に肩の辺(あたり)を曳(えい)と突いたり。踏み耐(こた)へんとせし貫一は水道工事の鉄道(レイル)に跌(つまづ)きて仆(たふ)るるを、得たりと附入(つけい)る曲者は、余(あまり)に躁(はや)りて貫一の仆れたるに又跌き、一間ばかりの彼方(あなた)に反跳(はずみ)を打ちて投飛されぬ。入替(いりかは)りて一番手の弓の折は貫一の背(そびら)を袈裟掛(けさがけ)に打据ゑければ、起きも得せで、崩折(くづを)るるを、畳みかけんとする隙(ひま)に、手元に脱捨(ぬぎす)てたりし駒下駄(こまげた)を取るより早く、彼の面(おもて)を望みて投げたるが、丁(ちよう)と中(あた)りて痿(ひる)むその時、貫一は蹶起(はねお)きて三歩ばかりも※(のが)れしを打転(うちこ)けし檳榔子[#「檳榔子」に傍点]の躍(をど)り蒐(かか)りて、拝打(をがみうち)に下(おろ)せる杖は小鬢(こびん)を掠(かす)り、肩を辷(すべ)りて、鞄(かばん)持つ手を断(ちぎ)れんとすばかりに撲(う)ちけるを、辛(から)くも忍びてつと退(の)きながら身構(みがまへ)しが、目潰吃(めつぶしくら)ひし一番手の怒(いかり)を作(な)して奮進し来(きた)るを見るより今は危(あやふ)しと鞄の中なる小刀(こがたな)撈(かいさぐ)りつつ馳出(はせい)づるを、輙(たやす)く肉薄せる二人が笞(しもと)は雨の如く、所嫌(ところきら)はぬ滅多打(めつたうち)に、彼は敢無(あへな)くも昏倒(こんとう)せるなり。
檳「どうです、もう可いに為ませうか」
弓「此奴(こいつ)おれの鼻面(はなづら)へ下駄を打着けよつた、ああ、痛(いた)」
 衿巻掻除(かきの)けて彼の撫(な)でたる鼻は朱(あけ)に染みて、西洋蕃椒(たうがらし)の熟(つ)えたるに異らず。
檳「おお、大変な衂(はなぢ)ですぜ」
 貫一は息も絶々ながら緊(しか)と鞄を掻抱(かきいだ)き、右の逆手(さかて)に小刀を隠し持ちて、この上にも狼藉(ろうぜき)に及ばば為(せ)んやう有りと、油断を計りてわざと為す無き体(てい)を装(よそほ)ひ、直呻(ひたうめ)きにぞ呻きゐたる。
弓「憎い奴じや。然し、随分撲(う)つたの」
檳「ええ、手が痛くなつて了ひました」
弓「もう引揚げやう」
 かくて曲者は間近の横町に入(い)りぬ。辛(から)うじて面(おもて)を擡(あ)げ得たりし貫一は、一時に発せる全身の疼通(いたみ)に、精神漸(やうや)く乱れて、屡(しばし)ば前後を覚えざらんとす。



底本:「金色夜叉」新潮文庫、新潮社
   1969(昭和44)年11月10日 第1刷発行
   1998(平成10)年1月15日 第39刷発行
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
ファイル作成:かとうかおり
2000年2月23日公開
青空文庫作成ファイル:
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【表記について】

本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。
大々的※物(いんぶつ)
火が※(とも)る
※浪(まぜかへし)に
 ※車(きしや)は遽(にはか)に
※車は神奈川に着きぬ
※児(マッチ)
鰻※(うなぎ)
鰻※?
※(みむか)へし
※(みむか)ふる目前(めさき)に
※(ちゆう)の
目を※(そら)しつ
人目を※(のが)れず
人目を※(のが)れん
※(のが)れ難き
※(のが)れしを
三十四に※(およ)べども
我が恋の※(ほのほ)の
ラムプの※(ほのほ)を
※(あ)くを知らざるに
※(さらば)へる
※(めか)した事は
帯※(おびかひつくろ)ひつつ
冷※(れいえん)物
※高縮緬(しぼたかちりめん)
※(かな)はぬ
※待(もてなし)にとて
夫の目を※(かす)めて
※々(ちよろちよろ)水(みづ)を
頬杖(ほほづゑ)でも※(つ)いて
頬杖を※(つか)しめ
汀(みぎは)に※(あさ)る
※々(づかづか)と
大きな※(あやまり)だ
※々(ねちねち)した
眼(まなこ)を※(みは)りしが
※(みは)れる眼(まなこ)を
※(きつ)と
※(もが)けども
※(さけ)べば
※然(ぼんやり)
  青息(あをいき)※(つ)きて
齷※(あくさく)
※(ああ)、こんな思を
※(ああ)、その宝は
※(そそのか)し
※(みまは)しつ
※間(びかん)に
※(よろめ)きつつ
※(どう)と
※(はるけ)き
尻※(しりからげ)して