痛い木

★★★特別変★★★
福音戦士「遅いな、シンジ君」

愛野いずみ






こんな真赤な夕陽を見るのは、いつ以来だろう…。
ボクは思わず口をついて出た言葉を胸の中で繰り返した。夕陽の色に染められて、静かな小波を立てる海も、それを遮る岩も、視界に映る物は全て燃えているみたいだ。
今日まで、こんな風にゆっくり夕焼けを観る日も無かったし、今日からは、こんな夕焼けを観ても感動を分かち合う友達も居ないんだ。
アスカはずっと行方が分からないままだし、ボクを観ても判ってくれるんだろうか?ううん…、アスカをああまで追い詰めてしまったのは、ひょっとしたらボクのせいかも知れない。そう考えると、ボクは知らず知らず頭を抱えている。
トウジは参号機での事故で左足を失い、疎開してしまった。この事件も、いくらダミーシステムの行動とは言っても、やっぱりボクに責任があるような気がする。トウジはそんな事で、一言もボクを責める事はなかったけど…。ボクにとっては、それがまた心を引き裂かれる様に思える。ケンスケもトウジと一緒に疎開してしまった。
そして、綾波レイは…。綾波に、どんな顔をして会えばいいだろう?綾波の、あの透き通る様な肌が、細い四肢が、赤いまでに薄い瞳が、リツコさんのスイッチ一つで崩れていった。まるで人間ではないようだった。リツコさんは「容れ物」と呼んでいた。綾波は母さんとどことなく似ていたんだ。
「もう、友達と呼べる人は居なくなってしまった…。アスカ、ミサトさん、母さん、ボクは一体どうしたら…、どうすればいい?」
ボクが溜息交じりに呟くと、それに混ざって歌が聞こえた。歌は、ベートーベンの交響曲第九番『歓喜の歌』だった。耳にふんわり入って来る柔らかい声。 ボクが歌に気づくと、歌声は話し声に変わった。
「歌はいいねぇ。歌は心を潤してくれる。リリンが産んだ文化の極みだよ。そう感じないか、碇シンジ君?」
ボクから少し離れた岩の上に、少年が座っていた。声の主がにこやかに振り向く。夕陽に映えて、そのままボクの心に染み入るような優しい笑顔だった。
物語の中の天使が人間の姿を借りたなら、きっとこの少年のような笑顔をするのではないだろうか?
「なんで、ボクの名前を…」
戸惑うボクに、少年は笑顔のままで
「知らない者はないさ。失礼だが、君はもう少し自分の立場を知った方がいいと思うよ。
ボクはカヲル、渚カヲル。君と同じ仕組まれた子供…。フィフス・チルドレンさ。カヲルでいいよ、碇君」
そう言いながら腰掛けていた岩から飛び降りて、ボクの前に立った。ボクより、少し背が高い。ボクの目の前には、右手が差し出されていた。
「ボクも、シンジでいいよ…」
ボクは少し照れて、カヲル君の右手を軽く握った。ボクの頬が赤くなったのが判った。カヲル君は一層の笑顔を向けた。

