大杉栄

日本脱出記






     一

 去年の十一月二十日だった。少し仕事に疲れたので、夕飯を食うとすぐ寝床にはいっていると、Mが下から手紙の束を持って来た。いつものように、地方の同志らしい未知の人からの、幾通かの手紙の中に、珍らしく横文字で書いた四角い封筒が一つまじっていた。見ると、かねてから新聞でその名や書いたものは知っている、フランスの同志コロメルからだ。何を言って来たのだろうと思って、ちょっとその封筒をすかして見たが、薄い一枚の紙を四つ折にしたぐらいの手触りのものだ。もう長い間の習慣になっているように、それがどこかで開封されているかどうか、まず調べて見たが、それらしい形跡は別になかった。ただ附箋が三、四枚はってあったが、それは鎌倉に宛てて書いてあったので、そこから逗子に廻り、さらにまた東京に廻って来たしるしに過ぎなかった。そんなにあちこちと廻って来ながら、よく開封されなかったものだと思いながら、とにかく開けて見た。ほんのただ十行ばかり、タイプで打ってある。
 それを読むと、急に僕の心は踊りあがった。一月の末から二月の初めにかけて、ベルリンで国際無政府主義大会を開くことになったが、ぜひやって来ないか、という、その準備委員コロメルの招待状なのだ。
 大会の開かれることは僕はまだちっとも知らなかった。が、ちょうどいい機会だ、行こう、と僕は心の中できめた。そして枕もとの小さな丸テープルの上から、その日の昼来たまままだ封も切ってなかった、イギリスの無政府主義新聞『フリーダム』を取って見た。はたしてそれには大会のことが載っていた。

 招待状にもちょっと書いてあったように、九月の半ばに、スイスのセン・ティミエで、最初の国際無政府主義大会と言ってもいい、いわゆるセン・ティミエ大会の五十年紀念会があった。フランス、ドイツ、イタリア、スイス、ロシア、および支那の、百五十名ばかりの同志が集まった。そしてそのセン・ティミエ大会に与かった一人のマラテスタも、ローマからひそかに国境を脱け出て、そこに出席した。先年彼はこのスイスから追放されているので、そこにはいれば、見つかり次第捕まる恐れがあったのだ。
 紀念会は一種の国際大会のようなものになった。そしてそこで、無政府主義の組織のことや、無政府主義とサンジカリズムの関係のことなぞが問題となって、いろいろ議論のあった末に、フランスの代表者コロメル等の発議で、新たに国際無政府主義同盟を組織しようということになって、急に国際大会を開くことにきまったのであった。
 この国際同盟のことは、もうずいぶん古い頃から始終問題になっていて、現に十五、六年前のアムステルダム大会でそれがいったん組織されたのであった。この同盟には、僕等日本の無政府主義者も、幸徳を代表にして加わった。そして幸徳は毎月その機関誌に通信を送っていた。しかし、元来無政府主義者には、個人的または小団体的の運動を重んじて、一国的とか国際的とかの組織を軽んずる傾向があり、国際大会を開くにしても、その選定した土地の政府がそれを許さなかったり、また、各国の同志がそれに参加しようと思っても、政府の迫害や経済上の不如意なぞのいろんな邪魔があったりして、わずか一、二年の間にこの同盟も立消えになってしまった。最近満足に開かれた大会は、前に言ったアムステルダム大会一つくらいのもので、ずいぶん久しぶりに開かれた一昨年の暮れのべルリン大会なぞも、長い間の運動の経験を持った名のある同志はほとんど一人も見ることができなかったほどの、よほど不完全なものであったらしい。
 しかし時はもう迫って来た。ことに、ロシアの革命が与えた教訓は、各国の無政府主義者に非常な刺激となって、今までのような怠慢を許さなくなった。
『フリーダム』のこの記事を読んでいる間に、Kがその勤めさきから帰って来た。
「おい、こんな手紙が来たんだがね。」
 と言って、僕はコロメルからの手紙の内容と大会の性質とをざっと話した。
「それやぜひ行くんですね。」
 Kも大ぶ興奮しながら言った。
「僕もそうは思っているんだがね。問題はまず何よりも金なんだ。」
「どのくらい要るんです。」
「さあ、ちょっと見当はつかないがね。最低のところで千円あれば、とにかく向うへ行って、まだ二、三カ月の滞在費は残ろうと思うんだ。」
「そのくらいなら何とかなるでしょう。あとはまたあとのことにして。」
「僕もそうきめているんだ。で、あした一日金策に廻って見て、その上ではっきりきめようと思うんだ。」
「旅行券は?」
「そんなものは要らないよ。もう、とうの昔に、うまく胡麻化して行く方法をちゃんと研究してあるんだから。ただその方法を講ずるのにちょっとひまがかかるから、あしたじゅうにきめないと、大会に間に合いそうもないんだ。」
 Kはこの二つの条件を聞いて、すっかり安心したらしかった。そして下へ降りて行った。
 しかし僕にはまだ、そうやすやすと安心はできなかった。実はその借金の当てがほとんどなかったのだ。借りれる本屋からは、もう借りれるだけ、というよりもそれ以上に借りている。そして、約束の原稿は、まだほとんどどこへも何にも渡してない。それに、もしまだ借りれるとしても、いやどうしても借りなければならんのだが、それは留守中の社や家族の費用に当てなければならない。ほかにニ、三人多少金を持っている友人はあるが、それもほんの少々の金であれば時々貰ったこともあるが、少しもまとまった金はくれるかどうか分らない。それにこの頃はずいぷん景気が悪いんだから。
 そんなことをそれからそれへと、いろいろと寝床の中で考えて見たが、要するに考えてきまることではない。あした早く起きて、あちこち当って見ることだ、そうきめて、僕は頭と目とを疲らせる眠り薬の、一週間ほど前から読みかけている『其角研究』を読み始めた。
 翌日は尾行をまいて歩き廻った。はたして思うように行かない。夕方になって、うんざりして帰りかけたが、ふと一人の友人のことを思い浮んで、そこへ電話をかけて見た。そして、最後の幽かな希望のそこで、案外世話なく話がついた。

 それでもう事はきまった。
 その翌日は、九州の郷里に帰っている女房と子供とを呼びよせに、Mを使いにやった。関西支局のWも女房や子供と前後して上京した。
 準備は何にも要らない。ただ小さなスーツケース一つ持って出かければいいのだ。が、その前に、正月号の雑誌に約束した原稿と、やはり正月に出す筈のある単行本とを書いてしまわなければならない。そんなことで愚図愚図している間に、もう暮れ近いことだ、ようやく貰って来た金が半分ばかりに減ってしまった。そして、それをまたようやくのことで借り埋めて、十二月十一日の晩ひそかに家を脱け出た。



