愛野いずみ
渚家のよく磨かれた廊下に靴音が響きます。廊下に視線を落とすと、自分の靴底が反射って見える程です。廊下に反射し出された靴底は3足、ミサト・リツコそして、シンジ。3人とも靴も、身に纏っている服も黒一色。喪服でした。
シンジの腕には白い百合の花が抱かれていました。3人の姿を表すかのように、百合は重そうに花房を垂れています。
コン、コン…
目の前の扉に手の伸ばし、軽くノックしたのはリツコでした。
「おばさま、入りますよ…。シンジくんをお連れしました」
リツコに促されても、シンジはすんなりと部屋に入る事が出来ません。後ろから、ミサトも軽く背を押します。
その瞬間、キールおばさまの指が鋭くシンジに向きました。
「お前が!お前なんかが渚家に来たから、レイはあんな事に…!!
お前さえ来なければ!お前は疫病神だ、死神だ!!
カヲルの命令でなければ、追い出している所だ。
なんでカヲルはこんな…。ああ、もう、出ておゆき!お前の顔など観たくない!」
シンジが百合を抱えたままうなだれて居ると、ミサトが寄って来て、耳元で囁きました。
「この場はおとなしく消えた方がいいわ、シンジくん…。私達が何とかするから。
あなたは何も心配しなくていいのよ」
シンジはコックリと首を縦に振るしか出来ませんでした。
キールおばさまの、少しでも慰めになればいいと思って持って来た白百合の花、それすらもおばさまの目には映らなかったようです。それもその筈です。レイは白百合よりも清廉に美しく、白百合よりも香り高い少女でした。特にキールおばさまは数居る孫達の中でも、レイを可愛がっていました。レイは病的な程色が白く、傍に居る者は庇ってやりたくなる雰囲気を持っていましたが、その実、自己犠牲の意識が強い慈母的な少女でした。レイが他人の事を悪く言っていたのを聞いた事がありませんでした。自分の事はいかに悪く言われようとも、黙って居るような少女でした。レイを思うと、今更ながらにシンジの頬を涙が伝うのでした。
今朝、シンジは不安な気持ちで起きたました。目が覚めた時、何か大事なものを失っていそうな気がしたのです。セミ狩りの朝、レイからもらったスウィート・シンジが枯れていたから?いいえ、意識の遠くから入ってくる啜り泣きの声で目覚めたからかもしれません。
「はっ…!ここは…ボクの部屋…?」
シンジが目を擦り、ベッドに横たわったまま辺りを見回すと、ミサトとリツコが真っ赤に目を泣きはらしていました。
「気がついた、シンジくん?どこも痛い所はない?」
それでもリツコは冷静にシンジの容体を気遣ってくれます。
「はい、大丈夫です…。あの、ボクより綾波は?綾波はどこに居るんです?」
シンジの問いに、ミサトもリツコも目を伏せるばかりです。
「綾波はどこ?教えて下さい、リツコさん!ミサトさん!」
「…レイの乗ってた零号機ね…、暴走したのよ。私達も、エヴァとパイロットであるレイのコンディションやシンクロ率、万全に整えていた筈だったのに…。
それでね、その零号機が初号機を襲おうとしたの。暴走した零号機を止める為に、レイは……」
淡々と事のあらましを伝えたミサトでしたが、最後は「うっ…」と言う嗚咽を漏らして、言葉に詰まってしまいました。
「自爆したのよ、レイは…」
ミサトの後を受け継いだのはリツコでした。リツコの方が、ミサトよりもシッカリした口調でした。
「自爆…ボクを庇って…?」
「エヴァはね、とても扱い難い存在なの。シンクロ率が低すぎても、思った通りには行動してくれないし、また高すぎてもエヴァに取り込まれてしまうわ。
いえ、その前にパイロットの願望を忠実に行動してしまう事もあるの。
つまりあの零号機の暴走は、シンジくんと一つになりたいというレイを忠実に表した姿なのよ」
「綾波がボクと…?でも、それじゃあ綾波はボクの所為で死んだ事になるじゃないかーっ!」
「違うわ、シンジくん。レイの魂はサルベージされて、また新たなレイが生まれるかもしれないのよ。
その時を待ちましょう」
シンジの手はベッドのシーツを握りしめていましたが、それ以上に溢れそうな力を、どうしていいか判らない風でした。
「シンジくん、自分を責めてはダメ。どうしようもない事なのよ…。
レイは、あなたを愛していたから一つになりたいと願った。
でもね、愛しているからこそ、自分の身を犠牲にしてまであなたを守りたいと思ったのよ。そういう愛情もあるの。
それを理解して、自分を大切に生きて…。それがレイの愛情に応える事になるのよ…」
ミサトはシンジの手を取ろうとしました。でもシンジは、咄嗟にその手を引き込めてしまいました。
「………」
シンジのその行動によって、部屋の中の会話はパッタリと途切れました。そんな中でも、シンジは「あ、こういうのオバケが通ったって言うんだっけ?妖精が通ったって言うんだっけ?」などと言う事を考えていました。人間はあまりに哀しすぎると、今置かれている状況とは無関係な事を考える生き物のようです。不思議な事に、シンジの瞳からは涙も流れません。ただひたすら、この現実が自身の上を通り過ぎてくれるのを待つしか出来ないのでしょうか……?