カヲル君がネルフに到着した当日に、行方不明だったアスカが見つかったって聞いた。そして、アスカはそのまま病院へ、新たに迎えられたカヲル君は弐号機のパイロットになった。なんだか、皮肉だな…。ネルフは、父さんは精神が崩壊したアスカの事なんて忘れたように、カヲル君を弐号機に乗せる。あれ程、弐号機パイロットとして自信を持ち、誇りに思っていたアスカを思うと、ボクの胸が傷む。エヴァのパイロットとしての姿勢、プライドはアスカを見習うべきだったんじゃないかって思う。
でも、現実は厳しいものだって判った。今日初めて行ったテストで、カヲル君はコアの変換も行わずに驚異的なシンクロ率を記録した。これで、誰もがカヲル君を弐号機パイロットとして認めない訳にはいかなくなった。ボクには、それが嬉しくもあり、どこかで哀しくもあった。なんでだろ…?そうだ、きっとボクも、いつかカヲル君みたいにすごいパイロットが現れた時には、要らない子供になって捨てられてしまうんじゃないか…?ボクは今、こんな事を考えている。さっきまでアスカの事を心配していたクセに、結局自分の恐怖の方が大事なんだ…。
「やぁ。ボクを待っててくれたのかい?」
ボクの考えを遮るように拾参番ゲートが開いて、声がした。ボクの耳にすんなり入って来る声…顔を上げると、カヲル君が笑ってボクを覗き込んでいた。
咄嗟にボクは、
「そ、そんなつもりじゃ…」
と顔を背けてしまった。どうしてボクは素直に「遅かったね、カヲル君」て笑う事が出来ないんだろう。こんな自分がもどかしい。それでもカヲル君は
「今日は?」
相変わらず笑顔を絶やさずに聞いてくれる。ボクはこんなカヲル君に感謝している自分に気づいた。
「あの…定事試験も終わったし、あとはシャワーを浴びて帰るだけだけど…。でも、本当はあまり帰りたくないんだ…」
「帰る家、ホームがあるという事実は仕合せに繋がる。好い事だよ」
カヲル君は、聞き分けの無い子供を諭すように微笑んで言う。なんだかカヲル君の言葉には説得力があって、ボクも素直に聞いてしまう。
「そうかな…?」
戸惑いながらもカヲル君の言葉に頷くボクを見て、カヲル君は
「ボクはキミともっと話がしたいな。一緒に行っていいかい?」とボクに聞く。
「シャワーだよ。これからなんだろ?」
さらに戸惑うボクに、「ダメなのかい?」と畳み掛ける。だけど、押し付けてる感じなんてしない。不思議だな…。父さんともこういう会話形式で話した事があったけど、もっと押し付けがましくって圧迫感があったと思う。でも、カヲル君の言葉には、素直に頷いてしまうボク…。

それから、ボク達は風呂に来た。昔からある「銭湯」っていうのがこういう感じだったらしいって、加持さんが言ってたっけ。大きい湯船の壁には、富士山とネルフのマークが交互に浮き上がる。
ボクは、お風呂が嫌いだ。独りになって入るから、嫌でもいろいろと思い出してしまう。そして、ボクの思い出は嫌な事の方が多いんだ…。
「一時的接触を極端に避けるね、キミは…。恐いのかい、他人と触れ合うのが?」
そうだ、今日はカヲル君と一緒だったんだ。ふいに話し出したカヲル君の声で、ボクは現実に引き戻された。
「他人を知らなければ、裏切る事も互いに傷つく事もない…。でも、寂しさを忘れる事もないよ」
ボクは黙ってカヲル君の言葉に聞き入った。今は、言葉を喋っている筈なのに、歌を聴いているような気分になる。それくらい、カヲル君の声は気持ちがいい…。ボクはチェロの音を思い出した。ボクが好きでもないチェロを辞めなかったのは、先生がやれって言ったからでも、辞めて人に非難されるのが嫌なのでもなく、ただ純粋にチェロの音色が好きだったからなのかも知れない。チェロの音は、優しい男の人の声を似ている。ボクは、ずっと優しい父さんの声を聞いた事がなかったから、チェロにそれを求めていたのかも。でも、今はカヲル君の声がある。
「人間は寂しさを永久になくす事は出来ない。人間は独りだからね。ただ、忘れる事が出来るから、人間は生きていけるのさ…」
カヲル君の声を聴いていたボクは、ハッとした。湯の中で、カヲル君の手がボクの手に触れたから。湯の中で見るカヲル君の指は、まるで白い魚がボクの指に絡み付いたみたいだった。風呂場の照明に反射して、白い指が輝いて見える。すると、一瞬の内にその白い指が翳った。照明が消えたんだ。カヲル君も辺りを見回している。
「時間だ…」
「もう終わりなのかい?」
ボクの言葉に、カヲル君も不思議そうに聞き返した。
「うん、もう寝なきゃ…」
「キミと?」
カヲル君はいつものように微笑みを浮かべてふざけた。でも、この薄暗がりの中では、その笑顔も小悪魔みたいに見える。ボクは焦ってしまった。
「うっ…、いやっ、カヲル君には部屋が用意されてると思うよ」
ボクは、その焦りをカヲル君に知られないように、一生懸命取り繕った。カヲル君は、「そっ」と立ち上がり、
「常に人間は心に痛みを感じている。心が痛がりだから、生きるのも辛いと感じる…。硝子のように繊細だね、特にキミの心は」
「ボクが…?」
立ち上がったカヲル君は、男じゃないみたいに真っ白い膚をして、スラリとしていた。ボクは正視出来なかった。なんだか…このままだとボクはカヲル君に間違った感情を持ってしまいそうで…。恐いって思った。
「そっ。好意に値するよ」
ボクの心の中を知ってて逸らかすのか、それとも本当に知らないのか、カヲル君はそのまま自分の言葉を続ける。
「好意…」
ボクは馴れない言葉を繰り返した。自分でも分からないまま、顔が赤くなったような気がする。
「好きって事さ…」
カヲル君は、あの微笑みのまま、ボクを見下ろして簡単に、でも印象深く言った。ボク…、他人から「好き」って言われたの、初めてだ…。