 家を脱け出ることにはもう馴れ切っている。しかしそれも、尾行をまいて出ることがすぐ知れていい時と、当分の間知れては困る時とがある。前の場合だと何でもないが、後の場合だとちょっと厄介だ。
 去年の夏日本から追放されたロシア人のコズロフが、その前年ひそかに葉山の家から僕の鎌倉の家に逃げて来て、そしてそこからさらに神戸へ逃げて行った時には、そのあとで僕は三日ばかり時々大きな声で一人で英語で話していた。が、二、三日ならそんなことでもして何とか胡麻化して行けるが、一週間も十日も胡麻化そうとなるとちょっと困る。
 一昨々年の十月、僕はひそかに上海へ行った。その時には、上海に着いてしまうまでは、僕が家を出たことをその筋に知らせたくなかった。で、夜遅く家を出たのであったが、その翌日から僕は病気で寝ているということになった。しかし大して広い家でもなし、それに往来から十分のぞかれる家でもあったので、尾行どもはすぐ疑いだした。そして四つになる女の子をつかまえて、幾度もききただして見た。そしてその後、その尾行の一人が僕にこんな話をした。
「魔子ちゃんにはとても敵いませんよ。パパさんいる? と聞くと、うんと言うんでしょう。でも可笑しいと思って、こんどはパパさんいないの? と聞くと、やっぱりうんと言うんです。おやと思いながら、またパパさんいる? と聞くと、やっぱりまたうんと言うんです。そしてこんどは、パパさんいないの? いるの? と聞くと、うんうんと二つうなずいて逃げて行ってしまうんです。そんな風でとうとう十日ばかりの間どっちともはっきりしませんでしたよ。」
 こんどだって、駒込の家はやはり狭いし、そとから十分のぞかれる。すぐ前のあき地の小さな稲荷さんの小舎の中にいる尾行どもには、家の中の話し声を聞いているだけでも、いるかいないかは大てい知れよう。
 もっとも、四つの魔子は六つになった。それだけ利口にもなっている筈だ。そして女房は、子供をだますのは可哀そうだからと言って、よく言い聞かして、尾行の口車に乗らせないようにしようと主張した。しかし僕は利口になっているだけそれだけ安心ができないと思った。そして僕が出る日の朝、Mに連れさして、同志のLの家へ遊びにやった。そこには魔子より一つ二つ下のやはり女の子がいた。
「こんどは魔子の好きなだけ幾つ泊って来てもいいんだがね。幾つ泊る? 二つ? 三つ?」
 僕は子供の頭をなでながら言った。その前に二つ泊った翌朝僕が迎いに行って、彼女が大ぶ不平だったことがあったのだ。そしてこんどもやはり、「二つ? 三つ?」と言われたのに彼女は不平だったものと見えて、ただにこにこしながら黙っていた。
「じゃ、四つ? 五つ?」
 僕は重ねて聞いた。やはりにこにこしながら、首をふって、
「もっと。」
 と言った。
「もっと? それじゃ幾つ?」
 僕が驚いたふりをして尋ねると、彼女は左の掌の上に右の中指を三本置いて、
「八つ。」
 と言いきった。
「そう、そんなに長い間?」
 僕は彼女を抱きあげてその顔にキスした。そして、
「でも、いやになったら、いつでもいいからお帰り。」
 と附け加えて彼女を離してやった。彼女は踊るようにして、Mと一緒に出かけて行った。
 彼女はその一力月前に、その母が半年ばかりの予定で郷里に帰った時にも、どうしても一緒に行くことを承知しないで、社の二階に僕と二人きりで残っていたほどの、パパっ子なのだ。そして今でもまだ僕は、時々彼女を思いだしては、なぜ一緒に連れて来なかったのだろうなぞと、理性の少しも許さない後悔をしている。
 子供のことはそれできまった。あとは僕の顔がちょっとも見えないことの口実だ。それは、こんどもまた、病気ということにした。そして多少それを本当らしく見せるために、毎朝氷を一斤ずつ買うことにした。
「それも尾行を使いにやるんですね。」
 そんなことにはごく如才のないMがそう発案して、一人でにこにこしていた。

 家からつい近所までKが一緒に来て、そこから僕は自動車で市内のある駅近くまで駆けつけた。そしてその辺で小さなトランク一つとちょっとした買物をして、急いで駅の中へはいって行った。もう発車時刻の間際だったのだ。
 僕はプラットホームを見廻した。が、僕の荷物のふろしき包みを持って来ている筈の、Wの姿が見えなかった。待合室の中にでもはいっているのだろうと思って、その方へ行こうとすると、中から誰か出て来た。姿は違うが、その歩きかたは確かにWだ。その旧式のビロードの服が、人夫か土方の帳つけというように見せるので、よくそう言ってからかわれているのだが、どこから借りて来たのか、今日は黒い長いマントなぞを着こんで、やはり黒のソフトの前の方を上に折りまげたのをかぶって、足駄をカラカラ鳴らしてやって来るところは、どう見ても立派な不良少年だ。
 僕はWから荷物を受取ってもう発車しようとしている列車に飛び乗った。列車は走りだした。Wは手をあげた。僕も手をあげてそれに応じた。これが日本での同志との最後の別れなのだ。
 前の上海行きの時には、Rがこの役目を勤めてくれた。偶然その日に鎌倉へ遊びに来たのだったが、行先きは言わずにただちょっと行衛不明になるんだから手伝ってくれと頼んで、トランクを一つ持って貰って、一里ばかりある大船の停車場まで一緒に行った。もう夜更けだったが、ちょいちょい人通りはあった。そして家を出る時に何だか見つかったような気がしたので、後ろから来るあかりはみな追手のように思われて、二人ともずいぶんびくびくしながら行った。ことに一度、建長寺と円覚寺との間頃で後ろからあかりをつけない自動車が走って来て、やがてまたそれらしい自動車が戻って来た時などは、こんどこそ捕まるものと真面目に覚悟していた。
 それが何でもなく通りすぎた時、僕はRに本当の目的を話してないことが堪らなく済まなかった。そして幾度もそれを言おうとして、口まで出て来るのをようやくのことでとめた。彼は決して信用のできない同志ではなかった。しかしまだ僕等の仲間にはいってから日も浅かった。そしてごく狭い意味での僕等の団体とは直接に何の関係もなかった。
 そして僕は無事に大船から下りの列車に、彼は上りの列車に乗った。これはあとでKから聞いたことだが、Rはその時のことを誰にも話さず、またKにもその他の誰にもかつて僕の行衛を尋ねることがなかったそうだ。僕は今でもまだ、彼の顔を見るたびに、ひそかに当時のことを彼にわびそして感謝している。
 Wの姿が見えなくなるとすぐ、僕はボーイに顔を見られないように外套の襟を高く立てて、車内にはいって寝台の中にもぐりこんだ。僕はまだ僕の顔の一番の特徴の、鬚をそり落していなかったのだ。そして一と寝入りした夜中に、そっと起きて、洗面場へ行って上下とも綺麗に鬚をそってしまった。そしてWが持って来てくれたふろしき包みの荷物を、トランクの中に入れかえた。荷物といっても、途中の船の中でやる予定の、仕事の材料と原稿紙とだけなのだ。そしてまた一と寝入りした。
 移動警察の成績が大へんいいので、十五日からその人数を今までの幾倍とかにするという新聞の記事が出たばかりの時だ。その成績のいい一つの例に挙げられては大へんだ。が、それらしい顔もついに見ないで、翌朝無事に神戸に着いた。
 神戸は、実は僕にとっては、大きな鬼門なのだ。先きにコズロフの追放されるのを送りに来た時、警察本部の外事課や特別高等課に顔を出しているので、大勢のスパイどもによく顔を見知られている筈だ。そこから船に乗るのはずいぶん剣呑だとも思ったが、しかしそれよりもっと剣呑な横浜からよりは、安全だと思った。横浜の警官でほとんど僕の顔を知らないものはないくらいなのだ。長年鎌倉や逗子にいた間に、代る代るいろんな奴が尾行に来ている。
 改札口を出ようとすると、どこの停車場にも大てい一人二人はいるのだが、怪しい目つきの男が一人見はっている。そして僕が通り過ぎたあとですぐ、改札の男の方へ走り寄ったような気はいがした。僕はすぐ車に乗って、いい加減のところまで走らせて、それからさらに車をかえてあるホテルまで行った。
 あした出る筈で、その切符を買って来てあるある船は、あさっての出帆に延びていた。仕方なしに、その日と翌日の二日は、ホテルの一室に引っこんで、近く共訳で出すある本の原稿を直して暮した。そしてたった一度、昼飯後の散歩にぶらぶらそとへ出て見たが、道で改造社の二、三人が車に乗って、その晩のアインシュタインの講演のビラをまいて歩いているのにぶつかった。僕は僕の顔がはたして彼等に分るかどうかと思って、わざとその方へ近づいて行って、車の正面のところでちょっと立ち止まって見た。が、分る筈はない。かつて僕が入獄する数日前、僕のための送別会があった時、僕は頭を一分刈りにして顔を綺麗にそって、すっかり囚人面になって出かけて行った。そして室の片隅のテーブルに座を占めていたが、僕のすぐ前に来て腰掛けたものでも、すぐにそれを僕と気のついたものはなかったくらいだ。
 船の中に四、五人の私服がはいりこんで、あちこちとうろうろしたり、僕が乗った二等の喫煙室に坐りこんだりしていた。ずいぶん気味は悪い。しかしまたそれをひやかすのもちょっと面白い。船の出るまでキャビンの中に閉じ籠っているのも癪だし、僕はよほどの自信をもって、喫煙室とデッキの間をぶらぶらしていた。そして一度は、私服らしい三、四人のもののほかは誰もはいっていなかった喫煙室に行って、彼等の横顔をながめながら煙草をふかしていた。
 船は門司を通過して長崎に着いた。そこでもやはり、二人の制服と四、五人の私服とがはいって来た。そして乗客の日本人を一人一人つかまえて何か調べ始めた。日本人といっても、船はイギリスの船なのだから、二等には僕ともで四人しかいないのだ。僕の番はすぐに来た。が、それはむしろあっけないくらいに無事に過ぎた。そして彼等は一人のフィリッピンの学生をつかまえて何やかやとひつっこく尋ねていた。
 上海に着いた、そこの税関の出口にも、やはり私服らしいのが二人見はっていた。警視庁から四人とか五人とか出張して来ているそうだから、たぶんそれなのだろう。
 僕は税関を出るとすぐ、馬車を呼んで走らした。そしてしばらく行ってから角々で二、三度あとをふり返って見たが、あとをつけて来るらしいものは何にもなかった。