シンジはキール大おばさまの部屋から、やっと自分の部屋に辿り着きました。
シンジの部屋には、まだレイからもらったスウィート・シンジが飾ってありました。一昨日までは、レイの素肌のように白かった花びらも、今ではほとんどが茶色のシミに侵され、端の方は干からびていました。シンジは枯れ切ったスウィート・シンジを花瓶から抜き取り、代わりに白百合を差しました。枯れた薔薇を片手に持って、シンジは屋敷の外へと足を向けました。
シンジが辿り着いた先はレイの薔薇園でした。薔薇園に着くと、思いがけずシンジの頬を涙が濡らしました。
ここで綾波と初めて会ったんだ。ボクがトウジやケンスケに苛められて泣いていた時、綾波に声を掛けられたんだ。
ボクはビックリした。あのネルフの丘の上で会った王子様に似ていたから。
赤い瞳の色、透けるように白い膚、それから心にしみ入るような声も…。
綾波が生き返るかもしれないって?そんなの、どこにそんな保証があるんだ?
そうじゃない。ボクは今、綾波の声が聞きたいんだ。今、綾波の瞳が観たいんだ。今、綾波に手を触れたいんだ!!
「どうしたんだい、そんな顔をして?おかしいな、ボクの知ってるシンジくんは…」
ふいに、シンジの背後から聞き慣れた声がしました。振り向けば、そこには優しく微笑んでいるタブラートさんが。肩にはいつものサキエルも居ます。サキエルまでシンジに会えて喜んでいるようです。シンジは、タブラートさんの姿を観て、余計に涙を抑えるなど出来ませんでした。
「ど、どうしたんだい、シンジくん?」
あまりに泣きじゃくるシンジの様子を、さすがにおかしいと感じたタブラートは、言葉に詰まりながら問いました。
「タブラートさん…!綾波が…、あ、綾波が死んじゃったのぉ〜」
シンジはタブラートさんの胸に縋り、思いの丈をぶつけました。タブラートには、その思いを受け止めるだけの広い胸と、豊かな経験に基づく思考力があります。
「そう、その少女はキミの中で、好意に値したんだね…つまり好きって事さ」
シンジは流れる涙を振り払いもせず、頷きました。
「綾波もボクを愛してくれて…それで、それで…、綾波は暴走したエヴァを止めるために…零号機がボクを襲わないために…ボクはここに居ない方がいいんだぁっ!」
「ならばシンジくん、キミは彼女のために何をしてあげたかい?今、何を返しているかい?」
タブラートさんの言葉は唐突だったので、シンジは思わず顔を上げました。
大きな瞳にいっぱいの涙を溜めたシンジの顔は、タブラートの胸の内を痛い程締め上げんばかりの表情です。タブラートは、ともすればシンジを我が物にしたいという支配欲を辛うじて抑えました。逆に、弱くなっているシンジを胸に抱きながら、頬を撫でるだけに留まる禁欲を楽しむ術を覚えたというのでしょうか。
「キミは今、泣いてばかりの顔とウジウジ考えてるシンジくんしか、彼女に返していないんじゃないのかい?」
タブラートの声は柔らかくシンジを包み込むのです。
「シンジくん、彼女が死んだ事を悲しまないで…。彼女という素晴らしいリリンに出会えた事を喜ぶんだ」
「綾波と出会えた事を…」
「強くなるんだ、シンジくん。運命は、他人から貰うのじゃあない。自分で切り拓くものなんだ。リリンは寂しさを永久になくる事は出来ない、リリンは独りだからね。
ただ、忘れる事が出来るからリリンは生きていける」
シンジはタブラートの言葉を教訓として聞きながらも、彼の胸の中に居る自分に顔が赤らむ思いでした。
タブラートさん、まさかこんな所で…。い、いや、何を考えてるんだ、ボクは。昨日、綾波が死んだばっかりだっていうのに、それなのにタブラートさんと…。ああ、ボクっていやらしい子なのかな。最低だ、オレって………。
タブラートの胸の中に居るという安心感と、タブラートの思うままになってしまいそうな妙な緊張感とを秤にかけている時、タブラートの肩にいるサキエルが「キキッ!」と鳴きました。
「おっと…誰か来たようだ…」
タブラートも急に緊張を表情に走らせます。タブラートが立ち上がろうとすると、シンジが服の裾と摘んでいます。
「シンジくん…」
タブラートは後ろ髪を引かれる思いがして、またシンジの目線に合わせました。そのままゆっくりとシンジの頬を撫で、自身の唇で涙を拭い、そのままシンジの唇に重なり、柔らかい舌が優しくシンジの両唇を割って強引に入って来ました。
どのくらいそうして居たのでしょう。タブラートは静かに唇を離すと、
「大人のキスだよ、シンジくん…」
「今度、いつ…あ、あの…いつ会えるの?」
たった今の接吻で自分の置かれている現実から虚構の世界へ行く事が出来たのです。その甘い感触を惜しむように、シンジはタブラートに次の再会を求めずにはいられないのでした。
「そうだね…、キミに笑顔が戻ったら。そうしたら、続きをしよう」
それだけ言うと、タブラートは風と共に薔薇の中に消えていきました。
ありがとう、タブラートさん。シンジは、もう泣きません…
「あ、居た居た、シンジくん」
「探したわ」
タブラートが去った反対の薔薇の中から、ミサトとリツコがやって来ました。
2人はシンジの顔を観て、安心したようです。
「笑ってるわね、シンジくん…」
「いいわ、パーペキよ」
それから幾日もしない内に、シンジは荷物をまとめました。ミサトもリツコも知りません。2人が観ることが出来たのは、シンジの部屋に残された置き手紙だけでした。
続くわよ〜ん(笑)
★レイの死という哀しみも、タブラートによって救われたシンジ。 タブラートの言葉に動かされたシンジは、単身ネルフの家に帰る。 ネルフの家で束の間の安寧を得たシンジに、渚家から迎えが来る。 少年は、また新たな物語の舞台へ…。 次回いよいよお待ちかねテリュース登場!第六話「テリィの適格者」 次回もサービスしちゃうわよん(笑)
θ⌒⌒θ |