結局ボクは、カヲル君に甘えて泊めてもらう事にした。
部屋は元々独りで住むように出来てるから、ベッドが一つで、ボクは布団を借りて寝た。カヲル君の部屋は、もう電気を消していた。でも、段々目が暗さになれて来て、辺りが見渡せるようになった。
カヲル君は、
「やはり、ボクが下で寝るよ」
と気を遣ってくれた。でも、ボクは
「いいよ、ボクが無理言って泊めてもらってるんだ。ここでいい…」
と断って、上を向いた。
天井…ここにもボクが知らない天井がある。だけど、今は前程不安を感じない。なんでだろ…?初めて観る場所に、初めて会った人と居るのに…。でも、カヲル君と居ると、ボクは安心する。カヲル君と、ずっとこうしていたい…。
「キミは何を話したいんだい?ボクに聞いて欲しい事があるんだろ?」
というカヲル君が沈黙を破った。普通、考え事を中断されると嫌な気分がするものなのに、カヲル君の声なら何とも思わないから、不思議だ…。それで、ボクは素直に話し始めた。
「いろいろあったんだ、ここに来て…。来る前は、先生の所に居たんだ。穏かで、何もない日々だった。ただそこに居るだけの…。でも、それでも良かったんだ。ボクには何もする事がなかったから」
ボクの話をカヲル君は黙って聞いていてくれた。よく考えると、ボク、こんな風に自分の気持ちを誰かに聞いてもらった事ってあったかな?ボクの話をじっと聞いててくれた人って居たかな…?
「人間が嫌いなのかい?」
不意にカヲル君が尋ねた。
「別に…。ただ、父さんは嫌いだった」
ボクはずっと喉に痞えていた言葉を吐き出したようで、すごくスッキリして安心した。胸の奥に仕舞い込んでいた言葉を言ってしまうのが、こんなに気持ちのいい事だったなんて…。
カヲル君は、そんなボクの事をジッと見詰めて、そして言った。
「ボクはキミに逢うために生まれて来たのかもしれない」
静かだけど、意志のシッカリした口調だった。ボクは自分の耳を疑った。
「な…、何を言っているの、カヲル君?」
ボクは咄嗟に聞き返す事しか出来なかった。
「どうして?何か変かい?ボクはただキミが好きなだけなのに」
カヲル君が少し拗ねたような顔をする。
「ボクを好きって…でも…ボクは…」
しどろもどろになるボクに、カヲル君の顔が近づいて来る。さっき、お風呂でも思ったけど、カヲル君は本当に色が白くって、血管も透けて見えそうな透き通った膚をしている。
「キミも、ボクを好きだと思ってくれたから、ボクにいろいろ話してくれたんじゃないのかい?」
「そ、そうだけど…でも…」
「じゃあ、ボク達は2人もお互いを好きって事だよ。ボクは今度は、行動でその気持ちを表現したいな」
カヲル君は左手をボクの手に重ねた。
「行動で……」
「そ。滅びの時を免れ、未来を与えられるためにはこうするしかないんだよ。さぁ、シンジ君、キミのATフィールドを、心の壁を取り除いて」
そう言いながらカヲル君のしなやかな右手は、ボクの頬に触れる。
「何を…カヲル君、キミが何を言ってるのか理解んないよ。カヲル君!」
ボクはそのままの姿勢で、カヲル君を見詰めて言った。カヲル君もボクの目を覗き込んでいる。このカヲル君の赤い瞳で、ボクのATフィールド・心の壁は中和されていくようだった。このまんまじゃ…、ボクはカヲル君に侵食されちゃうよ。