     三

 最初僕はこの上海に上陸することが一番難関だと思っていた。そしてたぶんここで捕まるものとまず覚悟して、捕まった上での逃げ道までもそっと考えていたのであった。それが、こうして何のこともなくコトコト馬車を走らしているとなると、少々張合いぬけの感じがしないでもない。
「フランス租界へ。」
 御者にはただこう言っただけなのだが、上海の銀座通り大馬路を通りぬけて、二大歓楽場の新世界の角から大世界の方へ、馬車は先年初めてここに来た時と同じ道を走って行く。
 僕はここで、もう幾度も洩らして来たこの先年の旅のことを、少し詳しく思いだすことを許して貰いたい。
 八月の末頃だった。朝鮮仮政府の首要の地位にいる一青年Mが、鎌倉の僕の家にふいと訪ねて来た。要件は、要するに、近く上海で、(二十一字削除)を開きたいのだが、そして今はただ日本の参加を待っているだけなのだが、それに出席してくれないかと言うのだ。
 僕等はかつて、(五十二字削除)というものを組織したことがあった。が、その組織後間もなく、例の赤旗事件のために、僕等日本の同志の大部分が投獄され、そしてそれと同時に和親会の諸同志の上にも厳重な監視が加えられて、会員のほとんど全部は日本に止まることができなくなってしまった。その次に起ったのが例の大逆事件だ。そしてそれ以来僕等は、ずいぶん長い間、僕等自身の運動はもとより、諸外国の同志との交通もまったく不可能にされてしまった。
 それが今、この朝鮮の同志がもたらして来た(七字削除)の提案によって、こんどは社会主義というもっと狭い範囲で再び復活されようとするのだ。僕は喜んですぐさまそれを応ずるのほかはなかった。
 が、それと同時に、というよりも、それよりももっとという方が本当かも知れない。僕をして進んでそれに応じさせた、ある特殊の原因があった。それは、Mがすでにそれを堺[*注1]や山川[*注2]と相談して、そして二人から体よくそれを拒絶されたということであった。
 Mを密使として送った上海の同志等は、最初、(二十六字削除)。そしてMはまずひそかに堺と会ってそれを謀った。しかし、まだ組織中でもありまたごく雑ぱくな分子を含んでいる社会主義同盟が、すぐさまそれに加わるということは勿論、創立委員会でそれを相談するということですらも、とうてい不可能だった。第一にはまず、事が非常な秘密を保たれなければならなかった。そして第二には、(二十五字削除)の主なる人達がそれを助けているということは、いろんな異論とともに非常な危険をも伴わなければならなかった。
 そこでMはさらに個人としての加盟を堺と山川とに申込んだ。が、二人とも、大して理由にならない理由で、それを拒絶した。そしてさらにまた、誰かほかに出席することのできそうな人の推選を頼んだが、そしてその中には僕の名もあったそうだが、二人はそれもとうていあるまいと言って拒絶した。Mは仕方なしに、それでは、せめてその会議に賛成するという何か書いたものを土産にして持って帰りたいと頼んだが、それも体よく拒絶された。
 そしてMはほとんど絶望の末に僕のところへ来たのだ。僕は堺や山川がMをどこまで信用していいのか悪いのか分らないという腹を持っていたことはよく分った。僕にもその腹はあったのだ。よしMが誰からどんな信任状や紹介状を持って来たところで、外国の同志との連絡のなかった僕等には、その信任状や紹介状そのものがすでに信用されないのだ。しかし一、二時間と話ししているうちに、Mが本物かどうかぐらいのことは分る。そして本物とさえ分れば、その持って来た話に、多少は乗ってもいい訳だ。しかも堺や山川は、当時すでに、ほとんど、あるいはまったくと言ってもよかったかも知れない、共産主義に傾いていたのだ。
 が、堺や山川の腹の中には、それよりももっと大きな、あるものがあったのだ。それは危険の感じだ。(二十一字削除)、ということには、まかり間違うと内乱罪にひっかけられる恐れがある。これはその当時僕等がみんな持っていた恐怖だ。そしてこの恐怖が、堺や山川をして、上海の同志等の提案にまるで乗らせなかった、一番の原因なのだ。
 Mもそのことは十分に知っていたようだった。そしてその使命を果たすことのできない絶望とともに、日本のいわゆる(十四字削除)らしいかの絶望をもひそかに持っているようだった。彼自身も、見つかればすぐ捕まる、そして幾年の間か分らない入獄の危険を冒してやって来たのだ。そして日本のいわゆる同志は誰一人その話に見向いてもくれないのだ。そしてMはその会議の計画を僕に話しするのにも、最初から僕に正面から加盟を求めるというよりも、むしろごく臆病に、まるで義理の悪い借金にでも来たかのようなおずおずした態度で、まず僕の腹をさぐって見るような話しぶりであった。そして僕がその廻りくどい長い話を黙って一応聞いた上で、「よし行こう」と一言言った時には、彼はむしろ自分の耳を疑っているかのようにすら見えた。

 実は、この上海行きのことは、その二年ほど前にも僕に計画があったのだった。僕は、日本での運動の困難を感ずるたびに、この上海を考えないことはできなかった。支那の同志との連絡を新しくすることを思わない訳には行かなかった。そして僕は、いよいよそれを実行する間際になったある日、山川と荒畑[*注3]とにその計画を洩らした。堺にも山川を通じて、その席に出てくれるよう頼んだのだが、堺はそれに応じなかった。堺と僕との間にはその少し以前からある個人的確執があったのだ。山川と荒畑とはただ僕の言うことだけをごく冷淡に聞いてくれただけだった。二人とも、やはりその少し以前から、僕とは大ぶ冷淡な仲になっていたのだ。もっとも、僕のこの計画は中途で失敗して、まだ日本を去らない前に再び東京に帰って来ることを余儀なくされたに過ぎなかった。

 社会主義同盟は、いろんな一般的の目的を持っていたと同時に、十数年以前からのこれらの親しかった旧い同志等の確執や冷淡を和らげるという、特殊の一目的をも持っていた。が、それは無駄だった。僕等の間には、いろんな感情の行き違いの上に、さらに思想上の差違がだんだん深くなっていたのだ。そして堺や山川はMのことを僕に話さず、僕もまた二人にそのことは話さなかった。Mが鼻であしらわれたように、僕も鼻であしらわれるだろうことをも恐れたのだ。そしてもし事がうまく運べば、帰って来てから彼等に相談しても遅くないと思った。
 約束の十月になった。僕はひそかに家を出た。その時のことは前に言った。
 上海へ着いた時には、あらかじめ電報を打って置いたのだから、誰か迎いに来ていると思った。が、誰も来ていない。仕方なしに僕は、税関の前でしばらくうろうろしている間にしきりに勧められる馬車の中に、腰を下ろした。
 馬車は、まだ見たことはないがまったくヨーロッパの街らしいところや、話に聞いている支那の街らしいところや、とにかくどこもかも人間で埋まっているようないろんな街を通って、目的の何とか路何とか里というのに着いた。僕はこの何とか路何とか里という町名だけ支那語で覚えて来たのだ。
 尋ねる筈の家は二軒あった。同じ何とか里の中の、たとえば、十番と十五番とだ。最初は十番の方へ行った。そこにMが住んでいる筈なのだ。が、そんな人間はいないと言う。で、もう一軒の、そこに(三字削除)がある筈なのだ、十五番の方へ行ったが、そこでもそんな人間はいないと言う。また十番へ行った。返事はやはり同じことだ。そこでまた十五番へ行った。が、返事はやはり同じことだ。そして、こうして尋ね廻るたびごとに、出て来る男の語気はますます荒くなり、態度もますます荒くなるのだ。しかし、御者と何事か支那語で言い争っているようなそれらの男が朝鮮人であることだけはたしかだ。僕は、こんどは何と言われても、そこに坐りこむつもりで、また十番へ行った。
 十番では、初めて戸を開けてくれて、中へ入れた。僕は僕の名とMの名とを書いて、四、五人で僕を取りかこんでいる朝鮮人にそれを渡した。すると、その一人が二階へ上って行って、しばらくしてもう一人の朝鮮人と一緒に降りて来た。見ると、それは船の中で、日本人だと言いまたそれで通って来た、そして僕がかなり注意して来た男だ。
「やあ君か。君なら僕は船の中で知っている。」
 僕は初めて日本語で、馴れ馴れしく彼に言葉をかけた。こうした調子で、彼はいつもデッキで、ほかの日本人と話ししていたのだ。もっとも僕は彼と話をすることはことさらに避けてはいたが。しかしもうこの家にいるとなれば、僕の予想も当ったのだし、何の遠慮することもなくなったのだ。
 しかし彼は、船の中での日本人に対する馴れ馴れしさを見せるどころでなく、反対に僕の方からのこの馴れ馴れしさをまずその態度で斥けてしまった。そして僕が腰かけている前に突っ立ったまま、僕の言葉などに頓着なく、まるで裁判官のような調子で僕を訊問しはじめた。
「君はどうしてMを知っているんです。」
 僕は、はあ始まったな、と思いながら、机の上に頬杖をついて煙草をふかしながら、ありのままに答えた。こうしている間に、きっとまだ電報を受取っていないMが、どこかからそっと僕をのぞいてでもいるんじゃないかと思いながら。
 しかし訊問はなかなか長かった。そして裁判官の調子もちっとも和らいでは来なかった。
 そこへ、ふいと表の戸が開いて、Mがはいって来た。そしてあわてて僕の手を握って、ポカンとしているみんなに何か言い置いて、僕を二階へ連れて行った。

     四

「いや、どうも失礼。実は、日本人でここへはいって来たのはあなたが初めてなんですよ。それに、あなたが来るということは僕とLとのほかには誰も知らないんだし、僕もまだあなたからの電報は受取ってなかったんですよ。」
 Mは、さっきの裁判官ほどではないが、かなりうまい日本語で、弁解しはじめた。で、怪しい日本人がはいって来たというので、この朝鮮人町では大騒ぎになったのだそうだ。そして、まず僕を十番の家へ入れたあとで、御者に聞いて見ると、日本の領事館の前から来たというので、(また実際税関の前はすぐ領事館なのだが)ますます僕は怪しい人間になって、一応調べて見た上でもしいよいよ怪しいときまれば殺されるかどうかするところだったそうだ。それにまた、どうしたものか、Mの名の書き方を僕は間違えていた。二字名の偽名を二つ教わっていたのを、甲の方の一字と乙の方の一字とを組合せたので、それがMの本当の、しかもあまり人の知らない号になった。犯罪学の方ではよく出て来る話だが、偽名には大ていこうしたごく近い本当の何かの名の連想作用があるものなのだ。で、Mはその日本人が僕の名をかたって、自分を捕縛しに来た日本の警察官だとまずきめた。そしてここへ一人で警官がはいって来る筈はないから、きっともっと大勢どこかに隠れているのだろうと思って、あちこちとあたりを探して見た。が、それらしいものはどこにも見当らない。そして最後に、ようやく、自分でその日本人に会って見る決心をした。
「何しろ、顔だの服装だのをいろいろと細かく聞いて見ても、ちっともあなたらしくないんですからね。」
 Mは最後にこう附け加えて、そのちっとも僕らしくなくなっているという顔を、今さらのようにまた見つめ直した。
 Mは、Lのところへ行こうといって、さっきの十五番の家へ案内した。
 Lの室にはもう五、六人つめかけて僕を待っていた。その中で一番年とったそしてからだの大きな、東洋人というよりもむしろフランスの高級の軍人といった風の、口髯をねじり上げてポワンテュの顎鬚を延ばした、一見してこれがあのLだなと思われる男に、僕はまず紹介された。はたしてそれが、日本でも有名な、いわゆる(四字削除)のLだった。
「日本人とこうして膝を交えて話しするのは、これが十幾年目(あるいは二十年目と言ったかとも覚えている)です。あるいは一生こんなことはないかとも思っていました。」
 Lは一応の挨拶がすむと、Mの通訳でこう言った。Lは軍人で、朝鮮が日本の保護国となった最初からの(九十五字削除)。