カヲル君の瞳に映るボクが判るくらいにカヲル君の顔が近づいて来て、ボクの唇にカヲル君の唇が軽く触れた。
「あ…」
「接吻…キスだよ、シンジ君。キミはした事なかったのかい?」
カヲル君の唇が、またいつ触れるか判らないくらいの距離のまま、ボクに聞く。
「あ、あるよ、キスくらい…!でも…、ちっともいいものだとは思わなかった…」
ボクは素直に答えてしまった。ちょっとムキにもなって…。カヲル君は微笑んで、
「それは、本当に好きな相手じゃなかったからだよ、シンジ君。古来から、リリン達は愛情を確かめ合うために接吻をしてきた。接吻は気持ちのいいものだよ。ボクがそれを教えてあげるよ。ボクはシンジ君を好きだからね。シンジ君もボクが好き…ね、ボクがキミを月まで連れてってあげる」
「ボクを…月まで連れてってくれるの…?」
ボクは、カヲル君の途切れ途切れのキスの合間に、カヲル君の言葉を繰り返した。本当に、カヲル君のキスは柔らかくって優しくって、ボクは今どこに居るのかとか、ボクは何だとか忘れてしまいそうになる。
その間も、カヲル君の手は動きを止めないで、ボクのTシャツの中にスルスルと入っていった。まるで、白い小さな魚がボクという水の中を泳いでいくように…。そして、カヲル君の手がボクのズボンの中に入っていった。
「カッ、カヲル君っ!そ、そこは……」
「どうして?嫌なのかい?」
カヲル君は、ボクの拒否の言葉に唇を離した。カヲル君の声でこう聞かれると、
「そっそんな事はないけど…。は、恥ずかしい…」
と消え入りそうな声で答えてしまう…。カヲル君はボクの言葉に微笑んで、
「シンジ君、ボクのも触って…」
ボクの手を取って、カヲル君は導く。ボクのズボンの中のカヲル君の指は、どれも細くて冷たくて…。
横たわったボクが見上げるとそこには、見知らぬ天井じゃなくってカヲル君の白い胸がある。ボクよりも繊細な身体をしているのに、いつのまにかボクはカヲル君に組み敷かれていた。
「いいかい、シンジ君?」
見知らぬ天井とボクを遮っているカヲル君が、優しく柔らかい声で聞く。
「な、なんだか…こわい……」
ボクがそう言うと、カヲル君はまた優しくキスをして、ボクの手に指を絡めて来た。そうしてボクの中に入って来た…。
ボクは不思議な事にエヴァに乗っている自分を思い出した。ATフィールドを張っている使徒。そして、ボクはATフィールドを引き裂く。絹が裂けるような音を立てるATフィールド。その後、ボクは突き出たプログナイフで使徒を突き刺す、突き刺す、何度も何度も挿し通す。

今夜はボクが使徒だ。カヲル君がエヴァ。

「使徒はエヴァに刺し通されて殲滅する。キミはボクに刺し通されている。シンジ君、『生』の頂点てね、忘我の瞬間なんだよ。この瞬間に、リリン達は『死んでもいい』とすら思う。不思議だよね、『生』の最高潮に『死』を願うなんて…。でもね、だからこそ『生』と『死』は等価値なんだ、ボクにとってはね…」
ボクにはカヲル君の言っている事がよく理解らなかった。ただ、ボクが今居る場所は判った。『生』の頂点だ。
「ありがとう、キミに逢えて嬉しかったよ…」
そういうカヲル君の言葉に、ボクは確信した。
「ボクはそこに居てもいいのかも知れない!」



おヤヲイ終わり(爆)



天使
胎内回帰