 こうして僕は一時間ばかりLと話ししたあとで、Lの注意でMに案内されてあるホテルへ行った。そこはつい最近までイギリスのラッセルも泊っていた、支那人の経営している西洋式の一流のホテルだということだった。
(四字削除)の室と言っても、ごくお粗末な汚ない机一つと幾つかの椅子と寝台一つのファニテュアで、敷物もなければカーテンもない、何の飾りっ気もない貧弱極まるものだった。それに僕がこんなホテルに泊るのは、少々気も引けたし、金の方の心配もあったので、もっと小さな宿屋へ行こうじゃないかとMに言い出た。が、Mは小さな宿屋では排日で日本人は泊めないからと言って、とにかくそこへ連れて行った。実際、道であちこちでMに注意されたように、「抵制日貨」という、日本の商品に対するボイコットの張札がいたるところの壁にはりつけられてあった。
 そして僕は、それともう一つは日本の警察に対する注意とから、支那人の名でそのホテルの客となった。
 翌日は、ロシア人のTや、支那人のCや、朝鮮人のRなどの、こんどの会議に参加する六、七人の先生等がやって来た。そしてそれからはほとんど二、三日置きに、Cの家で会議を開いた。Cは北京大学の教授だったのだが、あることで入獄させられようとして、ひそかに上海に逃げて来て、そこで『新青年』という社会主義雑誌を出していた、支那での共産主義の権威だった。Rはその前年、例の古賀廉造の胆入りで日本へやって来て、大ぶ騒がしかった問題になったことのある男だ。
 僕は、日本を出る時に、きっと喧嘩をして帰って来るんだろうと、同志に話していたが、はたしてその会議はいつも僕とTとの議論で終った。Tは、ここで(六十二字削除)。支那の同志も朝鮮の同志もそれにはほぼ賛成していたようだった。で、僕がもしそれに賛成すれば、会議は何のこともなくすぐ済んでしまうのだった。
 しかし僕は、当時日本の社会主義同盟に加わっていた事実の通り、無政府主義者と共産主義者との提携の可能を信じ、またその必要をも感じていたが、各々の異なった主義者の思想や行動の自由は十分に尊重しなければならないと思っていた。で、無政府主義者としての僕は、極東共産党同盟に加わることもできずまた国際共産党同盟の第三インタナショナルに加わることもできなかった。そして僕の主張は、(三十七字削除)いうこと以上に出ることはできなかった。
 また、そこに集まった各国同志の実情から見ても、朝鮮の同志ははっきりとした共産主義者ではなかった。ただ、単なる独立の不可能とまたその無駄とを感じて、社会主義でもいい、共産主義でもいい、また無政府主義でもいい、(二十字削除)に過ぎなかった。支那の同志は、Cはすでに思想的には大ぶはっきりした共産主義者だったがまだ共産党のいわゆる「鉄の規律」の感情には染まっていなかった。そしてみんな、ロシアのTの、各国の運動の内部に関するいろんな細かいおせっかいに、多少の反感を持っていたのだった。
 で、この各国諸革命党の運動の自由ということには、朝鮮の同志も支那の同志も僕に賛成した。そうなればもう、(百十五字削除)。

 この委員会の相談がきまると、Tは「少し内緒の話があるから二人きりで会いたい」と言って、僕を自分の家に誘った。
 その話というのは要するに金のことなのだ。運動をするのに金が要るなら出そう、そこで今どんな計画があり、またそのためにどれほど金が要るか、と言うのだ。僕はさしあたり大して計画はないが、週刊新聞一つ出したいと思っている、それには一万円もあれば半年は支えて行けよう、そしてそのあとは何とかして自分等でやって行けよう、と答えた。
 その金はすぐ貰えることにきまった。が、その後また幾度も会っているうちに、Tは新聞の内容について例の細かいおせっかいを出しはじめた。僕には、このおせっかいが僕の持って生れた性質の上からも、また僕の主義の上からも、許すことができなかった。そして最後に僕は、前の会議の時にもそんなことならもう相談はよしてすぐ帰ると言ったように、金などは一文も貰いたくないと言った。もともと僕は金を貰いに来たのじゃない。またそんな予想もほとんどまったく持って来なかった。ただ東洋各国の同志の連絡を謀りに来たのだ。それができさえすれば、各国は各国で勝手に運動をやる。日本は日本で、どこから金が来なくても、今までもすでに自分で自分の運動を続けて来たのだ。これからだって同じことだ。条件がつくような金は一文も欲しくない。僕はそういう意味のことを、それまでお互いに話ししていた英語で、特に書いて彼に渡した。
 Tはそれで承知した。そしてなお、一般の運動の上で要る金があればいつでも送る、とも約束した。が、いよいよ僕が帰る時には、今少し都合が悪いからというので、金は二千円しか受取らなかった。

 帰るとすぐ、僕は上海でのこの顛末を、まず堺に話しした。そして堺から山川に話しして、さらに三人でその相談をすることにきめた。そして僕は、近くロシアへ行く約束をして来たから、週刊新聞ももし彼等の手でやるなら任してもいい、また上海での仕事は共産主義者の彼等の方が都合がいいのだから、彼等の方でやって欲しい、と附け加えて置いた。が、それには、堺からも山川からも直接の返事はなくて、ある同志を通じて、僕の相談にはほとんど乗らないという返事だった。
 で、僕は、以前から一月には雑誌を出そうと約束していた近藤憲二、和田久太郎等のほかに、近藤栄蔵(別名伊井敬)高津正道等と一緒に、週刊『労働運動』を創めた。前の二人は無政府主義者で、後の二人は共産主義者なのだ。近藤栄蔵は、大杉等の無政府主義者とはたして一緒に仕事をやって行けるか、という注意を堺から受けたそうだが、かえって彼はそれを笑った。僕も一緒にそれを笑った。
 最初から僕は、この新聞はこれらの人達の協同に、全部を任せるつもりでいた。僕は仕事の目鼻さえつけば、すぐロシアへ出発する筈にしていたのだ。が、その仕事も始めないうちに、僕は病気になった。ずいぶん長い間そのために苦しんで、そしてしばらく落ちついていたと思った肺が、急にまた悪くなったのだ。医者からは絶対安静を命ぜられた。で、新聞の準備もほとんどみんなに任せきりにしている間に、こんどはチブスという難病に襲われた。
 僕の病気は上海の委員会との連絡をまったく絶たしてしまった。Tからすぐ送って来る筈の金も来なかった。が、近藤憲二が僕の名で本屋から借金して来て、みんな一緒になってよく働いた。そして新聞は、僕が退院後の静養をしてほとんどその仕事に与かっていなかった、六月まで続いた。
 たぶん四月だったろう。僕は再び上海との連絡を謀るためと約束の金を貰うためとに、近藤栄蔵を使いにやった。が、その留守中に、近藤栄蔵や高津正道が堺、山川等と通じて、ひそかに無政府主義者の排斥を謀っているらしいことが、大ぶ感づかれて来た。もしそうなら、僕は上海の方のことはいっさい共産党に譲って、また事実上栄蔵もそういう風にして来るだろうとも思ったが、そして新聞も止して、僕等無政府主義者だけで別にまた仕事を始めようと思った。
 すると、上海からの帰り途で近藤栄蔵が捕まった。新聞はこれを機会にして止した。
 栄蔵は一カ月余り監獄にいて、出て来ると山川とだけに会って、その妻子のいる神戸へ行った。そして僕は山川から栄蔵の伝言だというのを聞いた。それによると、Tはちょうど上海にいないで、朝鮮人の方から栄蔵がロシアへ行く旅費として二千円と僕への病気見舞金二百円とを貰って来たということだった。しかしそれは、僕等がほかの方面から聞いた話、もっとも十分に確実なものではなかったが、とは大ぶ違っていた。が、そんなことはもうどうでもいい、それで彼等と縁切りになりさえすればいいのだ、と思った。
 上海の委員会は、Tが大して気乗りしていなかったせいだろう、僕が帰ったあとで何の仕事もしないで立消えになってしまったらしい。そして栄蔵が警視庁で告白したところによると、朝鮮の某(そんな名の人間はいない)から六千円余り貰って来たことになっている。
「ヨーロッパまで」が脇道の昔ばなしにはいって、大ぶいやな話が出た。僕はその後ある文章の中で「共産党の奴等はゴマノハイだ」と罵ったことがある。それは一つには暗にこの事実を指したのだ。そしてもう一つには、これもその後だんだん明らかになって来たことだが、無産階級の独裁という美名(?)の下に、共産党がひそかに新権力をぬすみ取って、いわゆる独裁者の無産階級を新しい奴隷に陥しいれてしまう事実を指したのだ。
 かくして僕は、はなはだ遅まきながら、共産党との提携の事実上にもまた理論上にもまったく不可能なことをさとった。そしてまたそれ以上に、共産党は資本主義諸党と同じく、しかもより油断のならない、僕等無政府主義者の敵であることが分った。
 が、今ここに上海行きのこれだけの話ができるのは、共産党の先生等が捕まって、警察や裁判所でペラペラと仲間の秘密をしゃべってしまった、そのお蔭だ。それだけはここでお札を言って置く。

     五

 それでも、僕にはまだ、ロシア行きの約束だけは忘れられなかった。そしてからだの恢復とともに、僕等自身の雑誌の計画を進めながら、ひそかにその時を待っていた。僕はロシアの実情を自分の目で見るとともに、さらにヨーロッパに廻って戦後の混沌としている社会運動や労働運動の実際をも見たいと思った。
 そこへ、突然、その年の十月頃かに、ロシアで(十九字削除)。それは共産党の方に来たのだが、こんどは僕もその相談に与かった。共産党ではそこへやろうという労働者がいなかったのだ。そして僕は、いずれまた上海の時のようなことになるのだろうとは思ったが、とにかく日本から出席する十名ばかりの中に加わることにきめた。しかし、あとでよく考えて見て、それも無駄なような気がした。また、共産党との相談にも、いろいろ面白くないことが起きた。そして、いよいよ二、三日中に出発するという時になって、僕一人だけそこから抜けた。
 翌年、すなわち去年の一月に、僕はまたこんどは月刊の『労働運動』を始めた。そしてほとんど毎号、その頃になってようやく知れて来たロシアの共産党政府の無政府主義者やサンジカリストに対する暴虐な迫害や、その反無産階級的反革命的政治の紹介に、僕の全力を注いだ。
 八月の末に、大阪で、例の労働組合総連合創立大会が開かれた。そしてそこで、無政府主義者と共産主義者とが初めて公然と、しかもその根本的理論の差異の上に立って、中央集権論と自由連合論との二派の労働者の背後に対陣することとなった。
 日本の労働運動は、この大会を機として、その思想の上にもまた運動の上にも、特に劃時代的の新生面を開こうとする非常な緊張ぶりを示して来た。そこへこんどの(九字削除)の通知が来たのだ。たとえ短かい一時とはいえ、日本を去るのは今は実に惜しい。また、ほとんど寝食を忘れるくらいに忙がしい同志を置き去りにして出るのも実に忍びない。しかし日本のことは日本のことで、僕がいようといまいと、勿論みんなが全力を尽してやって行くのだ。そして僕は僕で、外国の同志との、しかもこんどこそは本当の同志の無政府主義者との、交渉の機会が与えられたのだ。行こう。僕は即座にそう決心するほかはなかった。

 上海では、前は、三、四軒のホテルに十日ほどずつ泊った。同じホテルに長くいてはあぶないというので、そのたびに新しい変名を造っては、ほかのホテルへ移って行ったのだ。この時々変る自分の名を覚えるのは容易なことでなかった。まずその漢字とその支那音との、僕等にはほとんど連絡のない、というよりもむしろまったく違った二つのことを覚えなければならないのだ。が、それはまず無事に済んだ。けれども、支那語をちっとも知らない支那人というのも、ずいぶん変なものだ。が、それもまず、ボーイとは英語で、しかもほんの用事だけのことを話せばいいのだから、何とか胡麻化して済ました。
 しかし一度その変名で、失敗のようなまた過失の功名のようなことをした。それは、やはり上海にいた支那の国民党のある友人に会いたいということを、朝鮮のRに話した。Rはその友人の家へ行ったが、旅行中で留守なので、ただ僕が何々ホテルにいるということだけを書き置いて来た。友人は帰ってからすぐ僕のホテルへ来た。そして、きっと変名しているのだろうと思って、ただ日本人がいないかと尋ねた。すると、日本人はいないというので、さらに日本人らしい支那人はいないかと聞いたが、そんなのもいないと言う。で、仕方なしに旅客の名と室の番号を書き列ねた板の上を見廻した。
「はあ、これに違いない。」
 彼はその中のある名を見て、一人でそうきめて、その番号の室へ行った。そしてはたしてそこに僕を見出した。
「あんな馬鹿な名をつける奴があるもんか。」
 彼は僕の顔を見るとすぐ、笑いこけるようにして言った。
「何故だい。朝鮮人がつけてくれた名なんだけれど。」
 僕はその笑いこける理由がちっとも分らないので、真面目な顔をして聞いた。
「何故って君、唐世民だろう、あれは唐の太宗の名で、日本で言えば豊臣秀吉とか徳川家康とかいうのと同じことじゃないか。が、お蔭で僕は、それが君だってことがすぐ分ったんだ。本当の支那人でそんな馬鹿な名をつける奴はないからね。」
 この友人は、近く広東へ乗込む孫逸仙[*注4]一行の先発隊として、あしたの朝上海を出発するのだった。したがって、もしその晩会えなければ、しばらくまた会う機会がないのだった。
「新政府の基礎ができたら、ぜひ広東へ遊びに来たまえ。陳烱明は何にも分らないただの軍人なのだが、社会問題には大ぶ興味を持っているし、僕等も向うへ行けばすぐ、支那や外国の資本家を圧迫する一方法としてだけでも、大いに労働運動を興して見るつもりなんだ。」
 今は立派な政治家になっているが、昔は熱心な労働運動者だった彼は、こうしてその新政治の必要の上からの労働運動を主張していたのだった。そして実際また、その頃すでにもう、陳烱明の保護の下に無政府主義者等が盛んに労働組合を起して、広東が支那の労働運動の中心になろうとしていたのだ。その後、香港で起った船員や仲仕の大罷工には、これらの無政府主義者がその背後にいたのだった。
 上海で無政府主義者の誰とも会うことのできなかった僕は、広東のそれらの無政府主義者と会いたいと思った。そしてこの支那の新政治家とは、近いうちにまた広東で会う約束をして分れた。

 が、こんどは、例の共産党の先生等のペラペラのお蔭で、これらのおなじみのホテルへは行けなかった。近藤栄蔵が捕まって以来、日本政府の上海警戒が急に厳重になったのだ。そして僕等が前に泊ったホテルにはどんな方法が講じてあるかも知れなかったのだ。
 で、僕はまず、支那の同志Bの家へ行った。まだ会ったことのない同志だ。しかしその夏、やはり支那の同志のWがひそかに東京に来て、お互いの連絡は十分についていたのだ。そして僕がこんどこの上海に寄ったのは、べルリンの大会で(九字削除)が組織されるのと同時に、僕等にとってはそれよりももっと必要な(八字削除)の組織を謀ろうと思ったからでもあった。
 折悪くBはいなかった。そしてその留守の誰も、支那語のほかは話もできず、また筆談もできそうになかった。僕は少々途方にくれた。ほかへ行くにも前に知っている支那人や朝鮮人は今はみなロシアに行ってしまった筈だ。新政治家の友人も、その後陣烱明の謀叛のために広東を落ちて、たぶん今は上海にいるんだろうとは思ったが、どこにいるんだか分らなかった。こんなことなら、あらかじめBに僕の来ることを知らして置くんだった、とも思った。が、今さらそんな無駄なことを考えても仕方がない。どこか西洋人経営のホテルを探しに行くか、あるいはここに坐り込んでBの帰るのを待つかだ。僕は長崎から上海までの暴風で大ぶ疲れていたので、そしてまたよくは分らないがBがすぐ帰って来そうな話しぶりなので、とにかく少し待って見るつもりで玄関の椅子の一つに腰を下ろした。
 すると、すぐそこへ、そとから若い支那人が一人はいって来た。僕はその顔を見てハッとした。知っている顔だ。去年まで東京でたびたび会って、よく知っているNだ。彼も無政府主義者だと言っていた。そしてその方面のいろんな団体や集会にも出入していた。しかし僕は彼がどこまで信用のできる同志だか知らなかった。そしてまた彼が支那に帰ってからの行動については何も知らなかった。僕は彼をちょうどいい助け舟だと思うよりも、今彼に見られていいのか悪いのか分らなかった。とにかく、何人によらず、知っている人間に会うのは今の僕には禁物なのだ。
 彼の方でも、僕の顔を見るとすぐ、ハッとしたようであった。が、そのすぐあとの瞬間に、僕は彼が僕の顔を分らなかったことが分った。そして僕は、そうだ、その筈だ、と初めて安心した。
 彼は取次のものと何か話していたが、Bはすぐ帰って来る筈だから、と日本語でその話を取次いでくれた。僕は彼が僕の顔を分らずに、そのハッとした態度をまだそのまま続けているのが少々可笑しかった。そしてちょっとからかって見る気になった。
「あなたはよはど長く日本においででしたか。」
 僕は済ました顔で尋ねた。
「いいえ、日本にいたことはありません。」
 僕は彼のむっつりした返事を少々意外に思った。がすぐまた、彼が排日運動の熱心家で、そのために日本の警察からかなり注意されていたことに気がついた。そして彼が僕を普通の日本人かあるいは多少怪しい日本人かと思っているらしいことは、さらにまた僕のからかい気を増長させた。
「しかしずいぶん日本語がうまいですね。」
「いや、ちっともうまくないです。」
 彼は前よりももっとむっつりした調子でこう言ったまま、テーブルの上にあった支那新聞を取り上げた。僕はますます可笑しくなったが、しかしまた多少気の毒にもなり、またあまり長い間話ししていては険呑だとも思ったので、それをいい機会にして黙ってしまった。そして彼には後ろむきになって、やはりテーブルの上の支那の新聞を取りあげた。
 こうしてしばらく待っている間にBが帰って来た。僕はNに分らんように、筆談で彼と話しした。彼は僕をいい加減な名でNに紹介した。
 翌日僕は、Bの家の近所を歩き廻って、ロシア人の下宿屋を見つけた。そして、ただ少々の前金を払っただけで、名も何にも言わずにそこの一室に落ちついた。
 僕は食堂へ出るのを避けて、いつも自分の室で食事した。したがって、下宿屋の神さんでもまたほかの下宿人でも、ほとんど顔を見合したことがなかった。二日経っても三日経っても、宿帳も持って来なければ、名刺をくれとも言って来ない。僕は呑気なもんだなと思いながら、支那人のボーイに僕がどこの国の人間だか分るかと聞いて見た。ボーイは何の疑うところもないらしく、
「イギリス人です。」
 と答えた。僕は変なことを言うと思って、
「どうしてそう思う?」
 と問い返した。
「お神さんがそう言いましたから。」
 ボーイは、神さんと同じように、ごく下手な僕の英語よりももっと下手な英語で、やはり何の疑うところもないような風で答えた。
「ハァ、奴等は僕をイギリス人と支那人との合の子とでも思っているんだな。」
 僕はこれはいい具合だなと思いながら、そのボーイの持って来た夕飯の皿に向った。実際、こうした下宿屋には、東洋人が来ることはほとんど絶対にない。お客はみな毛唐ばかりなのだ。

     六

 上海に幾日いたか、またその間何をしていたか、ということについては今はまだ何にも言えない。ただそこにいる間に、べルリンの大会が日延べになったことが分ったので、ゆっくりと目的を果たすことができた。そして、その間に、日本では、僕が信州の何とか温泉へ行ったとか、ハルピンからロシアへ行ったとか、香港からヨーロッパへ渡ったとか、いやどことかで捕まったとか、というようないろんな新聞のうわさを見た。上海の支那人の新聞にも、そうしたうわさを伝えたほかに、ロシアから毎月幾らかの宣伝費を貰っている、というようなことまでも伝えた。
 そして、本年某月某日、僕は四月一日の大会に間に合うように、ある国のある船で、そっとまた上海を出た。途中のことも今はまだ何にも言えない。
 (上海で何をしていたのかは日本に帰った今でもまだ言えないが、ここで大会の日延べになったことが分ったとか、日本でのいろいろなうわさを聞いたとかいうのはうそだ。それはパリヘ行ってからのことなのだ。途中でのことはほかの記事にちょいちょい書いてある。)

 某月某日——これがあんまり重なっては読者諸君にはなはだ相済まないのだが、仕方がない、まあ勘弁して貰おう——どこをどうしてだか知らないが、とにかくパリに着いた。
 コロメルの宛名の、フランス無政府主義同盟機関『ル・リべルテエル』社のあるところは、パリの、しかもブウルヴァル・ド・ベルヴィル(強いて翻訳すれば「美しい町の通り」)というのだ。地図を開いて見ても、かねてから名を聞いているオペラ座なぞのある大通りと同じような、大きな大通りになっている。
 いずれその横町か屋根裏にでもいるだろう、と思って行って見ると、なるほど大通りは大通りに違いないが、ちょうどあの、浅草から万年町の方へ行く何とかいう大きな通りそのままの感じだ。もっとも両側の家だけは五階六階七階の高い家だが、そのすすけた汚なさは、ちょっとお話にならない。自動車で走るんだからよく分らないが、店だって何だか汚ならしいものばかり売っている。そして通りの真中の広い歩道が、道一ぱいに汚ならしいテントの小舎がけがあって、そこをまた日本ではとても見られないような汚ならしい風の野蛮人見たいな顔をした人間がうじゃうじゃと通っている。市場なのだ。そとからは店の様子はちょっと見えないが、みな朝の買物らしく、大きな袋にキャべツだのジャガ芋だの大きなパンの棒だのを入れて歩いている。
 ル・リべルテエル社は、それでも、その大通りの、地並みの室にあった。週刊『ル・リべルテエル』(自由人)『ラ・ルヴィユ・アナルシスト』(無政府主義評論)との事務所になっているほかに、ラ・リブレイ・ソシアル(社会書房)という小さな本屋をもやっているので、店はみな地並みにあるわけなのだ。
 その本屋の店にはいると、やはりおもてにいるのと同じような風や顔の人間が七、八人、何かガヤガヤと怒鳴るような口調でしゃべっていた。その一人をつかまえてコロメルはいないかと聞くと、奥にいると言う。奥と言っても、店からすぐ見える汚ならしい次の部屋なのだ。そこもやはり、同じような人間が七、八人突立っていて、ガヤガヤとしゃべっているほかに、やはり同じような人間が隅っこの机に二人ばかり何か仕事をしていた。その一つの机のそばに立って、手紙の束を手早く一つ一つ選り分けている男が一人、ほかの人間とは風も顔も少し違っていた。日本で言ってもちょっと芸術家といった風に頭の毛を長く延ばして髯のない白い顔をみんなの間に光らしていた。ネクタイもしていた。服も、黒の、とにかくそんなに汚れていないのを着ていた。僕はその男をコロメルだときめてそのそばへ行って、君がコロメルか、と聞いた。そうだ、と言う。僕は手をさし出しながら、僕はこうこうだと言えば、彼は僕の手を堅く握りしめながら、そうか、よく来た、と言って、すぐ日本の事情を問う。腰をかけろという椅子もないのだ。

「どこか近所のホテルヘ泊りたいんだが。」
 と言うと、
「それじゃ私が案内しましょう。」
 という、女らしい声が僕のうしろでする。ふり返って見ると、まだ若い、しかし日本人にしてもせいの低い、色の大して白くない、唇の大きくて厚い、ただ目だけがぱっちりと大きく開いているほかにあんまり西洋人らしくない女だ。風もその辺で見る野蛮人と別に変りはない。
 とにかくその女の後について、二、三丁行って、ちょっとした横町にはいると、ほとんど軒並みにホテルの看板がさがっている。みんな汚ならしい家ばかりだ。女はその中の多少よさそうな一軒を指さして、あのホテルへ行って見ようと言う。看板にはグランドホテル何とかと書いてある。が、はいって見れば、要するに木賃宿なのだ。今あいているという三階のある室に通された。敷物も何にも敷いてない狭い室の中には、ダブル・べッド一つと、鏡付きの大きな箪笥一つと、机一つと、椅子二つと、陶器の水入れや金だらいを載せた洗面台とで、ほとんど一ぱいになっている。そしてその一方の隅っこに、自炊のできるようにガスが置いてある。すべてが汚ならしく汚れた、そして欠けたり傷ついたりしたものばかりだ。ちょっといやな臭いまでもする。が、感心に、今まで登って来た梯子段や廊下はずいぶん暗かったが、室の中はまずあかるい。窓からそとはかなり遠くまで広く開いている。
「なかなかいい室でしょう。」
 と連れの女は自慢らしく言う。とても、お世辞にもいいとは言えない。実は、今までもあちこちのいろんなホテルに泊っているんだが、こんなうちは初めて見たのだ。が、フランスへ行ったら労働者町に住んで見たい、もしできれば労働者の家庭の中に住んで見たい、とはかねてから思っていた。
「いいでしょう、ここにきめよう。」
 と僕も仕方なしに、ではあるがまた、ここに住むことについて大きな好奇心を持って答えた。
 そしてまず、一カ月百フラン(その時の相場で日本の金の十二円五十銭)という室代の幾分かを払った。東京の木賃宿の一日五十銭に較べればよほど安い。ガスは一サンティムの鋼貨を一つ小さな穴の中に入れれば、三度の食事ぐらいには使えるだけの量が出て来るのだそうだ。
 すると、こんどは宿帳をつけてくれと言う。今までも、どこのホテルでも宿帳はつけて来たが、そしていい加減に書いて来たが、ここではカルト・ディダンティテ(警察の身元証明書)を見せろと言うのだ。何のことかよく分らんから、連れの女に聞いて見ると、フランスでは外国人はもとより内国人ですらも、みなその写真を一枚はりつけた警察の身元証明書を持っていなければならんのだと言う。勿論そんなものは持っていない。で、仕方なしに、その女と一緒になって、いい加減にそこをごまかしてしまった。
「フランスはずいぶんうるさいんですね。」
 僕はホテルを出て、社へ置いて来た荷物を取りに行く途で、女につぶやいた。
「ええ、そしてあの身元証明書がないと、すぐ警察へ引っぱって行かれて、罰金か牢を仰せつかるんです。外国人ならその上にすぐ追放ですね。」
 が、僕は女のこの返事が終るか終らないうちに、社のすぐ前の角に制服の巡査が三人突っ立っているのを見た。みな社の方を向いて、社の入口ばかりを見つめているようなのだ。
「おや、制服が立っていますね。」
 僕は少々不審に思って聞いた。
「例のベルトン事件以来、ずっとこうなんです。」
 と言って、彼女は、最近に王党の一首領を暗殺した女無政府主義者ジェルメン・ベルトンの名を出した。そしてその以前からも、集会は勿論厳重な監視をされるし、家宅捜索もやる、通信も一々調べる、尾行もやる、遠慮なく警察へ引っぱって行く、という風だったのだそうだ。
「はあ、やっぱり日本と同じことなんだな。」
 僕はそう思いながら、たぶんその巡査どもの視線を浴びながらだろう、ル・リベテエル社の中へはいって行った。
                     ——一九二三年四月五日、リヨンにて——
                               (大正十二年七月)



注1—堺利彦。1870-1933。政治家。幸徳秋水らと平民新聞を創刊。日本共産党初代委員長。
注2—山川均。1880-1958。社会主義者。日本共産党創立に参画。山川イズムで知られる。
注3—荒畑寒村。1887-1981。社会主義者。日本共産党創立に参画。のち労農派に転じ、第二次大戦後は日本社会党創立に参画。
注4—孫文。中国の革命家・政治家。



底本:全集・現代文学の発見 第一巻
   昭和四十九年九月第一刷発行
   学芸書林
テキスト入力:山根鋭二
テキスト校正:浜野 智
青空文庫公開:1998年8月